伊勢崎は店の前に立ち、坂の下から登ってくる人影が待ち人である事を確認すると、笑顔を見せて手をあげた。相手も伊勢崎に気づき笑顔を見せると小走りで近づいてくる。
「少し遠かったけどすぐに解った?」
「はい、伊勢崎さんから地図を頂いたので……ここですか?」
「そう、この前話していたイタリアンの店」
「すごい……市ヶ谷にこんなお店があったなんて……一軒家のお店なんですね、ステキ」
「うん、会社とは駅を挟んで反対側だし、駅から少し離れているから意外と会社の人達は知らないんじゃないかな……ごめんね。会社から一緒に来ればよかったんだけど」
 伊勢崎が申し訳なさそうに、少し息を切らして頬を上気させている氷川を気遣って言ったが、氷川はフルフルと首を振って見せた。
「いえ、急な残業が入ったのは私ですから……30分も会社で待っていただくのも申し訳ないし……それに一緒に二人でなんて帰る姿を見られたら、伊勢崎さんのファンからなんて言われるか……」
 氷川はそれでも満更でもないというような笑みを浮かべて伊勢崎を見た。
「まあ……こんな所で立ち話もなんだから中に入ろう……もう席は用意してあるんだ。先にシャンパンを頂いていたんだよ」
「ああ、はいすみません。お待たせしてしまって……」
 伊勢崎は氷川をエスコートして、店の中へと入った。店内を案内するようにして進んでいくと、前方のテーブルのひとつに着いていた男性が立ち上がってこちらにペコリと頭を下げたので、氷川は少し驚いたような顔になって立ち止まった。
「氷川さん、ほら、世良を呼んだんだよ」
 伊勢崎が氷川に向かってそう言うと、氷川は驚いた顔で伊勢崎を一度見てから、また世良を見た。世良はその時の氷川の表情に気づき、とても申し訳なさそうに苦笑してから、またペコリと頭を下げた。それを見て氷川はまた驚いた顔のまま伊勢崎の顔を見直した。伊勢崎はとても澄ました顔をしている。

 3人がテーブルに着いたところで、それぞれのグラスに新しくシャンパンが注がれた。
「それじゃあ……まずは乾杯というところで」
 伊勢崎がグラスを掲げて言うと、氷川は不機嫌そうな顔をして黙ったままグラスを手に持った。世良は心配そうな顔でチラチラと氷川を見ながらグラスを手に持った。
「我々の親交を深める為の第1歩の今夜に乾杯」
 伊勢崎が言った乾杯の言葉には、氷川はとても頷けるような内容ではなかったようだが、渋々と「乾杯」と小さく言った。世良も続いて小さく乾杯という。3人はそれぞれ一口ずつ飲んでから、グラスをテーブルに置いた。
「今日のメニューはオレのお任せになっているから……楽しみにしてね」
 伊勢崎が氷川に向かってニッコリと微笑みながらそう言うと、氷川は少しばかり眉間を寄せて、一度チラリと世良の方へ視線を向けた。世良はビクリとなる。
「伊勢崎さん……どうして……ここに世良さんがいらっしゃるんですか? 私……
聞いていません」
「ああ」
 氷川が思い切って言った言葉に、伊勢崎は特に驚く様子もなくニッコリと笑って頷いた。
「そうそう、この前君が言っていただろう? 世良の事に覚えがないって……それでぜひ近いうちにまた合コンでもあれば世良を連れて行こうと思ったんだけど……しばらくなさそうだし、まあその前に君に引き合わせておきたいと思ってね。世良に君の言葉を伝えたら、とてもショックを受けていたから……なあ、世良」
「は……はい」
 話を振られて世良は慌てて頷いて見せた。それでも氷川の不機嫌そうな表情は変わらない。世良は内心冷や汗ものだった。明らかに、自分は邪魔者で、氷川はとても怒っていると思う。多分……彼女は伊勢崎と二人きりのデートなんだと思ってきたのだろう……ってことぐらいは、さすがの世良にも理解できた。
 気まずい……やっぱり自分は帰って方が良いのではないだろうか? と、一生懸命伊勢崎にアイコンタクトを送るのだが、伊勢崎は目が合っても気づいているのかいないのか、特に世良に対する反応もない。
 前菜が運ばれてきて、伊勢崎は場を和ませるつもりなのか一人でたわいもない話を始めた。その話の中には、仕事での世良の事なども含まれていて、さりげなく世良の存在を印象付けようとしてくれているようだ。
「ワインも頼もう」
 伊勢崎がウェイターを呼んでワインを注文する。
 さっきからずっとしゃべっているのは伊勢崎一人だ。世良はしゃべれるような心境ではないし、氷川ももちろん無言だ。一応、伊勢崎の話には相槌を打つが、まだ機嫌が直っているわけではない。
