「おはようございます」
 玄関を開けると、氷川がニッコリと笑って立っていた。
「お、おはようございます」
「少し早かったかしら? だけどあんまり家でのんびりと過ごす気にもなれなくて来ちゃった」
「いえ、どうぞお入り下さい」
 世良は慌てて氷川を家の中へと招いた。朝の9時。異世界への出発予定時刻は11時だ。国内旅行をするのとは訳が違う。11時出発だから10分前に……という気には誰だってならないだろう。現に伊勢崎だって前の夜から来ている。
 昨夜は二人ともほとんど眠る事が出来なかった。ただリビングのソファに並んで寄り添うように座って、互いの生い立ちを語り合って過ごした。
「おはよう、大丈夫かい? 昨日は眠れた?」
 家の中へと入ってきた氷川を、伊勢崎がそう言って出迎えた。
「その言葉はそのままお返しするわ。伊勢崎さんこそ眠れなかったって顔をしているわよ?」
「そんなにひどい顔かい?」
「いいえ、むしろ一晩考えて覚悟をつけたって顔だわ」
 氷川はそう言うと、ペロリと舌を出して笑って見せた。伊勢崎はそんな明るい様子の氷川に少し驚いて世良へと視線を向けた。世良も少し戸惑っているようだ。
「なに? 二人でアイコンタクト? 3人でこれから行くんだから、私を仲間はずれにしないで欲しいわ」
 氷川が口を尖らせてそう言ったので、伊勢崎は苦笑して頭を掻いた。
「いや、その……正直に言うと、オレ達は君に驚いているんだ。君のほうこそ、なんでそんなに平然としていられるんだい? むしろオレの方がちょっと緊張してしまっているくらいだよ。怖くない?」
 伊勢崎の問いに、氷川は首を傾げて少し考える素振りをしながら、持っていたボストンバッグをゆっくりと床に置いた。
「そうね、怖いか、怖くないか? と聞かれたら、やっぱり怖いと思う。でもそれは未知の世界だから、予想がつかない怖さって言うか……例えば内戦中の中近東に行くよりは全然怖くないわ」
「ハッアハッ」
 伊勢崎はそれを聞いて、何かつき物が落ちたように溜息混じりに笑い声を上げた。世良もキョトンとした顔をした後、少し笑みを浮かべた。
「なに? バカと思った?」
「いや、君ってすごいなって思って」
「え? だってそうでしょ? 異世界なんてまったく想像つかないし、どうやって行くのか解らないから、その手段とかそういう科学的な未知の部分に恐怖は感じるけど……世良君の住んでいた世界で、この世界とそっくりな世界だというのなら、安全だとは思うし……私達は結婚相手として招かれるわけだから、物騒な事はないでしょ?」
 一瞬、世良がチラリと伊勢崎を見た。伊勢崎はすぐに視線を逸らして、氷川を見て微笑んだ。
「君はね、オレはどうか解らないけど」
 わざとふざけたような口調で伊勢崎がそう言ったので、氷川は「まあ」と言って驚いた顔をして見せた。
「だって世良君の恋人は伊勢崎さんなんだから、大丈夫でしょ?」
「でも本当の相手は君のはずだったんだ。それにいくら異世界だって、男性同士で結婚して子供は作れないからね。世良達がこの世界にパートナーを探しに来ているのは、ただの恋人探しではなく、子孫繁栄が目的なんだから、男女のカップルでなければダメだと思うんだよ」
 伊勢崎はまるで人事の話をするかのように、とても落ち着いた様子でそう説明した。それを聞いて、氷川が突然不安そうな顔になった。
「じゃあ、伊勢崎さんはどうなるの?」
「解らないさ、この前も説明したとおり、とりあえず今回は3人揃って行くのが条件で、ひとりでもそれを拒めば制裁されるかもしれないって言うんだから……少なくとも、今の時点ではオレはまだどうもされる事もないし、向こうの世界に行く事を願われているんだから大丈夫だと思うよ」
 伊勢崎が穏やかな口調で語るので、釣られるように氷川も大丈夫なような気持ちになれて落ち着いた。だが世良だけは内心不安でいっぱいだった。
『伊勢崎さんはオレが守る』伊勢崎にそう約束した。それは嘘ではない。でも自信があるかと言われると、正直な所あまり無い。ダメな男と罵られようともこればかりは仕方ないのだ。世良は「そう」教育されたのだから、彼を教育し管理している組織には、反抗する術を持ち合わせていなかった。だから万が一の場合には、体を張ってこの身ひとつで守り、共に死ぬくらいの覚悟しか出来ない。伊勢崎にはそれもバレていると思っている。伊勢崎が世良と共に死ぬ覚悟があるというなら、世良は喜んでこの命は差し出すつもりだ。伊勢崎一人を死なせはしない。出来る事なら、自分が死んでも伊勢崎だけでも助けたいのだが、現実はそう甘くは無い事は十分に解っている。
「世良君、世良君の世界の話を聞かせて」
「あ、ああ」
「じゃあ、コーヒーを煎れるよ。オレの煎れるコーヒーを飲めるのはこれが最後かもしれないからね。世良、向こうの世界にはコーヒーはあるのか?」
