伊勢崎は食後のコーヒーを飲みながら、TVから流れる朝のニュースを見ていた。いつもと代わりのない朝。いつもと代わりのない週の始まり。今日の服装もバッチリと決まっている。このコーヒーを飲み終えた頃、TVのニュースでは天気予報のコーナーになる。伊勢崎はそれを横目に立ち上がると、朝食の皿を流し台に置いて軽く水をかけ流してから、食器洗い機に入れて蓋を閉める。
 ソファの背に掛けて置いた背広を羽織ながら、天気予報が東京の天気を言い終わったところまで確認してTVの電源を切ると、そのまま洗面所へと向かう。そこで洗口液で、口の中を濯いでから、鏡を覗きこみヘアスタイルをチェックする。チラリと腕時計に視線を送ると8時2分。駅までは歩いて5分、8時15分の電車には余裕で間に合う。
 余裕のあるいつもの朝だ。このペースで朝が決まると、一日が完璧に過ごせるような気になる。着ていく服がなかなか決まらなくて時間が狂ったり、朝食を食べる余裕が無かったり、ヘアスタイルが決まらなかったり……とにかく朝のペースガ狂ってしまうと、その日一日がダメになってしまう気がしていた。
「そういえば、あの日も朝からバタバタしていたな……」
 伊勢崎はふと思い出したように呟いた。あの日とは、運命が狂った日……そうあの変な男が突然現れた日のことだ。あの日は確か、服がなかなか決まらなくて、朝食に作っていた目玉焼きを珍しく焦がしてしまって、時間が遅れてバタバタと家を出て行った日だ。
「やっぱりオレ流のジンクスかなぁ……」
 朝がダメな日は、一日ダメ。そう考えてみると、仕事がダメな日も彼女と別れた日も、みんな朝がダメだった。
「という事は……もしかしてもしかすると……」
 伊勢崎の顔が輝いた。月曜日、週の始まり、すべての始まり……すべてがリセットされていて、あれがただの悪夢で、会社に行けば元の通りに戻っているかも……なんて思いが過ぎった。
 と、その時玄関のチャイムが鳴った。こんな朝から誰だろう? と、伊勢崎はそのまま出て行くつもりでカバンを手に取り玄関へと向かった。鍵を開けて扉を開ける。
「伊勢崎さん、おはようございます! 遅れますよ! 会社に一緒に行きましょう!」
 そこにはニコニコと笑顔の世良が立っていた。


「わあ、やっぱり総武線は混みますね〜……でも新宿で大分減るんでしょ?」
 隣で世良が暢気にしゃべり続けるのを、伊勢崎は憮然とした様子で聞き流していた。ギュウギュウの満員電車の中で、ニコニコ出来るわけも無いのだが、それよりも何よりも、月曜でリセットされなかった失望が大きかった。
 まあ……甘い考えといえばそれまでなのかもしれない。現実逃避も甚だしいだろう。月曜になって、悪夢でしたとリセットされるなんて、そんなに簡単な夢みたいな話……と、普通ならそう思うのだが、大体この男の存在自体が現実的ではないのだ。こいつの存在自体が夢のような話なのだ。だからそういう非現実的な希望を抱くのは仕方ないだろう。
「あ、それにしても土日はほんとうにありがとうございました。おかげで今朝はもう普通に朝ご飯も作れたし、ちゃんと生活できる部屋になりました」
 世良はそう言ってヘヘヘと笑った。伊勢崎はチラリとその顔を見てから、ちょっときまづそうに眉間を寄せて、プイと視線を逸らした。
 そう……土日はこの男と二人で過ごしてしまった。正確に言うと、彼の引越しの荷解きを手伝ったのだ。足りないものの買い物を手伝ったり、彼の部屋をコーディネイトしたり、2日掛けて完璧に……そう、気がついたらすべてを伊勢崎がやってしまっていた。
 台所用品が鍋一つ持っていない事に腹を立てて一式を揃えてやったり、カーテンやら風呂場周りから、必要なものを揃えてやったり……それらを二人で買い物に出掛けて、部屋に持ち帰って整理してやって……何やってんだオレ? って気がついたときには、なんだか仲良しな雰囲気になっていたりして……。
 伊勢崎は思い出して頭を抱え込んだ。どうもダメだ。世良という男が苦手だ。すべての調子が狂わされてしまう。関わりたくないと思うのに、どうしても関わってしまう。伊勢崎は今までの人生で、そんなに『お人よし』だったはずはないのだ。こんなに誰かの世話をしたことなんてないはずだ。特に男の……。
