世良は必死にその場を取り繕う方法を模索していた。色んなパターンの言い訳を、瞬時に頭の中でシミュレートしてみる。だがその間も、氷川の真っ直ぐな視線が痛かった。
「誤魔化す算段をしているの?」
 氷川は容赦なく世良を追い詰めていた。彼女の声はとても冷静だ。世良は困惑した顔のままで氷川を見つめ返した。
「……じゃあ……もしもオレがスパイとして……その秘密がバレてしまった場合、氷川さんはどうなると思いますか?」
「消されるのかしら?」
 彼女はあっさりと答えた。それはまるで人事のような口ぶりで、深刻さは感じられなかった。だがその視線は変わらずに真っ直ぐだ。まるで世良の心の中を見透かしているかのように……。
「そ……そうですね。映画とかだったらそうだ。怖くないんですか?」
「怖くないわ」
 氷川はまたサラリと答える。その堂々たる様子に、むしろ世良のほうが焦りを感じた。
「氷川さんの仮説では……オレがかなり大掛かりな組織のスパイなんですよね? だとしたら本当に……冗談ではなく消されるかもしれないとは思わないんですか?」
「だから言ったでしょ? 消されると思うわ。冗談じゃなく……どう考えてもね。だって私だって色々と考えたわ。そんなスパイだなんて漫画みたいな話……だけどどう考えたって、普通の理屈では通らないことが多すぎて……。とにかく貴方の存在自体が、理屈では通らないのだもの。いくら現実主義者の人だって、この理屈を通す事は出来ないと思うわ。どうやったらこれだけの規模で、貴方の正体を誤魔化して隠し通せると思うの? それだって産業スパイというには、どういう仕組みで行われているのかさえも理解できないわ。貴方一人を潜り込ませる為に、会社単位で洗脳するなんて……そんなスパイってあるの?」
 氷川はそう自分の考えを語って尚、その自分の言葉自体にも自嘲するかのように笑って見せた。首をすくめて溜息をつく。
「本当に解らないわ」
「でも怖くないんですよね? なんでですか?」
「それは……貴方は私を消す事が出来ないと思うからよ」
「ど……どうして?」
 氷川の答えに、世良はギョッとなった。それは真実ではあるが、彼女の口から確信を持って出される言葉とは思わなかったからだ。
「貴方はそういう事が出来そうにないもの。もっとも私にそう思わせているのも、手管だというのなら貴方は本当にスペシャルなスパイなんだろうけど……」
「それは……褒め言葉と解釈していいんですか?」
「どこが? 貴方には出来そうにないって所? それともスペシャルなスパイって所?」
 彼女が笑いながらそう言ったので、世良も釣られて笑った。そしてひとつ溜息を吐いた。
「そうですね……貴方だけは特別なのは確かです。当たっています」
「あら……どうして私が特別なの? 洗脳していない事に意味があるの?」
「はい、正確に言うと、貴方は洗脳出来なかったんです。唯一、洗脳に掛からなかったんですよ」
 世良の告白に、氷川は目を大きく見開いた。そして息を飲んで何も言わなかった。それは自分の推理していた半ば馬鹿馬鹿しいと思っていた『洗脳』の言葉を世良の口から聴いた驚きでもあった。
「氷川さん……オレは覚悟を決めました。もっとちゃんと時期がきてからと思っていたんですけど、これ以上貴方を誤魔化し続ける事は出来ない。信じてもらえるかどうか解らないけど、すべてを話します」
「いいわ、話して」
 氷川は覚悟を決めたように頷いた。
「オレはこの世界の人間ではありません。異世界から来た人間なんです」
