世良は明らかに動揺していた。表情も硬く顔色も悪い、伊勢崎はそんな世良をジッと睨みつけた。世良は困惑したような様子で、伊勢崎をみつめながら恐る恐る尋ねた。
「本当に……本当にオレの事が分からないんですか?」
「何度も言わせるな。お前なんて知らない。大体、オレの部下は7人だ。なんで空き席にお前が居る。昨日まであの席には何も無かった。パソコンとかどこから持ってきたんだ」
 伊勢崎は怒鳴るように言った。この怪しい男の目的が何か分からないが、ここでこちらが折れるわけにはいかないと思った。
「こんなの……マニュアルにはなかった……」
「は?」
「記憶操作が出来ない人間がいるなんて……故障しているのか?」
「は?」
 世良はブツブツと呟きながら、さっきの金属の塊を手に持ちジッとみつめている。
「これ……なんで貴方には効かないんだ?」
「は?」
「貴方こそ何者だよ」
「は? 何訳わかんないこと言っているんだ! 何者か聞きたいのはこっちの方だ。さっきの質問に答えろ。なんでオレの部下のフリをしている。何が目的だ」
「ねえ! これを作動させると頭が痛くなるのか?」
「は? ああそうだよ。何か分からないけど、お前がそれをカチッと押すと、ものすごい大きな音がして耳が痛くなって頭痛がするんだよ! だから止めろ!」
「そんな反応する人間がいるなんて聞いてない……」
 世良はブツブツとまた呟きながら、その金属の塊を背広の内ポケットに仕舞った。
「落ち着こう……とにかく、他は成功しているんだから……今は帰れないんだから……」
 世良は切羽詰ったような表情で、自分に言い聞かせるような独り言を呟いていた。
「何言ってるんだ?」
 伊勢崎がイライラとした様子で、世良に近づこうと一歩踏み出したとき、キッと世良が顔を上げて真っ直ぐにみつめてきた。
「伊勢崎さん……話をしませんか」
「……お前がオレの質問に答えるならな」
「答えます……その代わり、オレのいう事を信じてください」
「……お前は怪しすぎるんだよ。信じられるか」
「信じてもらわないと、何も始まらないんです」
 二人はしばらくにらみ合ったが、伊勢崎の方が折れるような形で頷いた。何事も常に機転を利かせて、どんな状況にも冷静に対処できるようにならなければならない。それが伊勢崎の仕事理念だった。それがなければ出世できない。仕事もこなせない。
「座れよ」
 伊勢崎は視線を逸らさずに、強い口調で命令するように言った。世良はそれに大人しくしたがって、側にあった椅子を引いて腰を下ろした。伊勢崎も世良が座るのを確認してから、自分も同じように世良から1つ置いた次の椅子に座った。
「さっきの変な奴をテーブルの上に置け」
「え?」
「さっきのライターみたいな奴だよ。楕円形の奴」
「なぜですか?」
「お前がそれを持っていると危なっかしくて、オレは安心してお前としゃべれないんだよ。またカチッとやられたら、頭が痛くて仕方ない」
 伊勢崎は眉間を寄せながら、世良に向かって強い口調で更にそう命令したので、世良は渋々と懐から金属製の塊を出してテーブルの上に置いた。伊勢崎はチラリとそれを見てからようやくホッと息を吐く。
「で? お前が何者なのか、説明してくれるんだろうな?」
「はい……オレは……別の世界からきた人間なんです」
 世良は真剣な口調でそう答えた。シーンという変な間が生まれた。伊勢崎が絶句して目を丸くしたまま身動きもとれずに居たからだ。しばらくの間の後、ヒュウッと伊勢崎が喉を鳴らして息を吸い込んだ。
「ふざけるなっ!」
 伊勢崎の怒鳴り声が小会議室に響き渡った。だが世良は真剣な顔のままで微動だにせずにジッと伊勢崎をみつめていたので、伊勢崎は眉間を寄せながら睨みつけていたが、しばらくの睨み合いの後ハア〜と息を吐いて肩を落とした。
「ふざけるなよ……」
 ポツリと小さく呟いてまた溜息を吐く。
「最初に、オレの言う事を信じてくださいと言ったはずです」
 世良は真剣な顔のままでそう答えた。まっすぐな瞳で伊勢崎をみつめている。伊勢崎は額を押さえながら冷静になろうと勤めた。さっきのあの音の所為なのか、それともこの目の前の不信な男の異常な話の所為なのか、頭痛がするし眩暈までしてきた。イライラしていてはダメだという事は分かっているのだが、とても正気では聞いていられない気がした。
