シィンワンはゆっくりとした足取りで廊下を歩いていた。母である龍聖の私室へと向かっていたのだが、その足取りは重い。彼の中でまだ躊躇している部分があるからだ。
 タンレンと話をして、彼の真意は理解した。彼の思いが真剣であるとわかった以上は、シィンワンが異論を唱える権利もない。例え未だにシィンワンが、タンレンが結婚する事を不満に思っているとしても、それはむしろ余計な世話というものだろう。その事自体も理解している。
 彼の足取りが重いのは、母にこの話をどのようにすればいいのか、まだ考えがまとまっていないからだ。勢いでそのまま来てみたものの、部屋へと近づくにつれて「どう切り出そうか」と考え始めたからだ。
 正直に「ユイリィに頼まれたから」と言ってしまえば別にいいのだろうと思う。タンレンと話した事も打ち明ければいいと思う。解っているのだけど、今のシィンワンはこのまま母に会ってその話をしたら、自分が不安に思っている『リューセー』との事を口走ってしまいそうな気がしていたからだ。
 王宮に続く廊下をのろのろと考え事をしながら歩いていると、後方から声を掛けられたのでハッとなって足を止め振り返った。
「殿下、どうかなさいましたか?」
 明るい声でそう語りかける明るい橙色の髪を見て、シィンワンは思わず表情を和らげた。
「メイファン」
 シィンワンがその名を呼ぶと、メイファンはニツコリと笑う。
「随分難しい顔をしておいでだ……何か悩み事ですか?」
 メイファンは国内警備に所属しているシーフォンだ。本来の所属は国境警備だが、シィンワン達兄弟が卵だった頃の警護責任者を務めている。その為シィンワンにとっては、育ての親の一人のような感覚でいた。もちろん卵の頃の記憶はないのだが、両親以外では誰よりも近しい親しみを持っていた。
「いえ、別に悩みとかそんなものではないのです」
 シィンワンは笑みを漏らしてそう返した。
「そうですか?」
 メイファンは小首を傾げてそう尋ね返したが、すぐに笑ってそれ以上聞き出そうとはしなかった。
「殿下もお忙しい時期ですから、なかなかこうしてお会いする事もままならないので、たまにこの様に運良くお会いできたときくらいは、殿下の笑顔が見たいものです」
 メイファンがそういうと、シィンワンは慌てて自分の顔を両手で摩った。その様子を見て、メイファンはクスクスと笑う。
「大丈夫のようですね」
「え?」
「いえ……本当に何かお悩みなのかと……今は時期も時期なので、少し心配しましたが、そのような様子を見ると大丈夫なのだなと思いました」
「え? 私の様子ですか? 何か今変なことをしましたか?」
 シィンワンがキョトンとした顔をして聞き返してきたので、メイファンはプッと吹き出して頭を下げた。
「いえいえ、すみません。ですからそのように素直に態度を変えられる所が、いつもの殿下だと思って安心したのです。殿下は生真面目なところがありますから、無理に悩みを隠そうとするときは、なんとなくそういう態度になるものです。わざと平然と装ったり……でも今私の言った事で、そのようにご自分の顔を手で触って確認されたり……そういうことが出来るのであれば、特に重大な悩みというわけではなさそうですね」
「ああ……」
 メイファンの言葉を聴いて、シィンワンは納得したと同時に苦笑して頭を掻いた。
「確かに……少し心に引っかかる事があって、悩むというか……色々と考えすぎてしまって、難しい顔をしてしまっていたのだと思います。でも悩みというものではないのです……確かに最初は悩んでいたのだけど、その悩みは解決して……今は本当に単純な事で色々と考えてしまっているだけで……大丈夫です」
「そうですか」
 メイファンは頷いて微笑んだ。シィンワンもつられて微笑む。
「あ……あの、ついでというか……もしもよければメイファンの個人的なことで質問してもいいですか?」
「? なんですか?」
「その……メイファンは、家同士で決めた相手と結婚したのですか?」
 唐突な質問に、メイファンは少しばかり驚いたような顔をしたが、即答で「そうですよ」と答えた。
「あの……メイファンには子供が二人いますが……それはやはり、愛し合っているからですよね?」
「その質問の意図は……心情的にということですか?」
「え? あ!? ええ、もちろん、もちろんです。メイファンと奥方の気持ちのことです」
 メイファンがキョトンとした様子のままで、少しからかうように聞き返してきたので、その言葉の意図を察して、シィンワンは赤くなって慌てて頷いた。メイファンはまだ疑問に思いながらクスリと笑う。