 世良はそう言うと空を仰いだ。丁度上空をヘリコプターが飛んでいて、バラバラというプロペラの音が遥か上空から聞こえていた。氷川も釣られて何かあるのかと空を見上げる。すると世良は懐から銀色の卵型の装置を取り出して、カチリとスイッチを押した。その次の瞬間、世界は無音になった。
「え?」
「話が長くなりそうなので、時間を止めました。お昼休みが終わっちゃうと、氷川さんも怒られちゃうでしょ?」
「え? え?」
 氷川は驚いた様子で、世良を見た後再び空を仰いだ。上空のかなり高いところで、ヘリコプターが静止しているのが肉眼でも見えた。辺りに視線を動かすと、ビルの間を飛ぶハトの群れが空中で静止している。風も音も何も無いその世界は写真のように見えた。
「ど……どういう事? 時間を止めたって……え? なに? 何が起きているの?」
「周りが止まっているように見えますが、実際にはオレ達の時間と周囲の時間の早さが違うだけなんですよ。だから周囲が止まって見えるだけです。この地球上すべての時間を止めるなんて荒業は出来ませんからね」
 世良は言ってクスリと笑った。それでもまだ氷川は信じられないという顔をしている。
「これで少なくともオレが『異世界人』っていうの信じてくれますか?」
 氷川はなおも辺りをきょろきょろと眺めた後、しばらく考えてから世良をみつめてコクリと頷いた。
「じゃあ本題に入りましょう」
 世良は落ち着いた様子で、氷川に総てを話し始めた。世良の世界の事、花嫁探しの事、氷川が花嫁候補である事。その間、氷川はとても真剣な顔で聞いていた。
「これで話はすべてですが……何か質問はありますか?」
「なんだか……混乱してしまってどう言えばいいのか解らないわ……だけど今の話からすると、私は貴方と共に貴方の世界に行かなければならないのね?」
「端的に言うとそうなります。ただこの話は本当は氷川さんがオレと恋人同士になって、お互いに愛し合って離れられないくらいの関係になってからするべき話だったんです。でも今のオレ達では……氷川さんもオレの世界に行く気にはなってくれませんよね?」
 世良はそう言って苦笑してみせた。だが氷川は笑わなかった。むしろまだ困惑しているほうが先立っているようだ。
「猶予ってもらえるのかしら?」
「え?」
「少し頭の中を整理したいの……時間をもらえる?」
「ええ、それはもちろん……これは今すぐにどうという話ではありませんから。ただまずは信じてもらうことが先です」
 世良はそう言うと、装置のスイッチをカチリと押した。途端に世界が動き始める。それまで意識もしていなかったような日常の雑音がドッと辺りを埋め尽くした。風も吹いている。バラバラと上空ではヘリコプターのプロペラの音がして、ゆっくりと上空を横切っていくのが見えた。ビルの合間をハトの群れがゆっくりと旋回するように飛んでいるのも見える。
 氷川はまた驚いた様子で辺りを見回してから、はあと息を吐いた。
「じゃあ……失礼するわ」
 氷川は小さく呟いてから、ゆっくりと扉のほうへと歩いていった。世良はそれを見送ってから、逆の方向へと歩き出した。端まで行くと、フェンスに手を掛けて、辺りの景色を眺めながら深い溜息を吐いた。
 とうとう駒が動き始めた。氷川の答えがどう出るのかは解らないが、もしかしたらこれをきっかけに、正常な関係へと動き始めてしまうのかもしれない。装置が壊れているのではないかと思った世良と氷川の関係、そして世良と伊勢崎の関係。世良は伊勢崎の事を忘れられるのだろうか? 氷川を愛するようになるのだろうか?
