竜人の国エルマーン王国。
 その世界にある大きな2つの大陸の内、東の大陸のどこかにあるといわれている国。だがそれは決して空想ではなく、本当に存在する古い古い歴史のある竜の司る国。
 その長い歴史の中で、一度は滅びの道を辿っていた国であったが、竜王フェイワンの治世になって、次第に盛り返し始め平和を築き上げていた。
 今はその空を、穏やかな顔をした竜たちがたくさん飛び交うようになった……そんな平和なエルマーン王国の一遍の物語。


 椅子に座り真剣な顔で本を読む青年の姿があった。見事なほどの真紅の長い髪をした凛々しい顔立ちの青年だった。目の前のテーブルの上には、厚い本がたくさん積まれている。
 コンコンっとドアがノックされた。
「どうぞ」
 青年が本から視線を上げて返事をすると扉が開き、青い髪の中年の男性が姿を現した。とても神妙な顔つきをして、一度部屋の主をみつめてから、深々と頭を下げた。
「殿下……遅れまして大変申し訳ありません」
「まあ、いいから入ってください」
 青年は少し微笑んでからそう声をかけた。男はしばらく下げたままの頭を重々しく上げてから、一度中へと入って扉を閉めて再び深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません」
「ユイリィ……まあそんなに謝らなくても……貴方が私の教育係になって以来、このように遅刻したのは初めてだから、何かよほどの事情があったのでしょう?」
「シィンワン様……今が大事な時期だというのに、貴重な時間を無駄にしてしまいまして……本当に申し訳ありません」
 何度も謝る教育係のユイリィの様子に、シィンワンはクスリと笑って困ったように頭をかいた。
「じゃあ……罰として、なぜ遅れたのか理由を話してくれるかい?」
 シィンワンが微笑みながら尋ねると、ユイリィは思いがけない言葉を貰ったと言う様に、ハッとなってから少し考え込んだ。その様子にシィンワンは苦笑する。
 正直な所、シィンワンには無理に事情を聞き出すつもりは無かった。多少遅刻してきたことぐらい、特に怒っては居なかったし、日ごろのユイリィの真面目で勤勉な態度からすれば、よほどの事情があってのことだと分かっている。だからその内容については問いただすつもりは無かった。だが真面目だからこそ、「いいよいいよ」ではユイリィ自身が納得しないだろうと思って尋ねてみたのだ。
 少し様子を伺ってから、すぐに「じゃあもうその話はいいよ」と言おうとしたとき、ユイリィは決意した表情でシィンワンを見つめて口を開いた。
「実は……タンレン様から相談を受けていたのです」
「タンレンから?」
 それは意外な話だった。今でこそその地位を剥奪されて庶民の位に身を落とし、シィンワンの教育係の仕事をしているが、ユイリィは元々ロンワンであり、フェイワン、タンレンとは従兄弟同士である。
 近しい身内の少ない彼らにとって、互いは大切な血縁者であると同時に、親友のような存在でもあった。だから日ごろから仲もよく、よく話をすることはある。
 シィンワンが『意外』だと思ったのは、タンレンが相談をしたという事だ。タンレンは常にフェイワンの愚痴や悩みの相談を受けてはいるが、自身が誰かに相談をするようなイメージがない。仕事の悩みであれば、多分フェイワンに相談するだろうから、ユイリィに相談するということは、私的なよほどのことだろうと思った。
「タンレン様の父君が亡くなられてから、もう5年にもなります」
「ああ、もうそんなになるのか」
「それでタンレン様は、いい加減にそろそろ後継問題について、なんとかしなければとお悩みなのです」
「後継問題? 何か問題になっているのか? タンレンは立派な方だし、父の補佐役として十分に尽くしてくださっている。弟君のシェンレンも副官として、軍務の統率に尽力を尽くされているし、国防はすべて二人に任せて安泰だと、陛下も常々言っている……他に何か問題が?」
「いいえ、つまり跡継ぎの事です」
「跡継ぎ……?」
「タンレン様はいまだ独身でございます」
「あっ」
