帰りの電車で、伊勢崎は一言もしゃべらなかった。伊勢崎がしゃべらないから、世良もしゃべらない。ただ世良は伊勢崎の様子を気にして、並んでつり革に掴まりながら、横目でチラリチラリと時々盗み見る。伊勢崎は、少しばかり世良から顔を逸らすように、斜め反対側に顔を向けていた。
 電車の窓に二人の姿が映る。45度ばかり斜め向こうを向いている伊勢崎の顔が見える。その表情は読み取れない。ぼんやりとしているように見えるだけで、むしろ無表情だ。怒っているのかどうかさえも解らない。
 窓に映る世良の顔は、最低最悪な表情をしている。そして何度目かの溜息をついた。
『やっぱり……伊勢崎さんには話さなきゃ』
 世良はそう決意していた。


 駅からマンションまでの帰り道もずっと二人は押し黙っている。だが伊勢崎は、特に歩調を速めるでも遅めるでもなく、世良と同じ歩調で歩いていた。
 それでも怒っているのだろうと、世良は思っていた。怒らないはずはない。自分が伊勢崎の立場だったら、絶対に怒ると思う。
『伊勢崎さんが好きだと言っていた氷川さんが、もしかしたらオレの花嫁候補かもしれないなんて……』
 まさかとは思うけれど、もうそうとしか思えない。
―――記憶の操作が出来ない。
 それは世良にとって、パートナーである証に他ない。それでもなんだかピンとこないのは、先に『伊勢崎』という特例が出来てしまっていたからだ。だが伊勢崎は男で、世良の花嫁にはなれない。まさかまさかと思い続けて、気がついたらなんだか世良にとって、恋愛感情にも似た好意的な感情が、伊勢崎に対して芽生え始めたりしていた頃で、さらにその所為で、まさかまさかと思って……いた矢先の今回の事件。
 記憶操作の出来ない人間が現れた。相手は女性。それならばまちがいなく、世良が探していたはずの花嫁に他ならない。
 ちゃんといたのだ。装置が壊れていたわけではなかったのだ。
 喜ぶべき事のはずなのに、なんでこんなに気が重いのだろう。なんでこんなにモヤモヤするのだろう。なんでこんなにショックなんだろう……。


 伊勢崎はずっとずっと考え込んでいた。酔いなんて、あの時世良の言葉ですべて冷めてしまった。
『たぶん彼女です。オレの花嫁候補』
 その衝撃といったらただ事ではなかった。伊勢崎の長い人生の中で、一番のショックだったかもしれない。一瞬頭の中が真っ白になるというのはああいう事だと思う。怒りとか悔しさとか、驚きとか、不安とか、せつなさとか、どれでもあってどれでもない、自分の中にある色んな感情が一度にものすごい勢いで体中を駆け巡った。よく叫んだり怒鳴ったりしなかったものだと思う。
 いや……正直なところ、彼女のマンションから近くの駅までの道のりを、どうやってきたのか覚えていなかった。
 ドロドログチャグチャだった感情の渦が次第に治まって、頭に上っていた血も引いて、次第に冷静に考え事が出来るようになったのは、電車の中でだった。だが電車に乗っている間は、一緒に居る世良の事を気遣う余裕もないほどに、ずっと悶々としていた。考えていたのは、もちろん氷川の事だ。世良から聞いていた話が本当であれば、さっきの一連の事柄は、世良が探していた『花嫁』を示すものに他ないだろう。
―――氷川さんが、世良の相手……。
 それはひどく衝撃的な事実だ。こんなドラマみたいな事ってあるのだろうか? 出来すぎだろうってくらいだと思うのだが、『異世界からきた』と語る世良の存在そのものが、ドラマみたいなものだから、それはそれでありかも……なんてアホみたいな思考になる。いやもうそう思うしかない。
『そういえばオレって薄々そうかもって思っていたんだっけ……』
 ふとすっかり忘れかけていた事を思い出した。そうだ。なんだかすっかり忘れていたのだが、そういえば初めて世良から、彼がこの世界に来たいきさつを聞かされたとき、伊勢崎の側に世良がいるのは、伊勢崎の周囲にいる誰かが、花嫁候補なのかもしれないから……と聞いて、実は最初に頭に浮かんだのが、氷川の事だったのだ。
 だが伊勢崎はすぐにそれを否定していた。なぜならまだ伊勢崎と氷川は、『知り合い』程度の間柄で、友達と呼べないほどの関係でしかなかったからだ。彼女は伊勢崎にとってかなり好みのタイプであり、彼女も自分に対して好意を寄せているように感じていたので、お付き合いしても良いかも……と、一方的に思っていただけだ。だからと言って、すぐにそれを実行に移す予定があったわけではない。
『そうだよな……オレが怒るのは筋違いなんだ』
 考えているうちに、そういう結論へと行き着いた。伊勢崎が氷川にアプローチ中だったわけでも、本気で彼女と付き合うつもりだったわけでもない。ましてや彼女が恋人に決まるはずだったという確証があるわけでもない。
 氷川が世良の花嫁候補だからと言って「オレの彼女を盗るつもりか!」なんて怒る資格は無い。
『そうだよな……』
 もう一度心の中で呟いて苦笑した。まだ何も始まってもいないのだ。そう思うと益々気持ちが落ち着いてきた。
『まあ……彼女は良い女だからなぁ』
 そう思うと仕方ないかという気持ちにさえなる。それと同時に不思議な気持ちになっていた。このひどく冷めてしまった気持ちは何だろう? と思う。ここで『いや、彼女は渡さない。奴が行動するよりも先に、明日にでも交際を申し込もう』なんて気持ちにはならないのだ。そう思って、また心の中で首を振る。いやいや……そんな競って告白するほどでは……と思ってハッとなる。
『オレ……彼女の事をそんなに好きなわけじゃない?』
 そう思うと同時に『いや』という否定的な感情もある。
『嫌いじゃない。好きだ。彼女はモロ好みだ。美人だし、頭も良いし、なにより気が合うというか、一緒に居て楽な女性だ。たぶん性格的というか考え方が似ているんだと思う。だから気を遣わなくていい……彼女となら恋人になっても長続きするように思う』
 そう思って心の中で頷いた。だけど……なんでこうも冷静な気持ちでいられるのだろうか? なぜ彼女に告白する気になれないのだろうか? じゃあさっきのグチャグチャした感情は何だったんだろうか?
 電車を降りて家までの帰り道を歩きながら、そんな考えに行き着いていた。ずっと見れなかった世良の表情がふと気になる。同じ歩調で隣を歩く世良の存在を改めて意識した。だがなんだか顔を見るタイミングを掴めない。

