伊勢崎の真剣で強い口調のその話に、ナオもサエコも圧倒されてしばらく反応できずに固まっていた。沈黙が続き、最初に小さく溜息をついたのはナオだった。
「なんとなく……おっしゃっている事は分らない事もないのですが……それってつまり貴方は我々のこのプロジェクトには裏があるというお考えなんですよね?」
 ナオが一度辺りを気にするように見回してから、少し声のトーンを落としてそう言った。伊勢崎は真剣な顔のままで静かにこくりと頷いた。それを受けてナオは、改めて少し驚いたように目を見開いてから、まるで何かを確認するように世良へと視線を向けた。みつめられた世良は少し困ったような顔をしてから、同じように頷いて見せたので、それにまたナオは驚いたようだった。
 一方のサエコの方は何か真剣に考えているようだった。
「ナオさん、貴方の驚きは分ります。貴方達は幼い頃からこのためだけに教育されてきたんだ。疑問なんて一度も持たなかったでしょう。世良だってそうだったんだから……だけどオレは違う。そもそもオレはSF映画だってあんまり得意じゃないし、こういう科学的な分野にはまったく疎い。だからこそ普通では疑問に思わないようなことを疑問に感じてしまうんだ。どんなに科学的根拠を示されて説明された所で、オレに納得できないものは納得しない……オレにはこのプロジェクトが疑問だらけだ」
 伊勢崎はオーバーに肩を竦めて見せてそう言った。その伊勢崎の言葉に、ナオは少し眉間を寄せた。
「この世界に来てもまだ理解できないというんですか? 異世界というものを理解できない? ここは現実にある世界だし、貴方達の世界とはまったく別の世界だ。それでもまだ?」
「いやっ! そういうことじゃないんだ。異世界だとか、平行世界だとか、パラレルだとか……そういうのは別に正直どうだっていいんだ。オレが今この世界にいる以上は、この世界は存在する。そうやって納得できるんだから、その世界の成り立ちとか異空間移動の仕方の原理とか、そういう難しい事はどうだっていいんだ。オレが納得できないのはさっきも言ったように、この世界では一部の人間達……管理官? とかそういう連中や科学者達が、人間を実験動物みたいにしていることが気に食わないっていうのさ。すべてを管理して、データ化して、SEXのデータだって……ああ、失礼」
 サエコが驚いた顔をした後赤くなって目を伏せたので、伊勢崎は慌てて謝罪した。一度深呼吸をしてから、再び冷静な調子で話を続けた。
「とにかくそういう個人データの範囲を超えた部分まですべて監視している。そのあげく、結婚相手までって……それらのどこにも何も疑問を持たないのか? もっと分りやすく言うならこうだ。そこまでこっちの世界の科学者達は何もかも分析して分っているっていうなら、いちいち面倒くさい事しなくたって、さっさとこっちの選ばれた連中のパートナーを向こうの世界から連れてきて、さっさと会わせて結婚させればいいんだ。なのになぜそれをしない? だって分っているんだろう? データでちゃんとピッタリの相手を分析しているんだろう? なのに世良やナオさんみたいに苦労して、慣れない向こうの世界で相手を探させて……見つからない者だっているんだろう? なんでそんな手間のかかる事をするんだ? 装置を使ってみんなの記憶を操作してまで……おかしくないか? おかしいと思った事はない?」
 伊勢崎が問いただしてくるのを、ナオは少し戸惑っているような顔で時々世良をチラチラと見ながら聞いていた。
「私……イセザキさんに協力します」
 すると突然、サエコがキッパリとそう言ったので、一同が驚いた。
「サエコ」
 ナオも驚いていた。
「イセザキさんはそれを聞いて、どうされるんですか? 審問会でそれをどうするんですか?」
 サエコはナオにも構わずに質問を続けた。伊勢崎はジッとサエコを見つめ返した。
「オレがずっと思っていた疑問が、もしももっと具体化できたら、それを審問会でぶつけてみるつもりだ。このプロジェクトのあり方への疑問に……だってオレは……オレにはそれを言う権利があると思っている。審問会の連中は、オレがこの世界に住んでもいいかどうかを判断するつもりみたいだけど、そういう一方的なのはごめんだ。こっちにだって選ぶ権利はあるはずだ。勝手に巻き込まれて、勝手に連れてこられて、それでやっぱり用なしだポイッなんて虫が良すぎる。オレにだって主張する権利はあるはずだ。オレがこの世界で世良と一緒に住むかどうかなんて一方的に決められたくない。オレが世良を好きな気持ちはオレの自由だ。審査される覚えはない」
 伊勢崎は激しく感情的に聞こえるその話の内容とは裏腹に、ひどく落ち着いた様子で、まるでもう完全に何か覚悟をしているかのように淡々とそう語った。
「分りました。私に答えられる事はお答えします」