 世良はそんな事を思い眉間にシワを寄せた。胸が痛かった。


 氷川からの反応は思っていたよりもずっと早かった。その日の夕方、再び社内メールが届いたのだ。
『今夜話をしたいので時間をとれませんか? 食事をしながらゆっくり話をしましょう』
 世良は少し驚いたが、すぐにOKの返事をした。返事をしてから、ちらりと伊勢崎を見た。伊勢崎はあいかわらず世良を無視するように仕事をしていた。胸が痛んだ。


 その日の夜8時に、氷川から指定された場所で待ち合わせをした。そこは赤坂の駅から近いモダンなつくりの小洒落た和食の店だった。赤坂を指定されたのは恐らく会社から離れたところで……というのが目的だろう。ここならば知り合いに会いそうにも無い。
 通された席は、小さな個室になっていた。
「ここなら気兼ねなく話が出来るでしょ?」
 彼女は落ち着いた様子でそう告げた。
 席に就いて、頼んだ飲み物と先付が運ばれてきて、二人で不思議な形ばかりの乾杯をした。何に乾杯するというわけでもない。それは互いに「おかしな感じ」だとは思っていた。料理は適当にコースの物を頼み、少し落ち着いたところで二人とも無言のままで視線を交わした。
「私ね、貴方のおかげで、今日は全然仕事にならなかったわ」
「はあ、すみませんでした」
「だから逃げ口上として、書類整理するからって書庫に篭ってすごしたの」
 彼女はそう言って苦笑してから先付に箸をつけた。
「それでずっと考えたわ。貴方から聞いた話」
「……それで何かオレに聞きたいことが出来たんですね?」
「ええ、そうよ」
 彼女はこくりと頷いてから、彼女が頼んでいた梅酒のソーダ割りを一口飲んだ。
「信じてはもらえたって事ですか?」
「だって……どう考えたって信じるしかないでしょ? あんなSF映画みたいな事されちゃったら……信じたくないって思うけど、それはただの保身というか現実逃避なのよね。だって頭ではわかっていても、そういう事って信じたくないと思うのが普通じゃない? まあ……異世界人の貴方に同意を求めても無理かも知れないけど……」
 彼女はそこまで一気に語ってからまた酒を一口飲んでハアと息をついた。
「すみません。正直なところ、オレだってこの世界でのこういう任務は初めてだし……本当にこういうやり方が正しいのかさえ解らずにやっているんです。でも貴方が理解のある人でよかった。多分これも貴方がオレのパートナーだからだと思うんです」
「それ……それなんだけど……私は本当に決められた相手で、運命の相手ってことになるのよね? 貴方の話からすると……で、絶対に結ばれるはずだと?」
「はあ、なんか……まだ恋愛に発展していない貴方の口からそういわれると、なんとも恥ずかしい話なんですけど……学者達の話では、過去にそれを違えた事は無いそうです」
「ふう〜ん」
 彼女はなんとも変な返事をした。それが少し気になったが、扉がノックされて最初の料理が運ばれてきたので、世良は黙り込んだまま待っていた。店員が去り扉が閉められた所で、改めて氷川をみつめた。氷川は澄ました顔で、運ばれてきた料理を小皿に取り分けている。ひとつを先に世良に渡した。
「あの……オレもよく解らないんですけど……多分、オレと氷川さんはそうなる相手のはずなんです……多分、これから……時間の期限は無いのです。これから1年とか掛けてそうなるのかもしれませんけど……不満はあると思いますけど……そのオレとの事前向きに考えていただけませんか?」
「ねえ、とりあえず食べましょう。ここの料理美味しいのよ」
「え? あ、はあ……」
 彼女は意図的に話を逸らしてきた。世良は困惑しながらも、なんだかそこで押しの一手に踏み込むことが出来ず、言われるとおりに食事を始めた。それから料理が次々に運ばれてきて、時々食事の合間に、氷川が世良の世界の仕組みや生活などを尋ねてくるので、それに答えるように話をした。
「あの……氷川さん」
 1時間ほどは経っているかもしれない。すべての料理が出揃って、食事もほぼ落ち着いたところで、とうとう世良は話を切り出した。
「氷川さんはその……オレの事が嫌いですか?」
「嫌いじゃないわよ?」
 彼女はあっさりと答えた。3杯目のグラスを片手に彼女はニッコリと答えたが、まだそれほど酔っているという感じでもなく、ふざけているようにも見えなかった。世良はその言葉の意味の解釈に戸惑った。
「好きでもないって事ですよね?」
