異世界での暮らしは、特に可もなく不可もなくという感じだった。家の中の見慣れない器具や家財は、その用途が解れば特に驚くほどのものでもないし、自分達の世界の『新製品』的感覚で接すれば、なんということもなく慣れてしまえる。
 所詮は同じ人間というのか……人間の暮らしの中で同じくして必要だと感じるものは、文明の発達も似ているようだ。3日も暮らせば慣れてしまった。
 ただそれはこの家の中だけのことであって、世良やライド以外の異世界人と接していないから、まだこの世界の事を知ったとはいえないと思う。

 伊勢崎はそこまで書いて、小さく溜息を吐いて窓の外を眺めた。コトリとペンを置く。この世界に来てから日記を書いている。だがその内容には、特に何の進展も無い。これは飼い殺しのようなものだなと思う。
 伊勢崎は自分の部屋に篭る事が多くなった。この家を与えられた日の夜に、それぞれの部屋を決めた。氷川からは冗談交じりに『私に気を使わなくても、どうぞ二人で一緒の部屋に入ったら?』と言われたのだが、伊勢崎がそれを丁重に断り、皆一人ずつの部屋へと別れた。世良は何も言わなかったからどう思ったのか解らない。だが部屋を分けて以来、伊勢崎は一人になることが増えた。
 リビングに行けば、大抵、氷川と世良の姿があった。二人はむしろ互いに気を使ってか、自分の部屋よりも日中はリビングにいるようだ。テレビを見たり、本を読んだり、それぞれがリビングには居るものの自由にしているらしい。氷川は時折庭に出たりもしているようだ。
 伊勢崎は何もする気が起きなかった。氷川とも世良とも話をする気にさえならない。それはひどく空虚な感じがしていた。この家に来てから……なんだかそうなってしまった。
 なぜだろう。なぜか酷く空虚だ。
 今まで、何に一生懸命だったのだろう? ふと、そんなことを思う。世良との愛が冷めてしまったわけではない。世良の事は愛している。気持ちは変わらない。この世界に来た事を後悔しているわけでもない。ホームシックに掛かっているわけでもない。なのにこの虚脱感というか、空虚感というか、この気持ちは何だろう? と思う。
 こうして『何も起こらない』と言う事が、伊勢崎の気持ちを沈ませてしまっているのかもしれない。
―――たとえ殺されても構わない。
 それくらいの覚悟を持って来た。なのに良いのか悪いのか、いまだ彼の身には何も起こっていない。最初、この世界に着たばかりの頃、真っ白で何も無いあの研究施設の一室に監禁されていたときのほうが、まだ何かの覚悟があった気がする。
 許されているわけでもなく、祝福されているわけでもなく、だが迫害されているわけでもない。むしろここに平穏にこうしている方が、自分の存在意義を失いそうになる。
―――やっぱりオレは来るべきではなかったのではないだろうか?
 どうしても自分一人だけが異質な存在に感じてならなかった。
 世良と氷川さんの二人だけで良かったのではないだろうか? 自分は諦めて手を引くべきではなかったのだろうか?
 氷川さんの決心を聞いてから更にそう思うようになった。彼女の覚悟を聞くと、自分の覚悟など馬鹿みたいに思える。結局自分は、世良と離れたくなかっただけではないのか? 別れたくなかった。氷川さんに取られたくなかった。自分の物にしたかった。そんなワガママで自分勝手な思い。
―――情けない。
 伊勢崎は頭を抱え込んだ。
 その時部屋の扉をノックする音がした。
「……はい」
「伊勢崎さん、ちょっといいですか?」
 世良の声だ。伊勢崎は少し眉を寄せて考え込んだ。机の上の手帳を閉じて、引出しに仕舞った。
「なんだ?」
「ライドが来たんですけど……みんなと話がしたいそうですが、今いいですか?」
 伊勢崎はハッとした顔になって立ち上がった。ライドが来た。話があると言う事は、何か進展があると言う事だろうか? とうとう自分の処置が決まるのだろうか?