 ユイリィの言葉に、ようやく事が飲み込めて、シィンワンは思わず声を漏らした。驚いて大きく息を吸い込んでから、首を振ってみせる。
「いやいや、ユイリィ。そんな私的な話は、私が聞いていいものではないだろう。その話は聞かなかった事にするよ」
「いいえ、これは先々には殿下の御世に関わる話ですので、ぜひお聞きください」
「でも……」
 シィンワンは困ってしまった。タンレンが未だに独身でいる訳をまったく知らないわけではない。そのような色恋沙汰まで関わるような大人の難しい話は、シィンワンにはまったく分からない事だし、なんだか聞いてはいけないような気がしていた。
「それで出来れば、殿下のお力添えが欲しいのです」
「わ……私の?!」
 シィンワンはとても驚いてしまった。だがユイリィは真剣な様子でうなずいている。
「でも、あの……私は……」
「殿下、まずは私の話をお聞きください」
 ユイリィは引く様子も無く続けるので、シィンワンは仕方なく聞くことにした。
「タンレン様が、リューセー様の側近であったシュレイを恋人として公然と側に置かれていたのはご存知ですね?」
「ああ」
「タンレン様はその時、父親と約束をしていたそうです。シュレイはシーフォンではないので、早くに寿命が尽きる。だからその生涯を共にすごしてやりたいと。その代わり、彼の死後はかならず結婚をして跡継ぎを残すと……だからしばらくの間は、放蕩息子の乱行と思って、見てみぬ振りをして欲しいと……」
「そんな事が」
「だがシュレイが亡くなってもう50年近く過ぎていますが、タンレン様は未だに独身。タンレン様は約束を忘れていたわけではないのですが、さすがにそうすぐには割り切ることが出来なかったそうです。でも父親が亡くなるときに、もう一度約束をさせられた。かならず結婚をして跡継ぎを残すと。それはタンレン様の義務なのですから」
「義務って……私は別に独身でも良いと思うけど……。シュレイを忘れられないのなら、一途に思い続けるのも、すばらしい事だと思うよ」
「いいえ、そういう訳にはいきません」
 強い口調でユイリィがそれを否定したので、シィンワンはまた驚いた。ユイリィこそ、もっとロマンチストだろうと思っていたからだ。
「このような身になった私が言う事ではないのですが……陛下にはご兄弟がいらっしゃいません。陛下の父王ランワン様にも、妹姫が二人居たのみ。一人は私の母、そしてもう一人がタンレン様の母君。ロンワンの直系の血筋を残せる男子は、私とタンレン様とシェンレン様の3人しかいないのです。私には跡継ぎは残せませんから、残るは二人のみ……ですから、タンレン様が結婚して子を残すのはロンワンの義務なのです。これもすべては後世のため。ロンワンの血を残すことは、王を助けることでもあるのです。我々は人間たちとは違う。シーフォンの血脈というものはとても重要なのです。王の側に居て、王を守れるのは血族のみなのです。殿下が王になった時、殿下の御世をお守りお助けできるのは、ロンワンの血族の者が多く近くに居ることが重要なのです」
 ユイリィの話は、シィンワンにはひどく衝撃的な森だった。彼の話は理屈では分かっていることだ。シーフォンには、『血』という、どうにも出来ない格差がある。王の直系の血筋の者はロンワンと呼ばれ、シーフォンの中ではもっとも位が高い。庶子になるほど血が薄くなり、血が薄いということは位が低いということだ。
 それは人間の世界で言うところの『差別』では決して無い。『王の血族』とは、すなわち『竜王の力』を受け継ぐ血の一族のことで、血が濃いほど高い能力を持つことになる。その『血』がもたらす能力は理屈ではなく、血の薄い者はロンワンの目をみつめられないほどの力の差がある。
 だから竜王の側に仕えられるのは、血族にしか不可能であり、また王に助言を言えたり、時には諌める事が出来るのも、それなりに同格に高い能力を持たなければ出来ないことだ。だからロンワンの血を絶やさぬことは、国を守っていく上でとても大事なことなのだ。
 シィンワンにも十分に分かっている事なのだが、改めて身近な者の事として話されると、ひどくショックを受けてしまう。
