「殿下、お待たせしてしまって申し訳ありません」
 タンレンが部屋に入ってくるなりそう謝罪したので、椅子に座りお茶を飲みながら待っていたシィンワンは、笑いながら立ち上がって首を振った。
「いえいえ、お忙しいのにいきなり押しかけたのは私の方ですから……お時間を取ってしまって申し訳ありません」
「殿下の方からわざわざお越しいただいて……話がしたいなど、実に嬉しい事ですよ」
 タンレンは朗らかに笑って言うと、一礼してからシィンワンに座るように促して、タンレンもその正面に腰掛けた。侍女がすぐにタンレンの分のお茶を持ってきたので、二人とも和やかな雰囲気で対面した。
「その御様子だと、特に殿下がお悩み事があるという訳でもなさそうですね?」
「ええ、まあ……悩みではないのですが……相談事自体は別に……ただまあそう言われると、タンレンに聞いてもらいたい話もあることはあるというか……あ、いや、元々聞きたい話しは別にあって、そっちが本題なんです。でもその事で、私自身でもちょっと考える事があって……やっぱりこういう話は、タンレンに聞いていただくのがなんだか一番いいようにも思います」
「それは尚嬉しい。私も貴方の父親のような気持ちでいるのですから……いやまあ、殿下の父親などおこがましい言い方かもしれんが……とにかく殿下が私を頼ってくれるのは嬉しい事ですよ」
 嬉しそうに笑っているタンレンをみつめながら、シィンワンはなかなか本題を言い出しにくいと思っていた。いつもと変わらないタンレンには、何の翳りも感じない。本当にもうシュレイの事を忘れてしまっているのだろうか?
「あの……」
 言いかけて言いよどんで、シィンワンはお茶を一口飲んだ。
「そんなにいいにくい話ですか?」
 クッとタンレンが笑ったので、シィンワンは困ったように苦笑した。
「すみません。実は……もしもお気を悪くされたら申し訳ないのですが……ユイリィに聞いて……その……タンレンが結婚を望まれていると……」
 シィンワンの言葉を聴いて、タンレンは驚いたように目を見開いてから、困ったような顔になりクククッと笑い出した。
「そうですか、ユイリィの奴、リューセー様に言い出せずにシィンワンさまに泣きつきましたか」
「いえいえ、これには訳があるのです。その……タンレンがユイリィに相談をした日、実は私の勉強会に遅れてきて……遅れた理由を私が問いただしたのです。それで……」
「それはっ……申し訳ありませんでした。ユイリィが何も言わないものだから、まさかそんな大事な時間だったとは……」
 タンレンが真面目な顔になって頭を下げたので、シィンワンが慌てて首を振った。
「いえ、それは別に良いのです。それに貴方が本当に結婚をお望みでしたら、私も力になりたいと思っています。私から母に頼むのも容易い事です。それはいいのですが……その……お手伝いする前にどうしても確認しておきたくて……」
「何をです?」
「その……貴方は本当に結婚を望んでいるのですか?」
「ええ、そうでなければこんな恥ずかしい相談などユイリィにはしませんよ。いい歳してね」
 タンレンが困ったように笑うので、恥をかかせてしまったかとシィンワンは慌てて頭を下げた。
「すみません。その……変な意味ではなく……私にはまだよく分からないもので……その……貴方は家の為に仕方なく結婚をされるのですか?」
「家の為……まあそうですね。私は長男だし、ロンワンの血を残す義務がありますから」
「私はそういうのは解りません」
「殿下?」
 少し怒ったような口調で言うシィンワンに、タンレンは不思議そうな顔になった。
「だって……貴方はシュレイを愛しているのでしょ?」
「ああ……」
 その言葉で、タンレンはなんとなくシィンワンの気持ちを察した。微笑んでから小さくため息を吐く。
「ええ、愛しています。今もです」
「だったら……」
「殿下、それとこれは別ですよ」
「でもそれではシュレイを裏切る事になるでしょう。貴方の気持ちも」
「だから別なのです。殿下も大人になって、本当の恋をすればわかりますよ」
「そんなの解りたくない。愛している人が居るのに、他の人と結婚して……その結婚する人だってかわいそうだ。タンレンはシュレイを愛していて、自分は愛されないのに」
「殿下っ!」
 タンレンが急に大きな声を出したので、シィンワンはビクリとなった。驚いて正面のタンレンの顔を見ると、一瞬厳しい表情をしていたがすぐに柔らかな顔になっていた。ジッとシィンワンをみつめてから微笑んだ。
