伊勢崎はパソコンのキーボードを叩きながら、モニターを見るふりをして、そっと視線を動かす。その先には、世良の姿があった。彼もまたパソコンに向かって一生懸命仕事をしている。
 あれから3日経った。
『あれから』というのは、もちろんこの『世良』という男が突然現れた日からだ。伊勢崎自身に理解不可能、説明不能な目に合わされた日からだ。
 とりあえず伊勢崎は、深い事を考えるのを辞めた。世良が目的を果たしさえすれば、誰に迷惑をかけることなく、元通りの世界に戻して去ると誓ってくれたからだ。言いなりになるつもりは無いが、あれ以上問い詰めたり詮索しても、伊勢崎にとって不利な状態になるばかりのような気がしたのだ。それが「なんで?」と聞かれたら、まったく説明できない『掴み所の無い不安』ではあるのだが、とにかくそういう『説明できない』『掴み所の無い不安』だからこそ、詮索するのをやめたのだ。
 だって世良という男は、理解不能な力を使う。時間を止めたり、人や物を空中に浮かべたり……無いはずの彼の席を一瞬にして作ったのもそうだし、社内の中で……少なくともこの部の中の者達には、伊勢崎以外みんな世良の事を『知っている』のだから……もうそれは、頭であれこれ考えて解決できることではなかった。
 だから今は、とにかく大人しく関わり無くするように勤めて、この災難がさっさと過ぎ去ってくれるのを待つのみだと判断した。
 それがいつかは分からないけど……世良の目的が達したら……と、世良は言った。その目的とは『人探し』で、「誰なんだ?」と聞くと、彼は「わからない」と答えた。そしてややこしそうだと判断した伊勢崎はもうそれ以上を聞くことを辞めた。
 どうせ聞いたって、理解できないことに違いないのだ。
 あれから3日……何事も無く平穏に過ぎている。仕事には不思議なくらいに支障は無い。過去の企画実績には、不思議なほどに彼が直接に関わったものは無く(関わっていないから当然なのだが)その代わり彼には、企画の『テストプランナー』という仕事分担が割り付けられていて、今までこのチームで企画を立てたプランのテストモードを構築し、社内プレゼン用のデータを取るという役目をやっている事になっている。
 だが今まで『テストプランナー』という役割はなかったはずだ。だが社内プレゼン用のテストプランのデータは必要なはずで、では世良がいなかった頃に、今まで誰がそれをやっていたのかと言われると思い出せない。伊勢崎の記憶は操作されていないはずなので、それは分かるはずなのに、改めてそう言われると、ぼんやりとしてしまうのだ。
 みんなでやっていた気がする……とも思うが、今の世良の仕事振りや、チームのみんなの話や態度を見ていると、以前からずっと世良がやっていたような気になるから不思議だ。自分の記憶に自信が無くなる。
 不可解なことはそれだけではない。伊勢崎はこっそりとパソコンで社内管理データを確認して、社員名簿を調べた。そこにもしっかりと世良の名前があった。一体いつの間に……そう不思議に思ったとしても、どういう仕組みで操作したのかも分からない。考えれば考えるほど、不可解な事だらけだ。
「伊勢崎さん、プランデータが出来ましたので、共通フォルダに入れておきました」
 世良が伊勢崎に向かってそう言った。
「あ……ああ、確認する」
 伊勢崎はハッと我に返って顔を上げると、世良がこちらを見てニッコリと笑っている。
「あいかわらず早いなぁ」
 他の連中が笑いながらそんな事を世良に言って、和気藹々と言った感じでいる。伊勢崎が微妙な気分になるのはこんな時で、彼だけが取り残されたような錯覚に陥ってしまう。伊勢崎以外のメンバーはとても仲が良い。もちろん伊勢崎だけが仲間はずれという訳ではない。みんなも伊勢崎を慕っているし、ほぼ同じくらいの若い年代で集まっているこのチームは、とても息が合っていて良いメンバーだと思っている。だけど……伊勢崎が世良に対して異質感を持ち続ける限り、この微妙な感じは取り去れない。伊勢崎だけが、その輪の中にどうしても溶け込めない。
 伊勢崎はモヤモヤとした気持ちのままで、それを振り払うように手を動かして仕事を続けた。オンラインの社内ネットワークに繋げて、共通フォルダを開くと「sera」フォルダがそこにあった。3日前までなかったはずの物だ。フォルダのプロパティを見ると、作成日時は去年の4月5日になっている。それはこの第2企画室が新規メンバーで再結成された日付だ。伊勢崎が室長になり、今のメンバーが各所から集められた。世良は少なくともその日から居る事になっている。