 もしかしたら本当に『ヤバイ』奴なのかもしれない。こんな風に向かい合って話を聞いていたりしていいのだろうか? そんな考えが脳裏を横切った。だが頭の奥では、この男を警備員に引き渡せば済むんじゃないか? という常識的な結論を、その通りだと正しい解決法だと決断することが出来ない、何かモヤモヤとした思いがある。
 それは冷静に考えることを今は無意識に避けているが、常識ではあり得ない矛盾がたくさんあるからなのだ。
 この男が使っていた机の上に用意されていたパソコンや書類関係は? 部下達の反応は? 伊勢崎にドッキリを仕掛けるためにしては、あまりにも大仕掛け過ぎる。だがそれを納得いくように説明できる要因が『ドッキリ』以外思い浮かばない。
 伊勢崎は小さく溜息を吐いてから顔を上げた。そこにはまだ真っ直ぐにこちらをみつめる世良の視線が合った。
「……どこから来たって?」
「別の世界です」
「別の世界ってどこだよ」
「それは……説明しても理解してもらえないと思います」
「今だって十分理解不能だよ!! まともな奴が『別の世界から来た』なんて言うか?! そんな事いうのは、頭がおかしくなっている奴くらいだって普通なら思うだろう? 思うよな? 分かるか?」
 伊勢崎の口調が荒くなる。だが世良は至って冷静な表情のままだ。
「ええ、そうですよね。分かります。オレだってこんな事滅多に言いません。本当は関係の無い人に、オレの素性を明かすことはタブーなんです。いや……本来なら、この装置のおかげで、そんな説明をしなくても良いはずなんです。貴方の部下達やこの会社の人達と同じように……さっき貴方も見ましたよね? あなたの部下達はオレを昔からの同僚と認めていた……『オレ』が分からないのは、貴方だけなんですよ」
「ドッキリカメラじゃないのか?」
「え?」
 伊勢崎が恐る恐る口にした言葉に、世良はちょっと表情を崩して、キョトンとした顔になった。それはとても『素』で、本当に意味が分からないようだったので、伊勢崎は自分の言った言葉に後悔して、ちょっと気まずそうに眉間を寄せた。
「そ……それはなんだよ。その金属の塊」
「これは……オレのためのプログラムが組み込まれた特殊な装置です。バランスユニットと呼んでいます。正式名称はMBU-HVα……と言っても分からないと思いますが……分かりやすく言うと、この装置の半径1km以内に居る人間の記憶を操作する能力が、その機能の1つにあります」
「その1つって……他にも何かあるのかよ」
「ええ、全部を説明してもきっと混乱するだけだと思うのですが……」
「……で? そんな話をオレが信じると?」
「だから……信じてもらわないと、この話は……」
「わかったわかった……だけど信じろっていう方が無茶な話だと思わないか?」
 伊勢崎はまるで子供を諭すかのように言った。もうなんだか深く考えるのが嫌になってきていた。言ってることがむちゃくちゃだ。たぶんこの男は、ちょっとばかりイッちゃっているんだろうと思う。SFオタクで、空想と現実が一緒になってしまっているのだろう。確かに色々と不思議なことはあるのだが、タネが明かされれば、意外と簡単なことなのかもしれない。例えば……彼がこの会社の大株主の息子とか、権力者の息子とかで……と、そこまで考えたところで、そうだとしたら、ヘタにこの男を怒鳴ったり叱ったりしないほうがいいのだろうか? という考えが脳裏を過ぎった。今度は伊勢崎が少し困惑したような顔になる。
「無茶な話だと思います。だからこの装置を使って、この世界の人達の記憶を操作しているんです。そうしないと貴方のように、大騒ぎをする人ばかりになってしまう……この世界にいるはずのないオレが、突然現れるのだから……」
 世良はまだ深刻な顔のままでそんな話を続けていた。聞けば聞くほど、頭のおかしい奴の話にしか聞こえない。伊勢崎はもうどう対処したら良いのかわからなくなってしまった。やはり警備員に引き渡したほうがいいのだろうか?