 それを聞いたサエコは覚悟したように頷いた。すると自然に皆の視線は、ナオへと向けられた。ナオは困ったような戸惑ったような表情をしていた。
「ナオさん、協力してください。オレも伊勢崎さんと話をして、確かに何か疑問に感じる所はあります。我々の世界の事は我々にしか分らない。今のこの状況だって仕方がなかったんだとも実は今でも思っています。つまり……確かにすべてを監視されている事に不都合や疑問を感じますが、我々のこの滅亡しかけた過去の経緯を思うと、そこまでしなければならない何かがあるのだろうと……そう自分達にも言い聞かせてきませんでしたか? そう言い聞かせなければいけないって事、確かに何か疑問が生じているって事でしょ?」
 世良がナオを説得するように言った。するとナオもしばらく考え込んでしまった。静かに時間だけが流れていく。周囲を歩く人は疎らで、伊勢崎達に対して、特に関心を持たれている様子はなかった。
「サエコが協力するといっているし、ここでオレが拒否する理由もありません。むしろ変に隠し立てして、オレがサエコに対して疚しい気持ちがあるとは思われたくないですから……だけど……ただオレはやっぱり家族の事が心配で……」
 ナオはそう言って、ベビーカーですやすやと眠るわが子の顔をみつめた。
「絶対に迷惑は掛けないと約束します。そのためもあって、敢えてここで話をしているんです。ここなら周囲の目があるから逆に安心です。こんな一般の人達の居る前で、ハデな事は出来ないでしょう。お願いします」
 世良がもう一度お願いをした。伊勢崎達も頭を下げる。ナオはしばらく考えてから「分りました」と答えた。

「ではさっそく質問させてもらうけど……これは二人への質問だ。正直に答えて欲しい。二人とも互いに会う前に別に好きな人はいた? ああ、つまり過去の恋人とかそういう意味ではなくて、二人が出会った頃、その前後とか同じ頃とか、同日進行形でって事……例えばサエコさんには当時付き合っていた彼がいたってさっき言っていたけど、ナオさんと知り合ったその時の彼との間の詳細な関係とか……」
 伊勢崎の質問に二人は顔を見合わせた。
「あ、答えにくい質問だと思うけど……ちなみにオレは当時、彼女……氷川さんの事をちょっといいなって思ってて、デートに誘ったりしていたんだ」
「ちなみに私は今もその頃も伊勢崎さんの事が好きなの……今となっては片思いだけどね」
 氷川がペロリと舌を出して笑ったので、世良が困ったように笑った。
「それとオレは当然ながらノーマルな性癖で、別に男色家ではなかったんだよ。こいつに会うまではね」
 伊勢崎は世良を指して笑って言ったので、再び世良は困ったように笑った。
「オレは……伊勢崎さんに一目惚れでした」
 最後に世良が小さく呟くように言った。三人の話を聞いて、ナオとサエコは何か踏ん切りがついたような表情になった。先に口を開いたのはナオだった。
「さっき、オレは2人ほど付き合ってみた人が居たって言いましたけど、実はオレ……最初の半年は迷っていて、会う女性すべてを好きになっていました。いや……今思えば『好きだという錯覚に陥っていた』のだと思います。恋愛をするという行為が、理屈では分っていても、実践となるとどうしたらいいか分らなくて、ちょっとでも「かわいいな」と思ったらその気持ちは「好き」って事じゃないかとか、ちょっとでも優しくされると『これが好きって事じゃないか』とか色々と思ってしまって……そしたらその内に本当に訳が分からなくなってしまって……」
 ナオは言いながら頭を掻いて苦笑して見せた。
「それってヤバくなかったですか?」
 世良が真剣な顔で言ったので、彼の言わんとする意味を解して、ナオも真顔で頷いて見せた。
「ヤバかったです。もうちょっとで強制送還されるところでした」
「強制送還?」
 伊勢崎と氷川が聞き返すと、世良がコクリと頷いた。
「毎回、何人か出るんです。そういうので強制送還される者が……精神的に追い詰められてしまって、一種のノイローゼみたいになって……脱落者です」
「恋愛でノイローゼね……」
 伊勢崎が肩を竦めて見せた。
「伊勢崎さんからしたら笑い話になるのかもしれませんけど……こっちは20年以上同世代の異性となんて、ろくに話したこともないんですから……恋愛感情なんて、本や映画を見せられても、実践でそう簡単に出来るものじゃないですよ」
 世良がちょっと怒ったように反論したので、伊勢崎が苦笑しながら頭を下げた。
「ごめんごめん……別にからかったつもりじゃないんだけど……いや、そういう所がむしろ純粋なんだなあって感心したつもりだったんだ」
「それで? どうやって克服したの?」
 氷川が先を尋ねたので、ナオは頷いて続けた。
「まあ……彼女に出会った訳で……」
ナオはそう言ってサエコと目を合わせてから照れ臭そうに笑った。
「あら、もうそこで運命の相手と出会っちゃったの? じゃあ意外と早い展開だったのね?」