「そうね……恋愛という意味合いだと難しいわ。貴方は嫌いじゃないし、むしろどちらかというと好きなほうだと思うの。それは男性としても、貴方は魅力的だし、嫌うべき部分は無いわ……もちろんそれがすぐに好みとか恋愛に結びつかないだけだけど……貴方と恋人になることへの抵抗も不思議とないの。それはもしかしたら、貴方の言う……決められたパートナーだからなのかもしれないわ」
 世良はその言葉を聴いてドキリとなった。それは「トキメキ」のドキリとも違った。何か核心を突かれたような、羞恥と焦りの入り混じる不思議な感情でもある。
「あのそれは……これからオレと恋人になっても良いって事ですか?」
「ねえ、逆に質問しても良い? 私が貴方の恋人にならなかったらどうなるの?」
「それは……オレにも解りません。だからさっきも言ったように前例が無いから……絶対にお互いに惹かれあうはずらしいんです」
「でも私たちにまだそれは無いわよね?」
「え? はあ……まあ、氷川さんがオレに対してそんな感情がまだ無いのでしたら仕方ないんですけど……」
「違うわ!」
 世良が困ったように笑って見せると、氷川が少し声のトーンを上げて否定した。それに驚いて世良が目を見開く。
「違うって……何がです?」
「私はともかく……世良さんが私に対してそんな感情がまだないんでしょ?」
「えっ……」
 あまりの核心に世良は絶句してしまった。変な汗が噴出してくる。
「正確には私どころではないって事だと思うけど」
「あの……氷川さん……それは……」
「世良さん、貴方、伊勢崎さんのことが好きでしょ? いえ、伊勢崎さんのことを愛しているのよね?」
「え!?」
 飛び上がりそうなくらいに驚いてしまった。世良は持っていたグラスを落としそうになって慌ててテーブルの上に置くと、どうしたらいいのか分からなくなり目をうろうろとさせて、氷川に対して何も言えなくなってしまっていた。
「私には解るの。だって私も伊勢崎さんの事が好きだもの。愛しているもの……私は貴方の恋人には、今はなれないわ。私は貴方より伊勢崎さんが好き。貴方に渡したくないわ。でも残念なことに、伊勢崎さんは貴方のことが好きよね」
「えっ!!」
 また世良は驚きの余りに絶句してしまった。それは世良も思っても居なかった言葉だったからだ。
「いや……あの……」
「貴方は伊勢崎さんを愛している。伊勢崎さんも貴方の事が好き。私も伊勢崎さんが好き。でも貴方のパートナーは私で、貴方は私を貴方の世界に連れて行く使命がある……なかなか難しい話ね」
 氷川はそう言って溜息を吐くと酒をゴクリと半分飲み干した。
「私ね、貴方と結ばれても良いとも思うの。もちろん貴方の話を聞くまでは、私は伊勢崎さんだけが好きだったんだし、貴方の事……『怪しい男』としか思っていなかったから、今までそんな風に考えた事無かったんだけど……今日ずっと考えていて、私が貴方のことがこんなに気になっていたのももしかしたら、貴方の言うパートナーだからと思えば合点もいくの。それに不思議なくらいに、貴方と結ばれるという事に抵抗も無いわ……だけどね、そうは言っても心はそう簡単な事じゃなくて……私だって真剣に伊勢崎さんの事が好きなのよ。ずっとずっと好きだったの。いまだってそう。だから簡単に貴方の事を好きにはなれない。それに貴方が私よりも伊勢崎さんに惹かれているのであればなお更だわ」
 彼女はそう話しながら頬杖をついて、グラスをコトリとテーブルに置いた。世良はまだ困惑した顔のままで呆然と話を聞いている。
「ねえ、ハッキリとしなさいよ。貴方は誰が好きなの?」
 氷川がドンッとテーブルを叩いて言ったので、世良はハッとなって氷川をみつめた。
「貴方の言葉で聞かせて」
 氷川は真剣な顔をしている。世良は戸惑いながらしばらく考え込んだ。
「男でしょ! ハッキリしなさい!」
「オ……オレは……伊勢崎さんが好きだ。伊勢崎さんを愛してる。誰にも……渡したくない」
 世良は勢いでそこまで言ってから、ハッとなり慌てて両手で口をふさいだ。だが氷川は満足そうな顔でニッコリと笑っていた。
「これで決まったわ。私達はライバルって事よね? まあ……伊勢崎さんの気持ちを得ていない分、私の方が負けているけど……でも貴方の本当のパートナーが私である以上、貴方はハッピーエンドではないのよね? いいわ……これからどうなるか、私、貴方の言う運命に乗っかってあげるわ」
「氷川さん」
「私、SFファンなの」
 氷川はニッコリと笑って残りの酒を飲み干した。


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