 二人はずっと無言のままでマンションに辿り着いた。エントランスを通過して、エレベーターへと乗り込む。二人ともジーッと点滅する階層の数字を追っていた。エレベーターが止まり、二人とも廊下へと進み出ると、なぜだかどちらからというでもなく足を止めてしまった。そこでようやく二人は互いの顔を見た。
「あ……あの……伊勢崎さん……」
「……じゃあ……お疲れ」
 伊勢崎はそんな事を言うつもりはなかったのだが、だからと言って何を話せば良いのかわからなくて、咄嗟に別れをにおわす言葉を告げると、先に歩き出した。
「い……伊勢崎さん! 待ってください! あの! ちょっとだけオレの部屋に寄りませんか!?」
「は?!」
 伊勢崎は足を止めて振り返ると、怪訝な顔をして眉間を寄せた。
「あの……話があるんです」
 伊勢崎はその言葉に、カッと頭に血が上るような感覚に襲われて、ギュッと拳を握り締めた。話というと花嫁候補の話だろうと思う。今はその話は聞きたくないという強い思いだけが湧き上がる。
「いいよ、そんな話、聞かなくても」
「あの、伊勢崎さんにはちゃんと聞いて欲しいんです。オレの事……オレの事を知ってほしいんです」
 世良は必死な様子で食い下がるようにそう言った。伊勢崎は眉間を寄せたまま、ジッとそんな世良をみつめていた。