「残念ながらありません」
 世良の言葉に『ほらね』という顔を伊勢崎がしてみせたので、氷川はクスクスと楽しそうに笑った。
 それから三人は色々な話をして過ごした。まるで話す事で不安な時間を紛らわせるかのように……。


 平穏な空気を破ったのは、ピーピーという冷たい電子音だった。テーブルの隅に置かれていた銀色に光る楕円形の(パソコンのマウスより少し大きいくらいの形の)装置に付いている小さなランプが、青く何度も点滅しながら電子音を鳴らしていた。
 3人は一斉に息を飲んで視線を合わせた。世良がコクリと頷いて、装置に右手を重ねた。するとブンッという電子機器のモーターが動くときのような機械的な音が微かにして、装置から光が投射された。それは何無い空間に、みるみる人の形のフォログラムを作り上げた。
 上半身がウェットスーツのようで、腰から下はダラリと長い細身のスカートのような不思議な形の白いスーツを着た中年の男性の姿が浮かび上がった。伊勢崎は知っている。『ライド』だ。あの時1度だけ話をした世良の教育係だ。
『3人お揃いですね』
「ああ、約束どおり集まったよ」
 世良がライドに向かってそう言った。世良はひどく不機嫌そうだ。今までそんな態度をライドに対してしたことはなかった。いや、今まで一度だって、ライドに対して不信感を持った事などなかった。
 世良の態度を見て、ライドは少し口の端を上げた。だが何も言わず視線を伊勢崎と氷川へと移した。
『伊勢崎さん、またお会いしましたね。よく決心してくれました』
「……決心も何も……世良と別れたくないだけです」
 伊勢崎は一度キッと睨みつけるようにして見たが、すぐに表情を和らげて、溜息と共に吐き出すようにそう告げた。伊勢崎のその態度に満足をしたのか、ライドは微笑を浮かべて頷いて見せた。
『はじめまして、貴方がセラのパートナーの方ですね』
 次にライドが氷川をみつめて微笑みながらそう言ったので、氷川は困惑したような表情になった。
「私は世良君のパートナーではありません。世良君のパートナーは伊勢崎さんです。ただ私は……私も候補だと言われたので、二人の為に来たんです」
 氷川はムッとした様子で反論したので、ライドは少しばかり驚いたような顔になり、しばらく黙り込んで3人をゆっくりと見回した。
『解りました。まあくわしい話は、まずはこちらの世界に来ていただいてから、ゆっくりとしましょう。誤解されている部分もあると思いますから……こんな通信では互いの気持ちも伝わらないものです』
 ライドの言葉に「いよいよか」と伊勢崎と氷川はゴクリと唾を飲み込んだ。
『3人で輪になって座ってください。手を繋いで、絶対に離さないで下さい。トリップは次元と空間の移動ですから、失敗すると二度とこの世には戻って来れなくなります。何があっても互いの手を離さないように……』
 ライドの指示で、3人はソファを動かして、リビングの床を広く開けた。そこに3人で向かい合って座ると、しっかりと手を繋ぎあった。
『目が回って気分が悪くなるかもしれません。目を瞑っていてください』
 3人は互いを見詰め合った後、目を瞑ってもう一度手を強く握り合った。
『それでは移動を開始します』
 ライドはそう言うと、フォログラムの姿を消した。目を瞑っている3人にはそれは見えなかった。
 ズズズッと微かな振動がして、体が小さく揺れたかと思うと、ズシンと頭の上からものすごい力で下に押さえ込まれるような感覚がした。次にフワッと体が軽くなったかと思うと、グルグルと上も下も解らなくなる位に体が回転してしまうような感覚に襲われて、耳の奥が痛くなった。叫びそうになるのを堪えて、しっかりと繋ぎあっている互いの手の力だけを頼りにしていた。
 そんなふうに伊勢崎達が感覚を味わっているのを他所に、実際の伊勢崎達の体は青い光に包まれた後、フォログラムの画像が消えていくように、光と共にその空間から掻き消えてしまった。


「伊勢崎さん」
 呼ばれてハッと目を開けた。気を失ってしまっていたらしい。目を開けると目の前に世良の顔があった。
「世良……」
 安堵すると同時に氷川のことを思い出してハッとなった。体を起こすと、左手にしっかりと氷川の手を握ったままでいた事に気がついた。右手は世良の手を握ったままだ。氷川はまだ気を失って横たわっていた。
「ここは……」
 氷川を起こすよりも先に、周囲の事に気が移ってしまった。ぼんやりと辺りを見回す。
 そこは目にまぶしいほどの真っ白な空間だった。
「オレの世界です。伊勢崎さん」
「世良の……世界」