 スープと地中海サラダが次々に運ばれてきたが、氷川はただ黙ってそれを食べるのみだ。
世良は居たたまれない気持ちになっていた。
 やがて伊勢崎がお勧めだと言ったペスカトーレのリングイネとソーセージとブロッコリーのオレキエッティという2種類のパスタが運ばれてきた。ふわりと立ち上る湯気に乗って、オリーブオイルとトマトソースのいい香りが鼻をくすぐる。
 美味しい料理というものは、人の心を和ませるのに一番の効果があるようだ。まずはその香りで、少しばかり氷川の表情が和んだのがわかった。
 それらのパスタを小皿に伊勢崎が取り分けると、氷川が慌てて自分がするというような仕草をしたが、伊勢崎は笑ってそれを交わすと、慣れた手つきで片手にフォークとスプーンを持ち、器用に皿にすばやく取り分けてしまった。
「さあ熱いうちに頂こう、美味しいよ」
 伊勢崎がにこやかに言って、一番にフォークに巻き始めて口へと運んだので、釣られて二人ともパスタを口に含んだ。
「美味しい!」
 思わず笑みを零しながら氷川がそう言って、世良も笑顔でコクコクと同意するように頷くと、伊勢崎は満足そうにニヤリと口の端を上げた。
 割と大きめだった2種類のパスタ皿を、3人であっという間にカラにした頃、メインディッシュの牛ホホ肉の赤ワイン煮が運ばれてくると、もうすっかり氷川のご機嫌は直っていた。
 伊勢崎の話に相槌を打つと共に、自らも話を始める。伊勢崎が世良の話をすると素直に耳を傾けた。伊勢崎が選んだワインも美味しそうに飲んでいて、いい感じに解れたようだ。
「そう、じゃあ伊勢崎さんと同じ大学だったの」
「はい、もちろん学年も学部も違いますし、在学中は伊勢崎さんの事を知るわけもなかったんですけど……社会人になると、不思議な事に大学が同じだというだけで、妙な親近感というか連帯感が湧きませんか?」
「ああ、解るわ……私も法務に同じ大学の子が居るの。同期だから、それまで互いに知らなかったんだけど、新人研修の同じ時に同じ大学ってわかった瞬間から、なんだかもう友人のような気分になったわ」
 氷川と世良がスムーズに会話を交わしているのを、伊勢崎は安堵した様子で眺めながらワインを飲んでいた。
「それで伊勢崎さんの事を慕っているって訳ね……伊勢崎さんもかわいい後輩が居て嬉しいでしょう?」
「そうだね」
 伊勢崎はニッコリと笑って答えた。世良はその言葉に本当に嬉しそうにはにかんで笑ったので、伊勢崎は「ん゛!?」と内心ジロリと睨むような心境だったが、もちろん世良には通じない。
『んな、和んでいる場合じゃねえだろう! 今だろ! 今!!』
 伊勢崎が一生懸命世良にアイコンタクトを送る。何度目かに、世良はようやく気づいた。本来の目的を忘れる所だった。
「さて、残るはデザートだけだな……ちょっと失礼」
 伊勢崎はナフキンをテーブルの上に置くと立ち上がった。トイレに行く振りをして、『アレ』から逃げるつもりなのだ。一度世良と視線を合わせると、世良は小さく頷いて見せた。
「世良さんは、体格が良いけど何かスポーツをしていたんですか?」
「ああ、はい、趣味程度ですがテニスを」
 氷川との会話を続けながら、世良はそっと背広の内ポケットに手を忍ばせて、装置のスイッチを入れた。カチッとかすかな音がする。他の者にはまったく聞こえないが、世良にはブーンというわずかな音波が走る音を感じる。伊勢崎が側に居たらキーンという鋭い金属音に聞こえたはずだ。
 チラリと氷川を見ると、氷川が少しばかり顔をゆがめたように見えた。しかしすぐにワインを飲み始めたので、世良は様子を伺った。
「どうかなさいましたか?」
「え? あ、いえ、ちょっと耳鳴りみたいな感じがした気がしたんだけど……大丈夫、全然平気……ちょっと酔っちゃったのかしら?」
 氷川はそう言ってニッコリと笑った。
「ところで……本当に氷川さんは、オレのことを怪しいと思ったんですか?」
「え?」
「ほら……オレが伊勢崎さんのチームに以前はいなかったとかって思ったんでしょ?」
 世良は効き目を確かめる為に、わざとその質問をした。氷川は少し考えているような顔をした。やがてゆっくりと世良の方へと視線を向ける。
「そうなのよね……どう考えても、伊勢崎さんの部署は8人だと思ってて……世良さんの顔に覚えがなかったのよ」
 微妙な返事に、世良は少しドキドキと心臓が鳴った。なんだろう? 効いてない?
