伊勢崎は閉じた玄関の扉に背中を預けて凭れ掛かるとハアと大きく溜息をついた。掴まれた腕に、世良の力強い感触が残っている。その部分をそっと撫でてから、右手の親指をみつめた。
 硬いような柔らかいような独特の感触。少し湿り気のあるそこは、気のせいではあるが熱かった様に思う。そして少しばかり震えていたような気がした。ジッと指をみつめてまた溜息を吐くと、ハッと我に返った。
 カアッと耳まで赤くなってから、慌てて靴を脱ぎ捨てて部屋へあがると、洗面所に駆け込んで電気も点けないままで、ジャバジャバと手を洗い始めた。石鹸をつけて念入りに洗うと、顔もバシャバシャと乱暴に洗った。
 水を止めてフウと息を吐くと、タオルで拭きながらジッと鏡をみつめる。暗い洗面所には、廊下からの明かりが漏れ入るだけで、鏡に映る顔はぼんやりとしか分からず、顔色まではハッキリと判別できない。
 伊勢崎は眉間を寄せるとプイッと鏡から視線を逸らして、廊下へと出た。明るくなくてよかったとも思う。赤面している顔などを見てしまったら、それこそショックを受けていたかもしれない。
 ネクタイを外して、シャツのボタンを上から2つ外しながらリビングまで歩いていくと、上着を脱いでバサリとソファの背に投げ掛けて、そのままドサリと体を投げ出すように座った。グッタリとなるように背を預けて、天井をみつめながらまた溜息を吐いた。
「……ったく……あいつはどういうつもりなんだ」
 力いっぱい毒づく様に呟いて目を閉じた。キスを教えてやると伊勢崎が言った言葉に、何の疑いも持たずに素直に目を閉じて待つ世良の顔が浮かんだ。目尻と頬がが少し赤くなっていたように思う。だから親指を唇に押し付けるとき、少しドキリとなって躊躇してしまった。
『オレ、伊勢崎さんが好きです』
 世良の言葉を思い出す。『何ふざけてんだよ』と伊勢崎は咄嗟に言ったが、世良がふざけていない事なんて、本当はあの時わかっていたのだ。あの顔、あの目は本気だった。だから『冗談』にしたくて、伊勢崎が咄嗟にそう言ったのだ。
 男から告白されて、それも『本気』で告白されて、慌てない者なんていないと思う。それも嫌いな相手やそんなに親しくない相手だったら『ふざけんな、死ね』と切って捨ててるところだが、親しくしていて、気に入っている相手、好きな相手の場合(もちろん『好き』というのはノーマルに友人・知人に対しての気持ちだ)こんなにも焦ってしまうものだなんて思わなかった。
 こんなことに対する耐性なんて持っていないし、どんな風に交わせばいいかも分からない。
「ああ、オレも好きだよ」なんて余裕で答えて、軽く交わしてそのまま冗談みたいにうやむやにしてしまえば良かったのだろうか? とふと閃いた。
 そうだそうすれば、こんな逃げ帰るみたいなみっともない失態をさらさなくてもよかったはずだ。なぜあの時、伊勢崎もテンパってしまったのだろう。いやそれよりもなんで一緒になって、焦ってドキドキしてしまっていたのだろう。頬が熱いのは、赤面してしまっているからなのだと思うけど、それの理由が単純にビックリしたから血圧が上昇してしまったからなのか、告白されてドキドキしてしまったからなのか……。
「んな、訳ねえだろっ!」
 自分の考えに思わず突っ込みを入れた。そしてガバッと体を起こすと、両手で頭を抱え込んで、ワシワシと髪を掻いた。
 その時、ピンポンと玄関の呼び鈴が鳴る。伊勢崎はピクリと少しだけ反応したが、頭を抱えたまま動こうとはしなかった。嫌な予感がしたからだ。
 無視を決め込むと、またピンポンと鳴る。ピンポンピンポンと、数回しつこく鳴らされて、やがて「伊勢崎さん! 伊勢崎さん開けてください!」という声が聞こえてきた。