 タンレンは、シィンワンにとってもとても尊敬すべき人物だ。人格者であり、明るくやさしい人柄で、アルピンにも心広く、何よりも父王フェイワンが誰よりも頼っている人物だ。
 彼とシュレイの話は有名な話で、シィンワンが物心付いた頃にはもう二人は夫婦のように仲睦まじく、それが当たり前のように思えていた。シュレイが亡くなった時のタンレンの落胆振りも見ている。
 恋愛というものがまだよく分かっていないシィンワンであるが、彼らのソレは純愛のように見えていた。身分とか人種とか、さまざまな困難を乗り越えて、貫き通した愛はある意味うらやましいとさえ思っていた。
 きっとそういう風に、誰かを愛するのは一生のうちで一度だけで、それは結婚も同じなような気がしていた。だがタンレンは跡継ぎを残すために、結婚をしなければいけないという。それもシィンワンが王となったときの世を考えてのことだという。
 急にシィンワンが無口になって俯いてしまったので、ユイリィは心配そうな顔をしてみつめていた。
「殿下……あの、誤解されたかもしれませんが、タンレン様の悩みというのは、それで結婚をしたくないからというものではないのです」
「え?」
「むしろ結婚したいのだけど、どうしたらいいのだろうと……そう相談されたのです」
「ええ?」
 シィンワンはポカンとした顔になった。それを見てユイリィはクスリと笑った。
「タンレン様の中では、シュレイの事はもう整理が付いているのです。それなりの年月が経ちましたから……もちろん忘れたとかそういう事ではなく。私達には計り知れない、色々な思いがタンレン様の中にあるのだと思います。それで今は、結婚して新しい人生を歩む決意をしているのだそうです」
「そうなのか?」
「はい……ですが、なかなかいざ、結婚するといっても相手がいないもので……」
「え? でもタンレンなら、結婚したいと思う相手はたくさんいるだろう」
 ユイリィは苦笑して首をすくめて見せた。
「まあ、全然いない訳ではないのですが、それなりの血筋の者の中からとなると難しいですね。夫婦の間の血筋にあまりにも格差があると、上手くいかないものなんですよ。私の両親のように……それに歳が……タンレン様につりあうような年齢の女性は、もうとっくに結婚してしまっていますし……後は娘くらいに歳の離れた相手になってしまう。タンレン様もさすがにそれは、自分の方からは申し出にくいと言っていまして……だから本来なら、陛下から縁談を結んでもらうほうが楽なのだがって言ってました」
「じゃあ、そう陛下にタンレンから言えば良いのに」
「言いにくいんですよ」
 ユイリィがクスクスと笑うので、シィンワンは分からないという様子で首をすくめて見せた。
「陛下は、シュレイのことも含めて、すべてご存知ですし、タンレン様が父親と約束した事もすべて知っています。それでも陛下から結婚のことをタンレン様に言ってこないのは、陛下がタンレン様を気遣ってくれているからだと、タンレン様は分かっているのです。タンレン様が自分の為に犠牲になることを、陛下は一番嫌だと思っておいでですからね……そんな陛下の気持ちが分かるからこそ、タンレン様からは言い出しにくいのですよ。ヘタに言えば、陛下が怒ってしまいそうだというのです。『無理に結婚しなくてもいい』とね」
「う〜ん」
 確かに……と、シィンワンは思って腕組みをして考え込んだ。父の性格ならば、そうなりそうだと想像が付く。シィンワンでさえ、さっきは少しショックだったのだ。自分の為に、血族の為に、恋愛も自由にならないなんて……絶対に結婚をしないといけないなんて……シィンワンでさえそう思うのだから、タンレンを強く思うフェイワンであれば、それはもっとだろうと思った。
 フェイワンが知っていながら、タンレンの父ダーハイの死の後も、何も言い出せずに居るのも分かる気がしていた。
「それで……本当は私からリューセー様に上手く言って、陛下に伝えて欲しいと思っていたのですが……それを殿下にお願いできないでしょうか?」
「え? 私が?」
「はい、タンレン様から頼まれたものの、本当は私も言いにくいのです。リューセー様にこの話をしては、多分タンレン様の事もですが、私がこのような身になっていることを思い出して、リューセー様がお心を傷められると思うのです。それがちょっと気がかりに思っていて……申し訳ありません」