 ラグの上にドカリと胡坐を掻いて座っている伊勢崎の所へ、世良がミネラルウォーターのペットボトルを2本持ってやってきた。中央の小さな丸いテーブルの上にそれを置いた。テーブルを挟んだ反対側に世良が座る。
 伊勢崎は無言でペットボトルをひとつ取ると、蓋を開けてそのままゴクゴクと一気に半分ほど飲んだ。冷えた水が体中に染み渡る。ひどく喉が乾いていた事に気づいた。
「ふう……」
 大きく息を吐いて、濡れた口元を右手の甲で拭った。キッと世良を睨む。
「で? 話ってなんだよ」
 世良はビクリと体を震わせた。一度俯いて正座した膝の上に置いている両手をみつめた。両手はギュッとズボンを握り締めている。それから顔を上げて伊勢崎を見て、苦悶の表情をしてからまた俯いてしまった。よほど言いにくい話なのだろうかと思うが、その話の内容がわからないので、伊勢崎は複雑な思いで苛立ちさえ覚えた。
「なんだよ、お前が聴いて欲しいって言ったんだろう……話さないなら帰るぞ」
 伊勢崎がチッと舌打ちをして立ち上がる素振りをすると、世良は顔を上げて慌てた様子で身を乗り出した。
「ま、待ってください! 話しますっ! 話しますから……その……ちょっとだけ心の準備の時間を下さい」
「……そんなに言いにくいことなのかよ」
 伊勢崎が不機嫌そうに言うと、世良はゆっくりと力が抜けるように腰を落として座りなおすと、困ったような顔になってまた少し俯いた。
「本当は絶対に話してはいけない事なんです……だから……」
「だったら無理に話さなくていいよ」
「で、でも……伊勢崎さんには聞いて欲しいから」
「オレが聞いて、面倒なことにはならないだろうな?」
「解りません」
「は?」
「あ、いえ……別に伊勢崎さんがそれを知ったからと言って……オレがそれを伊勢崎さんに話したからと言って、何かが起きるという訳ではないんです。たぶん……それだけだとバレる訳ではないし」
「バレる?」
「オレの世界の管理局にです。そのつまり……オレはいつも監視されているから……でも話をすることがバレたりはしないと思います」
「そんなにヤバイ話なのかよ」
 伊勢崎はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ヤバイというか……つまり……聞いてほしいのは、オレの世界の話です」
「お前の世界?」
 世良はコクリと頷いた。それから大きく深呼吸をして、ペットボトルを手に取ると、蓋を開けてゴクリと一口水を飲んだ。
「伊勢崎さんは、オレの正体を知っているし、ここまで巻き込んでしまったし、氷川さんのこともあるし……多分真実を知る権利があると思うんです。だから……聞いてください」
 聞いてくださいといわれて、嫌だとは答えられなかった。興味が無いといえば嘘になる。疑問はたくさんあるし、未だにどこか信じられない気持ちもある。空想世界のようなその『世良の世界』を聞いておきたいと思った。
「解った……話してくれ」
 伊勢崎は覚悟を決めたように姿勢を正してそういった。世良はコクリと頷いて、彼も覚悟を決めたような顔をした。ふうと息を吐いてゆっくりと話し始めた。
「オレの居た世界は、この世界とは別の次元にある世界なんです。時間軸・空間軸などがまったく異なる世界……異世界と呼ぶのが一番簡潔で解りやすいでしょう。ここで自然科学的観点とか、物理的単位の証明などで説明しても余計わからなくなると思うので……我々の世界……異世界と、この世界は平行世界にあるんです」
「平行世界?」
 伊勢崎が意味が解らなくてイラッとした様子で聞き返す。基本的にSFが苦手なのだから、そういう言葉でさえ伊勢崎にとっては難しいのだ。世良は頷いて穏やかに説明を始めた。
「この世界がある宇宙とまったく同じような宇宙が別の次元にあるという事です。でも次元が違うから、その互いの世界・宇宙は行き来しあうことも出来なければ、その存在も知りえないのです。解りやすくいうと……鏡の向こうの世界のようなものです。まったく同じような世界がその向こうに広がっているけれど、鏡の向こうの世界にはいけないでしょう? もちろん鏡はこっちの世界を映しているだけだという考え方は、今は無しにしてください。あくまでも『異世界』を説明する上での例え話なのですから」
「鏡……ねえ」
 伊勢崎はなんとなく納得したような様子で呟いた。
「それでオレの居た異世界のオレの居た星は、この地球とよく似た星です。人間も動物も国も文明も、本当によく似ています。きっと似たような物質で出来た星で、同じような環境にあると、生物の進化も同じような形を辿るのではないかと思います。ただひとつだけ違うのは、我々の星のほうが、この地球よりも200年か300年か……正確には解りませんが、文明の発展が進んでいたという事です」
「まあ、それは解るよ、そんな不思議な装置があるくらいだからな。こうやって異世界にもお前らが行き来しているくらいだし」
 伊勢崎は世良の胸元を指すような素振りをして見せてから肩をすくめて見せた。世良はちょっと苦笑して見せた。
「オレ達の星……テルシアという名前なのですが……テルシアは一度滅んだのです」
「滅んだ?!」
 世良の思いがけない言葉に、伊勢崎はとても驚いて大きな声をあげてしまった。


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