8度目のコールでようやく相手が電話に出た。
『もしもし?』
 その声は寝起きのせいか、ひどく掠れていて不機嫌そうだった。
「氷川さん……オレだ。伊勢崎だ」
 伊勢崎はホッとしながらそう切り出した。
『伊勢崎さん!? 本当に伊勢崎さんなの!?』
 途端に声色が変わった。目が覚めたと言った感じだった。氷川には、伊勢崎達がこの世界に戻ってきた日の内に、こっちに戻ってきた旨を簡単に書いたハガキを送って知らせていた。だがもちろん向こうの世界からの捜索を逃れるため逃げ回ることと、これ以上の連絡は取れないことも同時に知らせていた。だから伊勢崎がこちらの世界にいることは知っていても、その相手からの突然の電話に驚いたのだ。
『伊勢崎さん、一体どうしたの? 私の所に電話なんかかけてきたら、みつかってしまうわよ?』
「君の所に、誰か来たのかい?」
『いいえ、あれ以来まったくそういう気配はないわ……だけどすべてを知った私が、そう簡単に許されているとは思えないわ。だから伊勢崎さんだって、今まで連絡を避けてきたのでしょ? 一体何があったの? 世良君は? 世良君に何かあったのね?』
 勘のいい氷川がすぐにそう言い当てた。伊勢崎は一瞬言葉に迷った。
「世良が……病気なんだ……だけど病院に連れていけなくて……どうしていいかわからなくて……」
『伊勢崎さん? 大丈夫?』
 ただならぬ様子の伊勢崎に、氷川が驚いたように尋ねてきた。伊勢崎はチラリと世良を見た。世良はさっきよりも苦しそうに顔を歪めてゼエゼエと息をしている。熱が上がっているのだ。
「世良が……」
『伊勢崎さん? 大丈夫なの?』
 世良の具合が悪いのだろうということは分かるのだが、そう言っている伊勢崎の様子の方が尋常ではない。氷川が何度も伊勢崎に呼びかけるのだが、伊勢崎はまったく聞こえていないかのようで、ただ何度も「世良が」と動揺した様子で呟くのみだった。
『伊勢崎さん? 今どこにいるの?』
「なんで……なんで来ないんだよ……奴ら、すぐ来るんじゃないのかよ……」
 伊勢崎は焦った様子で受話器を握りしめたまま、周囲をきょろきょろとみていた。しかし辺りは静まり返っている。
「ごめん、このまま切らないで」
『伊勢崎さん?』
 伊勢崎は受話器をサイドテーブルの上に置くと、窓辺へと駆け寄った。勢いよくカーテンを開いたが、そこには真っ暗な夜の闇が広がるだけだった。窓を開けてテラスへと出た。島の夜は暗い。月の明かりだけが闇夜を照らす。街の明かりはまったくなく、道沿いの街灯がいくつか灯っているのが見えるだけだ。遠くで波の音が聞こえる。とにかく静かだった。
 辺りを必死できょろきょろと見回したが、人影ひとつ見当たらなかった。空を仰いでも、美しい星空があるだけだ。
 部屋の中からゴホゴホッと激しい世良の咳が聞こえてきて、伊勢崎はゾクリとなった。あんなに逃げ回っていたはずなのに、すぐに見つかると思っていたのに、それが自分の甘い見通しだったのかと思うと、途端にこの何もない島が、孤独な閉鎖された場所のように感じたのだ。色んな考えが頭の中を駆け巡りグチャグチャになっていた。
 異世界との繋がりを断つために、電脳文明からかけ離れた場所を選んだことが、逆に仇になってしまったのか? このまま向こうの世界の連中が来なかったらどうしたらいいのか? この島の病院で治療が可能なのか? それだけの設備があるのか? 世良はどうなってしまうのか? ……。
「おーーーい!! オレ達はここだ!!! ライド! オレ達はここだ! 早く来てくれ! 早く! 早く助けて!! 世良を助けてくれ! 誰か! 誰か助けてくれ!!」
 無意識だった。
 伊勢崎はテラスで叫んでいた。暗い闇に向かって、大声で闇雲に叫んでいた。
 ホテルのいくつかの部屋の明かりがついて、何事かと窓を開けて顔を覗かせるほかの宿泊客の姿があった。だが伊勢崎は必死になって叫び続けていた。
「うるさいぞ!」
 誰かが怒鳴り返したと同時だった。キーーーンッという激しい耳鳴りがして、思わず伊勢崎は両手で耳を塞いで、顔を歪めながら体を屈めた。その手首を誰かに掴まれたので、伊勢崎はギョッとした様子で顔を上げた。
「イセザキさん、探しましたよ」
「ラ、ライド……」
 相手の顔を見て、驚いたと同時にホッと安堵した。
「ライド! 世良が! 世良が!」
