伊勢崎は、先ほどからずっと左手で頬杖をついて、右手ではボールペンをクルリクルリとバトンのように回転させながら、1点をみつめていた。視線の先にあるのは世良だ。なぜこんな風に世良をみつめているかというと、最近とても世良の様子がおかしいからだ。
 最近というと……気がついたらだから……いや、気がついたらというよりも、それは気づかずを得ないほどに顕著だった。あきらかに様子がおかしい……と感じたのは3日前。3日前は朝から様子がおかしかった。
 その朝、世良はいつものように伊勢崎を迎えに来て会社へと一緒に出勤したのだが、行く道の間世良は一言もしゃべらなかった。それどころかまともに顔をあわせようともしないし、数歩ばかり伊勢崎と離れて歩く。
 あまりの露骨な態度に「なんだ?」と尋ねると、「え? 何ですか?」と、とぼけたように笑ってみせる。だがなんだかその仕草までもがよそよそしい。こちらから話しかければ、ちゃんと答えるのだが、あまり伊勢崎の顔を見ようとはしない。
 会社に着いてからは、仕事の事以外一切話しかけてくることは無い。
 おかしい。
 あれほどまでに、鬱陶しいほどにくっついて回っていた世良だから、この態度の激変は「わざとらしい」とも「よそよそしい」とも取れるほどだ。
 態度の変化の予兆とも思われる行動としては、例の「寝坊事件」があるのだが、あの時は「寝坊」以外におかしなところは無かったと思うのだが……。
「室長?」
 声を掛けられて、ハッとなって振り返ると、すぐ横に大場がファイルを持って、不思議そうな顔をして立っている。
「どうかなさったんですか? 難しい顔してぼんやりとしたりして」
「あ、いや……ちょっと考え事をしていてな」
『世良を見ていた』というのがバレなくて良かったと、ちょっと安堵しながら誤魔化して、「それでなんだ?」と聞き返す。
「はい、先日の外食チェーンでの新企画の中間報告が届きました」
 大場はそう言ってファイルを伊勢崎に渡した。
「ああ、ありがとう」
 受け取ってパラパラと開いてみる。
「お前はもう見たのか?」
「いえ、まだです」
「この中から、ウチの今後の企画資料になるデータをリストアップして、必要な部分だけをまとめてくれ。特に男女比、年齢別は詳細にな」
「はい、解りました」
 一瞬で仕事モードに戻って頭を切り替える。的確な指示を大場に出すと、視線をPCのモニタへと戻した。取引先からのメールに返信を送る。タカタカとキーボードを打つ間も、チラチラと視線を世良へと向けた。一見いつもと変わらない。他の者にはいつもの愛想のいい態度だ。笑ったりもしている。仕事もちゃんとやっている。では変わっている点は、伊勢崎に対する態度だけだというのだろうか?
 伊勢崎はキーボードを叩く手を止めた。眉間にシワを寄せる。
『どういうことだ?』
 伊勢崎はムッとなってそう思った。なんで伊勢崎に対する態度だけがおかしい? いや、おかしいというか、わざとらしいほどによそよそしい? オレが何かしたか? と、それは不満へと変わる。腹立たしくもあった。
 今まで散々鬱陶しいほどに付きまとっておいて、変なことにまで巻き込んでおいて、いきなりの説明も無いこの態度……これはハッキリと聞き出さなければ……と思う。
 リンゴンリンゴンと、社内ベルが鳴り、昼休憩の合図だ。全員が一斉に伸びをする。
「今日の電話当番はオレだ〜」
 相良がガッカリした様子で、オーバーアクションしながらそう言うのを、一同が笑いながら立ち上がって手を振った。世良も同じように立ち上がって、そそくさと部屋を出て行こうとするので、伊勢崎が呼び止めた。
「世良、たまには一緒に社食に行かないか?」
 伊勢崎からの誘いの言葉に、世良はあからさまに困ったような顔をした。それを見て伊勢崎はムッとなる。伊勢崎の方から昼食に誘うなんて珍しい。もちろんいつも二人で食べないわけではない。いつも世良の方から毎日のように誘い掛けてくるので、受けてやるときもあるがそれをウザイと伊勢崎がワザと断ることも多い。
 その上、社食に伊勢崎が誘うのも珍しいのだ。いつも世良が、伊勢崎を昼食に誘うときは「どっか外の美味しい店なら付き合ってやってもいいぞ」と言っていたので、いつも世良はグルメガイドを探しいた。
 もちろんそれは、世良をちょっと困らせる為の理由付けで、本当は別に伊勢崎は社食が嫌いという訳ではないのだ。伊勢崎の会社の社食は、自社ビルの3階にあり、一度に200人が食事できるほどの広々とした空間に、和食カウンターと洋食カウンターの2つがあり、メニューも充実していた。社食なので料金は安いし、味はまあまあだ。懐の寒い若い社員には、無くてはならない存在である。