「殿下……確かに私は妻とお互いによく解らないままに結婚させられましたが、私は妻を愛しく思っていますし、今は夫婦仲も円満です」
「あの……結婚する前は不安だったりしませんでしたか? 知らない女性といきなり夫婦になるなんて……相性が合わないかもしれないのに……」
「え?」
 メイファンは少し驚いたような表情になった後、すぐに何かを察したような顔に変わり、表情を緩めた。
「そうですね……確かに不安はありましたよ。夫婦になるのですから、もしも気が合わなかったらとか、仲良くなれなかったらどうしようとか……でもそういうのをくよくよ悩んでも仕方ないですし、むしろ少しでも早く仲良くなれるようにするには、どうしたらいいだろうと考えるようにしました。だって幸せになりたいですからね」
「幸せになりたい……」
 メイファンの言葉に、少し驚いたようにシィンワンが呟いた。
「幸せになりたいって思うのは意外ですか?」
 そのシィンワンの様子を見て、からかうようにメイファンが言うと、シィンワンはハッとなって慌てて首を振った。
「いえっ……いえ、決してそういうつもりじゃ……その、幸せになりたいと思う事が意外というのではなくて、そんな風な考え方をするということに思いが及ばなかったので……」
「殿下だって幸せになりたいでしょ?」
 ニッコリと笑ってメイファンが言うので、シィンワンはポカンとしたような顔のままで、すぐには返事が出来ずに戸惑ってしまっていた。それはあまりにも当たり前のような言葉だが、なかなか簡単には口に出せない言葉で、それをメイファンがあっさりと笑顔で言うものだから、シィンワンは戸惑うばかりだった。
「なんですか? そんな顔をなさって」
 メイファンがクツクツと笑う。シィンワンはウッと少し恥ずかしくなって一度視線を下へと落とした。
―――幸せになりたい。
 それは当たり前のようで、シィンワンにとってはとても新鮮な言葉だった。今が幸せでないはずがない。いやむしろ不幸なはずがなかった。両親に愛され、兄弟に愛され、家臣に愛され、国は平和で、何より自分自身は皇太子という身分で、何不自由なく育った。『幸せ』という言葉を改めて思い浮かべることさえ忘れてしまうほどに、当たり前のように『幸せ』だった。
 それなのにまたここで改めて『幸せになりたい』なんて思うなんて、それこそ思いもよらないことだ。
「メイファンも幸せだったでしょう? 結婚する前も」
「ええ、もちろんですよ、でももっとずっと幸せになりたいと願うのは、誰でも……生きていれば誰でも願うことでしょう? おかしいですか?」
「おかしいのは……多分、私の方です」
 シィンワンは視線を落としたまま独り言のように呟いて腕組みをした。
「メイファン……では『幸せ』って……何なんでしょう?」
「そうですね……それは難しい質問ですね。それは……人それぞれに違うものでしょう」
「じゃあ、メイファンにとっての幸せは?」
「私は……私の愛する人達と共に生きていくことです」
「愛する人達……」
「それはもちろん家族もそうだし……陛下やリューセー様や、王子や姫達もそうだし……友人もそうですね……愛する人といつまでも平和に暮らせたら、それが何よりの幸せです。そして愛する人が幸せになれば、私はもっと幸せです」
 メイファンが明るくそう話すのを、シィンワンはただジッとみつめていた。
「殿下の幸せはなんですか?」
「私の幸せは……」
―――国の幸せ、民の幸せ……
 そう言いかけて止めた。それは皇太子として言うべき当たり前のこととして刷り込まれたもののように思う。だがメイファンが今自分に問うていることはそんな事ではないと思った。
 確かに国の幸せ、民の幸せを思っていないわけではない。だがメイファンが尋ねている問いは、皇太子としてではなく、シィンワン個人が自分自身の言葉で望んでいる本当の『幸せ』のはずだ。そしてそんな当たり前のことなのに、シィンワンは今まで一度も考えたことが無かったことに気がついた。
「私の幸せは……分かりません。今が幸せだと思う。メイファンだって幸せでしょう? ならばこれ以上の幸せを望むのかというと、それが何かは分からない……だけど今メイファンが語ってくれたメイファンの幸せは真実だと思う。じゃあ私の幸せが何か……考えたことが無かった」
 シィンワンはそう言ってうなだれた。メイファンは微笑みながらそんなシィンワンをみつめた。
「じゃあ……殿下にとって不幸なことってなんですか? 誰かを失うとかそういう大きなことではなくて、今……たとえば不安に感じていることとか」