 彼が入社したのは3年前で、この第2企画室に来る前は、営業本部に在籍していた……らしい。そういう設定らしい。伊勢崎は頭がおかしくなりそうで、彼の前籍での確認は取っていない。彼の元上司や彼の元同僚を調べて聞きに行くまではやってない。もしもそこまでやって、すべての彼の過去の歴史が作り上げられていたとしたら……それはもう本当にヤバイ。『ドッキリカメラ』の次元を超えている。笑えない。この不可思議な全てのことを認めざるを得ない。
 もしもそうなったら……伊勢崎は、明日にでも精神科に通おうとしてしまうかもしれない……昔から、幽霊とか宇宙人とか、そういう類のものは苦手なのだ。自分の頭で理解できないものは受け付けられない。
 ともかくフォルダを開いて、世良が作ったプランデータをチェックする。完璧だった。どこにもミスは無い。とても分かりやすいデータだった。彼は優秀な部下のひとりとなっている。
「よし、岩井、世良のプランデータを基に企画書の再構築を出せ。今日中だ。週明けの営業会議に提出する」
「はい」
 伊勢崎は岩井に向かって指示をした後、世良に向かってOKサインを出して見せた。それを見て、世良が満足げに笑って頷く。伊勢崎はそこでハタとなって、自分の出したOKサインの右手をみつめる。
 なんだこの自然な動き。良いチームワーク。すっかり体に馴染んでいるような気がするのは……これも洗脳の所為か? でも伊勢崎には洗脳が効いていないと世良が言っていた。実際伊勢崎は、世良という人物を知らないのだから、洗脳されていないはずだ。なのに……なぜこんな風に、自然とやりとりが出来るのだろう? そう思うと、自分が怖くなってきた。どこまでが嘘で、どこまでが夢で、どこまでが現実で……分からない。やはり可笑しいのはオレの方なのか? そんな不安に包まれる。
「室長、先週から工場での試作を始めたLightデモ版の報告書が届いてます」
 バサリと机の脇にファイルの束を置かれて、伊勢崎はハッとなって顔を上げた。部下の大場が不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「あ、ああ……ありがとう」
「室長……なんか最近おかしいですよ? よくボーッとしている。まだ体調がよくないんじゃないですか?」
「え? いやいや、大丈夫だ、すまない。考えることが多くてね」
「明日明後日はゆっくりと休んでくださいよ」
 それを聞いて、伊勢崎は閃いたような顔になると、みるみる嬉しそうに顔を輝かせた。そうだ。明日は土曜日、週末だ。休みだ。土日の休みがあって……月曜日になれば、何事も無かったかのように、元通りになっているかもしれない。伊勢崎はそう思った。
「そうだ。今夜は飲みに行きますか? 仕事も順調に終わりそうだし」
 大場がニヤリと笑って言うと、他のメンバーも「おお!」と声を上げる。
「そうだな。ここ最近新企画のプラン立てで忙しかったからな……久々にみんなで飲むか」
「室長のおごりですか?」
 世良がおどけてそう言うと、わあっと歓声があがる。
「バッカ言え……お前らとそんなに給料変わらないんだぞ……仕方ないなぁ……これだけ出すから、後はお前らで出せよ」
 伊勢崎が懐から財布を出して、万札を2枚見せると、ドッと歓喜の声が上がった。世良とのごちゃごちゃも、これが最後かもと思えば気分が良い。パーッと賑やかにストレス解消して、世良にもバイバイ言って、休み明けには、きっと元通りだ。きっとそうだ。

 その日は、夜の8時には一斉に仕事を終わらせると、会社の近くの居酒屋へと集まった。二次会はカラオケ。終電近くまで騒いで、それからみんなと別れた。世良は新宿で電車を降りて「それじゃあ」と頭を下げた。彼はどこに帰るのだろう……伊勢崎は、少し酔った頭でそんな事を考えながら、人ごみの中に消えていく彼の背中を見えなくなるまでみつめ続けた。


 休みの朝は、いつもより少し遅い。それでも10時前には目が覚めた。マンションの廊下の方が少し賑やかだったからだ。起き抜けにシャワーを浴びてから、ついでに洗濯機を動かす。服を着てから洗濯物を干す為にベランダへと出て、下を覗き見ると1台のトラックが止まっていた。業者のツナギを着た男が、荷台の扉を開けて梱包された荷物を降ろしている。どうやら引越しのようだ。
「隣に入るのかな?」