「す……すみません。オレ、ちょっと用事があって……すみません」
 世良は何度も頭を下げながら、逃げるように去って行ってしまった。伊勢崎はポカンとなってそれを見送る。
「フラレちゃいましたね」
 ワハハハハと部下の井口と山下が笑いながら、伊勢崎の後ろを通り過ぎて行った。
「オレ達も社食に行くので、ご一緒しませんか?」
 山下が振り返って伊勢崎にそう言ったが、伊勢崎はムッとした顔のままで佇んでいた。


 会社から歩いて5分の場所にある人気のイタリアンカフェのオープンテラスで、伊勢崎は一人でテーブルに座り、雑誌を眺めながらパスタを食べていた。社食に行くのはもちろん辞めた。あんな状態で、ノコノコと山下達と一緒に行けるわけがない。
「伊勢崎さん? お一人ですか?」
 ふいに声を掛けられたので顔をあげると、秘書課の氷川が立っていた。
「あ、氷川さん」
「こちら、ご一緒してもいいかしら?」
 彼女がニッコリと微笑んで言ったので、伊勢崎は急いで雑誌を閉じて場所を空けると、向かいの椅子を勧めた。
「どうぞどうぞ」
「ありがとう」
 彼女は微笑んで頷くと、向いの椅子に座った。伊勢崎はすぐに店員を呼んで、氷川の分の水とお絞りを頼んだ。氷川もメニューを注文すると、水を一口飲んでホッと一息を吐いた。
「よくこちらにはいらっしゃるの?」
「そうだね。週に一度は来るかも。ここのパスタは好きなんだ」
「私も好きよ」
「イタリアンは好き?」
「ええ、私、洋食党なの」
「へえ……じゃあ今度ぜひ、ディナーの美味しいイタリアンの店に誘いたいな」
「まあ、嬉しい……合コンではなく?」
「君さえ迷惑でなければ、ぜひ二人で」
 伊勢崎の言葉に、彼女は少しばかり頬を染めて嬉しそうに笑った。その様子に、伊勢崎は満足げに頷く。
 今のですっかり嫌な気分は解消されたなと思う。世良のことなんてもう知るか! と心の中で毒づいた。
 氷川の分のパスタが運ばれてきて、二人は食べながらたわいもない会話を交わした。良いランチだ! と伊勢崎がご機嫌でいるのもつかの間、氷川が思いがけないことを言い始めた。
「伊勢崎さん……あの……とても変なことを聞くようなんですけど……どうしても気になって……」
「なにかな?」
 伊勢崎がご機嫌な顔で答えると、氷川は言葉を選ぶようにしばらく考えてから口を開いた。
「先日……朝、会社の前で会ったときに一緒に居た世良さんって方……本当に前から、伊勢崎さんの部署にいらした方?」
「え!?」
 伊勢崎はギョッとなって、飲みかけていた食後のコーヒーを噴出しそうになった。
「ど……どうしてそんなこと?」
 伊勢崎が恐る恐る尋ねると、氷川は困惑したような表情をしていた。
「ごめんなさい……ただ、単純に私に覚えがないだけなんですけど……もちろん私も、全社員の顔を覚えているわけではないですけど、私、営業本部長の秘書をしているでしょ? だから営業部のフロアには何度も出入りしているから、名前は覚えてなくても、なんとなく顔くらいは見たことある程度には覚えているつもりだし……特に伊勢崎さんの部署には、企画会議の資料を頂きに何度か伺った事があるから……人数も8人しかいないから、顔は覚えているつもりだったんです……それで……世良さんに覚えがなかったから……ちょっと不思議に思って、社員名簿を見たんですけど、伊勢崎さんの部署、9人になってて……8人だと思っていたから……」
 氷川の話を聞きながら、伊勢崎は血の気の引く思いがした。
 マズイ。疑問に思う者が現れてしまった。これは非常にマズイ! と、内心かなり焦っていた。
「そ……それは思い違いだよ、ウチは部下が8人……オレを入れて9人……オレ以外が8人って覚えていたんじゃないの? 第一、ちゃんと社員名簿には書いてあっただろ? 世良の名前」
 伊勢崎は平常心を装いながら、なんとか誤魔化すように言った。すると彼女は、少し不満そうながらも渋々と頷いた。
「そうなんですけど……でもどうしても彼に覚えがなくて……」
「ハハハ……世良もかわいそうに」
「彼ハンサムだから、目立たないはずはないと思うんですよね……背も高いし……」
「世良みたいなのが好み?」
「伊勢崎さん、からかわないでください」
 氷川がプウと少し膨れてみせたので、伊勢崎は笑って誤魔化したが、内心ではかなり冷や冷やしていた。
「おっと、もうこんな時間だ。ごめんね、この後打ち合わせがあるんで、早めに戻らないといけないんだ……先に失礼するよ」
 伊勢崎はそう言って、二人分の伝票を手にとって立ち上がった。
「あ、伊勢崎さん、それ」
「ここは奢らせてよ……それじゃ」
