「大場! すぐに営業管理部の佐伯さんに連絡して、フランチャイズチェーン吉松亭の昨年前期の仕入れリストのデータを貰ってきてくれ! 井口! ちょっと来い……ほら、こことここ……数字間違ってないか? グラフがおかしいだろう。すぐ算出し直せ」
 伊勢崎は、朝からものすごい勢いで部下達に発破をかけながら仕事をこなしていた。確かに今は忙しい時期ではある。来春の新企画案として伊勢崎達のチームが出したプランが、会社の新規事業として通り、彼らの企画室から販売営業部へとバトンタッチされて動き始めた。伊勢崎達は企画を立てて、はい、それでおしまいというわけには行かない。企画が実行されてそれが成功するために、市場調査をして販売営業部のフォローに回らなければならない。それも企画室の仕事だ。
 とは言っても、まだ5ヶ月も先の話で、今……それも今日からモーレツに忙しくなっているわけではない。
 伊勢崎が猛烈な勢いで仕事をこなすのは、もちろん考えたくないことを考えなくて良いようにするためだ。忙しければ考える暇もない。ホッと少しでも気を抜けばついつい考えてしまいそうになる事がある。
 それは……今もずっとチラチラとこちらに視線を送ってくる男の事だ。
 今朝、伊勢崎はいつもよりも30分も早く家を出た。それはもちろんこの男……世良と顔を合わせたくなかったからだ。顔だけじゃない、一緒に通勤なんてしたくなかった。でも避けているだけで、別に嫌っているわけではない。ただ……自分の気持ちに整理がつかないだけなのだ。整理をつけるためには、色々と考えなければならないことがたくさんある。だがそれを今は考えたくなかった。だからこうしてがむしゃらに仕事をしていた。
 世良はずっとそんな伊勢崎を気にしてチラチラと見ている。その視線にも気づいている。だがそれを強引に頭の中から撥ね退けていた。彼の視線を意識してしまったら、もっと色々と考えてしまいそうだからだ。
 そんな伊勢崎のいつもと違う様子を気にしているのは世良だけではなかった。このフロアにいる伊勢崎の部下達も皆、口には出さないが気にしていた。皆が少し戸惑った様子で、チラチラと伊勢崎を見たり、他の同僚と視線を合わせたりしている。なんともいえない微妙な空気が、部署の中を流れていた。


 正午のチャイムがなった所で、一瞬皆の中に安堵の空気が漏れた。このなんともいえない雰囲気の中から開放されると思ったからだ。
 ガタリと音がして伊勢崎が立ち上がった。
「昼食に行ってくる」
 ポツリと小さく呟くと、誰とも目をあわさずに足早に部屋を出て行った。そのすぐ後にガタガタと激しい音を立てて世良が立ち上がり、上着を掴んだまま慌てて後を追いかける。その様子を、皆はポカンとした顔で見送りながらも、二人がいなくなったと同時に、ざわざわと室内がざわめきたった。
「……伊勢崎さん……なんかあったのかな?」
「世良も様子がおかしかったけど……なんかやらかしたのか?」
「なんかさ……伊勢崎さん、ちょっといつもと様子が違うくなかったか? その……変に……色っぽいっていうか……」
「バカッ! お前、何言ってんだよ!」
「いや、例えだよ、例え!」
「ああ……うん、オレ、それなんか分かる……」
 口々にそう話し合い、急にシーンとなってしまった。一同が顔を見合わせて複雑な顔で笑みを浮かべていた。


「伊勢崎さん! 伊勢崎さん!」
 早足で廊下を歩く伊勢崎を走って追いかけながら、世良が大声で名前を呼ぶので、廊下を歩く人々が驚いたような顔で二人に注目していた。伊勢崎は憮然とした表情で、眉間にしわを寄せながら、イライラとした足取りでそれでも先へと急いでいた。
「伊勢崎さん! 待ってください!」
 ようやく追いついた世良が、ぎゅっと伊勢崎の右手首を掴んだので、伊勢崎はギョッとした顔になって立ち止まると、ギロリと世良をにらみつけた。
「馬鹿野郎! 離せ!」
 思わず怒鳴ったので、周りの人々も驚いて足を止める。