 伊勢崎は呟いて、洗濯物を干す作業を続けた。このマンションならば、丁度隣の部屋が空いている。以前は40代の単身赴任らしき男性が住んでいたのだが、1週間前に引っ越して行った。そこに入るのならば、随分早く決まったのだなと思った。
「まあ、これほど良い物件は、そんなに無いからなぁ……」
 独り言を呟いていると、隣の部屋から物音が聞こえてきた。やはりそうらしい。
「かわいい女の子ならいいのに」
 そんな事を考えてハハハと笑ってから、洗濯物を干し終わった。ベランダの衝立越しに中を覗くのは、やはり失礼だろうか? と考えて諦めて、部屋の中へと戻った。
 台所に立つと、簡単な朝食を作り始めた。目玉焼きとトースト。半熟の目玉焼きをトーストの上に乗せて食べるのが好きだった。コーヒーを入れると、部屋へと持って行き、中央に置かれたテーブルの上に置いた。ソファに座ると、TVのリモコンを手にとってスイッチを入れた。情報番組を見ながら遅めの朝食を摂る。
「午後から服でも買いに行くか……」
 ポツリと呟いた。
 彼女と別れてから、週末が暇になった。一人で過ごすのは嫌いではないが、ぼんやりごろごろと家に居るのは、どうも性に合わない。何かしているか、出かけていないと退屈してしまう。
 朝食を終えて後片付けをしてから、掃除機を片手に部屋の掃除を始めた。掃除を終えて、ベッドメイクをしてから「完璧」と呟いて満足気に息を吐いた。
 伊勢崎の部屋は、ドラマに出てくるようなお洒落な部屋だった。ダークブラウンで統一されたインテリア。ベッドと二人掛けのソファとガラスのローテーブル。お洒落なスチール棚にAV機器が納められていた。ゴミはおろか無駄な物はひとつも床に落ちていない。
 伊勢崎はソファに座ると、またTVを観ながらくつろいだ。そろそろ正午だという頃には、隣は静かになっていた。
 壁の時計を見てから伊勢崎は立ち上がった。そろそろ出掛けて、外でランチを摂ろうと思ったのだ。クローゼットを開けて、何を着ていこうか? と考えていると、ピンポンと呼び鈴が鳴った。
「はい」
 伊勢崎はこんな時間に誰だろうと首を傾げながら玄関へと向かった。
「どちら様ですか?」
「隣に引っ越してきた者です」
 そう告げたドアの向こうの相手の声に、なんだか聞き覚えがあるような気がして慌ててドアを開けた。
「こんにちは、伊勢崎さん」
 そこにニッコリと笑って立っていたのは、私服姿の世良だった。
「なっ……なんでお前がここに!?」
「だから言ったでしょ? 隣に引っ越してきたんですよ」
「はあ!?」
「どうぞよろしくお願いします」
「よろしくって……お前っ……冗談じゃないぞ!?」
「お昼まだですよね? 引越しそば……食べません? もうすぐ出前が届くんで」
 伊勢崎はあまりの驚きに、思考回路が止まってしまっていた。ただパクパクと口を開閉するだけだ。
「ウチはまだ片付いてないので、こちらの部屋に届くように言ってあるんですよ……お邪魔します」
 呆然と立ち尽くす伊勢崎の脇をすり抜けて、世良は勝手に中へと入っていった。
「わ〜〜、伊勢崎さんすごい!! すごくお洒落な部屋ですね! モデルルームみたいだ。いつもこんなに綺麗にしているんですか? わあ〜オレもこんな部屋にしたいなぁ」
 部屋の中からせらのそんな声が聞こえてきて、伊勢崎はハッと正気に戻った。
「こら! てめえ! 何勝手に人の家に入ってるんだよ!」
 怒鳴ったと同時に、ドアフォンが鳴った。それを世良が勝手に取る。
「あ、はいどーぞお入り下さい。6階です」
 世良はそう言うと、施錠ボタンを押して受話器を置いた。
「お前、何勝手に……」
「出前が届きましたよ」
 世良はニッコリと笑った。


 ソファに座り、届いたざる蕎麦を啜る世良を、伊勢崎は向かい側の床に胡坐を掻いて座り、眉間を寄せながらジーッと観ていた。
「伊勢崎さん、美味しいですよ。食べてください……っていうか、そんな床に座ってないで、こちらに掛けたらどうですか?」
 世良は自分の隣の空いてる場所を勧めた。
「……あいにく、男と二人でラブソファに並んで座る趣味はないものでね」
「え? じゃあ、男性の客が来た時はいつもどうしているんですか? いつもそんな床に座っているんですか?」
「ラグを敷いてるから、別に床でも良いだろう……っていうか、この部屋に男は呼んだ事はない」