 頭を再び下げるユイリィを見て、シィンワンは断ることが出来なかった。ユイリィの身の上に付いても、シィンワンは頭で分かっているだけで、当時を知っている当事者ではない。彼の事件には、もちろんシィンワンの母であるリューセーが関わっていることで、ユイリィが言わんとすることは察しがつく。
「分かった。その話は……私の将来にも関わることだし、私もその事に付いて少し考えたいと思うから……一旦預からせてくれないか?」
「よろしくお願いします」
 ユイリィが少し安堵したような顔になってから、もう一度丁寧に頭を下げた。シィンワンはフウと一つ息をついてから、しばらく手元の本をみつめた。
「さあ、勉強を始めよう……ユイリィ、遅れた分、今日は終わりが遅くなるよ」
「はい、かしこまりました」


 その夜、シィンワンはテラスに立ち、星空のようにチラチラと明かりの灯る城下町を眺めていた。ぼんやりと考え込む。
 恋愛、結婚……それは同じものだと思っていたが、違うもののようだ。自分の周りにいる夫婦というものは、すべて恋愛のうえでのものだと思っていた。だがよく考えればそればかりではないのだ。
 家柄を考えて、親が決めた相手と結婚する者も多い。だが皆が円満に見えていたので、違いがよく分かっていなかった。
 シィンワンの姉であるシェンファは、歳の離れたラウシャンと、大恋愛の末に結婚した。もっともずっと恋焦がれていたのはシェンファの方で、それが『大恋愛』と言えるかどうかは分からないのだが、ラウシャンもみんなが見ている前でシェンファにプロポーズをして、それから結婚まで8年間の月日を婚約者として、恋人として過ごしたのだから、あれは大恋愛だと思う。
 すぐ上の姉のインファは、まだ結婚していない。特定の相手もいない。今は母の影響で、男勝りにアルピン達に合気道を教えたりしている。オテンバだけど、とても美しいし、年頃だから、求婚者は多いのだが、なぜかまったく見向きもしないらしい。父も母もあんな性格だから、別に無理に結婚話も進めない。
 一度「姉さまは結婚しないの?」と聞いたことがある。インファはクスリと笑って「するわよ、多分」と答えた。誰か好きな相手が居るのではないか? と思っている。
 好きな人と好き合って、恋愛して結婚する。それが自然な気がするし、理想的だと思う。だけど家の為に決められた相手と結婚する者も居る。会った事も無い相手といきなり結婚させられる者も居る。
「難しいな……」
 シィンワンは、テラスの縁に凭れ掛かって頬杖を付いた。ハアと大きなため息をつく。ユイリィはあんな事を言っていたが、本当にタンレンは結婚するつもりなのだろうか? シュレイの事を忘れたわけではないと言っていたが、それならなお更どうして、他の人と結婚する気になれるのだろう? シィンワンには理解できなかった。
 しばらくの間ぼんやりと考え込んでいたが、ハッとある事に気が付いた。
「父様と母様もそうだ……顔も見た事の相手と結婚したんだ」
―――そして私も……。
 シィンワンの結婚相手は、生まれたときから定められている。異世界・大和の国に住む『リューセー』だ。まだ顔も知らない相手だ。
 それまで一度としてそれを不安に思った事などなかったのに、今突然に不安な気持ちになっていた。
―――リューセーを愛せるのだろうか?
 父はどうだったのだろうか? 母はどうだったのだろうか? シィンワンの知っている二人は、呆れるくらいに愛し合っている姿だった。自分もそんな風になれるのだろうか?
 風に吹かれながら空を眺めた。夜空を竜が数頭舞っているのが見える。月明かりで、鱗がキラキラと光っていた。シィンワンはまたため息をついた。
「明日、タンレンに会って話をしてみよう」
 ユイリィには悪いが、どうしてもタンレンの気持ちを直接聞いてみたかった。シィンワンには、まだ到底分からない複雑なその気持ちを……。


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