 世良の世界、そこは異世界……そういわれてもピンと来なかった。そこは床も壁も天井もすべてが真っ白な部屋だったからだ。何も無い、家具も何も無い、ただ真っ白な丸い部屋だった。辛うじて目が天井と壁の境目を判断できたものは、天井と壁の境目のところに、銀色の銃の先っぽのような機械が4箇所ほど取り付けられていた。それ意外は本当に何も無い白い部屋だった。窓も扉も解らない。
「この部屋って……」
「ここは異世界への移動に使う部屋です」
「オレ、気を失ったんだな」
「ほんの一瞬ですよ。あれからまだ体感時間としてはそんなに経っていません」
「だけどよく気を失って手をはなさなかったよな。考えたらヒヤッとしたよ」
「ああ、あれは……」
 世良が何か言いかけたところで、シュンッという音がして、前方の壁の一部が扉のように開いて口を開けた。
「ようこそ我々の世界へ」
 入ってきた男性には覚えがある。ライドだ。だが今度は実態だ。ぼんやりとしたフォログラム映像ではない。生身だった。伊勢崎は驚いたような顔をしてポカンとライドをみつめていた。
「どうかしましたか?」
「あ……いや……本物だと思って」
「ハハハハ、ええ、本物です。だって貴方方がこちらの世界にいらしたのですから」
『マジかよ』と伊勢崎は内心思っていた。あれほど覚悟はしていたが、やはり頭のどこかで、『異世界へ行く』という事に実感がなかったのだ。
「氷川さん、氷川さん」
 その後ろで世良が氷川を起こしていた。
「ん……あら? ここはどこ? 眩しい……」
「ようこそミス・ヒカワ……ここは我々の世界、そして我々の星・テルシア」
「きゃあ! やだ、私、寝てた?」
 氷川はガバッと慌てて起き上がると、乱れた髪を掻き揚げながら、少し赤くなって辺りをキョロキョロと見回した。すぐ傍に伊勢崎と世良の姿を確認して、ようやく安堵の表情になる。
 伊勢崎がニッコリと笑ってみせて、握ったままの手を掲げて見せたので、氷川はようやく笑みを浮かべた。
「気を失っていたんですよ。でもほんの僅かな時間です」
「オレも気を失ってたから大丈夫だよ」
 伊勢崎と世良が、氷川を気遣ってフォローした。
「来て早々で申し訳ありませんが、先に身体チェックをさせて頂けますか? それほど時間は掛かりません。トリップしたのですから、体調を崩しているかもしれませんからね」
 ライドの言葉に、伊勢崎と氷川は少し不安そうな顔で顔を見合わせた。
「身体チェックは、オレも受けますから大丈夫ですよ。トリップしたらみんなかならず受けるチェックですから、別に変な事はしませんから」
 伊勢崎達を気遣って、世良がすぐにそう言ったので伊勢崎達はようやく納得したような顔になった。
「では行きましょうか。あ、荷物はそのままで、こちらで部屋に運んでおきます。もちろん中身には一切触れませんから、約束します。ご心配なく」
 ライドにそう言われて、伊勢崎はハッとなり辺りをキョロキョロと見回した。すると伊勢崎のすぐ後ろに、持って意向と用意していたバッグが置かれていた。
「あ、あれ? オレ、緊張してすっかり忘れていたけど、荷物……どうやって持ってきたんだっけ? オレ達離れると危険だっていうから、手を繋ぎあって……それだけに夢中で荷物……」
 混乱した様子で伊勢崎がそう言うので、氷川も気がついて一緒になって首を傾げていた。それを見てライドが初めてクスクスクスと声を出して笑った。世良はそんなライドを一瞥してから、申し訳なさそうな顔で伊勢崎達を見た。
「すみません。あれ、ライドが意地悪で言ったんです。別にトリップするのに手を離したら危険とかいうのは無いんです。こちらの装置は、移動させる物体を個別に座標に合わせてプログラミングして、トリップさせますから……人でも物でも……数に関係も無いんです」
「はあ?!」
 世良の話しを聞いて、伊勢崎が大きな声を上げて驚いてからジロリとライドを見た。ライドが伊勢崎と視線を合わせてからクスリと笑ったので、伊勢崎は更にムッとなった。
「申し訳ありません。ただ少しばかり貴方方の覚悟の程を試してみたかったのです」
「ひどいわ!」
 氷川が口を尖らせて抗議したので、ライドはもう一度丁重に謝罪をした。だが伊勢崎はライドをジロリと睨んだまま眉間を寄せて微動だにしなかった。ライドはそんな伊勢崎の様子に気がついて、真顔になって伊勢崎をみつめた。
「貴方達……じゃなくて、オレの覚悟を試したんだろう?」
 伊勢崎が挑戦的な口調でボソリとライドに言うと、ライドは表情を崩さずにただ伊勢崎の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「伊勢崎さん」
 世良はただ心配そうに、伊勢崎とライドを交互に何度もみつめるしかなかった。


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