目に眩いほどの真っ白な空間だった。天井も壁も真っ白。丸い部屋の真ん中に、同じく丸いリング状の大きな椅子がある以外、その部屋には何も無かった。椅子までもが真っ白で、煌々と明るい電気に照らされて、余計に眩くてその椅子までもが部屋の『白』に溶け込んでしまっているようだった。
 ただその部屋で異質に見えるのが、椅子の一角にチョコンと座っている少年の姿だった。淡い水色の上下が繋がった体にピッタリとフィットしているスーツを着て、体を小さく丸めるようにして座っていた。その姿はとても心細げであった。
「セラ、じゃあここに居てね」
 年配の女性が、優しく少年に話しかけると、少年は顔をあげて今にも泣きそうな顔をした。
「一緒に居てくれないの?」
「もうすぐ迎えが来ますから、ね?」
「一緒に居てくれないの?」
 もう一度同じ質問をしながら、少年の両目にはみるみる涙がたまってきていた。女性はとても困ったような顔になって小さな溜息を吐いた。
「セラ、私はもう行かないといけないのよ。ごめんなさいね。でも新しい部屋に引っ越せるのよ? 今度の部屋はとても広くて立派な部屋よ」
「やだ、ボク行かない。シャーリーと一緒に居る」
「遊びに行きますから」
 女性は宥めるように言ったが、少年は首を振りながらとうとう泣き出してしまった。女性は少年の頭を撫でて宥めようとしたが、ピピピピッと電子音が鳴って、ハッとなった。
「ジカンデス」
 機械的な声がした。女性は小さく溜息を吐いてから、一度軽く少年の髪を撫でて、足早に部屋を去って行ってしまった。
「シャーリー!」
 少年は一度女性の名を呼んだが、後を追うことはせず諦めたようにまたシクシクと泣き始めた。
 少年はわかっていた。どうする事もできないことを。そしてもう二度とシャーリーには会えないことも。同じ別れをかつて一度経験した事があった。もっと小さかった頃、両親と同じようにこのような部屋で別れた。
『貴方は選ばれた子供なのよ』
 もう顔がおぼろげになってしまった母親のそんな言葉だけが忘れられずに居る。自分は選ばれた子供で、とても貴重な存在で、この国の役に立つように育てられているのだと、意味も解らない頃からそう教えられてきたのだ。
 あまり覚えていないけど優しかった両親、お母さんのように優しく育ててくれたシャーリー。次は? 次にこの部屋に来るのは誰だろう?
 少年は不安で一杯になっていた。
 しばらくしてから、扉が開いて白衣を来た男達が4人入ってきた。不安に怯える少年を抱えるようにして連れて行くと、色々な装置を体に付けて検査を始めた。少年は怖くて怖くて、抵抗する事も出来ずにされるがままになるしかなかった。白衣を着た男達は、白い帽子を被り、大きなマスクをしていて、個々の判別も出来ない。表情も見えない。見えるのは、それぞれの2つの目だけで、それはとても冷たく少年をみつめているように見えて、少年は怖くて彼らの視線から逃れるように目を強く瞑った。そして気がついたらそのまま眠ってしまっていた。
 目を覚ますとやはりまた白い部屋の中に一人でいた。あの丸い部屋とは違う部屋で、医療器具の大きな機械が置かれていて、少年はベッドに寝かされていた。あたりを見回しても誰もいない。あの白衣の男達もいなかった。
 少年はまたシクシクと泣き始めた。夢ではなかったのだと思ったからだ。シャーリーと過ごした見慣れた部屋でもなく、シャーリーの姿も無い。目が腫れてしまうくらい泣いた。どれくらいの時間そうしていたのかわからない。
 再び扉が開いて、少年の前に一人の人物が現れた。スラリとした長身の男性だった。長めの黒髪を後ろで一つに縛っている。男は少年を見て、少し表情を和らげた。
「ずいぶん泣いているのですね」
 真っ赤に泣き腫らした目で、こちらを不安そうに見る少年をみつめながら男はそう呟いた。
「さすがはSクラスの少年です」
 男が満足そうにそんな事をポツリと呟いたが、少年にはよく解らなかった。男はまっすぐに少年の側まで来ると、手を差し出してきたので、少年はびくりとなって身を竦めた。男は一瞬動きを止めたが、そっと少年の頬に手を添えて撫でた。
「はじめまして、セラ。私はライド。今日から私が貴方の教育係です」
「教育係?」
「そうです。今日から私がずっと貴方の側に居て、貴方に色々なことを教えるのです」
「シャーリーの代わり?」
 少年の問いに、ライドと名乗る男は黙り込んでしまった。ジッと少年をみつめてからゆっくりと首を振った。
「私はシャーリーの代わりではありません」
 ただそれだけを答えた。少年は少しばかりショックを受けたような顔をしたが、ゴシゴシと涙に濡れた目を擦ってから、何かを諦めたような顔になって再び男をみつめ返した。
「賢い子だ……さあ、行きましょう」


 遠くでチャイムの鳴る音が何度もして目が覚めた。目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。無機質なあの白い部屋の天井ではない。生活臭のある防火ポリウレタン製のクリーム色の天井だ。
