シィンワンは扉の前で大きく深呼吸をした。扉の脇に立つ兵士が不思議そうな顔で見ているが、気にしないようにした。不思議がられても仕方ない、皇太子が母の部屋の前で中に入るのを躊躇しているのだから、不思議に思われるのは無理もない話だ。
 シィンワンはもう一度深呼吸をすると、キュッと口を結んで決意を固めた表情になった。
 コンコンと扉を叩いた。少し間を置いて扉がゆっくりと開いて侍女が顔を出した。侍女は扉の前に立つシィンワンの姿に驚いて、少し慌てたようにソワソワとしながら慌てて頭を下げた。皇太子の訪問は突然のことで、何も聞いていなかったからだ。
「母様はいらっしゃるかな?」
「あ、はい……ご在室ですが……」
「突然で申し訳ないが、話したい事があるので少しお時間を頂けないか尋ねてくれないか?」
「はい、しばらくお待ちください」
 侍女はペコリとお辞儀をしてから、一度扉を閉めた。シィンワンはしばらくの間扉の前で待たされていたが、その間もう一度話す内容を頭の中でまとめていた。
 ヨウチェンの所での思いがけない事件の所為で、それまでモヤモヤとしていた気持ちが吹き飛んでしまって、なんだかどうでもよくなってしまっていた。
 どうでもよく……というのは、タンレンの事がという訳ではない。今まで色々とクヨクヨ難しく考えこんでしまっていた自分の思いが、どうでもよくなってしまったのだ。なんだかバカらしくなったという方が正しいかもしれない。
 タンレンはタンレン、シィンワンはシィンワン、ヨウチェンはヨウチェン……みんなそれぞれ恋愛に対する考え方が違うようだ。その事で、シィンワンが色々と思い悩むのはおかしい話なのだと気がついたのだ。
 だから母……龍聖に話す事は極めて単純な事なのだと思った。ユイリィに頼まれた事、タンレンが希望している事、それをそのまま素直に話せば良いだけだ。そこにシィンワンの意見など入れる必要は無い。
 再び扉が開いた。今度は大きく開かれて侍女が恭しくお辞儀をする。
「お待たせして失礼いたしました。どうぞ中へお入りください」
 侍女に言われて、シィンワンは微笑みかけながら頷くと、部屋の中へと入っていった。
「シィンワン、どうしたんだい? 急に……勉強はいいの?」
 龍聖は嬉しそうに笑いながらそう言ってシィンワンに歩み寄ってくると、そっとシィンワンを抱きしめて頬に口付けた。シィンワンもそれに答える。
 別に久しぶりの再会というわけではない。朝食の時に会っている。母である龍聖がスキンシップ好きなので、いつも日中に会えばこんな感じだ。それというのも、幼い兄弟達と違い、皇太子であるシィンワンは今は日のほとんどを家族と別に暮らしている。龍聖の方針で、朝と夜の食事の席だけは、よほどの事がない限り、家族全員揃って食べるという決まりを作っているので、かろうじて毎日両親や兄弟達と会うことが出来る。
 もちろんシィンワンが望めばいつでも会うことは出来るのだが、父王も龍聖も忙しい身、シィンワン自身も忙しいため、気軽にいつでも会える訳ではない。親子でありながらも、お互いの側近に事前に面会を求める必要があった。
 だからこうして今日のようにフラリと訪れて会うことは珍しい事なのだ。
「ええ、これも勉強の一つで……母様によいご助言を頂きたくてこうして来ました」
 シィンワンがニッコリと笑って言うと、龍聖は楽しそうに笑った。
「オレに? ふふふ……なんだろ? まあ座りなさい」
 促されてソファに座ると、龍聖はその向かい側に座った。侍女がお茶を運んできて、テーブルへと並べる。
「実は……」
「ああ、待って!」
「え?」
 早速話し出そうとしたシィンワンを、龍聖が慌てて制したのでシィンワンは驚いた顔をした。
「そんなにさっさと用件に入らなくていいじゃないか……せっかく来たんだからゆっくりとしていってよ」
「母様……お忙しいんじゃないんですか?」
「ん? 別にそうでもないよ。息子とゆっくり会話を楽しむくらいの時間はあるよ」
 龍聖はそう言うと、頬杖をついていたずらっ子のような顔をしてニッと笑った。シィンワンは首をすくめて苦笑する。昔から、母はこんな感じだ。それが誰からも愛される理由だと思う。歴代のリューセーの中でも、ほんとうに珍しい方だ……と言ったのはラウシャンだったか。
 シィンワンはふとそんな事が脳裏をよぎり、それと同時に自分の龍聖に対する不安を思い出してしまった。
 そんなシィンワンの微妙な心の動きに、龍聖は敏感に感じ取った。
「悩み事? なんでもいいよ、話してごらん?」
「あ、いえ……相談したい事はひとつだけなんですが……」
「でもそれ以外に気がかりな事もあるんでしょ?」
 シィンワンは龍聖の言葉に驚いて、ハッとなって龍聖をみつめた。龍聖はニコニコと笑っている。そのみつめる瞳は真っ直ぐで、シィンワンは何もかもお見通しなのだろうな……と思って観念した。