「あのなぁ……悪いけど、オレ、SFとかあんまり興味が無いんで、そういう話されても全然ピンと来ないんだよ。第一、お前はどう見たってオレ達と同じ人間に見えるし……別の世界って……宇宙人だとでもいうのか?」
「宇宙人ではありません……オレ達は貴方方と同じ地球人で……パラレルワールドって分かりますか?」
「……聞いたことはあるけど……詳しい意味を聞かれたら分からないよ」
 ああ……また変な話になってきた……と、伊勢崎はぼんやりと思った。
「オレ達の世界は、同じ地球であって、同じ地球ではないんです。別の次元に住む人間なんです」
「あ〜……ごめん、オレそういうの全然分からないんだわ……」
 伊勢崎はチラリと腕時計の時間を確かめた。もう30分以上はこうしてこの男に付き合っていると思うが、こちらだって忙しいのだ。だがそこでギョッとした顔になった。時計が止まっている。始業直前の8時51分27秒で止まっていた。壊れた? と時計を振ってみたが、まったく動かない。
「時間はさっき止めました……正確に言うと、オレ達の周りを流れる時間と、周囲の時間の流れを変えているだけですけど……この部屋の中だけ時間の流れが違うんです」
「は?」
 伊勢崎は眉間を寄せながら聞き返したが、世良が視線を廊下側の窓の方へと向けたので、釣られるように伊勢崎もそちらを見た。廊下に面する窓は、天井から床まである大きな窓だが、磨りガラスになっていて外から中が(中から外もだが)見難くなっている。だが床から50cmほどの部分は透明になっていて、廊下の様子が見えるのだ。
 ここから見える範囲には、3人の人影があった。男性2人と女性が1人。3人とも動かずに立ち止まっているようだ。だがよく見ると、それは立ち止まっているのではなく、歩いている途中なのだとすぐに分かった。なぜなら3人の脚の動きが変に見えるからだ。まるで歩く動作の途中かというように、右足、左足ともに『立っている』というには不自然な形をしていた。左足の踵が少し上がり、右足が一歩前に出ている者。右足の踵が上がり左足が床上2〜3cmの微妙な空間で浮いている者。右足が今まさにつま先が離れようとしている者。どれもこれも動作の途中のような形になっている。その上こうしてみつめている間も、びくりとも動かないのだ。
 見れば見るほどおかしいのだが、見れば見るほど一向に動き出さないその人影に、伊勢崎は不思議に思って立ち上がった。
「あ、見に行くのは止めた方がいいですよ。言ったでしょ。この部屋の中だけ時間の流れを変えているって……ドアを開けて、廊下に顔を出したら、伊勢崎さんの体がどうなるか分かりませんよ?」
「……ど……どーなるんだよ」
「さあ……頭だけ廊下で、体が会議室……頭と体の時間の流れが変わってしまったら、人の体ってどうなるのか……バラバラにはならないとは思いますけど……試してみます?」
 世良はそう言って少しだけ笑った。伊勢崎はウッと唸って、そのまま固まってしまった。世良の話を信じるわけではないが、試してみる勇気はなかった。少し考えてから、とりあえず窓のところに駆け寄ると、身を屈めて窓の透明な部分から、廊下のほうを覗き込んでみた。
 すぐ側に立つ男は、名前は知らないが顔は知っている。確か管理部の人間だ。腕に重そうな書類の束を抱えていた。だがびくとも動かない。ジッとみつめていたら、ある事に気がついて、またギョッとなった。その管理部の男の背広の胸に付けているIDカードが、弾んだような形で斜めに宙に浮いていたのだ。
