世良は滝に打たれる修験者のように強めに出しているシャワーのお湯を、頭の上から被りながらジッと何分も佇んでいた。熱めの湯に立つ湯気で、風呂場の中はスチームサウナのように白く煙っている。ザーザーという水音を聞いていると無心になれる。むしろシーンと静かな部屋の中で一人で居るほうが辛かった。
 もう何日伊勢崎と話をしていないのだろう。3日4日……月曜に喧嘩して以来だから4日になる。明日は土曜だというのに、もちろん会えるはずも無く、土日の週末を一人でどうやって過ごしたら良いのかも解らなくて、それを静かな一人の部屋で、カップラーメンを啜りながら考えるとやりきれなくなった。
 きっと人が聞いたら馬鹿馬鹿しいと思うだろう。たった4日話をしないだけで、こんなにヘコむのはおかしい。だけど毎日会社で会っていて、同じ部署にいて、上司と部下の関係で、どうしたって嫌でも会話を交わしそうな間柄で居るにもかかわらず、本当に驚くくらいに話をしていない。
 仕事の間に交わされるのは、彼が上司としての仕事の命令と、それに「はい」と答えるだけの会話。それ以外は本当に何もなかった。
 恋する者ならばきっとこの苦しみを解って貰える筈だ。苦しくて苦しくて仕方ない。恋しくて恋しくて仕方ない。近くに居るのに話しかける事も、触れる事も出来ないことがこんなにも苦しいとは思わなかった。
 ついこの前まで『恋』がどういうものかなんて解らなかった。むしろ自分がちゃんと恋愛できるのか不安だった。どうすれば恋することが出来るのかと悩んでいた。それなのに今は、その『恋』に苦しんでいる。
 自分の本当のパートナーだと思われる氷川と話をした。すべてを打ち明けた。その事によってこれから何かが変わっていくかもしれないという不安に突然襲われた。彼女と話をしたのはつい昨日の夜の事で、それからまだ1日しか経っていないというのに、不安で不安で仕方ない。いっその事彼女から全面拒否されていた方が楽だったのかもしれない。そしたらそれを言い訳に出来たかもしれない。
『男ならハッキリしなさい』
 彼女の叱咤の言葉が今でも繰り返しよみがえる。それは世良にとって、何よりも厳しい苦言だったからだ。伊勢崎を苦しませていたダメな自分を再度他の者から指摘されたような気になった。
「伊勢崎さん……」
 苦しげにその名前を呼んでみた。もちろん答えてくれる相手はここにはいない。だが壁を隔てれば、すぐ隣にいるはずなのだ。何度も外に飛び出して、隣の扉をドンドンと叩きたくなる衝動に襲われた。
「伊勢崎さん、許してください」と何度だって叫びたかった。それで伊勢崎が許してくれて……いや、せめて会って触れる事が出来るのならば、何度だって謝罪する。
 だがそういう問題ではない事は、世良だって十分にわかっている。伊勢崎が言っていた事はそんな事ではないのだ。
 こんな事なら、伊勢崎を抱いたりしなければ良かったと思う。あの唇もあの肌も、すべてが生々しくこの体に残っている。思い出すだけで体中の血が沸騰するように熱くなる。体の芯が疼きだす。
「はぁっ……伊勢崎さん……」
 ギュウッと右手でペニスを掴んだ。熱く熱を持ったペニスは、硬くなりそそり立っている。伊勢崎とのSEXを思い出すだけで、すぐにでも爆発してしまうくらいにペニスが反応してしまう。手で扱く必要も余り無い。先端からは白濁した液体が、次々とあふれ出している。シャワーのお湯がそれを洗い流し、足を伝ってタイルの床を流れていく。
「はあっはあっはあっはあっ」
 肩を上下させながら、荒い息と共に喘ぎが漏れる。右手でギュウギュウと強くペニスを揉むように扱いて射精を煽った。
「伊勢崎さんっ……ううっ……伊勢崎さんっ……うっ」
 ビュルルッと勢い良く精液が飛び、タイルの壁に当たってドロリと流れ落ちた。
「はあはあ……あああっああっ」
 ビクビクと腰を震わせながら、根元から先まで何度も精液を搾り出すように擦りあげて、ダラダラと濃い精液を最後の一滴まで滴らせると、苦しげに声を上げて強く目を閉じた。
 オナニーなんて毎日だ。伊勢崎とSEXをしてから、それ以来毎日。別にしたくてしているわけではない。伊勢崎とのSEXを思い出すだけで勃起してしまうのだから仕方ない。こうして伊勢崎への恋心が募るほどに、更に性欲が強くなる。この歳になるまで……この世界に来て伊勢崎に恋するまで、オナニーなんてしてなかったのに……。
