世良は桟橋の一番先端に座り、ぼんやりと海を眺めていた。波間はとても穏やかで、ずっと遠くの水平線までキラキラと日の光を反射している。白い海鳥が2羽、海面すれすれを飛んでいる。獲物を探しているのだろうか? 番なのか、それともただの仲間か、2羽は時々近づきあってはまた離れて波間を飛んでいた。
 世良は目を細めて楽しそうに微笑んでから、ケホケホと少し咳をした。
「兄ちゃん、ずっとそこで座っているから、風邪でも引いたんじゃないのかい?」
 ふいに声をかけられたので振り返ると、少し離れたところで、釣竿を手にしている中年の男が、日に焼けた顔で笑いながら世良のほうを見ていた。
「ああ、大丈夫です。大したこと無いですから」
「何をしているのかね? 釣りもしないでそんなところにずっと座って」
「海を見るのが好きなんです」
 世良はニッコリと笑ってから、やわらかくそう答えると、男は一瞬きょとんとした顔をしてからワハハハハと豪快に笑い出した。
「そうかい、そりゃあいい」
 男はそう言って、竿を一振りした。キラリと空中で釣り糸が光った。リールの回る音がする。釣り糸の先は、ずっと遠くの海面へと落ちた。
 世良はしばらくその様子を眺めていたが、また正面へと視線を戻して、遠くの水平線を見つめた。
 ここは関東近辺にある離島だ。東京からフェリーで片道約3時間、船は一日一便しか渡っていない。人口2000人余りの小さな島だ。
 伊勢崎と世良は、今、この島に住んでいる。住んでいると言っても、家がある訳ではない。コンビニもないこの島では、賃貸アパートなどというものも無い。住んでいる島の住民は古くからずっとこの島に住んでいる人たちばかりだ。他所からの移住者など滅多に無い。シーズンになると、釣り客やダイビング客が幾分やってくる。その観光客用のホテルや民宿は何軒かあり、その内の1軒の旅館に滞在していた。もう12日になる。
 この世界に来てからは2週間。
 あの出来事から2週間。なんだかもう何年も前のことのようだと世良は思う。内乱。反逆。自分達がやったことは、そういう事だ。必死の思いでこの世界……伊勢崎の世界に戻ってきた。転送先は運のいいことに伊勢崎と世良が住んでいたマンションのすぐそばで、二人は急いで伊勢崎の部屋へと入った。
 すぐには追っ手が来る心配は無いので、伊勢崎の部屋で服を着替えて、旅行カバンに荷物をまとめた。それから伊勢崎が寄るところがあるというので付いていくと、民営の貸金庫業者で、そこの金庫のひとつに伊勢崎は何かを預けていたようだった。
 金庫の中からA4サイズの厚みのある茶封筒を取り出した。
「それ……なんですか?」
 世良が尋ねると、「あとで見せるよ」とだけ言って、伊勢崎はそれをカバンの中に仕舞った。そしてふうと一息ついて、伊勢崎は世良の顔をジッとみつめてから尋ねた。
「お前、今一番行ってみたいところはどこだ? 海外はダメだぞ」
 と、微笑みながら言った。
「え?」
 突然の問いに、世良はキョトンとなった。
「しばらくどっかに隠れてなきゃいけないだろ? だからどうせなら行きたい所があればと思ってさ」
 伊勢崎が説明するように言ったので、ようやく世良は意味を理解した。頷いて少し宙を見上げるようなしぐさをしてから一言つぶやいた。
「海……海が見たいな……」
 そうして来たのがこの島だった。
「沖縄とかでなくてごめんな」
 島に向かうフェリーの中で伊勢崎が苦笑しながらそういった。
「あんまり人の多いところとか、発展している町とかは避けたかったんだ。防犯カメラやインターネット……何が元で足が付くか分からないからな。用心だよ」
「別に大丈夫ですよ。オレは海が見れるならどこだって……今もこの船に乗っててどれだけ楽しいか分かります?」
 世良はワクワクとした様子でそう言ったので、伊勢崎はまた苦笑して見せた。
「そんなに海が見たかったのか? お前の世界にだってあるだろう?」
「海の汚染はひどかったので、オレ達は近づくことも許されていませんでした」
 世良は少し遠い目になって、水平線のほうを眺めながらそう答えた。伊勢崎はそんな世良を黙って見つめていた。