「伊勢崎さん、ちょっと……」
 さすがに皆の注目を浴びて、マズイと思った世良は、辺りを見回してすぐ傍の会議室の『空き室』マークを確認すると、伊勢崎の手を引いて慌てて中へと入っていった。バタンと扉を閉めて、扉横のスイッチのひとつを押した。廊下側の一面の窓ガラスの中に設置されている目隠し代わりのシェードが自動的に閉まって、外からこちら側が見えなくなった。
「バカ! 何するんだ! 世良っ……んっ……」
 怒って抗議しようとする伊勢崎の腰をぐいっと抱いて引き寄せると、世良は伊勢崎に強引にキスをした。伊勢崎は一瞬驚いて硬直してしまったが、強く唇を吸われて、舌を入れられてハッと我に返ると、必死にもがいてなんとかキスから逃れようとした。
「やめっ……んっ……おまっ……」
 何度か唇が離れるたびに、必死で講義する伊勢崎だったが、世良は強引にキスを続けようと求めてくる。伊勢崎はバンッと強く世良の胸を叩くように押しのけて、ようやく逃れる事が出来た。
「バ……バカ野郎! いきなり何をするんだ! ここは会社だぞ!」
 ハアハアと肩で大きく息をしながら、伊勢崎はぎろりと世良を睨み付けて、右手の甲で口元を拭った。
 すると世良は眉間を寄せて不満気な顔で伊勢崎を見つめ返す。
「伊勢崎さんこそ……なんでそんなにオレを避けるんですか」
「はあ!? 今はそんな話をしているんじゃないだろう!」
「じゃあなんで、今朝はさっさと先に出勤したんですか!? それに会社では全然オレと目をあわそうとしないし……」
「だからっ! ここは会社だろう! 何寝ぼけた事を言ってるんだ! 公私混同もいい加減にしろっ!」
「オレ達、恋人同士になったんじゃないんですか!?」
 世良が思わず言い返した言葉に、伊勢崎はカアッと赤くなると、右手を振り上げて世良の頬を殴りつけようとした。だが寸でで止めると、ぐっと唇を噛み締めてからペチリと軽く頬を叩く。世良はそれでもそんな行動に出てきた伊勢崎を、信じられないというような顔で見つめ返した。
 伊勢崎は大きく息を吸い込んだ。それから頬を軽く叩いた右手をギュッと握り締めて拳を握ると、まるで自分の感情を押さえ込むかのようにそのまま自分の胸元へと戻して息を吐いた。
「ふざけるな……たかがちょっと寝たくらいで……恋人面するなよ……」
 伊勢崎は視線を床に落としたまま、声を押し殺すようにそう呟いた。
「なっ! ……じゃ……じゃあっ! 伊勢崎さんは誰とでも簡単に寝るんですか!?」
 世良の言葉に、伊勢崎はカッとなった様子で顔を上げて何か言い返そうとしたが、すぐに口をつぐんで止めると、また視線を床に落とした。両方の拳に力が入る。まるで自分の中の何かと戦っているようだった。
「子供じゃないんだ……別にオレは童貞じゃないしな、お前と違って……SEXくらい……でも今話しているのはそんな事じゃないだろう。ここは会社だし、公私混同するなって言ってるんだ。それにオレ達はちょっと寝ただけなんだから……いちいち恋人面したりベタベタするなって言ってるんだよ」
 伊勢崎はあくまでも冷静さを装って淡々とした口調で続けた。世良はそれにショックを受けたように眉間を寄せて唇をかすかに震わせている。
「伊勢崎さん! オレは本気なんだ!! オレが伊勢崎さんの事を好きだって事知っているでしょ!? オレにとっては貴方とのSEXは特別だったんだ。伊勢崎さんも受け入れてくれたから、オレと寝てくれたと思っていたのに……そんな……ひどい」
「大きな声を出すなよ」
「オレと寝たのは気の迷いだったんですか? 本当に誰とだって寝るんですか!?」
「黙れ!」
「氷川さんの方がいいんでしょ? それともオレをからかって楽しいんですか?」
「黙れ!!」
 ガシッと世良の胸倉を掴み上げると、伊勢崎は強く世良の瞳をにらみ付けた。