「おまたせ……あれ? まだデザートは来ていないんだね? ん? どうかした?」
 世良の強張った表情を察して、伊勢崎は氷川の方を見た。
「ええ、今、世良さんのことを私が怪しいと思っているって話をしていたんです」
「そ……そう……で? 今も怪しいと思っているの?」
「そうですね……どう考えても……世良さんが『いなかった』という証拠は無いし……世良さんは以前から伊勢崎さんの部署に居て、メンバーは8人ではなく9人で……というのに間違いはないと思うんですけど……怪しいのは、世良さんがというより、なんで私の記憶に世良さんがいないのかって事になるのかしら?」
 氷川の言葉に、伊勢崎も少しばかり青ざめた。効いてない? という顔を世良に向けると、世良も同じような青い顔をして伊勢崎をみつめていた。その目は「ちゃんとやりました」と訴えているが、伊勢崎だって、あの装置がちゃんと作動した事はわかっていた。
 結局トイレに逃れたって、装置の機能範囲だったようで、伊勢崎をキーンという激しい耳鳴りと頭痛が襲ってきたのは変わりなかったからだ。
「私、今日話をして改めて不思議に思うことが増えたんですけど……」
「え?」
 それは伊勢崎と世良が同時に発していた声だった。思わず二人とも少し前のめりになっていた。
「世良さんがすごく伊勢崎さんの事を慕っている事もわかったし、伊勢崎さんも世良さんをかわいがっていて、いい片腕だと信頼している事もわかりました。でもそれならなんで今まで一度も伊勢崎さんの口から世良さんの話が出なかったのかしら……と思って……合コンの時、何度か伊勢崎さんは仕事の話をする時に大場さんとか山下さんとか、若い部下の話を持ち出す事があって……次の合コンに呼ぼうなんて話を盛り上げた事だってあったのに……世良さんの話なんてしたことなかったですよね? なんでかしら……」
 氷川はそう言って首を傾げて腕組みをした。
 -―-―効いていない!!
 伊勢崎と世良は確信を持った。と同時に蒼白になった。なぜ? もう一度したほうが良いのか? と混乱する頭の中で、二人とも色々なことを考えた。
「ああ! そうだわ!」
 氷川が突然何か閃いたように少しばかり大きな声をあげたので、二人ともぎょっとした顔をになった。
「な……何?」
 伊勢崎が恐る恐る尋ねると、氷川は伊勢崎をチラリと見ただけで、体ごと世良のほうを向き直り、ジッと強い視線で世良をみつめた。
「大事な事に気がついたわ! 世良さんって、今の企画室に入る前は、営業本部に居たのよね? 私は営業本部長の秘書よ? 営業本部には毎日のように出入りしているわ……いくら営業本部が1課から3課まで分かれていて、全部で所属者が53人居ると言っても、パーテーションで仕切っただけの同じフロアなのだし、毎日行っているからみんなの顔は大体知っているわ……世良さんは私より1期下ですよね? 知らないはずがないわ」
 氷川の話に、完全に二人とも蒼白になってフリーズしてしまった。『どうしよう』という事しか頭に浮かばない。
「ねえ、世良さん、本当に貴方はなんなの?」
「え? あ……」
「伊勢崎さん……なんだかおかしいわ、やっぱり……別に隠さなくても良いでしょ? 本当のことを教えてください」
「え? あ……」
 問いただされて、世良も伊勢崎もまごまごとしてしまった。
「本当は世良さんは、ヘッドハンティングで最近入れた人なんでしょ? 企業同士の事情で、まだくわしく言えないとかそういうことなんですか?」
 それは思いもよらなかった氷川の結論だった。それを聞いて、伊勢崎も世良も少し気が抜けて、思わず頷いてそれを肯定しようとしたが、慌てて世良が首を振って否定したので、伊勢崎もそれに習った。
「ひ……氷川さん、ちょっと酔いが回っているんじゃないですか? もう帰りましょうか?」
 世良がそう言いながら立ち上がったので、氷川は不満そうな顔で世良をみつめた。
「酔っていないわ……それにまだデザートが……」
「酔ってますよ……ねえ伊勢崎さん」