 氷川は肩を竦めてみせて笑って言った。だがナオとサエコは首を振った。
「それがそんなに簡単な話ではなかったんです。実はナオと私が出会ったとき……私、結婚の約束までした彼がいたんです」
「え!?」
 その告白に伊勢崎達は驚きを隠せなかった。三人が一度ナオへと視線を送ると、ナオは神妙な面持ちでコクリとうなずいた。
「え? じゃあ……略奪愛って事?」
 氷川がポツリと言うと、ナオとサエコは顔を見合わせて苦笑して見せた。
「まあ、結果的にそうなるんですけど、オレがサエコと出会ったとき、オレも今度こそ本当のパートナーだと思って付き合い始めた女性がいたんです」
「ええ!?」
 これは更なる驚きだった。三人は顔を見合わせた。その様子にナオとサエコも顔を見合わせて微笑み合う。
「なんか……随分複雑ね……正直な所、貴方方にそんな複雑な恋愛経験があったなんて思わなかったわ……あ、そりゃ、もちろんサエコさんは私達の世界の人だから、以前に彼氏が居たかもって思ったけど……」
「それで!? それで二人はどうして互いの恋人よりも惹かれあったんだい?!」
 伊勢崎が先を急かすように身を乗り出して尋ねた。
 伊勢崎の質問に、ナオとサエコは顔を見合わせて、互いに少し困ったような顔になって考え込んだ。
「どうして惹かれあったかは……分りません。オレは、結果的にサエコが本当のパートナーだから惹かれあったのだと思いました」
 ナオは少し視線を落としてから、慎重に言葉を選ぶようにしてそう答えた。
「でも君がその時点でパートナーだと思っていた女性はどうなんだい? さっきの話だと、君はどれが本当の恋なのか分らなくて悩んでいたんだろう? 擬似恋愛的だったほかの女性達とその女性との違いは? パートナーと思って付き合い始めていたと言う事は、言いにくいかもしれないけど……どこまでの関係だったんだ?」
 伊勢崎はまるで事情聴取を取る刑事のように、鋭い視線でナオに質問を続けた。今度はナオはサエコの顔は見なかった。視線を少し落としたままで、しばらく考え込んでいたが、膝の上に置いて両手の拳をギュッと握り締めてから、覚悟したように話し始めた。
「オレとその女性の関係は……キス止まりです。それ以上はありません。本当です。やっぱりそれは、すごく慎重だったから……もし違ったら大変な事になるって思っていたから……だけどオレはあの時、本当に彼女に夢中だった。とても愛していました。その感情は、自分では経験した事の無いほどのもので……これこそが本当の恋だと思ったんです。それは……色々なことが分った今思い返してみても、確かに恋愛感情だったと思います。いわばオレにとっては初恋だったと思います」
 静かにそう語ったナオの話に、伊勢崎達は驚いたが、それと同時に隣でそれを聞いているサエコの事を気遣った。そんな伊勢崎達の空気に気付いて、サエコはハッと顔を上げると、三人を見回してからニッコリと笑った。
「大丈夫ですよ。私だって彼氏が居たんだし……大人なんだから当然の事ですから」
 サエコはそう言ってうふふと笑った。
「でも……じゃあサエコさんは? サエコさんは彼と結婚まで考えていたんでしょ?」
 氷川が尋ねると、サエコはコクリと頷いた。
「さっきも言いましたけど、その頃付き合っていた彼とは3年交際していて、ナオと出会う少し前から週末を彼の家で過ごすような半同棲状態でした。結婚を考えていたっていうのは……別に彼とそういう約束をしていたわけでは無いんです。ただ、何度も互いの両親には会っていたし、すぐじゃないけど、時期が来たら多分このまま結婚するんだろうなって言う……そういう関係……分りますよね?」
 サエコにそう問われて、伊勢崎と氷川は同意して何度も頷いて見せたが、世良はきょとんとした顔をしていた。
「ナオとはどうして出会ったの?」
「仕事絡みのパーティです」
「オレ達別々の会社で、それまで全然面識なかったんですけど、お互いの会社で共通の取引先の創立50周年のパーティに呼ばれて、オレの先輩と彼女の上司が昔からの古い友人で、パーティ会場で紹介されて……そのパーティがお偉いさんが多いっていうか……全体的にご年配の方ばっかりの堅苦しい感じだったから、若い者だけで飲みなおそうって、先輩達が知り合いの若い人達を10人ばかり集めて、別の場所で二次会をやったんです。その時に初めて彼女とゆっくり話をして……」
「それで私達、その日の内に……結ばれちゃったんです」
「サ……サエコ!」
 サエコがちょっと赤くなりながらも、笑ってそう告白したので、ナオは少しうろたえた様子だったが、もっと驚いたのは伊勢崎達だった。
「えっ……えええ!!!」
 思わず道行く人が振り返るくらい大きな声を上げてしまっていた。


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