フェリーの着いた先は、小さな島だった。関東近辺から釣り客がよく来るらしく、それ専用の小さなホテルや民宿がいくつかあった。その中のひとつに宿を取ることとなった。部屋に落ち着いてから、伊勢崎はカバンから例の茶封筒を出した。
「これな……もしもの時の保険だったんだ。まあそのもしもになっちゃって役に立ったけどな」
「保険?」
「もしも何らかの原因で逃げることになったときの為のもの……健康保険証とか免許証とかパスポート…それから現金が200万円。向こうの世界に行く前に貯金を引き出しておいたんだ。もしもの時は、マンションには戻れないかもって思ったし、向こうの世界に持っていっても、こっちに持って帰れないかもとも思ったし……あの貸金庫は1年契約にしていたんだ。期間内にオレが引き取りに来なかった場合は、自動的に実家の両親の所へ連絡が行くようになっていた。だから両親宛の手紙も書いてたんだ。もちろん異世界のことなんて書けないけど……訳あってもう二度と帰れなくなりましたってね」
「伊勢崎さん……」
「用意周到だろ?」
 伊勢崎はそう言ってニヤリと笑った。世良は笑い返せなかったが、深刻な顔で見つめ返すと、伊勢崎は苦笑して見せてから、世良の額をコツンと突いた。
「そんな顔すんなよ」
「すみません……色々と不安にさせていたんですね。そしてその通りこんな事になってしまって……」
「違う違う、オレはいつもこうなの! 石橋を叩いて叩いて叩きまくって渡るタイプなんだよ。だから仕事だって完璧だろ? お前の所為でもなんでもねえよ」
「オレ……情けないです。全然伊勢崎さんの事守れてない」
「バカ! オレはかよわい女の子じゃないんだから、別にお前に守ってもらおうとか思ってないし、つーか、守ってもらうのも癪だからいいんだよ。歳はオレの方が上なんだから、フェアでいこうぜ。それにお前はお前の世界を捨てる覚悟でオレを守ってこっちに来てくれただろう? あんな事までして……それだけでも十分だよ」
伊勢崎はそう言って微笑んでから、世良に唇を重ねた。


「おーい、世良!」
 遠くから伊勢崎の声が聞こえてきた。世良は声のほうを振り返り笑顔で手を振り返した。伊勢崎はゆっくりと世良の所へと歩いてくる。
「また飽きもせずに海を眺めてたのか?」
 側まで来たところで、呆れたように伊勢崎が言ったので、世良はうれしそうに目を細めて水平線をみつめながら頷いた。
「飽きませんよ。波間が太陽の光できらきら光ったり、時々魚が跳ねたり、海風が波を立てながら潮の香りを運んできたり、水平線は果てしないし……本当に見ていて飽きない。きれいな景色です」
「綺麗もいいけど、美味しいほうがよくないか?」
 伊勢崎がそう言って、持っていたビニール袋の中に入っている魚を翳して見せた。
「わあ、立派な魚ですね。なんですか?」
「カンパチ! 刺身にしてもらおうぜ、旨いぞ」
「はい! ゴホゴホゴホッ……」
 世良が咳き込んだので、伊勢崎は眉間を寄せながら世良の顔を覗き込んだ。
「風邪、まだ治ってないのか? こんな所で体を冷やしたからじゃないのか?」
「ゴホッ……大丈夫ですよ」
 世良は微笑んで見せたが、あまりいい顔色ではなかった。
「早く宿に戻ろうぜ」
 伊勢崎は世良の背を抱えるようにして歩き出した。
「なあ、そろそろ、ここを離れようかと思うんだけど」
「え?」
「もうすぐ2週間だろ? そろそろ連中も動き始める頃じゃないかと思うんだ。装置ももう治っているころだろうし……ライドが来るのを待つしかないけど、必ずしも助けてくれる側が来るとは限らないからな。確実にライド側の救援者だと分かるまでは、身を隠しているほうがいい。そうなるとあまり1つの所に居続けるのは得策じゃない」
「……そうですね」
 世良は困ったような顔で静かに頷いた。
「今度はもう少し暖かいところに行こうな。海でも良いぞ。沖縄以外で……そうだな、九州の離島とかもいいかもな」
 伊勢崎は、わざと明るい声でそう言って、世良の背中を軽くポンと叩いた。世良は伊勢崎の顔を見てから微笑んで見せた。


 深夜、伊勢崎はふと目を覚ました。意識がハッキリするかしないかという狭間で、隣のベッドから聞こえる激しい咳にハッとした。
「世良!?」