「伊勢崎さん! 降りますよ! 市ヶ谷ですよ!」
 伊勢崎が額を押さえながら、うんうんと考え事をしていると、世良が大きな声でそう声を掛けてきた。ハッとなってあわててホームへと下りる。
「どうしたんですか? 頭でも痛いんですか?」
 世良が心配そうに顔を覗きこんできたので、伊勢崎は慌ててプイッと少し顔を背けた。
「痛くないわけないだろう……お前みたいな正体不明の未確認生物と付き合わされる身にもなってみろよ……いっそのこと、オレも記憶を弄られてるほうが楽だと思うよ」
「すみません」
 伊勢崎が眉間を寄せて不機嫌そうにそうぼやくと、世良はとてもすまなそうな顔になって、神妙な様子で素直に頭を下げて謝ってきたので、伊勢崎はちょっと慌ててしまった。
「あ、いや……そんなマジに取るなよ……まあ、迷惑なのは事実だけど、お前自身の事をどうこう思っているわけじゃなくて……その……とにかくオレこういうのが苦手なんだよ。宇宙人とか幽霊とか、SFとかさ。嫌いとか怖いとかじゃなくて……映画とかドラマとかもそうだけど、なんか訳分からないっていうか、理解できない事って受け入れにくいっていうか……ああ、とにかく早くお前が用事を済ませてくれればそれでいいんだよ。ほら、会社に行くぞ」
「はい」
 伊勢崎がツカツカと大股で歩き出すと、世良はちょっと困ったように笑ってから後に続いた。


「で? なんでお前さ……オレにくっついて回るんだよ」
 会社の中にある社食で、伊勢崎は世良と向き合って座りながら、眉間を寄せて箸を振り回してそう言った。
「伊勢崎さん、箸をそんな風にするのは、行儀悪いですよ」
 世良はニッコリと笑ってから、カレーを一口バクリと食べた。伊勢崎はムッと口を尖らせてから、箸を振り回すのを辞めると大人しくトンカツを摘んでパクリと食べた。
「それにしても……伊勢崎さんって本当にモテるんですね」
「は?」
 世良がいきなり振ってきた話題に、話を逸らされたような気がしつつも、伊勢崎は咄嗟に反応してしまった。
「今日、朝からずっと一緒に居て思いました。1階の受付通った時も、受付嬢達はみんな伊勢崎さん見てほほ染めてキャアキャア喜んでいたし、オフィスに向かうまでの廊下でもすれ違った女性達が何人も振り返っていたし、今だって……」
 世良は言いながらチラリと視線を動かして辺りを見ながらまたカレーを口へと運んだ。伊勢崎も釣られるようにチラリと視線を動かす。社食に居る女性社員達の半分以上は、多分伊勢崎を気にしてこちらを見ている。それは伊勢崎自身分かっている事だった。自分がモテるという事の自覚は当然ある。
 だがそれらのほとんどが「伊勢崎さんって格好いいわよね」と女性達の噂や話題に上るだけで、いわばちょっとしたスター同然という感じでの扱いであって、彼女達のほとんどがちゃんと彼氏が居たりするし、別に伊勢崎と付き合いたいと思っているわけではない事も理解していた。ちやほやされる事は嬉しいが、それに便乗して調子に乗るつもりはない。もうそういう年齢でもない。
「ああ、まあな。自覚はあるよ。自分のルックスが良いほうだって自認してる。オレ自身、女の子にモテるのは嫌なはずも無いからそれなりの努力の賜物のつもりだから、嫌味に聞こえるかもしれないけど、そう自覚しているって言ったんだ」
「努力?」
「ああ、お洒落には気を使っているし、体型維持だって気を使ってる。ダイエットしたりってまではないが、たまには運動するようにしてるし、太らないように気をつけてる程度かな……男なんてある程度身長があれば、顔は並くらいあればそこそこモテるもんだよ。要は本人の自覚と気配りだと思うけどね」
 伊勢崎は澄ました顔で、それでも辺りに気を使って世良に聞こえる程度の声の大きさで話した。世良はカレーを食べながら、真剣な顔でそれを聞いては何か考え込んでいた。
「伊勢崎さんはハンサムだから、何も努力しなくてもモテると思いますけど」
「……男に褒められても別に嬉しくは無いよ。『ハンサム』は言いすぎだと思うけどな。まあ悪い顔じゃないと思っているし、平凡な顔でも無いと思っている。まあそこそこ良いほう? ってかんじだと思うよ。さすがにオレもそこまでは自惚れてないぜ。昔からクラスの中でも格好良い方って思われてるって自覚はあったから、女の子にモテたくて、格好よくなろうと努力したんだよ。自分に合う髪型とかさ、服のセンスとか、そういうのを研究して、嫌味無く格好いいと思わせるっていうのかな」