「殿下……私は今もシュレイを愛しています。忘れた事はない。だがもう後ろを振り向く事は辞めたのです。それはシュレイの願いでもあった。むしろ裏切っていたのは今までの私の方なのです。シュレイは死ぬ時、これから先の私の未来を案じていた。すぐにでも自分のことは忘れて、新しい道を歩いて欲しいと願っていた。私はシュレイにそうすると誓った。だが私はシュレイの死をなかなか乗り越える事が出来ず、彼が生きていればとばかりを望み、彼との思い出ばかりを思い続ける日々を50年近くも過ごしてしまった。彼との約束を破っていた……でもようやく、私は己の過ちに気づいたのです。こうしていてもシュレイは浮かばれない。私が前を向いて歩いていく事こそが彼の願いなのです……だから結婚をする決心をしたのです。殿下、私は結婚する相手を愛するつもりですよ」
 シィンワンは眉を寄せて複雑そうな表情をしていた。それでも解らないと思っていたからだ。タンレンの言っている事は半分も分からなかった。その表情を見てタンレンは苦笑した。
「殿下、解らないかも知れませんが……そういう愛もあるのです」
「すみません。私には分かりません。本当にそれがシュレイの望みなんですか?」
 タンレンはお茶を一口飲んでから、しばらく考え込むようにカップの中のお茶をみつめていた。小さく息を吐いて独り言のようにゆっくりと話し出した。
「私にとってシュレイはずっと恋焦がれていた人でした。ずっとずっと昔から、シュレイに初めて会った時から……何度も何度もアタックして、何度も何度も振られて……ようやく彼を手に入れるのに、とても長い時間を費やしました。それでも愛しても愛しても、彼は幸せにはなってくれなかった。彼はずっと苦しんでいました。私に愛される事に……。彼はシーフォンとアルピンのハーフでしたが、訳あって……その素性は堂々と出来る立場ではなく、シーフォンとしては名乗れず、自分をアルピンと同等に考えていました。男である事、アルピンである事、彼の本当の出生の事……それらすべてが私を汚し貶めてしまうと、彼は思っていたのです。そんな彼の為に私は彼と約束しました。シュレイが死んだら、その時はちゃんと結婚して子を作って、新しい人生を歩むと……ちゃんと幸せになると。それはまるで呪文のようなもので、私がそれを忘れずに彼に言い続ける事で、彼は自身の苦しみから開放されて、私の愛を受け入れてくれるようになりました。シーフォンの私達にとっては、アルピンの人生などほんのひと時の事。シュレイはシーフォンとのハーフで、その上リューセー様の側近だったから、普通のアルピンよりはずっと長生きしますが、それでも我々の寿命から考えれば、かならず早い別れが来ます。あとほんの少し、しばらくの間だけ、自分の寿命が尽きるまでの間だけ……終わりのある間だからこそ、シュレイと私は愛し合えたのです。私にとって、結婚して新しい人生を歩むという約束は、シュレイを安心させるためだけの呪文だった。だけど彼はその死の床につくまで、その言葉が無ければ自分の苦しみから逃れる事が出来なかった。最後の最後まで、彼の願いはただ一つ……タンレン様、かならず誰かを愛して幸せになってください……と、ただそれだけだった。それが彼の遺言。ただひとつの望み」
 タンレンはそこまで言ったところで急に黙り込んでしまった。ジッとカップの中のお茶を見つめたまま動かないで居る。シィンワンもまたジッと何も言えずに、タンレンをみつめて固唾を呑んでいた。やがてタンレンはゆっくりと顔を上げると、とても穏やかな顔でシィンワンをみつめた。
「私もずっと思っていました。『それは嘘だ』と……シュレイの本当の望みはそれではないと……そんなはずはないと……自分の愛する人が、他の誰かを愛して良いと思うわけが無いと……私はシュレイを失って、悲しみの底まで落ちました。毎日毎日、後悔ばかりの日々だった。どうしてシュレイの本当の望みを聞きだすことが出来なかったのかと。本当は私にもっと他に言って欲しい言葉があったのではないかと……あんな呪文が欲しかったわけではないのではないかと……自分の非力さと愚かさに苦しみました」
「タンレン……」
 タンレンはまた考え込むように、少し視線を落としてしばらく黙って考え込んでいた。