 伊勢崎はゆっくりと歩いて扉の前まで行くと、一瞬立ち止まって躊躇した。
「伊勢崎さん?」
 扉の外から世良が不安そうな声になる。
 伊勢崎はグッと拳を握り締めると、ふうと息を吐いた。扉の横のパネルの上に手を翳すと、扉がスーッと静かに開いた。扉の前には世良が立っていて、声の通り不安そうな顔をしていた。
「なんだ。お前、その顔」
 伊勢崎がフッと笑って言うと、世良は少し安堵した顔になった。
「すみません。返事が無いのでどうかしたのかと……」
「寝てたんだよ……行こう」
 伊勢崎はそっと世良の頬を手で撫でてから、ポンッと肩を叩いた。世良は先を行く伊勢崎をジッとみつめながら、グッと唇を閉じて真剣な顔になった。
 二人がリビングに入ると、すでにソファにはライドと氷川が向かい合って座っていた。氷川が伊勢崎に気付きニッコリと笑うと、ライドがこちらを振り返り軽く会釈をするので、伊勢崎も会釈を返した。伊勢崎と世良は空いている席に分かれて座った。
 皆がライドに注目する中、ライドはゆっくりと3人の顔を見回した。
「皆様、お元気そうですね」
 それはどこか儀礼的な挨拶に聞こえた。氷川は微笑んで頷き、伊勢崎は硬い表情のままで何も答えなかった。世良はそんな伊勢崎を気にしている。ライドはそんな3人の様子もジックリと観察していた。
「今日は報告があってきました。近いうちに審問会が開かれます」
「審問会?」
 伊勢崎は眉を寄せて聞き返した。ライドは伊勢崎をみつめてヒクリと頷いた。
「このプロジェクトに関わる上層部の者達が皆様に会って話を聞きたいとの事です」
「審問会と言うからには……その時の応答次第で、何らかの処置が下されるって事ですか?」
「そうです」
 伊勢崎の問いに、ライドは静かに同意した。伊勢崎はまた険しい表情になった。
「それは……ハッキリ言って、オレの処置が主題なんだろう?」
「伊勢崎さん」
「……確かにそうかもしれません。ですが……私が今日こちらに来たのは、その報告をするためだけではありません……審問会の前に、皆さんに話しておかなければいけない事があります」
「話しておかなければいけないこと?」
 世良が不思議そうな顔になって聞き返した。ライドは世良の方をみつめて表情を崩さずただ頷いた。
「このプロジェクトに関わる上層部というのは、2つの組織の代表者にて構成されています。科学庁と文化庁という組織です。科学庁は元々、この異世界へのゲートを開く装置を開発した事によりプロジェクトの中核を担っています。文化庁は受け入れた異世界人の管理やこの世界の優良遺伝子を持つ子供たちの育成と教育を担っています。科学庁から4人、文化庁から4人の合計8人が、このプロジェクトの指揮機関を握る責任者です。そして彼らとは別に、どちらの組織にも属さない最高責任者が1名……以上9名がプロジェクトの上層部であり、この9人にて審問会が開かれます」
「その最高責任者って……総理大臣とかそういうのなのか?」
 伊勢崎が尋ねると世良が先に首を振った。
「この世界にはもう総理大臣とか首相とか王とか……そういう位の人物はいないはずです。一人だけに権力を持たせず、常に何事も多数の意見を聞くように分権化されています」
「でも最高責任者って……」
 伊勢崎が不服そうに言ったので、世良は困った顔でライドを見た。
「ええ、そうです。イセザキさん。最高責任者であって、最高権力者ではありません。肩書きも権力も無いのです。ただ責任者の任を命ざれているだけです」
「責任だけ? 権力もなく?」
 氷川が驚いたように聞いたので、ライドは静かに頷いた。
「それは……私です」
「えっ!?」
 3人が同時に驚きの声を上げていた。世良も驚いているから知らなかったようだ。
「ラ、ライドが最高責任者!? うそ……オレの教育係って……」
「ええ、貴方の教育係ですよ。優良遺伝子の子供の育成には以前からずっと協力して来ました。私が育てたのは貴方だけではありません」
 ライドの言葉に、まだ世良は呆然としている。伊勢崎と氷川は顔を見合わせていた。
「そんな偉い人だったなんて……オレ、知らなくて……」
「偉くはありません。言ったでしょ? 私には何の権力も無いんです」
「だけどただの教育係が最高責任者になれる訳ないでしょう? 貴方は一体何者なんです」
 伊勢崎が問い詰めるように言ったので、ライドはジッと伊勢崎を見つめた後、しばらく考えるように目を伏せた。3人はジッと固唾を呑んで待った。やがてライドが目を開き何かを覚悟したように目に変わっていたので、3人も覚悟を決めたように言葉を待った。