 伊勢崎が憮然とした様子で答えると、世良はしばらくぼんやりとした顔で伊勢崎をみつめて、それから部屋を見回して「あっ!」と何か閃いたような声をあげてから、ポンッと手を叩いた。
「ああ!! 女性が喜びそうな部屋だ! なるほど! そういう事か……伊勢崎さん、勉強になります」
「お前! ふざけているのかよ!」
「ふざけてないですよ……せつかく隣同士になったんだし……仲良くしてくださいよ」
「したくないね。お前みたいな正体不明な怪しい奴と、これ以上親しくなるつもりは無い……大体なんでオレの家の隣なんだよ!! オレを監視するつもりなのか?」
「いいえ、別にそういうつもりはないです」
 世良はニッコリと笑って答えてから、また蕎麦を啜った。
「じゃあ、なんで」
「さあ……正直な所オレにも分かりません。これはオレが目的を果たす為の最善のルートなのだと思います。会社も住まいも……この世界でオレが目的を果たす為の最善のプログラムが計算されているはずなのですから」
「プログラム?」
 聞きかけて伊勢崎は、ムッとした顔で口を閉ざした。また胡散臭い感じだ。この頭のイカレタとしか思えないような、空想映画みたいな話を聞くことになってしまうと、慌てて頭が拒否した。が、やはり気になる。
「……その……この前から言っているお前の目的ってなんだよ……言えない事なのか?」
「……本当は言えない事なんですけど……貴方はすでにオレのプログラムから外れた存在だから……言っても構わないのかもしれませんね」
 世良はそう言って、勝手に煎れたお茶をズズッと飲んだ。伊勢崎はゴクリと唾を飲み込んで待った。
「オレの目的は……花嫁探しです」
「花嫁探し?!」
 あまりにも意外な言葉に、伊勢崎は思わず声がひっくり返ってしまった。世良はいたって真面目な様子で頷いた。
「花嫁探しって……花嫁探し? それだけ?」
「それだけですよ。オレに合う結婚相手を探しに来たんです……地球征服でもすると思いました?」
 世良がいたずらっ子の様な目をして、ニヤリと笑って言ったので、伊勢崎はカッと少し赤くなった。
「だっ……だってお前が不思議な力使ったり……みんなの記憶を操作したりするから……」
「ふふふ……オレ達はいたって平和的です。別にこの世界をどうこうしようなんて思っては居ません。ただ……結婚相手が欲しいだけなのです」
「そんなの自分の世界でどうにかしろよ」
「それは訳あって出来ないのです……この世界の人が必要なんです」
「じゃあ、攫って行くっていう訳か?」
「同意の上でね」
 伊勢崎はまったく理解できないという顔で、眉間を寄せて世良を睨みつけた。
「オレの相手として最良の相手がいるはずなんです。その人をみつけて、ちゃんと恋愛をして同意の上でオレ達の世界へ連れて行きます」
「同意の上って、また記憶をいじるんだろ?」
「違います。違います。オレの相手となる人は、記憶が操作できないはずなんです。だからオレの全てを理解してもらった上で……どうしたんですか? 伊勢崎さん?」
 世良の話を聞きながら、伊勢崎が青い顔をして後退りをしたので、世良は不思議そうな顔で首を傾げた。
「ま……まさか……お前、オレを……」
「え? あ……ちっ……違います!! 違います!! 女性です! 女性!! 相手は絶対女性のはずですから!! 伊勢崎さんは事故です。大丈夫です」
 世良が慌てて否定したので、伊勢崎はちょっと安堵したような顔になった。
「マジかよ……ビックリさせるなよ……」
 伊勢崎は大きく息を吐いてから頭を掻いた。開き直ったように、ざる蕎麦に手を付ける。
「で? なんでオレに付きまとう?」
 ズルズルと蕎麦を啜りながら、ぶっちゃけたように尋ねた。世良はお茶を一口飲んで、小首を傾げてしばらく考えるような仕草をした。
「多分……伊勢崎さんの周囲に、オレの相手の女性が居るか……伊勢崎さんと一緒に居るほうが、その女性に巡りあいやすいのか……そんなところなんだと思います」
「オレには弟が居るだけで、女の兄弟はいないぜ。従兄弟は居るが、地元は四国だ。東京じゃない……恋人とは別れたばかりで、今はフリーだしなぁ……」
 伊勢崎はそこまで言いかけた所で、ふと脳裏を掠める考えが浮かんだ。食べる手を止めて少し考える。
「どうかしましたか?」
「あ……いや……なんでもない」
 伊勢崎は首を振って、再び食べ始めた。
『まさかな……』と心の中で呟きながら……。


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