「もう大丈夫です」
 ライドが穏やかにそう言って、部屋の方へと顔を向けたので、つられて伊勢崎も部屋の方を見た。するといつの間に現れたのか、部屋の中にはたくさんの黒いプロテクトスーツに身を包んだ武装兵のような男たちが、手にライトや武器などを持って周囲をチェックしながらそれぞれに何かの指示に従って動いていた。その集団の間を割って、白いスーツに身を包んだ4〜5人の一団が世良のベッドへと近づいてきて、周りを取り囲むようにして世良の様子を見ていた。
 伊勢崎が不安そうな顔でライドを見ると、ライドは薄く微笑んで見せてうなずいた。
「もう大丈夫です。彼らは我々の味方です。あれから色々とありましたが、解決したと思っていただいていいです」
「え?」
「とにかく今は一刻も早く、向こうの世界にセラを連れて帰りましょう。話はそれからです」


 伊勢崎と世良が暴動を起こして脱出したあの後、騒ぎは隠し通せない状況となり、向こうの世界のすべての機関の上層部メンバーまで集まっての討論となり、また一般人たちの間でも大きな騒ぎに発展した。
 その中で最も上層部たちを黙らせるに至ったのは、地球から連れてきた人々が中心となって起こした大規模なデモだった。それはあのナオやサエコが呼びかけの首謀者になったらしいと、ライドから説明を受けた。
 人々は情報の開示と、地球人に対する人権の尊重、そしてセラ達のような実験的児童教育を止め、自然の摂理のままに人類が生き延びる方法を、全世界の人々が話し合うことを訴えた。結果、長期的な世界規模の会議が行われることとなり、ひとまずは異世界間での婚姻を目的としたトリップは中止される事になった。
 それだけの大きな出来事が、伊勢崎達の事件からたった5日間で起こったのだという。ライド達グループが先頭に立って、尽力を尽くしたのは言うまでもない。
「セラが破壊した転送装置の修理に3日3晩技術者たちが徹夜をしました」
 ライドが苦笑しながらそう語るのを、伊勢崎は困ったような顔で聞いていた。
「その上シンセシスデバイスを失ったセラを探し出すのにどれほど苦労したことか……」
 伊勢崎があまりにも用意周到に雲隠れしすぎていたのだということになる。
 この世界は新たな改変の時に来ているのだ。滅亡の危機から立ち上がり、科学者達による再生への研究と技術に守られて、なんとか命をつないでいた時代は終わった。人々は自分たちの力で立ち直っていくまでになったのだ。
 健康な遺伝子を求めるだけに実験動物のように連れてこられていた地球人と、その事実を秘密裏にされつづけていた事も、すべて情報を開示し、受け入れ、共に共存し、これからの世界を生きていく。それが人々が出した答えだった。
 そして伊勢崎と世良の事も認められ、受け入れられたのである。


「それで? なんでこっちに戻ってきちゃったの?」
 静かにコーヒーカップをソーサーに置いて、氷川が首をかしげながら尋ねた。向かいに座る伊勢崎は、ランチのサラダを口に運びながら肩を竦めて見せた。
「だって世良がこっちの世界で暮らしたいっていうからさ」
「結局、伊勢崎さんも世良君にベタ甘なのよね」
 氷川がクスリと笑ってから小さくため息をついた。
「あの深夜の電話事件の時はどうなったのか訳が分からずに、こっちは大変だったのよ?」
「ごめん」
「途中でいきなり電話が繋がらなくなるし、それっきり連絡ないし……」
「本当にごめん」
「でもあんなに動揺している伊勢崎さんは初めてだったかな〜」
「もう忘れてくれ」
 伊勢崎が深々と頭を下げたので、氷川は可笑しそうにクスクスと笑う。
「あら、噂をすれば……」
「伊勢崎さん、氷川さん、遅れてすみません」
 バタバタと慌てた様子で世良が走ってきた。
「資料は間に合ったのか?」
「はい、なんとか」
「早く食わないと昼休みが終わるぞ」
「はい! えっと……すみません! Bランチを1つ!」
 世良が慌ただしくオーダーする姿と、隣でランチを食べる伊勢崎を、氷川はニコニコと笑ってみつめていた。
「でもすごいわよね。二人はニューヨーク研修に行っていたことになってて、今は何事もなかったように元の職場で、今まで通り上司と部下で働いているなんて……いまだにどういう仕組みになっているのか分からないけど、向こうの世界の科学技術はすごいわ〜」
「都合よく出来てるだろう?」