「あの……母様が以前話してくださったのですが……母様は守屋家と竜王の契約の事を知らずに育って、この国に来たのは偶然だったんですよね?」
「うん、そうだよ。あの時……倉を開けなかったら、あの箱は見つけなかったし知らなかったし、ここに来る事も無かったんじゃないかな」
「じゃあ……もしかしたら来なかったかも知れないんですよね?」
「それはどうだろう?」
 シィンワンの言葉を龍聖が否定したので、シィンワンは「え?」という顔で聞き返した。龍聖は穏やかに微笑みながらお茶をゆっくりとすすると、少し考え込むように視線をカップの中に落としていた。
「本当に偶然だったのかな? って今は思う事があるよ。運命ってそう簡単には変わらない気がするからさ」
「運命……ですか?」
「うん。別に悪い意味じゃなくてね。人には生まれ持っての運命というか……宿命というものがあるのだとしたら、それに抗おうとする事もあるかもしれないけれど、それを受け入れる事も必要かもしれないって思うんだ。きっと人生って色んな事があって、挫けたり、奮起したり、抗ったり、諦めたり、がんばったり……全部が自分でなんとかしているつもりでいて、運命を変えるつもりでいることもあるかもしれないけど、きっと最終的に辿り着くところは同じなような気がするんだ。色んな寄り道をしたとしても、振り返ってみたら同じゴールに向かっていたって感じ。それが運命なのかもしれないって」
 龍聖は淡々と言い終わってから視線を上げて、シィンワンを見ると、彼はなんとも微妙な表情をしていた。それは龍聖が突然話し始めた事が今ひとつ受け止め切れていないかのように見えたので、龍聖はフワリと笑みをこぼした。
「つまりさ、オレが契約の鏡と指輪を見つけたのは偶然じゃなかったと思うんだ。早かれ遅かれ、やっぱりオレはあれをみつけてこの世界に来る運命だった。フェイワンと出会う運命だったと思う。そしてフェイワンを愛する運命だったって……だってこの世界に来た時は、今の自分なんて考えられなかったんだよ。まず男を愛すること自体、オレの人生の上では信じられない事だったし……一目惚れなんてドラマチックな事はないよ……ああ、ドラマチックっていうのは……童話みたいな空想の話みたいな現実ではありえないことって意味だよ。オレのフェイワンへの第一印象は最悪だったもの。だってオレの半分くらいの子供の姿をしてて、でもすごく不遜で横暴に見えて……オレとは違う世界の人種だし、真っ赤な髪だし、変な言葉を話すし……正直な気持ちを言うと、頭がおかしくなったのかと思って、気持ち悪いし、早く自分の世界に帰りたいって思ってた……でもね……愛してしまったんだよ。フェイワンを……不思議だけど、やっぱり運命だったんだと思う」
「運命」
 シィンワンはその言葉を噛み締めるように呟いた。自分も龍聖と運命の相手だと思い会えるのだろうか? と考える。
「シィンワンの龍聖はどんな子だろうね? オレは会えないのが残念だけど……楽しみだね」
 見透かされているようにズバリと核心を突かれてシィンワンはウッと詰まって返事が出来なかった。龍聖はニコニコと笑っている。
「不安なの?」
「……はい」
 思わず素直に頷いていた。
「ふふふふふ……シィンワンは初恋もまだだからね。それは龍聖の事が不安なんじゃなくて、恋愛未経験だから不安なんじゃないの?」
「なっ……!!」
 龍聖の言葉にシィンワンはカアッと赤くなった。みるみる耳まで赤くなる様子に、龍聖はまたクスクスと笑った。
「シィンワンは真面目で初心だからね……ヨウチェンほどオマセにならなくてもいいけど、もうちょっとねぇ……片思いくらいは経験した方がいいのかもね」
 龍聖がニヤニヤと笑いながら言うので、シィンワンは真っ赤な顔で憤慨して口を尖らせながら反論した。
「わ……私は私のリューセーを一筋に愛したいのです。他の者に横恋慕するつもりはありません!!」
「まあ……生涯ただ一人だけっていうのは、すごくステキだと思うけど……だからと言って、何人も愛するのが不実って訳でもないよ? オレだってこの世界に来る前に、4人は居たもの……付き合っていた彼女」
「そうなんですか?!」
「そうだよ〜……28歳にもなって童貞って訳はないし……あ、この世界で言うと150歳近いって事だよ? いい歳してさ、それはありえないよ……ああ、いや、今はそういう話じゃなくてね。誰かを好きになるって事は悪い事じゃないんだから、リューセー以外の人を過去に好きになっていたとしても、別に不実ではないんだよ? 君のリューセーだって、高校生だったら、そういう年頃だし、とっくに初恋の人はいただろうし、彼女の一人や二人はいるかもしれないよ?」
「そ……そんな……」
 シィンワンが呆然となったので、龍聖はプウッと吹き出した。
「なに? もしもそうなら許せない?」
「え……いや……」