「そんなに言うならっ……お前こそどうなんだよ! お前には花嫁探しという使命があるんだろっ! オレとこんな事になって、これから先どうするつもりなんだ! お前はそれのケジメをちゃんとつけれるのか? オレを恋人にして責任取れるのか!? どうせ氷川さんを連れて自分の世界に帰るんだろう! オレはっ……オレはお前と寝ただけだって、自分を納得させねえと惨めじゃねえかっ!!」
「い……伊勢崎さん……グッ」
 伊勢崎はドカッと世良の腹に拳を入れていた。
「ふざけてるのはお前の方だ……ゲイでもないオレが、男に抱かれるって事が、どれくらい覚悟がいる事か……自分でケジメもつけられないんなら、二度とオレに近づくな!」
 伊勢崎はそう吐き捨てると、世良の体を乱暴に離してクルリと背を向けると会議室を後にした。
 バタンと乱暴に閉じられた扉を、世良は苦しげに殴られた腹を押さえながらみつめているしかなかった。


 電気もつけていない真っ暗な部屋の中で、世良は深刻な顔のままで机の上に置かれた金属製の装置をみつめていた。小さく深呼吸をすると覚悟を決めたように自分のズボンのポケットから取り出した楕円形の金属の装置を握り締めて、その机の上の装置に向かって掲げた。チチチッと小さなアラームのような音が鳴り、ブーンと機械の作動音がかすかに静かな部屋の中で鳴る。
 机の上の装置がチカチカと小さな赤と青のランプの光を瞬かせて、やがて部屋の中央に光を投射し始めた。投射された光は人の形を作り、それはやがてよく知っている人物のホログラムへと変わっていった。
『セラ……君からの通信とは何かあったのかい?』
「ライド……」
 ライドはいつもと変わらぬ穏やかな口調で微笑みながら世良に向かって話しかけてきた。
「あの……そっちで何か……オレの事で問題になっているような事は無い?」
 世良は深刻な顔でそう尋ねた。ライドは不思議そうな顔になり少しばかり小首を傾げてから、クスリと笑った。
『問題になるようなことをしたのかい? セラ……先日の私からの通信は、私の特別通信路を使っているからいいけど、これは君からの通信だから……管理でも傍受されているよ? それでもいいの?』
 ライドがからかうように言ったので、世良は一瞬ハッとした顔になったが、グッと拳を握り締めて顎を引くと、また真剣な顔でライドをみつめた。
「問題になるようなことはしていないけれど……管理が無反応だから、時々このままで大丈夫なのか不安になっただけだよ。何もないのならいい」
 世良にとってはある意味の賭けだった。世良の信じるライドが、その通りの人物ならば、総てを語らなくとも世良が言いたい事はわかってくれるはずだと思ったのだ。
 世良が気になっていることはただひとつ。世良が結ばれるべき相手ではない者と性交渉を行ってしまったというのに、管理がまったく無反応であることが気になっていたのだ。即刻強制退去されても仕方が無いはずだ。世良自身は、伊勢崎とのSEXに溺れ、舞い上がり、伊勢崎に殴られるまでその事実を忘れていたのだ。
 ライドはしばらくジッと黙ったままで世良をみつめていた。やがて小さくため息を吐いてニッコリと笑った。
『君が何もしていないことはないだろう? もちろんこちらにも報告は来ているよ。君がパートナーを無事にみつけて、その相手と無事に結ばれたという嬉しい報告がね』
「パートナーと……」
 世良は我が耳を疑うかのように驚いた。だが露骨に態度には出さず、息を止めて小さく呟いて拳を更に強く握り締めた。
『どうした? 違うのかい?』
「いいえ……そうです。その通りです」
『じゃあ、こちらに戻るのも間近だな……私も早く君のパートナーに会いたいよ』
「ライド!」
 世良は少し強い口調でライドの名を呼んだ。
「ライド! ぜひ、また連絡してほしい」
『セラ?』
 急にそんな態度を取る世良にライドは当惑した顔になった。
「ライド! ぜひまた! 貴方から連絡が欲しい! 貴方から!」
 それは世良からのメッセージでもあった。しばらくぼんやりとしていたライドだったが、その意図を察知して、こくりと頷いた。
『ああ、また私から連絡するよ……じゃあ、パートナーによろしく』