 伊勢崎は頭を抱えたポーズのまま固まってしまった。嫌な予感が的中。
「伊勢崎さん! 伊勢崎さん!」
 世良の必死な声が聞こえてくる。そして再びピンポンと呼び鈴。
 伊勢崎は頭を抱えたまま動かず、断固として無視を決め込んだ。しかし呼び鈴攻撃はいつまでも諦めることなく続き、さらに世良が名前を呼び続ける。
「くそっ」
 伊勢崎は勢いよく立ち上がると、ズカズカと大またで歩いて玄関まで行き、ダンッと扉を叩いた。
「何時だと思ってんだ! いいかげん帰れ!!」
「帰りません! 伊勢崎さん中に入れてください」
「ふざけるな!」
 ドア越しに怒鳴り返してそれ以上は黙り込んだ。
「伊勢崎さん、お願いです。開けてください。伊勢崎さん」
 世良は諦める様子もなく、ずっと呼びかけてくる。伊勢崎は舌打ちしてから鍵を開けて、扉を15cmほど開いて覗き見た。そこには泣きそうな顔をして世良が立っていた。
「何の用だ」
「さっき……あんな別れ方して、伊勢崎さんが帰っちゃったから……ちゃんと話をしたくて」
「別に話すことなんてないよ」
「だけどオレ、伊勢崎さんに嫌われたら……」
「嫌ってないっ、嫌ってない嫌ってない、嫌ってないよ。はいはい、これでいいだろう。気が済んだら帰れ」
「そんな言い方……ちゃんとオレと話をしてください」
「お前と話すことなんて別にねえよっ! オレは別にさっきの事で怒ってないし、嫌ってもない、月曜になったら普通にまた会って仕事して……オレ達はただの上司と部下だろう。お前のプライベートのことにまでは口は出さねえよ」
 伊勢崎が強い口調でそう言ったが、世良は眉間を寄せて唇をキュッと噛んで、納得のいかないという顔で伊勢崎をみつめている。諦める様子はないようだ。しばらく睨み合ってから、伊勢崎が根負けしてハアとため息を吐くと扉を大きく開いた。
「さっさと入れよ」
 言われて世良はおずおずと中へと入る。伊勢崎はバタンと扉を閉めて、さっさと部屋の奥へと去ってしまった。残された世良は「お邪魔します」と小さく言ってから靴を脱いで、中へと入っていった。リビングまで入ると、伊勢崎がソファに座って憮然としている。世良はその横に立ったまま、モジモジとなっていた。
「ったく……面倒くさい奴だよ……お前は」
「すみません」
「話があるんだろ? さっさと話せよ」
「……」
 黙りこんでしまったので、伊勢崎は振り返って立っている世良を見た。また世良は泣きそうな顔で立っている。伊勢崎はチッと舌打ちした。
「座れば?」
「はい……」
 世良はのろのろと動いて、テーブルを挟んだ向かいの床に正座した。されを見て、伊勢崎はまた舌打ちをする。
「ソファに座れば!? お前いつも勝手ににソファに座ってるだろっ」
「でも……伊勢崎さん、そのソファに男と一緒に座るのは嫌だって……」
 小さな声で世良がそう言うので、伊勢崎はイライラと眉間を寄せる。
「いいから座れよっ!」
 強い口調で言われて、世良は仕方なく立ち上がると、伊勢崎の隣に座った。できるだけ端によって、伊勢崎との間を空ける。そういう行動も伊勢崎をイライラとさせた。まるで伊勢崎がいじめっ子みたいではないかと思う。
「で? 話って?」
「……聞きたくないかもしれないけど……さっきの話です」
「聞きたくないな」
 即答で伊勢崎が答えたので、世良はシュンとなってうつむいた。伊勢崎は舌打ちして立ち上がると、台所へと歩いていった。冷蔵庫を開けて缶びーるを2つ取り出すと戻ってきて、1つを世良に渡した。自分の分を開けると、再びソファにドカリと乱暴に座ってから、缶からゴクゴクと直飲みする。
「聞くよ、だが酒でも飲まないと聞いていられない話のような気がするからな」