 自慰の後に残るのは、なんともせつない気持ちだけだ。決して何も満たされない。
 大きな溜息を吐いてから、汚れたタイルを乱暴に洗い流してバスルームを後にした。バスタオルで大雑把に体を拭いてから、そのまま腰に巻いてキッチンへと歩いていくと、冷蔵庫を開けて缶ビールをひとつ取り出す。その場で開けてゴクゴクと勢い良く半分ほど飲んだ。
 最近アルコールの量も増えたと思う。アルコールなんて、もちろんこの世界に来てから覚えたものだ。世良の世界でも当然ながらアルコールはあったが、管理教育の元で育った世良には、嗜好品としてそれを嗜む機会など与えられなかった。この世界に来て、初めて酒を飲んで、今だって決してビールを美味しいとは思わない。それでも睡眠をとるためには必要なものになってしまっていた。
 その時リビングからピーピーという電子音が鳴ったので、世良は不思議そうな顔をして缶ビールを片手にリビングへと歩いていった。中央のローテーブルの上に置いている装置が、青いランプを点滅させてピーピーと音を発していた。それは通信の合図だ。
 世良は缶ビールを装置の横に置いて、怪訝そうに眉間を寄せながら、受信のスイッチをONにした。すると装置から光が投射されて、空間に人の形のホログラムが浮き上がる。
「ラ……ライド!」
 その姿を確認して世良は驚きの声をあげた。
『おや、セラ……随分大胆な格好ですね』
 ライドは世良を見て笑って見せたので、世良は慌てて辺りを見回しながら羽織るものを探した。
「す……すみません。シャワーを浴びていたものだから……」
『それは失礼した。そのままでも構いませんよ。寒いなら何か羽織ると良い。誰もいないのですよね?』
「あ、はい、オレ一人です」
 世良は何かを着るのは断念して、腰に巻いているバスタオルが外れないようにギュッと合わせ目を引っ張って、そのままソファに腰を下ろした。
「ところで……いきなりどうしたのですか?」
『君が連絡して欲しいって言ったでしょう? これは私の私用回線だよ』
 ライドの言葉にハッとなって、世良は先日の事を思い出した。
「あ……すみません。わざわざありがとうございます」
 世良は顔色を変えると、神妙な顔になり頭をペコリと下げた。
『何かあったのかい?』
「ライド……オレ……恋しているんです」
『そう。上手くいっているんだね。安心したよ』
 世良の言葉に、ライドは穏やかに微笑んで頷いた。だが世良はライドをみつめながら激しく首を振って見せた。
「違う……違うんだ。オレが恋しているのは、オレのパートナーではない人なんだ」
『なんだって? それはどういうことだい?』
 さすがのライドも驚いた様子で、少しばかり表情を歪ませた。眉間を少し寄せて神妙な顔になる。そのライドの様子からも、それが決して喜べない事であるのは間違いなさそうだ。
「オレは、オレのパートナーではない人に恋してしまったんです。好きで好きで堪らない。胸が痛くて……苦しくて……その人のことを思うと胸が張り裂けそうになるほど……愛しているんです」
 世良は吐き出すようにそう言って、両の手の拳を強く握り締めた。
『その人は、本当に君のパートナーではないのかい? もしかしたらパートナーなのかもしれないよ?』
 ライドは慎重に言葉を選ぶようにして言った。だが世良は間髪居れずに首を振ってそれを否定する。
「パートナーは別にいるんです。確認しています。その人のこと……パートナーの事は嫌いではありません。確かにパートナーだと思えるほど、オレの中の何かが……上手く説明できないけど、確かにその人がパートナーだと認識しています。とても自然に……その人と一緒に居る時間も空間もとても自然に受け入れられる。その人とだったら共に暮らしていける相手だと解ります。だけど……だけどオレは恋を知ってしまった。この思いは、全然違うものなんです。パートナーへの思いとはまったく違う。こんなに激しい感情は知らない……」
 ライドは黙って聞いていた。そして世良が言い終わった後も何も言えずに居た。ライド自身、世良の言葉にかなり困惑しているようだった。しばらくの間沈黙が流れた。世良は俯いて審判を待っているかのようだった。膝の上に置かれた拳が小さく震えていた。
『セラ……その人のことは忘れて、パートナーを選べないのですか?』
「……その人と……SEXしました」
『セラ!?』
「何度も……何度も抱き合いました。キスして……交わりました……忘れる事なんて……出来ないっ……」