 そこで通信が切れて、ライドのホログラムも掻き消えた。再び部屋は真っ暗になり、静けさが戻る。世良は安堵の溜息を漏らした。ライドは解ってくれた。近いうちにまた『特別通信路』から個人的に通信してくれるはずだ。そうしたら聞いてみよう……なぜ『管理』が、伊勢崎をパートナーと勘違いしているのかを……。


 翌日も伊勢崎は先に出勤してしまっていた。世良はいつもの時間に出勤し、すでに伊勢崎が到着しているオフィスへと向かった。
 目もあわせずに挨拶だけをすると、自分の席に着きパソコンの電源を入れた。あれ以来、世良の方からも伊勢崎をまともに見る事が出来なくなっていた。自分の未熟さと甘さに後悔だけが残る。
 伊勢崎になんであんな事を言ってしまったのか……そして伊勢崎になんであんな事を言わせてしまったのか……ただただ舞い上がっていた自分のバカさ加減に愛想を尽かすほどだ。
『オレはお前と寝ただけだって、自分を納得させねえと惨めじゃねえかっ!!』
 伊勢崎のあの言葉が、何度も何度も頭の中に繰り返し響き渡る。それを思うと胸が締め付けられるように痛かった。「そんな事は無い」と抱きしめられたらどんなにいいだろうかと思う。だが世良は、伊勢崎の言うとおり、何一つケジメをつけられずに居るのだ。
 パソコンが立ち上がり、メーラーを起動させると『着信あり』のメッセージが入った。メールボックスを開いて、何件か届いているメールの件名に軽く目を通す。その中のひとつに目が留まり、クリックして開いた。
 メールの差出人は、秘書課の氷川からだった。
「至急で話したい事があります。本日12時過ぎに屋上に一人で来てください」
 文面はそれだけの簡単なものだった。世良はなんだろう? と一瞬怪訝に思ったが、彼女もまた避けてはいけない『ケジメ』の一つでもあることを思い出した。彼女は恐らく、世良の花嫁に間違いない。目を閉じて深い溜息を吐いた。


 世良は12時になると同時に立ち上がると、屋上へと向かった。お昼に誘おうかとしていた同僚達が、不思議そうな顔でそれを見送っていた。
 足早に廊下を歩き、エレベーターで最上階まで行くと、屋上へと行ける非常階段へと向かった。階段を駆け上がり、鉄の重い扉を開くと、強い風が吹き込んできたので目を細めた。 外は快晴で、屋上は風もありとても気持ちの良い場所だった。辺りを見回すと人影は無く、少し歩いて非常口の反対側のフェンス寄りに氷川の姿があった。
「氷川さん」
 世良はゆっくりと近づくと氷川の後姿に声をかけた。
「話ってなんですか?」
 すると氷川はゆっくりと振り返ると、しばらくジーッと世良の目をみつめていた。世良はちょっと困ったような顔をしてみせた。
「どうかしましたか?」
「世良さん」
「はい?」
「貴方は一体何者なの?」
「え?」
「貴方は一体何者なの? まさか産業スパイ? それとももっと国家的な大きな……」
「あの……氷川さん……どうしたんです? 何を言っているんですか?」
 世良は誤魔化すように笑って見せたが、氷川は真面目な顔のままで、視線を逸らさずに世良をみつめていた。
「世良大輔という人物はウチの会社には在籍しないわ。私は誤魔化されないわ。家でみつけたの、去年の我が社の社員名簿のコピー。そこに貴方の名前はなかったわ。それで確信したの……私はずっと貴方の存在を疑っていたけれど、誰に聞いても解ってもらえなかった。まるで会社中が洗脳されてるみたいに……そんな大掛かりな事、普通のスパイでは出来ないでしょ? でも少なくともそれだけの事をしてまでも貴方はウチの会社に昔から居るかのごとく潜り込んでいる。それは偶然でもなんでもないわ。貴方が意図してしていることでしょ? じゃあ、貴方は一体何者なの? 何が目的なの?」
「氷川さん……」
 世良はゴクリとつばを飲み込んだ。


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