「今、不安に感じていること……あっ!」
 呟いてハッとなった。
「ありますか?」
「はい、私は……私のリューセーを愛せなかったらどうしようかと悩んでいます。会ったことも無いその人をちゃんと愛せるのかと……私はそういう意味で誰かを愛したことが無い。恋も知らない。だから不安なのです」
「ああ、なるほど、それで合点がいった」
 メイファンはパアと明るく笑ってから、ポンッと手を叩いてうなずいた。シィンワンは驚いたような顔で、そんなメイファンをみつめた。
「それで最初に戻るのですね?」
 うんうんと頷いてメイファンが言うので、シィンワンは首をひねる。
「最初に?」
「ほら、さっき私と最初に会った時にです。殿下が沈んだ顔をされていたから、何かお悩みがあるのかと……それで殿下は私に不思議な質問をした」
 メイファンは謎解きをするように、ひとつひとつゆっくりと説明をして見せた。
「で、結局殿下の悩んでいたことへの答えを、私が少しばかり申し上げたことになるのですよ……言ったでしょ? 『くよくよ悩んでも仕方ないですし、むしろ少しでも早く仲良くなれるようにするには、どうしたらいいだろうと考えるようにしました。だって幸せになりたいですから』ですよ……ね? なんだかひとつの輪っかが出来るようにうまく繋がったと思いませんか?」
 随分自慢気にそう解いて見せたメイファンの言葉を、シィンワンはまだポカンとした顔で聞いていた。だがやがてゆっくりと納得をするように、穏やかな表情へとなっていくと、「はい」と言って頷いた。
「私は……幸せになりたい。私のリューセーにも幸せになってほしい……二人で、父と母のように幸せな夫婦になりたい」
「それでは殿下のすべき事は、陛下やリューセー様、姉君や弟君とたくさんたくさんお話しをすることです。殿下はまもなく眠りの時に入られる。次に目覚めたときは、殿下が即位する時。殿下のリューセー様もいらっしゃいます。ですから今のうちにたくさんご家族とそういう話をすべきだと思います。特に陛下やリューセー様とは……それにご兄弟とだって、今しか出来ない話もあるはずです。特にすぐ下のヨウチェン様は、殿下の即位後は片腕となってもらうべきお方。殿下のリューセー様の事も、一番手助けしてもらうことになるでしょう。改まるとお恥ずかしいかもしれませんが、ぜひ、今私と話をしたようなことでも、何でもお話になるといい」
 メイファンの言葉は、とても当たり前のことであるはずなのに、シィンワンにとっては思いもかけない言葉だった。両親とはたくさんいろんな話をしてきたつもりで、母であるリューセーからも、この国に来た時のことや、父であるフェイワンとの話も聞いていたつもりだったが、それは事実に基づく話だけで、心情的なことまでは深く聞いたことが無かった。リューセーがどうやって父の事を愛せるようになったのかとか、父がどうやってリューセーを愛しく思えるようになったのかとか……そんな話はしたことが無い。
 兄弟仲も良いのだが、弟のヨウチェンと結婚のことや恋愛のことなんて話はしたことが無い。
「ありがとうメイファン……随分とスッキリとした気持ちになれた」
「お役に立てて何よりです」
 メイファンが微笑みながら恭しく頭を下げたので、シィンワンは楽しそうな笑顔を見せた。


 早速……というわけではないが、母であるリューセーの部屋へと向かう前に、ヨウチェンの部屋へと立ち寄ることにした。特にタンレンの相談が出来るとも思ってはいなかったが、なんとなく話をしてみたい気になっていたからだ。
 ヨウチェンは男の兄弟では一番年も近く、子供のころは一番よく一緒に遊んだ。最近ではさすがに『遊ぶ』という事も無くなり、勉強の事やたわいもない話をするくらいで、シィンワンが皇太子としての仕事や学ぶことが増えてからは、あまり一緒にいることが少なくなってきていたように思えた。
 性格はシィンワンとはまったく違い、とても気が長くてのんびりとしているヨウチェン。だがとても頭が良くて、歳よりは少し大人びたところもあった。朗らかで飄々としていて、ほとんど怒ることも無い。
「ヨウチェンには外交的な役目が向いているかもしれないな」と、父王が言っていたこともあった。シィンワンが即位した後は、一番頼りにすべき弟だ。

 シィンワンはヨウチェンの部屋の前まで来ると、何度か扉を叩いてみたが返答は無かった。
「留守か?」
 一度扉を開けて部屋の中を覗いてみると、誰もいなかったので諦めてその場を去ろうとした。しかし奥の方から話し声が聞こえてきたので、扉を閉めかけていた手を止めた。
「ヨウチェン?」