 体を起こすと、ベッド脇のライトを点けた。見ると、隣のベッドで頭まで毛布にくるまり背を丸めて、ゴホゴホッとくぐもった声で激しく咳をしている世良の姿があった。
「おい、世良、大丈夫か?」
 声を掛けるが答えは無く、代わりに咳はやむことなく激しく続いた。その尋常ではない様子に伊勢崎は慌ててベッドから立ち上がった。
「世良! おい!」
 伊勢崎は世良の顔を覗き込むようにしながら背中を擦った。しかし世良の咳は激しく、時折呼吸困難に陥りそうな様子でゼエゼエと喉の奥を鳴らしながら息をするのを、心配そうに背中を擦りながら見守るしかなかった。
「病院に行こう! すぐタクシーを呼んでもらうから!」
 伊勢崎はそう言って世良から離れようとしたが、ギュッと手首を掴まれたので驚いた。
「世良?」
「だ……だいっ……ゴホゴホゴホゴホッ……大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろう!」
 伊勢崎は掴まれた世良の手の熱さにギクリとなった。尋常な熱さではない。世良はようやく咳が止まりヒューヒューと喉を鳴らしながら苦しげに肩を揺らせて息をしていた。
「すみません、伊勢崎さんが心配するから言えなかったんですけど……ゼエゼエ……オレ、この世界の薬とか治療とか受けられないんです。だから……ゴホッ……どっちにしろ病院には行けないんです」
 世良が赤い顔をしてそう言った。熱のせいで瞳が潤んでいる。その潤んだ両の目でみつめられながら、そんな告白をされて、伊勢崎はそれを理解するのに少しばかり時間を要してしまった。
「え? 何、何言ってんだ? 治療を受けられないって……どういうことだよ」
「こっちの世界の病原菌にも、それを治療するための薬品にも、オレの体は耐性がないんです。免疫がないんです。だから……ただの風邪でも、どんな症状になるかわからないし、それを治すためのただの風邪薬でも、オレの体はそれを受け付けられるかわからないっ……ゴホッゴホゴホッ」
 発作のように激しく咳き込み背を丸めた世良を、伊勢崎は慌てて介抱するように背中をさすりながら、それでもまだよく理解できないというような表情でいた。
「だって……前にこっちの世界にいたときはそんな事……ハッ! まさか……お前、あれ……」
 伊勢崎はそこでハッと何か思い出したような顔になった。脳裏にいつも世良が肌身離さず持っていた銀色の楕円形の装置がちらついた。それと同時に以前世良が言っていた言葉をを思い出す。
『オレが正常な体の状態で生存しているかどうかは、常にここからデータとして送り続けられているんです』
「お前! あの装置を壊したからだろう!?」
 伊勢崎は思わず大きな声を上げていた。世良はゼエゼエと息を荒げながら、紅潮した顔をあげて困ったような表情をしてみせただけで何も答えなかった。だがそれは肯定しているようなものだ。伊勢崎は愕然とした。向こうの世界を脱出する際に、あの装置を投げて爆発させた光景を思い出した。
「お前……こうなることが……わかっててやったのか?」
 それは答えを恐れているような聞き方だった。聞かなくてもわかるような気はしていた。だがなぜ世良がその選択肢を選んだのか理解できなかった。
「オレはただ、伊勢崎さんをこの世界に無事に戻してあげたかっただけなんです」
「はぁ!? お前! 何言ってんだよ!?」
「オレは……オレの世界の……身勝手な……醜い人達の姿を伊勢崎さんに見せてしまったことが恥ずかしくて……悔いてました。貴方をあの世界に連れて行くべきではなかった。ただオレが、貴方と離れたくなくて、ただそれだけの身勝手な思いで……」
「だからっ! 何言ってんだよ! お前バカじゃないのか? オレだってお前と離れたくないから、なんだかわからない世界にだってついて行ったんじゃないか! 同意の上のことだろう? それにどこの世界にだって分からず屋はいるさ! この世界だって、お前の正体がバレたらどうなるかなんて分からないんだ! だからっ!」
 だからと言いかけて伊勢崎はハッとして口をつぐんでしまった。そうなのだ。世良の正体がバレたらどうなるか分からない。こんな状態の世良を医者に見せたらどうなるのだろう?