「女好きなんですね」
 ふふっと世良が笑っていったので、伊勢崎はちょっとだけ眉間を寄せた。
「人聞き悪いな。誰だって男なら女好きだろ? 女にモテたいって思うのは、男なら誰だって思うと思うけどな……ただそこまで努力するかしないかは別だけど」
「なるほど」
 世良はひどく納得した様子で大きく頷いた。
「なんとなく解りました」
「女にモテる方法?」
「いえいえ……ああ、でもそれも一理あるかも」
 世良は食べ終わったカレーの皿の上に、口元を拭いた紙ナフキンを丸めて置くと、ニッコリと微笑んで伊勢崎をみつめた。
「オレが貴方のそばにいる理由ですよ」
「……そばにいる理由って……お前が勝手にくっついてまわっているんだろ? 今だって、なんでオレが昼飯に行くって席を立ったのに、オレも行きますってついてくるんだよ」
 伊勢崎が少し不機嫌そうな顔になって言うが、世良はニコニコと笑っていた。
「いやだからそれは、オレが貴方の側に居ないといけないんじゃないか? という強迫観念に駆られての行為であってですね……」
「なんでそこで強迫観念に駆られなきゃいけないんだよ。大体誰が脅迫するっていうんだよ……」
 ムッとした顔で、伊勢崎が口を尖らせながら世良に言い寄りかけて、突然ハッと言葉を止めると、頭を動かさないまま視線だけを動かして辺りを見回した。
「だ……誰かいるのか? 大ボスか何かいるのか?」
「え?」
 世良はキョトンとした顔をして首を傾げて見せた。
「だから……その……お前の世界のさ……大ボスが見張っているのか? 脅迫しているのか?」
 伊勢崎の言葉が、世良にはすぐに理解できなくて、しばらくの間キョトンとした顔のままで、そんな挙動不審な様子の伊勢崎をみつめていたが、突然ブッと吹き出して笑い始めた。
「なんだよ」
 伊勢崎は眉間を寄せて口を尖らせる。
「だって……そんな……アハハハハ」
 世良がひとしきり笑うのを、ムッとした様子で睨みつけながら、伊勢崎は気を取り直したように最後のトンカツの欠片を口の中に放り込むと、残りのご飯もかきこんだ。
「確かにある意味で言うと、オレの行動派監視されていますが……それはデータ上の事で、別にどこかから誰かが見ているという訳ではないです。オレも使命を持ってこの世界に来ているわけですし、遊びじゃないんだし……第一他の世界に介入しているわけですから、何かトラブルが起きたら困りますからね。常に報告をしなきゃいけないし、オレが正常な体の状態で生存しているかどうかは、常にここからデータとして送り続けられているんです」
 世良はそう言って、左手首につけている腕時計を指し示した。どう見てもただの時計にしか見えないのだが、例の不思議な金属の塊の事もあるので、あえてそれ以上は詮索しない事にした。またこんな社食で空中に浮き上がらせられては、堪ったものではないからだ。
「そ……そうか。それが強迫観念の原因ってか?」
「いいえ、ただまあ、これで直接的には見張られていないとしても……オレはこの世界に目的を持って来ている訳ですし、今の状況、環境、すべてオレの為に整えられて居る訳ですから、一刻も早く目的を果たすべく努力しないといけないわけですし……オレが貴方の部下という設定に置かれて、貴方と同じ大学だっていう設定もあって、その上貴方のお隣さんとして引越しまでさせられたのですから、貴方の側に居ろという指令なのだろうって思ってしまっても仕方ないでしょ? そういう強迫観念ですよ」
 世良の話を真面目な顔をして思わず聞き入ってしまい、「ああ……」なんてちょっと納得までしてしまってから、そうかこいつも大変なんだな……なんて考えてしまい、そこでようやくハッと我に返った。
「で、なんでオレの側にいろなんて指令なんだよ。お前の目的は『花嫁探し』なんだろ?」
「そう! それなんですよ!」
 伊勢崎の言葉に反応して、突然世良がビシッと伊勢崎を2本指で指して嬉しそうに声を上げた。伊勢崎は思わず指されている指の先を避けるように、顔を傾けて避けた。
「なっ……なんだよっ」