『セラ! 自分が何をしているか解っているのですか?! 禁忌を犯しているんですよ?』
「解っています!! だけどっ……止められないんだ! あの人を愛してる。心も体もあの人を求めてる。もう無理なんです。あの人以外を選ぶ事なんて出来ないんだ……ライド、オレはどうしたらいい?」
 世良はすがるような目をしてライドを見た。ライドは険しい表情で大きく口を開いて何かを言おうとした。だが深く息を吐くと、言葉を止めた。一瞬何かを叫ぼうとした。だが出来なかった。世良の目を見て、その真剣さに言えなくなったのだ。
 ライドは自身を落ち着けるように何度か深呼吸をした。吐き出す息は溜息に近い。
『セラ……この事が管理局に知れれば、もちろん貴方は即強制連行されて、恐らく記憶を消去されるでしょう。それ以降の処分は……いえ、貴方だけではない。貴方の愛するその人も……ん?』
 ライドは少し声を潜めながら世良を諭すようにそう言っていたが、途中で何かに気づいたように言葉を切った。眉間を寄せて考え込んでいる。
『セラ……その人と性交渉をしたのはいつの話ですか?』
「……もう4日も前の事です」
『なぜ、管理局は貴方を放置しているのですか?』
「そんな事……オレには解りません」
『貴方が誰かと性交渉をすれば、すぐに管理局には知られてしまいます。パートナーではない相手とだって例外ではありません。いえむしろ……パートナーではない者と交われば、即刻管理局が貴方を連行しに来るはず……なぜなんですか?』
「だからっ……だからオレにも解らないから……こうして先生に助言を求めようと思って連絡したのです」
 ライドは黙り込んでしまった。腕組みをして俯いて考え込んでいる。立体映像の画像ですらもわかるほどに困惑した表情をしていた。世良もただそれを見守るしかなかった。沈黙がしばらく続いた。
『こんな……こんなこと、前例がありません……管理システムの故障か……いや、それもありえない。貴方の生体データは正常値を示している。故障ならば、何らかの数値に異常が出るはずだ。なのになぜ……』
 ライドはひどく困惑しているようだった。いつも冷静沈着な彼のこんな姿を見るのは初めてだった。それ故に事の重大さは世良も十分にわかっていた。
「オレはどうなるのでしょうか?」
『貴方の使命は、貴方のパートナーを見つけ出し、情を交わし、貴方のパートナーがすべてを受け入れて我々の世界に来てもらえるようにすること……その使命には半ば期限はありません。いえ正確には期限はあります。貴方と貴方のパートナーが正常に子孫を残せないという年齢に達してしまったら期限は切れる。貴方がその世界のパートナーを探すのは、健康な遺伝子を持つ子孫を残すためのプログラム。そしてまた急がず急かさず、貴方と貴方のパートナーが結ばれるまでを、貴方の自由にし貴方の意志に任せて、期限が長くなるとも見守る事にも意味があるのです。トラブルを回避するため。貴方のパートナーには、すべてを納得していただいた上で、我々の世界にきてもらわなくてはならない。それほどに異世界間の禁を侵したこのプロジェクトは慎重であるという事なのです。我々の世界も、そちらの世界も、歴史が変わってしまいかねないほどに……解っているはずですよね?』
「はい、何度も何度も教え込まれましたから解っています」
『なのになぜ……』
 ライドは小さく呟くと、額を押さえて大きく溜息を吐いた。
「ライドは、恋をした事は無いの?」
 世良はポツリと呟いた。ライドは、一瞬ハッとした表情になったが、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、俯く世良をしばらくの間ジッとみつめていた。沈黙が続くので、世良が顔をあげると、そこに世良を真顔で見つめるライドの視線があったので世良もビクリとなった。
『はい、恋をした事などありません』
 穏やかな口調でそう答えるライドの瞳をずっと世良は真っ直ぐに見つめ返していた。
「そう……じゃあ、オレの気持ちはわからないんだね」
 真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐな言葉で返してきた世良を、ライドは少し悲しげな瞳になって見つめ返した。
『はい、解りません。多分、永遠に……』


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