「大体の事情はわかったわ」
 氷川は随分と冷静な様子で一言そう言った。向かいに座る二人の男のほうが、どこか落ち着かない感じに見えるくらいだ。
 伊勢崎と世良は氷川と連絡を取って、会社の昼休みを使って氷川に外まで出てきてもらった。会社のすぐ近くでは厳しいので、地下鉄で一駅離れた麹町の駅傍の喫茶店で待ち合わせた。
 二人は氷川に、世良が強制帰還命令を受けてしまった事と(二人でエッチしすぎた所為での強制帰還というのは言えなかったが)、それには氷川に同行してもらわなければいけない事と、24時間の猶予しかない事を説明した。氷川も最初は驚いていたが、やがてすべてを納得したように頷いて見せた。
「でもそれって……私に何かメリットはあるのかしら?」
―――もちろん無い。
 なんて言えるはずも無かった。世良は視線を落とし、伊勢崎は眉を少し寄せて表情を曇らせた。
「世良さんの本当の相手って私なのよね? だけど今のところ私達に恋愛関係はない。世良さんと恋愛関係にあるのは……伊勢崎さん。だったら、世良さんと伊勢崎さんの二人で向こうの世界に行けばいいんじゃないの?」
 あまりにもの正論に、二人は二の句も告げることは出来なかった。世良は俯いたままで、伊勢崎は表情を曇らせたままだった。氷川は二人を交互に見てから、落ち着いた様子でコーヒーを飲む。カップを静かに置いてから、小さく笑った。
「嘘よ、意地悪な言い方してごめんなさい。それで済むようなら私の所には来ないわよね」
 氷川の言葉に、世良は更に肩を落とした。『申し訳ない』という気持ちしかない。自分が本当に一番悪い事はわかっている。伊勢崎には『本当の相手は伊勢崎さんだと思っている』なんて言ったけれど、こうして氷川を前にすると、そんな自分勝手な己を恥ずかしく思った。彼女を巻き込んでおいて、真実の愛も何も無いと思う。氷川の言った嫌味は、心に深く刺さった。
「氷川さん、本当に申し訳ないと思っている。君をこんな事に巻き込んでしまって……」
 世良の代わりに伊勢崎がそう言った。氷川は伊勢崎をみつめてから、苦笑して見せた。
「なんだか変な感じだわ。伊勢崎さんにそう言われると、私、もっとどうしていいのか解らなくなるの」
 氷川は困ったような顔で窓の外に視線を送った。
「悔しいけど……私は失恋しているのよね。それでも貴方達と関係を続けなければいけないのって、ある意味拷問みたいなものだわ。私は伊勢崎さんが好き。知っているでしょ? でも伊勢崎さんは世良さんのことが好きで、世良さんも……私が振られて、二人がハッピーエンド。普通はそれで終わりでいいのにね」
「氷川さん……」
 世良が何か言いかけたが、伊勢崎がゴツンと隣から足を蹴ってそれを制した。世良は謝罪の言葉を告げようとしたのだろう。だが今この状況で、氷川にそれを言うのは、あまりにも無神経だ。
「氷川さん。こっちの言い分は随分身勝手だと思う。君には断る権利はある。一緒に異世界に行きたくないのなら、ハッキリと断ってくれて構わない」
「伊勢崎さん!」
 伊勢崎が氷川にそう言ったので、世良の方が驚いた。
「断ったらどうなるの? さっきの話だと……世良さんが本当のパートナーと両思いになって上手くいっていると、異世界の科学者達が勘違いをして、すぐに戻ってくるようにって命令が下ったんでしょ? 私が断ってしまったら……どうなるの?」
「我々の記憶が消されて、お互いに何も無かった事になるだけだ」
「伊勢崎さん!」
 世良がまた伊勢崎の言葉を遮ろうと声を上げたので、伊勢崎は世良をじろりと睨んでから首を振って見せた。氷川は眉間を寄せながら、二人をジッとみつめる。
「本気で言ってるの? 伊勢崎さん……それって、伊勢崎さんも世良さんとの記憶を消されて何も無かった事にされるんでしょ? それでいいの? 世良さんの事が好きなんでしょ?」
「君は応援してくれるの? 失恋した相手を? そんな事、君は気にしなくて良い。これはオレと世良の問題だ。元々、結ばれてはいけない間だったんだ。こいつは異世界人だし、男同士だし……いつかは別れる運命だ。それは仕方の無い事だ。オレ達の為だけに、君を巻き込むのは忍びない。ただ君には知る権利があるから、今の状況を打ち明けただけだ。当然、君がオレ達の為に異世界に行って貰って協力してもらおうなんて、それを無理強いするつもりは無い」
 伊勢崎はキッパリとした口調でそう告げた。氷川は困ったような顔で笑ってから、手元のカップに視線を落としてしばらく考え込んだ。
「ずるいなぁ」