「私が最高責任者なのは……私が、このプロジェクトを立ち上げる礎となった人類繁栄の研究をしていた科学者のリーダーだったからです」
 ライドの告白は、とても重要な意味を持っている言葉に思えたが、3人にはすぐに理解できなかった。覚悟していたわりには……と思うような言葉だったからだ。もっと衝撃的な告白を期待していた。
「科学者のリーダー……?」
 世良が不思議そうに呟いた。ライドは3人の顔を見て微笑んだ。
「いまひとつよく解らないという顔ですね」
「え、だって……貴方が科学者だっていうのなら、科学庁って所の人じゃないんですか?」
「言ったでしょう? 『だった』と……過去の話です。私が科学者だったのは100年以上も前の話です」
「ああ、そうか……って……ええ?!」
「100年?!」
 再び驚いた。聞き間違えかと思ったが、ライドは頷いていた。
「私はこの星の滅亡期を知る過去の人間なのです。星の復興の為に働いていた科学者のリーダーでした。元々は……生きていくために、他の動植物の繁殖を手助けし、生態系を取り戻すための研究をしていました。それがやがて人類の繁栄のための研究に変わりました。退化していく人類の生殖機能を取り戻し、優良遺伝子の研究……クローン研究もしました」
「ちょ……ちょっと待って、でも貴方は……」
 伊勢崎は今の状況をどう説明すれば良いのか解らなかった。目の前に居るライドという男はホログラムではなく、確かにそこにいる。
「私は……人間ではありません。サイボーグです」
 この告白が、3人にとっては何よりも衝撃的だった。言葉もなくただ呆然としてしまっていた。
「私は研究半ばにして老いには勝てず死にいくはずでしたが……脳をそのまま移植してサイボーグになりました。この体はその後何度も改良して、今ではこの通り、人間と区別がつかないほどになっています……ですが私は心を失った。人間の繁殖のための研究を続けるために、このような体になったというのに……この体には心が無い。ずっとこうして生きていると、時々自分を失いそうになるのです。人間とは何か……生命とは何か……だから私は、子供たちの育成に協力するようになりました。子供を育てる事により、人間の生命の何かを思い出すため……」
「ライド……」
 ライドは世良をしばらくみつめていた。その表情はとても優しかった。
「セラ、貴方は私が育てた子供たちの中でももっとも優秀でした。どの子供たちよりも感情の起伏が激しく、豊かだった。人が人らしくあるのは何かと問うた時、私が出した答えは『心』でした。頭脳が優秀な子供、身体能力が優秀な子供、そんな子供は多く居ます。でも感情だけは、その者の個性です。簡単に伸ばせるものではない。生まれ持ってのもの……貴方はよく笑い、よく泣き、よく怒った……貴方は特別だったのでしょう……その特別な貴方が選んだパートナーは、我々がコンピューターで選んだ相手ではなかった。セラ、貴方は言いましたね。イセザキさんを選んだのは理屈ではないと……私にはきっとこの気持ちは解らないと……そうです。私には理解できない。男女が惹かれ合うのは生殖本能からであって、生殖をなさない同性間同士で惹かれ合うはずなど無いと……だが我々の世界でもはるか昔、こんな世界になる前には同性愛もあった。私は思ったのです……我々は人類滅亡を恐れて、繁殖の為に手を尽くしてきたが、人の心の本質はデータで管理できるものではないと……その答えがセラ、貴方なのではないかと。私はこれを機に、異世界から人々を連れ去るこのプロジェクトを終了させたいと思っている。我々は我々だけの力で、これからの未来を築くべきだと思うのです」
 3人とも言葉もなくただ真剣な顔で聞き入っていた。ライドはそんな3人を見回した。
「近々ある審問会で、私はこの話をするつもりです。ですがさっきも言ったように、私にはなんの権力も無い……審問会の結果がどうなるか、私にも解らない。だがこの私の考えを貴方方に話しておきたかった」
「ライドさん……それで貴方の立場は大丈夫なんですか?」
 伊勢崎が険しい表情で尋ねた。ライドは薄く笑った。
「私は元々ただの科学者だ。私の時代はとうに終わっているのです。今更守るべき立場は無い。ただこのプロジェクトを立ち上げた責任者としての最後の始末は付けておきたい」
 それはとても静かな言葉だった。ライドはすべてを悟りきっているかのようにとても穏やかだった。伊勢崎と氷川は何も言えなかった。
 だが世良はひとり、何かを決意しているかのように、膝の上に置いている両手の拳を強く握り締めて、奥歯を強く噛み締めていた。


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