「シィンワン、君がもしもそんなリューセーを許せないなんて思っているとしたら、それは君が男としての器量が足りないんだよ。いい男失格だよ。君が『恋愛』を解っていない証拠だ。初心でネンネで、ちっちゃな男だよ」
「母様! それはあんまりです。ひどい」
「ごめんごめん……でもこれは本当の事だから、まずはそこから勉強するべきだね。恋愛なんて理屈じゃないし、勉強して解る事でもないんだから……でも無理に誰かを好きになろうとする必要も無い。もしもどうしても解らないんだったら、先輩達の色んな恋愛の話を聞いたり見たりすることだよ。そして君のリューセーを愛してあげてね」
「母様……」
「で? 本当の用件は?」
「あ……ああ、えっと実は……」
 慌ててシィンワンはユイリィから頼まれていた話をした。すると龍聖はとても嬉しそうに笑って手を叩いてはしゃいだので、シィンワンは驚いてしばらくぼんやりとしていた。
「そっかぁ〜……よかった! うん、よかった! すごくステキな事だよ。タンレンとも話したんだろ? そっか……」
「あの……それでどうされるんですか? 父様に話すんですか?」
「うん、話すよ」
「そうですか……でもユイリィもタンレンも言ってますが、父様に話すと大事になってしまいませんか? それだと母様に相談した甲斐がなくなります」
「大丈夫、オレに良い考えがあるから」
「良い考え?」
「すべてが丸く収まると思うよ」
 龍聖はそういうと、またいたずらっ子のような顔をしてクスクスと笑った。


 その夜、夕食の席に全員が揃っていつものように食事をしていたときだった。それはシィンワンの予想を遥かに超えていた。その食事の席で、家族みんなが居る前で、突然龍聖がタンレンの話を始めたのだ。もちろん話は「フェイワン」へ向けての話掛けだったが、話の内容は全員が聞く事になった。
 シィンワンは酷く狼狽して止めようかと思ったが、龍聖があまりにもあっけらかんと話すので、止める隙がみつからなかった。当のフェイワンは少し驚いた顔で聞いていた。
「という訳でさ……ねえ、フェイワンどう思う? タンレンに良い相手を見つけてあげたいんだけど」
「ああ……そうか……それは良い話だ。やっとタンレンがそういう気持ちになってくれたのなら、何よりだが……」
 フェイワンは子供達の顔を見回して、さすがにここで話す話ではないのではないか? と思っているようだ。シィンワンと目が合って、シィンワンが戸惑っている表情をしていたので、フェイワンは他の子供達の顔も見回した。幼い子達は何の話だか解らない様子で、一生懸命食事をしていた。ヨウチェンは含み笑いをしながらチラチラと龍聖とフェイワンの様子を伺っている。インファはまるで聞いていないかのように、澄ました様子で視線を落としてスープを飲んでいる。
「リューセー、その話はあとでゆっくりしないか?」
「え? なんで? 誰か良い人の当てでもあるの?」
「あ、いや……まあちょっとどうしたらいいのかゆっくり考えよう。食事の席の話でもないだろう。タンレンにも失礼だ」
「誰かいい人いるかな? 初婚だと難しいよね。丁度良い年頃のお嬢さんで、家柄もってなるとね……ご主人と死に別れた後家さんっていたっけ?」
「リューセー」
 フェイワンが龍聖を嗜めるように名を呼んだと同時に、カチャンッと少し大きめの皿が鳴る音がしたので、皆が一斉に注目した。音の主はインファだった。スープ皿にスプーンを乱暴に置いたのだ。ナフキンで口元をゆっくりと拭くと、強いまなざしを真っ直ぐにリューセーに向けた。
「私が行くわ」
 キッパリとした口調でそう言った。龍聖はそれを聞いてニヤリと口の端を上げる。
「どこに行くんだ?」
 フェイワンが見当違いの返事をしたので、龍聖は苦笑して見せたが、インファは真面目な顔のままでフェイワンの方を見た。
「タンレンの所には、私が嫁ぎます」
「ええっ!」
 驚きの声を上げたのはフェイワンだけではなかった。シィンワンもヨウチェンも龍聖以外の者は全員驚きの声を上げていた。
「私なら、身分も釣り合うし、申し分は無いでしょう?」
「いや……だが……タンレンは、オレと歳が変わらないんだぞ?」
 フェイワンは驚きの余り、途切れ途切れになりながらもインファにそう告げた。インファは凛とした様子でその言葉にも動じなかった。
「それが何か問題でもあるのですか?」
「ないよ」
 インファの問いに、フェイワンよりも先に龍聖がキッパリと答えたので、全員が一斉に龍聖を見た。龍聖は嬉しそうにニコニコと笑っている。
「問題なんて何も無いよ。いいんじゃない? インファ。幸せになりなさい」
 それまで凛とした様子で、むしろ少し突っ張って見えていたインファだったが、龍聖の言葉は意外だったらしく、少し驚いたように目を丸くしていたが、やがて嬉しそうに顔をほころばせると「はい」と答えた。


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