 それはとても小さな呟きだった。伊勢崎と世良は驚いたように氷川をみつめた。氷川はサイドの髪を掻き揚げて耳にかけると、ハアと溜息を1つ吐いてから苦笑して見せた。
「伊勢崎さんはズルイ。そんな格好良い事言って……でもそうよね、メリットがあるとすれば、私が断るのが一番のメリットなのよね。だって私達の記憶は消されて、何も無かった事にされるんでしょ? 世良さんもいなくなって、私はまた伊勢崎さんにアタック出来るわけだ……世良さんさえ現れなければ、私だって……チャンスがなかった訳じゃないでしょ? 自惚れかも知れないけど」
「いや、そうだね。その通りだよ。君はステキだ。正直言うと、オレは君を狙ってた」
 伊勢崎は穏やかにそう告げた。それを氷川は黙って聞いていた。隣では世良は困ったような顔をして伊勢崎をみつめている。
「世良さん」
「は、はい」
「私がもしも貴方の世界に一緒に行ったら……どうなるの? 伊勢崎さんも一緒に行くんでしょ? 三人で行って、どうなるの? まずは貴方と伊勢崎さんの関係を認めてもらうの? それで? ダメだったら? 貴方と私が結婚させられるの? OKだったら? 私はどうなるの?」
 氷川が立て続けに質問をしてきた。世良は戸惑った様子で、どの質問にもこれと言った答えが出せずにいた。目をうろうろとさせてから肩を竦めて見せた。
「すみません。オレにも解らないんです。どうなるのか。前例が無いし……ただ、ひとつだけわかっている事は、三人で行かなければ処罰されるという事です」
 世良は最後の言葉を伊勢崎をみつめながら言った。伊勢崎は少し眉間をきつめに寄せて、世良を睨みつけていた。
「処罰って……記憶を消される事?」
 氷川がその言葉に反応して、不安そうな顔で尋ねた。伊勢崎が睨み続けるので、世良は一瞬苦悩に顔を歪ませてから、氷川の方を向き直り微笑を浮かべた。
「ええ、そうです。それとオレが多分ちょっと罰を与えられると思います」
「罰って……酷い事されるの?」
「さあ……前例が無いので解りませんが……独房でしばらく監禁されるとか、そういう程度だと思うんですけど……」
「本当に? 大丈夫なの?」
 氷川は本当に心配さうに世良に問い詰めてきた。世良は苦笑して見せて首を振った。
「大丈夫ですよ。オレの事は気にしないで下さい」
「オレの事も気にしなくていい。とにかく、そういう事になっているという事実を君に伝えたかったんだ。確かにこれを伝える事自体、随分身勝手だと思う。我々の方に、もしかしたら氷川さんが協力してくれるかも……なんて、図々しい思いがまったくないという詭弁を言うつもりも無い。当然正直な気持ちを言うと、そういう期待もあって君にこの話をしている。オレ達はずるいんだ。ずるいからこそ、君が断ったとしても、ちっとも君がその事を悔いる必要は無いんだ。お互いにずるくて当然なんだから」
 伊勢崎は爽やかに微笑みながら言った。その表情には何も計算は無く、真摯に自分の気持ちを伝えている事が解った。氷川は再び視線を落としてしばらく考え込んだ。
「私、世良さんから話しを聞いた後、色々と考えたの。信じ難いことはたくさんあるんだけど、信じないと辻褄が合わない事もいっぱいあって……それに伊勢崎さんが世良さんに惹かれていることは、私の目から見ても確かな事で、少なくとも私が失恋している事は周知の事実。でもね、なんだか不思議なくらいに、世良さんの事を憎めないの。それですごく考えて……理由は解らないけど、私もすごく世良さんに惹かれているんだという事が解ったの。不思議よね。ハッキリ言って、世良さんは全然私の好みじゃないのに!」
 世良と伊勢崎は驚いたように顔を見合わせた。
「惚れたとか、そういうのとは違うの。漠然としててはっきりしないけど、それは多分私と世良さんが恋愛を始められる体制に無いからだと思うの。これが普通に出会っていたら、恋が芽生えたのかもしれないわね……全然好みじゃないのに、不思議だわ」
「あの……氷川さん、そんなに何回も強調しなくても……」
「だって! 貴方ちょっと優柔不断なんだもの! 今だって……貴方の問題なのに、伊勢崎さんに頼りすぎだわ! もっとしっかりしなさいよ! 男でしょ?!」
「す……すみません」
 世良は氷川のパワーに圧倒されて、思わず謝っていた。伊勢崎は驚いて目を丸くしていたが、ぷっと吹き出して口を押さえてクククッと笑い出した。
「解ったわ、私、異世界に行くわ」
「え!?」