「くそっ!! お前はバカだ……なんでこんな……」
 伊勢崎はギュッとシーツを強く握りしめて、苦悶の表情で世良をみつめた。
「伊勢崎さん……キスして」
「何言って……」
「たぶんそれが一番の薬だから」
 世良は上気した顔で微笑んで見せた。額に汗がにじむ。息をするのさえ苦しげだ。伊勢崎は眉間を寄せてしばらくそんな世良を見つめた。今となってはすべてが後悔でしかない。装置は壊れてしまった。世良を守ってやる術は何もない。
 そっと世良にキスしたら、世良の唇がとても熱かった。世良がホウッと小さく息をついてからニッと笑う。
「なんだかちょっと楽になりました」
「そんなの気のせいだ」
 伊勢崎は無理に笑って見せてから世良の頭を撫でた。頭のてっぺんさえもひどく熱い。こんなに高熱で平気なはずがない。しゃべるのだって苦痛のはずだ。それでも世良は笑みを浮かべて伊勢崎をみつめている。
「お前……死ぬぞ」
「ええ、構いません」
 伊勢崎の背筋をゾクリと冷たいものが走った。自分で発した言葉でも「死ぬ」という言葉に悪寒が走った。その上、それを聞いた世良がとても穏やかにそう答えたのだ。どうしようもないほどの恐怖が体の中を走った。
 時折ひどく咳き込んでは赤い顔で朦朧と天井をみつめる世良の姿に、伊勢崎はどうしたらいいのかわからなくなって、体がすくんでしまっていた。
 世良が死ぬ? それは予期せぬ事態だった。
 思わず頭を抱え込んで、世良のベッドの端に顔を突っ伏していると、そっと伊勢崎の頭の上に、世良の熱い手が乗せられた。ハッとして顔を上げると、世良が微笑んでいる。
「オレ、何にも出来なくて……伊勢崎さんを守ってあげられなくて……情けなくて情けなくて仕方なかったんです。向こうの世界で、伊勢崎さんをあんな目に合わせて、幸せにしてあげられなくて……本当に自分が情けなくて……でも今は満足しているんです。とにかく……伊勢崎さんをこの世界に戻してあげられることができた……オレにとっては、もうそれだけで満足なんです」
「ばか! お前が元気で一緒にいなきゃなんの意味もないだろう!」
「この世界は伊勢崎さんの世界だから、家族だって友人だっているじゃないですか、伊勢崎さんは一人じゃない……氷川さんだっているし……」
「そんなのっ……」
 伊勢崎は言いかけて口をつぐんだ。「氷川」の名前でふとある考えがよぎったからだ。氷川と連絡を取れば、もしかしたら向こうの世界の連中に見張られていて、この場所を知られるかもしれないと思ったのだ。それは今まで避けていたことだったが、今なら……。
 伊勢崎は迷った。世良の体のことを考えれば、すぐにでも行動に起こすべきだ。だがここに現れるのは味方とは限らない。ライド達が来てくれるならばいい。だがサマル長官たちの手の者だった場合、伊勢崎の身がどうなるか分からないばかりか、世良の身だって助けてくれるかどうかわからない。何しろ世良は反逆者なのだから、その場で体よく始末されてしまうかもしれないのだ。
 伊勢崎は一度チラリと電話へと視線を送った。そして眉間を寄せて目を瞑る。
「伊勢崎さん、ありがとう」
「なんだよ」
「ここまでオレにつきあってくれてありがとう。オレ……本当に幸せだった」
「だった。とか、過去形で言うな! オレ達はこれからだろう!」
 カッとなって怒鳴りつけると、伊勢崎はその勢いで立ち上がった。ベッドサイドの電話の受話器を掴むと、叩きつけるような勢いでダイヤルを押した。
「伊勢崎さん?」
 世良が朦朧とした顔で、受話器を握る伊勢崎をみつめた。
「頼む……出てくれ……」
 伊勢崎は祈るような気持ちで呟いていた。


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