 世良は救いを求めるように伊勢崎をみつめたので、伊勢崎も立ち上がった。
「そ……そうだな」
「手を貸しますよ、氷川さん、さあ帰りましょう」
「なに? 大丈夫よ、私……」
 氷川が怪訝そうな顔で、近づく世良をみつめると、伊勢崎が反対側から近づいて氷川の腕を掴んだので、一瞬そちらに顔を向けた。その隙に世良は内ポケットから装置を取り出すと、すばやくいくつかのボタンを押してそれを氷川の左耳へと近づけると、カチリとスイッチを押した。するとガクリと氷川の体から力が抜けたようになり、椅子から崩れ落ちそうになったので、慌てて伊勢崎が体を抱き支えた。
「お……おい、なにをしたんだよ」
「ちょっと眠ってもらっただけです。即効性はありますが、一時的なものですから、明日には普通に目覚めます」
 二人は顔を寄せて小さな声で囁きあった。
「どうかなさいましたか?」
 異変に気づき、店の者が慌てて駆け寄ってきたので、氷川の体を世良に預けて、伊勢崎は立ち上がると店員の方へ進み出た。
「申し訳ありません。連れが酔いつぶれてしまって……車を呼んでいただけますか?」
「あ、はい、かしこまりました」


 呼んでもらったタクシーに3人で乗り込むと、氷川のマンションへと向かった。
「伊勢崎さん、氷川さんのマンションを知っているんですね」
「ああ、何度かタクシーで送った事あるから……降りて中までは入ったことないけどね」
 車の中で二人が交わした会話はそれくらいだった。あとはずっと黙り込んでいた。運転手がいるから変な話が出来ないという事もあったし、二人とも氷川に装置の効き目がないという事も、色々と考えさせられていたのだ。
「ここだ」
 氷川のマンションの前で3人とも下りると、二人で抱えながらマンションの中へと入った。オートロックの入口も、世良の装置で難なく開けてしまい中へと入りエレベーターへと乗った。
「3階の一番右側の部屋だって言ってた」
 伊勢崎がそういうので3階で降りて、一番右側の部屋へと向かった。扉の横にあるプレートに「氷川」の名前を確認して頷きあうと、再び世良が装置を使って玄関の鍵を開けた。
「それ……犯罪だぞ」
「犯罪には使いませんよ」
 小声でそんな事を言いあいながら、扉を開けて中に入ると、伊勢崎が玄関から入ってすぐの廊下に氷川を寝かせた。
「大丈夫ですか? こんな所に寝せて……」
「中に入るのもなんだし……今の季節なら風邪を引く事もないから大丈夫だよ。それにこの方が本人が酔いつぶれて寝たんだって思うだろうし……」
 伊勢崎はそう言いながら世良を押し出すようにして外へと出た。
「ちゃんと鍵を閉めろよ」
「はい」
 カチリと装置を使って鍵を閉めると、一度ドアを開ける仕草をして鍵がかかっているのを確認した。それからそっとその場を離れると、急いでマンションの外へと出た。道路まで出てようやく二人はハアと大きな息をつく。
「駅までそんなに遠くないから電車で帰ろう」
 伊勢崎がそう呟いて歩き出したが、後を世良が着いてこないので、数歩歩いて立ち止まると振り向いた。
「どうした?」
「……伊勢崎さん……」
 世良はとても困ったような、なさけない顔をして伊勢崎の名前を呼んだ。伊勢崎は小さく溜息を付くと世良の元まで戻り、ポンと肩を叩いた。
「まあ……またチャレンジしてみたら良いさ。大丈夫、お前の素性がバレないようオレも協力するから……な?」
 宥めるように言ったが、世良は情けない顔をしたまま首を振った。
「なんだよ……元気だせよ」
「そうじゃないんです」
「なにが?」
 伊勢崎が不思議そうに首を傾げるので、世良は一度俯いて深い溜息を吐くと顔を上げた。
「たぶん……彼女です」
「だから何が」
「オレの花嫁候補」
 世良はそう言って、今にも泣き出してしまうのじゃないかってくらいに、情けない顔をした。伊勢崎は両目を大きく見開いて、驚いたような顔をしたまま固まってしまった。


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