 伊勢崎は颯爽とその場を後にした。店を出て、少し足早に歩きながら、内心ではかなり焦って会社に戻らなければと思っていた。一つ路地を曲がったところから小走りになっていた。急いで会社に戻り、部署に駆け込んで、世良の姿を確認するなり、むんずと世良の腕を掴んで引きずるようにして廊下へと出た。
「い……伊勢崎さん……ちょ……どうしたんですか」
「いいから、ちょっと来い」
 世良をひきずるようにして廊下を歩き、空いている打ち合わせ室をみつけて中へ転がり込むように入った。パタンとドアを閉めると鍵を掛ける。
 伊勢崎がクルリと振り返り、呆然と佇む世良をキッと睨むと、世良はビクリとなって姿勢を正した。
「あの……さっきの事……怒っているんですか?」
「ああ゛? それもあるが、それは後でゆっくりと説明してもらう……が、今はそれどころじゃない!」
「は?」
 世良はビクビクとなって困ったような顔をする。伊勢崎はチッと舌打ちをした。
「氷川さん……覚えているよな?」
 突然伊勢崎の口から出た名前に、世良はまたビクリとなった。今一番聞きたくない名前だ。胸がズキリと痛む。
「彼女、お前の事を怪しんでいたぞ」
「え?」
「彼女、なかなかの切れ者だからな……勘がいいんだ。お前のこと、覚えがないって言うんだよ。オレの部署は8人だったはずだって……記憶の操作が出来ていないんじゃないか?」
「あ……そうなんですか……」
 世良は想像していた話と違ったので、少し拍子抜けしたようになった。『氷川』の名前が伊勢崎の口から出るだけで、ビクビクしてしまうのだ。いつ「彼女と付き合い始めたんだ」と告白されるのか分からないと恐れていた。だがその話ではなかったので安心したのだ。
「そうなんですか……じゃねえよ! 大丈夫なのかよ? バレたりしないよな? オレはお前の共犯者になってんだから、気を付けてくれよ……その装置がちゃんと働いていないんじゃないのか?」
「え……あ……ああ、もちろん、この会社の全社員の記憶を弄っている訳ではありませんから……総合的な調査の結果、オレが今の部署で働く事のつじつまが合う範囲内の人物の記憶を操作してあります。直接仕事に関わる近しいものは当然ですが、例えば営業フロアの者であれば、お互いの名前は知らなくても、同じ階層だと廊下ですれ違う機会は多いわけですから、以前から顔は知っている程度の記憶操作がされます。伊勢崎さんだって、日常の中で、この会社の社員の知っているレベルってあるでしょ? まったく知らない人から、顔が見たことある程度から、挨拶はするけど名前は知らないとか、顔と名前は知っているけど個人的には知らないとか、仕事で何度か一緒になった程度とか……そういう不自然ではない程度の記憶操作です。そうでないと逆に、会ったことも無いような全社員に、オレの記憶を入れ込むほうが、おかしなことになったりしますから……」
 世良は落ち着いた様子で説明を始めた。伊勢崎は腕組みをしてそれを聞きながら、なんとなく納得した様子で頷いた。
「解った……まあ理屈は解った……だが彼女はなんで記憶の操作がされてなかったんだ? 彼女は秘書課だけど、営業部長付の秘書だから、オレらとまったく関わりがないという訳じゃない。資料の受け渡しで、何度かオフィスに来たことがあるから、ウチの連中の顔ぐらいは見覚えがあるんだよ……だからお前のことも……」
「それは……」
 世良は少し考え込んだ。
「たまたまだと思うんですけど、オレがこの世界に来てから、彼女はまだ一度もウチの部署に来たことないですよね? 接点が無いとちょっと記憶操作も薄くなります。初対面が会社の外だったでしょ? 一応このビルの周囲1km圏内には、結界が張ってありますけど、それ自体はこの記憶操作装置の性能が働くようにする為のもので……この階に出入りすれば、廊下を歩いているだけで効き目が強くなるんですけどね」
「で……どうするんだよ」
「大丈夫です。一度ちゃんとやれば……」
「あれか? あの直接キーンッとやる奴か?」
 伊勢崎が世良の背広の胸元をポンポンと叩いて、そこに入っているであろう銀色の丸い装置を指すようにして言った。世良は苦笑してから頷いた。
「ただ……彼女と不自然でなく、もう一度会う機会があればですが……オレが秘書課に出向くのも変でしょ? それに彼女がオレを怪しんでいるなら尚更……オレが呼び出しても来てくれないかもしれないし……」
 世良は困った顔になって頭を掻いた。伊勢崎は腕組みをしたまましばらく考えて、世良をジッとみつめた。
「解った。オレに任せろ」
 伊勢崎が頼もしい口調でそういった。


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