 ぶっきらぼうに伊勢崎が言うので、世良は手に持った缶をジーッとしばらくみつめてからプシュッと開けると、ゴクゴクと半分ほどを一気に飲んだ。それを伊勢崎は意外そうにみつめる。
「伊勢崎さん、オレ、さっきハッキリと気づいたんです」
「……何に」
「オレ、伊勢崎さんに惚れています。好きです。愛してます」
 キッパリと言い切った世良に、伊勢崎は口をポカンと開けて、大きく目を見開いて、言葉もなくそんな世良を凝視していた。世良は言い終わると、残りのビールも一気に飲み干して、トンッと空き缶をテーブルに置くと、濡れた口元を手で拭った。
「本気です」
「ふざけるなっ!!」
 思わず叫んでいた。伊勢崎は勢いで手に持っていたビールを零しそうになる。
「ふざけていないって言ってるでしょ!」
 珍しく世良も怒ったように大きな声で言い返してきた。その勢いに押されて、伊勢崎はウッと口ごもる。
「これは恋なんだ。オレ、恋がどういうものかなんて全然分からないと思って不安になっていたけど、今なら分かる。この気持ちは恋だ。伊勢崎さんにオレは恋してる」
「ば……は、ばかっ違うっ、違うって! 勘違い、勘違いっ!」
 伊勢崎は焦りながら、飲みかけの缶をテーブルに置いて世良を宥めようとした。
「いいえ、恋しています。伊勢崎さんの事を考えると胸が痛くなる。伊勢崎さんの事ばっかり考えてしまう。伊勢崎さんとキスしたい」
 世良はそういうと、赤い顔をしてズイッと伊勢崎に迫った。それは酔っ払っているから赤い顔なのか、興奮しているからなのか、そんな判別は出来なかった。とにかく世良の勢いに気圧されて、伊勢崎は身を引くしか出来ない。
 仰け反るように身を引く伊勢崎に、迫りよる世良は両手を伊勢崎の体を捕獲するように、ソファの背に付いて挟んだ。
「ま……待て、世良、落ち着け!」
「伊勢崎さんはズルイ!」
「へ?」
 一瞬そのままキスをされるのではないかとビビッていた伊勢崎は、世良の言葉にちょっとポカンとなつて見つめ返した。ものすごく近い距離に世良の顔があるのだが、世良はまた泣きそうな顔をしている。なんでこの体勢でそんな顔するんだよ……と思わず思っていた。
「オレにすごく優しくするくせに、ヤバクなるとすぐ誤魔化して逃げてばかりだ。話も聞こうとしない」
「そ……そりゃあお前……オレはただ、お前に協力してやっているだけで……オレはホモじゃないし、普通はこんな場合は誤魔化して逃げるしかねえだろう」
「オレとあなたはただの上司と部下なんでしょ? いや……それだってオレが、勝手に作り上げた嘘の関係だ……迷惑ならいつだって、オレを突き放して見捨てればいいでしょ? なのに優しくする。本当に嫌なら、殴るくらいに本気で抵抗してくださいよ」
「お前、待てよ。落ち着けよ! なんか色々と話が混乱してるぞ! お前がオレを好きだって自覚したのはさっきなんだろ? それだってまだハッキリしてないんだろ!? 誤魔化すとか、優しくするとかそんな……」
「じゃあ、キスを教えてやるなんて言わないでくださいよ」
「あれは……だってお前……」
「本当にオレに優しく世話してくれるんなら、キスの仕方を教えてください」
「バカッ……だからそれは」
「誤魔化さないでください。あなたがいくらなんでも、それは男同士で本当に気持ち悪いって思うなら、こんな風に理不尽なことで迫られて、そんな優しくしてないでオレを殴ればいいでしょ?」
 そんな事言われたって、普通殴れないだろう……と伊勢崎は思ったが口には出さなかった。伊勢崎自身、今の状況に混乱していた。別に優しくしてやっているつもりはない。だが殴ってまで抵抗するつもりもない。むしろ今の状況にドキドキして焦っている。それに混乱していた。
「キスをしますよ!」
「な……」