「時の流れというのは無常なもので、私の心の時さえも止めてはくれない。どんなに私が悔いて悲しんでいても、長い時間の流れと共に、悲しみの記憶も過去のものにしてしまう……気がついたら『悲しい』という記憶がそこにあるだけで、私にはもうシュレイを失った時とまったく同じ気持ちでは悲しめなくなってしまっていた。50年も経つと……シュレイの事を思い出しても涙は流れない。せつない思いと、悔いで胸が痛むだけだ。だけどひとつだけ変わっている事に気づくのです。それはシュレイを思う時、後悔だけではない……あの時のシュレイの気持ちが理解できるようになっていたのです。もしかしたら、本当に、本当にシュレイは心から、私が他の誰かを愛し、新しい人生を歩む事を願っていたのではないかと……もしも私が先に死ぬことがあって、愛する者を残していかなければならないとしたら、どう思うだろうと……一生自分の事だけを思って嘆き続けて欲しいなどと願うだろうかと……もちろん考えようによっては、私の自分勝手な思い込みかもしれない。だけどシュレイなら、私が愛したあのシュレイならば、きっと打算などは無く本当に私の事を思って、そう願ってくれたのではないかと……そう思えるようになったのです」
 最後にそう言葉を締めて顔を上げたタンレンと目が合って、その真っ直ぐな視線にシィンワンはカアッと赤くなった。
「タンレン……私がまだ子供で……申し訳ありません」
 シィンワンはそう言って深く頭を下げた。タンレンはとても穏やかな顔でそれをみつめていた。
「私は……ユイリィから話を聞いて、タンレンの気持ちが解らなくて、それで昨夜色々と考えているうちに不安になったのです。タンレンとシュレイのような深い恋愛もあるし、家柄で決められた愛のない結婚をする者もいる。私だって、定められているリューセーとは一度も会ったことがない。人には相性というものがあるでしょう? 私にだって好き嫌いはある。王子だからそんな個人的な主観だけで人とは付き合えないし、そういう教育も受けているけれど、人付き合いと結婚は違うでしょう? もしもどうしても私がリューセーを愛せなかったらどうしようかと……不安で……」
 シィンワンは苦しげな顔でそう吐き捨てるように言うと、俯いてギュッと膝の上で両手で拳を作った。それを見てタンレンは楽しそうにニヤニヤと笑いだしたが、俯いているシィンワンには見えなかった。
「殿下……ならば伝承などではなく、私が直接に見知っている竜王とリューセーの話をして差し上げましょう」
「え?」
 タンレンの言葉に驚いて、シィンワンは顔を上げると、タンレンは腕組みをしてからニッコリと笑った。
「フェイワンは、いつまで経っても現れないリューセーに苦しめられました。魂精のもらえない竜王は次第に衰弱していく……命の危険に晒されて、フェイワンは次第にリューセーを憎むようにさえなっていました。ある日フェイワンが私に言ったのです。『タンレン、オレはリューセーが憎くて仕方ない。このままだと愛せそうにない。リューセーが現れたら、魂精を搾り取って、子を産ませて、あとはどうするか解らない。オレの子をオレと同じ運命にしてしまうかもしれない。それでも良いと思うか?』と……私は、先代の……フェイワンの両親である竜王とリューセーの悲劇を知っていましたから、彼の言葉にどう答えればいいか分かりませんでした。ただ苦しむ彼の心情を思うとそれを否定は出来なかった。『竜王がするべきことに従います』とただそれだけ答えた。やがて50年も遅れてリューセーがこの世界にやってきた……どうなったと思う? フェイワンは、現れたリューセーを一目見て恋に落ちた。私達が呆れるくらい夢中になった……心配なんて無駄なものですよ。殿下。心配していても恋愛なんて出来ません……運命というものは多分決まっているのです」
「そんなものでしょうか……」
 シィンワンはまだ俯いたままで、強く握り締めている膝の上の拳を見つめていた。
「私なんてこんな歳にもなって……年甲斐も無くちょっと浮かれているのです。新しい恋愛が出来るのならば楽しみだと……まだ不謹慎だと思われますか?」
「い……いえ」
 シィンワンは慌てて顔を上げると、フルフルと首を振った。
「私はタンレンが家の為だけに結婚するつもりなのならば、不幸だと思っただけです。でも先ほどの話を聞いて、タンレンが本当に心から結婚を望んでいるのならばそれでいいかと……そうして、結婚する人を愛する気持ちでいるのならば……」
「ええ、愛するつもりですよ……いい恋愛を経験すると、また次の恋愛がしたくなるものです。一人は寂しいと思ってしまうから……まあこんなおじさんの所に、嫁に来てくれる女性が居ればの話ですが……子を成す事を考えると、やはりそれなりに若い女性になってしまうでしょうから……それだけがどうも心苦しくてね」
 タンレンが苦笑して頭を掻いたので、シィンワンも笑って首を振った。
「タンレンがおじさんなら、ラウシャンなんてその2倍もおじさんだ……まだまだ大丈夫ですよ」
「確かに」
 二人はアハハハと大きな声で笑った。