 シィンワンは中へと少し入ると、声のするほうを見た。奥の扉が少しばかり開いている。
「ヨウチェン? いるのか?」
 扉に向かって声をかけると、ぴたりと話し声が止んだ。確かに誰かがそこにいる。だがその扉の先は寝室のはずだ。女性の声がしたようなきがしたので、侍女が掃除に来ているのかとも思った。すぐに反応が無いので、シィンワンは訝しげに眉を寄せていると、少ししてゆっくりとその扉が開き、ガウンを羽織ったヨウチェンが現れた。
「兄上……どうかしましたか?」
 裸にガウンを羽織っただけの寝起きのようなそのヨウチェンの姿に、シィンワンは眉間を寄せる。
「どうかしましたかって……ヨウチェン、なんだその格好は……もう昼を過ぎているんだぞ? 寝ていたのか? だらしないではないか……奥に誰かいるのか?」
 シィンワンの言葉に、ヨウチェンは首をすくめて笑ってみせる。
「兄上……野暮な話は簡便してください……この事は、ユイリィや母上達にはご内密にお願いしますよ」
「?? ……何の話だ? 昼までだらしなく寝ていた話か?」
 ムッとした様子のシィンワンに、ヨウチェンは苦笑しながら一度チラリと奥の扉に視線を送り、ゆっくりとシィンワンの傍まで歩み寄った。
「来客中なのです……兄上、察してください」
 シィンワンの耳元でこっそりとそう告げるヨウチェンに、シィンワンはさらに眉を寄せて首をかしげた。
「何の話だ……誰が来ているんだ? そこは寝室だろう。寝室に来客など、こんな時間に何をしている」
「……兄上、それはわざとですか? 皆まで言わせる気ですか? 謝りますから勘弁してくださいよ……ここは見逃してください。以後気をつけますから」
 ヨウチェンはいつもの飄々とした物言いでそう言ったが、何のことだか分からないシィンワンには、ヨウチェンがふざけているようにしか思えず、話をはぐらかされているような気がしていた。
 王子であるヨウチェンが、自室のそれも寝室に招きいれられる客など、兄弟以外にいるはずがない。それもこんな昼間の時間で、ヨウチェンは随分だらしない格好をしている。
 シィンワンはツカツカと歩き出して、奥の扉へと向かった。
「あ! 兄上!」
 慌てて止めようとしたヨウチェンを振り切ると、思いっきり勢いよく寝室の扉を開けた。
「キャア!」
 それと同時に女性の悲鳴があがり、驚いたシィンワンがみつめる先には、ベッドの上でシーツに包まり驚いた顔でこちらをみつめる女性の姿が合った。それに驚いたのはシィンワンのほうである。
「わっ!」
 シィンワンは慌ててバタンッと扉を閉めた。一瞬ナニが起きたのか分からなかった。
「兄上……」
 背後で困ったような声を出すヨウチェンがいる。シィンワンはゆっくりと振り返りヨウチェンの顔を見ると、ヨウチェンはへへへと苦笑して頭を掻いて見せた。
「ヨウチェン……これは……どういうことだ!?」
 かなり混乱した様子のシィンワンが、押し殺した声で尋ねると、ヨウチェンは諦めたかのように開き直って首をすくめて見せた。
「まあ、見ての通りですよ兄上。言い訳はしません……でも見逃してください」
「見ての通りって……お前っ……今のご婦人は……確か財務大臣の所のご息女だろう……いや、そんな事より、お前っ! 未婚の相手と……こんなっ……いや、そういう事じゃなく……ベッドを共にするというのは……いや……」
 うろたえるシィンワンの肩を、ヨウチェンがポンポンと叩いた。
「兄上、落ち着いてください……私だって別に遊びでというわけではありません。彼女は恋人なんですよ。以前から将来は私の結婚相手にと、大人達が話していたのは知っています。だから私もどういう人なのかと付き合ってみたのですよ……そしたらまあ、こういう事に……兄上? 兄上? 大丈夫ですか?」
 混乱状態のシィンワンの顔を覗き込みながら、まるで人事のように暢気な口調で尋ねてくるヨウチェンに、シィンワンはハッとなって眉間を寄せた。
「ヨウチェン! お前! いくら将来の話があるとはいえ、そんな……はしたないぞ!」
「もう……兄上は真面目だなぁ……ちゃんと責任はとりますよ。年頃なんだから仕方ないじゃないですか……兄上って意外と晩熟ですよね」
 クスリとヨウチェンが笑ってそう言ったので、シィンワンはカアッと赤くなると、何も言わずに部屋の外へと足早に去っていった。
「あ、兄上!」
 バタンと閉じられた扉をみつめながら、やれやれとヨウチェンは笑って頭を掻いた。


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