 世良は問答無用に顔を近づけてくると、唇をくっつけてきた。そう、それは「くっつけてきた」という表現が正しい。キスじゃない。ムニュッと唇がくっついてきて、勢いで鼻はぶつかるは、前歯が唇を挟んでガチッとあたって痛いは、それはキスなんてものではなかった。
「イテッ」
 思わず伊勢崎が言うと、世良は少し顔を離して困ったような顔でみつめる。
「ヘタクソ!! そんなんキスじゃねえだろっ!」
 伊勢崎は思わず怒鳴ると、右手を世良の頭の後ろに回して引き寄せるようにして、キスをした。少し顔を傾げて唇を重ねるように触れさせて、チュウと軽く吸って離す。
「キスはこうすんだよ」
 少し顔を離してそういうと、世良は目を大きく見開いて言葉を失っていた。伊勢崎はヤケクソでもう一度グイッと顔を引き寄せて唇を重ねる。唇で世良の下唇を挟むように食んでチュウと吸う。吸った唇を離すと舌で世良の唇を舐めた。もう一度今度は唇を押し付けるように重ねて、ゆっくりと顔を離した。
「これがキスだ……分かったか」
 伊勢崎が世良の鼻先で囁くと、今度は世良の方から唇を重ねてきた。ぎこちないが、伊勢崎のやり方を真似るように、今度は歯が当たる事はなかった。チュウと唇を吸ってくるのでそれに答えてやる。唇を吸って、食むように愛撫して、舌で舐めて……世良のキスに答えて、伊勢崎がまたキスを返して……次第に濃密なくちづけへと変化していく。
 気持ちいい、あれ? 全然オエッて思わない、とても気持ちいい、興奮する……そんな事を伊勢崎はぼんやりと考えていた。オレ、元々快楽には弱くて流されやすいんだよな……とかも考えていた。
「んふっ……はっ……んっ」
 興奮して息が弾む。舌を絡ませあい、くちづけの合間に互いにどちらのか分からない喘ぎが漏れる。熱い息遣いもさらに興奮を掻き立てる。
 口付けはさらにエスカレートしていき、世良はもう夢中で貪るように、伊勢崎を求める。絡みつく伊勢崎の舌の動き合わせて、世良も舌を動かして愛撫に答える。ずいぶん長い時間キスを続けていた。どちらも止められなくなっていた。
 ふと伊勢崎の腰の胸に、硬いものがゴリゴリと当たっていることに気が付いた。当たっているというより、世良が腰を動かして押し付けてきているのだ。それが何かはぼんやりと分かっていた。
『勃起しちゃったのか……』と、のんきに思うだけだ。激しくキスを求め合う行為にのめりこんでしまっていて、そのことに付いて深く考える余裕はなかった。
 伊勢崎自身も、少しばかり立ち上がりかけているのを実感していた。男の本能なのだから仕方ない。キスをして欲情したら、意思に関係なく勝手にちんぽは勃つものだ。
 ゆるゆると腰を動かして、股間を伊勢崎の腰骨に擦り付けてくる。世良の息も弾んでいる。その興奮している世良の様子に、伊勢崎もなぜかひどくそそられた。
 世良の腰の動きが次第に早くなってきたと思ったら、「うっ」と小さく呻いてブルブルと身震いをした。
「ん……?」
 キスが止まったので伊勢崎が薄く目を開けると、世良が赤い顔をして、眉間を寄せて両目を硬く閉じてから震えている。やがてハアハアハアと大きく肩で息しながら目を開けたので、伊勢崎と目が合った。世良はカアッと更に赤くなる。
 腰に押し付けられている世良の股間が、ビクビクと痙攣しているのをズボン越しに感じた。
「……お前……出ちゃったのか?」
「す……すみません」
 世良は赤い顔のままで、消え入りそうな声を漏らした。伊勢崎は少し体を動かして、世良の股間に視線を送ると、薄いグレーのスーツのズボンの前部分が、濡れて染みのように色が変わっていた。
「……」
 伊勢崎は同情の混じった目で世良を見るしかなかった。


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