「私、自分で自分の運命にけじめをつけたいの。伊勢崎さんを完全に諦めるにしろ、異世界で世良さんの花嫁になるにしろ、どちらにしても、成り行きに任せるのでなく、自分でハッキリさせたいわ。だから行くわ」
 世良と伊勢崎はしばらくポカンとした顔で、目の前の氷川をジーッとみつめていた。氷川は覚悟を決めたような顔をしている。
「氷川さん、異世界に行くという事は、もしかしたらもう二度とこの世界に帰って来れないかもしれないんだよ? 家族にも会えないかもしれないんだ。そして君の家族には、異世界の事は知らされないだろう……それでもいいのかい?」
 伊勢崎が深刻な表情になって氷川に尋ねた。それを聞いて氷川は不思議そうな顔になった。
「どういう事? 前に世良さんから聞いた話しと違うわ。円満に異世界に行けるのではないの? どういう方法を使うのか解らないけど、家族にも納得させた上で私達を異世界に連れて行くのだと思っていたわ」
 伊勢崎は頷いてから、ゆっくりと氷川に自分の考えをすべて話した。今回の24時間しかない猶予の事も、これを証明する事になるという事も。
「24時間でどうやってオレと氷川さんの両方の家族を説得すると思う? いや……説得する気ならもう動いていてもいいはずだ。だが我々の周囲に変化は無い……むしろ……君の家族を巻き込みたくなければ、このまま何も話さないほうがいい。今はまだ君もオレも、異世界の者達からデータは取られていないけれど、向こうの世界に行けば、我々のデータはすべて取られるだろう。そうすれば家族も友人もすべて調べられて、記憶を消されるか……我々が行方不明になる為の辻褄合わせの別の記憶を入れられる。多分そんなシナリオだと思う」
「そんな……」
 氷川は顔色を変えて両手で口を覆った。息を飲み、視線を世良へと向ける。それは非難とも恐怖とも取れるような色を込めた視線だった。伊勢崎は氷川の様子に気づいて、ジッと世良をみつめた。世良は苦悩に満ちた表情でうつむいていた。
「世良の前で、世良の世界の人間を悪く言うのはオレだって嫌だ。だけど氷川さん、これだけは解って欲しい。世良には罪はない。世良だって、被害者なんだ。オレがなんでこんな風に考えたかって言うのだって、世良自身がいつも24時間すべてを監視されているからなんだ。これじゃあまるでモルモットだ。人類の復興、未来の為の計画……本当に平和を願う者達が、なぜ自分の世界の人間をこんな風に扱うんだろうって……世良の世界の人間すべてが悪いなんて思わない。だけど少なくとも、この異世界からの人間略奪の計画を立てた一部の者達は、良識的だとは思えない、何らかの策略を感じる。そしてオレ達はそれを脅威に感じざるを得ない……だって何も出来ない。何の力も無いんだから」
 伊勢崎の言葉に誰も何も言い返せなかった。氷川はジッと伊勢崎を見つめながら、何かを考え込んでいるようだった。世良は俯いたままでいた。三人とも黙ったまま時間だけが過ぎた。
「私……戻るわね」
 ふいに氷川がそう言った。
「え?」
「会社……昼休みの時間はもう過ぎてるわ。戻らなきゃ……明日の朝、10時までにはかならず世良さんの家に行きます。約束します。そうだ、向こうの世界には荷物は持っていけるの?」
「あ、は、はい。旅行カバン一つ分くらいなら……ただし、持っていくものには制限があります。植物や生物の類のものは持っていけません。それと電化製品も……それ以外のものは大丈夫です」
 世良は慌てて説明をした。氷川は真剣な顔でそれを聞いてから、納得したように頷くと、しずかに立ち上がった。
「それじゃあ、また後で……ここのお代は奢っていただくわ」
 氷川は笑ってそう言うと、二人に手を振って立ち去ろうとした。
「氷川さん!」
 伊勢崎が呼び止めたので、氷川は驚いて振り返った。
「ありがとう」
 伊勢崎が真顔でそう言ったので、氷川はキョトンとした顔になった後、ウインクをしてみせてニッコリ笑った。そのまま去っていく後姿を、世良と伊勢崎は見送った。
「世良」
「はい」
「絶対……何があっても、オレのアノ話は氷川さんにはするな」
 伊勢崎は酷く押し殺したドスの聞いた声でそう言った。世良は驚いて隣にいる伊勢崎の顔を見た。伊勢崎は真っ直ぐに前を見つめたままで、世良の方は向かなかった。
「伊勢崎さん」
「絶対だ。絶対彼女には言うな。これ以上、彼女を巻き込むな。解ったな」
「……はい。解りました」
 世良は苦しげに答えて俯いた。


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