「くしゅんっ」
 ラウシャンがハデにくしゃみをすると、側に居た小さな金髪の男の子が立ち上がって、心配そうに椅子に座っているラウシャンの顔を覗き込んだ。
「パパ様、ご病気?」
「いや、誰かが私の悪口でも言ってるんだろう」
 ラウシャンがムッとした様子でそう答えると、少年はキョトンとした顔になっていた。ラウシャンの腕の中には、赤ん坊がすやすやと眠っている。
「今誰かくしゃみしなかった?」
 美しい黒髪の婦人がそう言いながら部屋の中へ入ってくると、少年は嬉しそうに駆け寄っていった。
「ママ様! パパ様がくしゅんしたの!」
「ネンイエ、それ本当? あらやだ! あなた! 何か病気なの?」
 彼女は驚いたように駆け寄ると、ラウシャンが抱いていた赤ん坊を取り上げた。
「ちょっと、ランファに変な病をうつさないでね、ネンイエ、いらっしゃい」
「ちょ、シェンファ、おい、ただのくしゃみだ! くしゃみ!」
 赤ん坊と男の子を連れて、さっさと去っていったシェンファに向かって、ラウシャンは文句を訴えながら、彼女の姿がドアの向こうに消えると諦めたように頬杖を吐いて舌打ちをした。
「ったく……女というものは、子供が出来るとこれだ。夫より子供だ。だからオレは結婚なんてしたくなかったんだ。女はころころ変わるからな」
 眉間を寄せて、ブツブツと呟いていると、そこへシェンファが戻ってきた。
「なにぶつぶつ言ってるの?」
「なんでもない。風邪がうつるぞ」
 ブスリと不機嫌そうに頬杖をついたままラウシャンが答えると、シェンファは目を丸くして「まあ」と言ってから、ぷっと吹き出した。
「ただのくしゃみなんでしょ? どうせお父様かタンレン様が、貴方の悪口を言ってるのよ」
「オレもそう思うね……いや、案外お前かも」
「まあひどい」
「ひどいのはどっちだ。そもそもシーフォンは、病になど滅多になるものではない」
「もう……これくらいでいちいち拗ねないでよね」
 シェンファは呆れたようにそういうと、ストンとラウシャンの膝の上に座った。
「なっ……」
 驚くラウシャンを無視して、シェンファはその首に両手を掛けてチュッと頬にキスした。
「家に居るときは、あなた子供ばっかりなんだから……さっきのは子供を追い出す言い訳に決まってるでしょ?」
「……お前がいなかったから、子守してやっていただけだろう」
「乳母に任せればいいでしょ……私はすぐに戻るからって言ったじゃない」
 まだムッとした顔をしているラウシャンをみつめながら、シェンファはクスクスと笑った。
「機嫌をなおしてくださいな。いつも忙しい貴方が、仕事が暇でこんなに早く帰ってくることはそんなにないんだから、私の相手をしてくださいませ。貴方が早く帰ってきたから、私、この後インファ達と約束していたお茶会を断りに行って来たのよ?……ね?」
 シェンファが甘えるようにそういうと、ラウシャンは憮然とした顔のままでチュッとシェンファの唇に軽くキスをした。
「解ったから……膝から降りなさい」
「いいじゃない、別に」
「侍女達に見られるだろう」
「あら、私は別に構わないけど……恥ずかしいなら寝室にいく?」
「バッ!! バカッ! お前、今何時だと思っているんだ。こんな明るい時間に……」
「じゃあ、ここでいちゃいちゃする?」
 ラウシャンは、眉間を寄せてウッと言葉を詰まらせた。シェンファはニッコリと笑って膝から降りて立ち上がると、ラウシャンの手をとって引っ張った。
「ね? 行きましょ?」


「話を聞いていただいてありがとうございました」
「こちらこそ……変なお願いをしてしまって申し訳ありません。殿下……その……リューセー様には……」
「はい、解っています。私もよく理解できましたから、ちゃんと母様には話せます。私も父様に上手く言える自信はないので、その辺は母様に任せたいと思います」
 シィンワンは会釈をしてから、タンレンの元を去った。このまま真っ直ぐに龍聖の元へと行くつもりで居た。タンレンの気持ちは理解できた。そしてまだまだ自分が未熟なのだと実感した。
 100歳の誕生日まであと2年。100歳になったら、次期竜王の儀式として、眠りにつかなければならない。そして次に目覚めた時は、もうこの国の竜王とならなければいけないのだ。それまでに、勉強だけではなく、こんな風に色んな人生経験の話を聞いて、もっと心を成長させなければと思った。
 出来れば父と母にも色んな話をしてみたい。そう思うと、あまり時間がないな……と思った。


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