 伊勢崎の胸にも同じような物を付けている。思わず自分のカードを手で弾いてみた。背広の左胸のポケット口の所に、クリップで留めるような形でブラ下げているカードホルダーに入れられたIDカードだ。ブラブラとブラ下がっているだけだから、手で弾けば上下左右に動く。歩いたり走ったりすれば、胸のところで揺れる。が、どう考えても斜めになったまま宙では止まらない。
 他の2人も同じようになっていた。本当に時間が止まっているかのように見える。
「どうですか?」
 後ろから声を掛けられて、伊勢崎はなんだか怖くなってきて振り返ることが出来なかった。一体どういう事なのか、今何が起こっているのか、まったく理解できない。頭は混乱するばかりだ。
「まだ信じられません?」
 また後ろから声を掛けられる。だが伊勢崎は返事をしなかった。出来なかった。何度も瞬きをして、頭を床につけるくらいに体を屈めて、もっともっとと廊下の様子を見ようとした。伊勢崎の居る会議室から少し離れた廊下の先で、更に信じられないものを見てしまった。
 あれは第1企画室の加藤だ。入社3年目の若い男だ。優秀だが少しおっちょこちょいな所がある。今だって抱えている書類を落としそうになっている。そう……落としそうなのだ。白い紙が扇状に広がるようにして、加藤の腕から落ちようとしていた。それに気づいた加藤が、体を斜めにして落とすまいと変な姿勢になっている。
 不安定に見える変な斜めの姿勢のままでストップしている加藤。広がってバラバラと落ちそうになりながら空中でストップしている書類。まるでそれは映像にストップモーションが掛かっているかのようだった。お芝居なんかじゃ出来ない。理屈では考えられない。信じがたい光景だった。
 伊勢崎は信じられないというように、少し青ざめた表情でゆっくりと体を起こしながら、世良の方を振り返った。
「まだ信じられないんですか?」
 世良は伊勢崎と目が合うと、少し困ったような顔で小首を傾げてから、テーブルの上においていた『あの』金属の塊を手に取った。
「な……何をする気……だっ……なっ……わわ!!」
 フワリと体が軽くなった。いや、宙に浮かんだ。どんどん上へと上がっていき天井にぶつかりそうになって、伊勢崎は顔を歪めて目を閉じた。だが天井にはぶつからなかった。ギリギリのところで浮かんでいる。
 伊勢崎は狼狽して手足をバタバタと動かした。だが手にも足にも何も触らなかった。何かで持ち上げられている訳ではない。完全に体が浮かんでいるのだ。伊勢崎は完全にパニックを起こしていた。
「おっおっ……おろせ!! 下ろしてくれ!!! 分かった! 分かったからっっ!!」
 するとゆっくりと伊勢崎の体が下へと降りていき、やがて床にペタリと座り込むようにして下ろされた。伊勢崎は放心したような顔で世良をみつめた。
「これでも信じませんか?」
「……別世界とかなんとかってのはともかく……普通じゃないことは分かった……分かったよ」
 伊勢崎がぼんやりとした顔のままでそう答えると、世良はクスリと笑ってから立ち上がり、伊勢崎に手を貸して立ち上がらせた。
「とにかく……今のオレは、この会社の社員で、貴方の部下なんです……目的が完了すれば、さっさといなくなりますし……元通りになりますから、どうかそれまで協力してください」
「目的ってなんだよ」
 伊勢崎は立ち上がりながら、怪訝そうに眉を寄せて尋ねた。世良は一瞬答えに躊躇するように考えた。
「それは言えないのか?」
 追い討ちを掛けるように伊勢崎が言うと、世良は視線を上げて伊勢崎をみつめた。
「人を探しているんです」
「人? 誰だ?」
「……まだ分かりません」
 世良は静かな口調でそう答えた。


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