「だから、随分話がそれましたけど、それがオレが分かった事ですよ!」
「はあ?」
「ですから、オレが伊勢崎さんの側に居る理由……伊勢崎さんは女にモテる。伊勢崎さんの周りにはたくさんの女性の影がある。つまり伊勢崎さんの側に居れば、女性にめぐり合う機会が多いわけですよ。多分伊勢崎さんに関わる女性の中に、オレの『花嫁候補』がいるんじゃないかと思うんです」
 自慢気に世良がそう言い切って、えっへんと胸を張って見せたので、伊勢崎はしばらくの間ぼんやりとした顔でその言葉について考え込んでいた。
「おい、ちょっと待てよ……それで、もしもお前の花嫁候補の女性が、オレにとっても好みのタイプだったりしたらどうするんだよ」
「伊勢崎さんには悪いですけど、諦めてもらいます。オレはどうしても花嫁候補を連れて帰らないといけないんです」
「はあ!? なんだよ、それ! お前の理由なんてどーでも良いだろう。その彼女がオレを好きだったりするなら、お前の方が諦めなきゃダメだろうが」
「そういう訳には行かないんです。それにその相手が本当にオレの花嫁候補だとしたら、例え最初は伊勢崎さんを好きでも、結果的には絶対にオレの事を好きになるはずなんです。オレは絶対にその相手を連れて自分の世界に帰らないといけないんですから」
 それまでニコニコとしていた世良が急にとても真面目な顔になってそういったので、伊勢崎は少し眉間を寄せただけで、それ以上は何もいえなかった。
 今でもまだ完全に彼の言葉の全てを信じられるわけがない。どんな不思議な力を使われたところで、それでイコール『異世界の人間』だなんて言葉を信じられるわけがない。目の前に居る世良という男は、どう見ても普通に日本人だし、言葉だってちゃんとした日本語だし、変わった所は見つけ出せない。
 自分の理解できない事は信じる事は出来ないけれど、だからこそ理解できないからと言ってそれが『嘘』だとも思わない。
 少なくとも今目の前で、理解不可能な言葉を話すこの男の表情と瞳は嘘を言っていないと思う。だから何も言えない。
「……とにかくもう戻るぞ」
 無理矢理に話を切り上げると、伊勢崎が立ち上がったので世良も続いて立ち上がった。皿の乗ったトレイを返却所に戻してから、食堂内を横切って仕事場へと戻る。
「あっ! 伊勢崎! 丁度いい所で会った!」
 出入り口の所でバッタリと入ってくる人物に会うなりそう声をかけられた。
「田口、久しぶりだな」
 伊勢崎の知り合いらしく、伊勢崎がちょっと驚いたような顔で立ち止まった。
「おう、久しぶりっ! 久しぶりついでに、明後日合コンやるんだけど来ないか? お前が来ると女性陣の評判が良くなるからさ、頼むよ」
「お前……この前までシンガポールに半年行っていたんじゃないの? いつ帰ってきたんだよ」
「先週末……で? どう?」
「ったく、あいかわらずだなぁ」
 伊勢崎は苦笑してみせた。相手の田口と呼ばれる浅黒い顔のガタイの良い男は、ニヤニヤと笑っている。結構親しい相手のようだ。
「ああ、良い……」
 伊勢崎は言いかけて言葉を止めるとチラリと世良を見た。世良は見られてキョトンとした顔をした。
「ああ、良いよ。付き合うよ。ついでにこいつも連れて行っていいか? オレの部下の世良だ」
 伊勢崎がクイッと親指を立てて世良の方を指して言ったので、田口は世良を見てからニコニコと笑って頷いた。
「いいとも、若くて、ルックスの良いのが増えるのは良い。女性参加者が増える」
「じゃあ、詳細決まったら連絡してくれ……ああ、それと、合コン抜きでも今度飲もうよ。海外出張の土産話を聞かせてくれ」
「OK、またな」
 別れて歩き出した伊勢崎の後を、それまでポカンとした顔で聞いていた世良が慌てて追いかける。
「伊勢崎さん、合コンって……」
「お前、花嫁を探しているんだろ? そういう所に行ったほうがいいんじゃないか?」
 伊勢崎が淡々とした様子でツレナイ口調でそう言ったが、世良はみるみる顔を輝かせてニッコリと笑った。
「ありがとうございます」
 世良が元気よくペコリと頭を下げたので、伊勢崎はチラリと見てから「フン」と鼻を鳴らしてスタスタと歩き出した。


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