 伊勢崎も呆れたようにそう言った。
「本当に氷川さんには、色々とご迷惑をおかけしました。そしてこれからも引き続きよろしくお願いします」
 世良が改まった様子でそう言うと、テーブルに額がつくほど頭を下げたので、氷川はコロコロと笑い出した。
「ねえ、でも世良君がこの世界の人間で伊勢崎さんの大学の後輩で……とかっていう記憶はコントロール出来るのかもしれないけど、二人が恋人同士だっていうのはどうなの? みんなにバレないようにし続けるだけなの? それともそれも記憶を操作するの?」
 氷川の突然の言葉に、伊勢崎は食べかけていたパスタを吹き出しそうになった。
「ひ、氷川さん」
「それは二人の問題なので、隠し続けるしかないです。そこまで記憶操作をするには色々と複雑になってしまうので……」
 世良がとてもまじめに答えているので、更に伊勢崎は吹き出しそうになって、思わず世良の頭をゴンっと小突いた。
「イテッ」
「何、真面目に答えてるんだよ」
「え? あ、すみません」
「まあ、そういうのもスリルがあっていいかもね」
 氷川はフフッと笑うと、ナフキンを畳んでテーブルの上に置いた。
「じゃあ、私は先に行くわね。伊勢崎さん、とりあえず説明してくれてありがとう。二人の帰還祝いは、また改めてやりましょう」
「ああ」
「氷川さん、ありがとうございます」
 氷川は立ち上がり二人にニッコリと笑いかけてから立ち去ろうとしたが、足を止めて振り返った。
「二人が戻ってきてくれて、私、本当に嬉しいのよ」
 氷川はそういうと手を振って軽やかに去って行った。
「氷川さんってステキですよね」
「ああ」
 見送りながら世良がそう言ったので、伊勢崎はため息をつきながらうなずいた。
「お前もステキになれよ」
 伊勢崎がボソリと呟いたので、世良が「え?」と聞き返そうとしたとき、店員が世良のランチを運んできた。皿が並び終わり、店員が去るまで世良は困ったようにチラチラと隣の伊勢崎の横顔を見ていたが、店員が去ると、ぐいっと顔を伊勢崎に近づけた。
「オレ、頼りなくてすみません」
「そういう話じゃないから」
 伊勢崎は世良の額を指で小突いて、またため息をついた。
「だけどオレ、全然伊勢崎さんの事守れなくて、自分が情けなくて……」
「だから、そういう話じゃないって」
 伊勢崎は水をゴクリと飲んでから、テーブルに右肘を付いて頬杖をつきながら世良の顔をみつめた。
「オレは別にお前に守ってもらおうとか思ってないし、お前のことを頼りないとも思ってないよ。お前がオレの事になると形振り構わなくなることも知ってるし、命だって簡単に捨てようとすることもわかってる。だけどお前はそういうのが全部無茶しすぎなんだよ。もっとさ……要領よくなれよ。それがステキになれって意味だよ」
「伊勢崎さん……」
「オレが惚れてるのはお前なんだからな」
 ボソリと伊勢崎は言って、誤魔化すように残りのバスタを口に頬張った。
「伊勢崎さん!」
 世良は感激したように顔を輝かせると、再び伊勢崎に顔を近づけた。
「伊勢崎さん! あとでトイレでキスしましょう」
「ばかやろう!」
 伊勢崎はナフキンを世良の顔に押し付けると、立ち上がって歩き出した。
「伊勢崎さん!」
「先に戻る。会計はお前が出しておけよ!」
「伊勢崎さ〜ん!」
 情けない声を上げる世良を置いて、伊勢崎は足早に店の外へと出た。日差しの強さに一瞬目がくらんで、伊勢崎は目を細めて、右手で日差しを避けながら空を仰いだ。ビルの間の細い空は快晴だった。秋晴れだ。風は少し冷たいが心地いい。
「もうすぐ冬だな」
 呟いて歩き出した。
「暖かい所に行きたいな……年末年始はハワイにでも連れてってやるか……」
 そんな事を呟きながら、伊勢崎はそんな自分に苦笑した。
「本当にオレは世良に甘いな」
 惚れてるんだから仕方ない。伊勢崎は頭を掻きながらそう思った。そしてさっき氷川にも世良にも言わなかった言葉を思い出した。
 こっちに戻ってきた理由なんて何もない。伊勢崎は世良がいればどこでもいいのだ。この世界でも、向こうの世界でも。世良のいない世界こそ考えられないのだから。ほかには何も望まない。
 君の居る世界が、オレの居る世界。


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