「夢……か」
 世良はパチパチと瞬きしてからポツリと呟いた。ずいぶん懐かしい夢だと思った。ハアと息を吐いて静かに目を閉じる。
 するとすぐにピンポンピンポンと乱暴なチャイムの音がして、ハッとなって世良はガバッと体を起こした。転がるようにベッドを降りて玄関に向かうと、慌てて扉を開けた。
「やっぱり寝てたか」
 そこには伊勢崎が不機嫌そうな顔をして立っていた。
「い……伊勢崎さん……なんで……」
「別に具合が悪いわけじゃないんだろ?」
「え? あ、はい。元気です」
「だったら、なんで、じゃねえだろう。今何時だと思っているんだ」
「え? あ?」
 状況を理解できずにオロオロとする世良に向かって、伊勢崎は自分の腕時計をグイッと世良の目の前に突きつけた。一瞬焦点があわなかったが、目を凝らしてよく見ると、時計の針は8時2分を指していた。
「わ!」
「8分で支度して来い。でないと置いていくぞ」
「は……はい!」
 世良は慌てて部屋の中へと戻った。洗面所に飛び込んでバシャバシャと乱暴に顔を洗い、鏡を覗いてボサボサになった頭を濡れた手で撫でたがどうにもならないので、ムースを使って無理矢理整えた。走りながらパジャマを脱いで、クローゼットを開いてスーツを一式取り出して急いで着替えた。
 部屋の脇に置いていたカバンを手に取ると、中を覗いて必要なものを確認してから小脇に抱えて、携帯電話を掴んで、ダイニングのカウンターの上に置いている家の鍵を手にとって、急いで玄関へと戻った。
 扉を開けると、廊下に伊勢崎が立っていた。腕時計を確認している。
「よし、忘れ物はないな?」
「は、はい」
「じゃあ行くぞ」
「は、はい」
 スタスタと歩き出す伊勢崎の後を慌てて着いて歩く。
「おい、玄関は閉めたのか?」
「あ!」
 世良は急いで戻って玄関の鍵を閉めた。
「ったく」


「あの……どうして迎えに来ていただけたんですか?」
「あ゛?」
 ようやく話しかけたのは、市ヶ谷の駅に到着してからの事だった。会社に向かう道を歩きながら、世良がおずおずと尋ねる。
「お前が出掛けたような形跡が無かったからな」
「え? でも……」
「いつもウザイくらいお前がオレを迎えに来るだろうが」
 伊勢崎が答えるのも面倒くさいと言うように乱暴な口調で言ったので、世良は少し俯いて「すみません」と小さく答えた。その様子に、伊勢崎は少し眉を寄せる。チッと舌打ちをしてハアと息を吐いた。
「あ〜……オレが悪かったよ」
「え?」
「昨日……お前を冷たく追い出して……ちょっと気になってたんだ」
「え?」
「だからその……あれからちょっと考えてさ……まあ、お前も見知らぬ異世界に一人でいて、心細いよな。結局……お前の正体を知っているのはオレだけなんだからさ、お前がオレを頼ってくるのも仕方ない話だよな……そう思ってさ。だから……冷たくして悪かったと、ちょっと反省したんだよ」
 伊勢崎は気まずそうに、世良のほうは見ないでまっすぐに前を見たまま、スタスタと歩みを緩めることなくそう話した。伊勢崎の話を聞いて、世良は最初驚いたような顔をしていたが、みるみる嬉しそうな顔になっていった。
「あの……オレ……あんな事言ったから、伊勢崎さん怒っていると思ってて……」
「怒ってるさ……気持ち悪いだろ、そんなのホモみたいで誤解するぞ……あ、ホモって解るか?」
「解ります」
「ならなおさらだ。お前は花嫁探しの使命を持ってこの世界に来たんだろ? 協力してやるから……ああ、まあ……急がなくても良いからさ……ゆっくりやろう。ゆっくり……な?」
 伊勢崎はそう言って一度世良の方を見た。世良が嬉しそうな顔をしてこちらを見ていることに気がついて、慌てて視線を逸らした。
「でも調子に乗るなよ!」
「はい!」
「もう寝坊するなよ!」
「はい! エヘヘヘ」
「ったく……」
 伊勢崎は苦笑して、更に歩みを速めた。
「あ〜、伊勢崎さん待ってくださいよ」
 世良が慌てて追いかける。会社の正面玄関に辿り着いたところで、不意に女性の声で呼び止められた。
「伊勢崎さん、おはようございます」
 伊勢崎が足を止めて声の方へと振り返る。世良も一緒に立ち止まった。見るとスーツ姿のスラリとした綺麗な女性が、笑顔でこちらへと歩み寄ってきた。
「氷川さん……おはよう、こんな時間に珍しいね」
「いつものバスに乗り遅れちゃって、1便遅れなの」
「じゃあいつも早いんだな」
「ええ、まあこの時間でも遅刻ではないんだけどね、色々大変なのよ、ウチの部署」
 彼女はそう言ってペロリと舌を出して見せて笑った。
「こちらは?」
 彼女は、不思議そうな顔でみつめている世良に気がついて、伊勢崎に問いかけた。伊勢崎は世良をチラリと見て「ああ」と笑った。
「オレの部下の世良……会った事無かったっけ?」
「ええ、初めてよ。秘書課の氷川です。伊勢崎さんとは合コンで何度か」
「おいおい、その言い方ってなんかあんまりよくないな……希望はボーイフレンド……せめて飲み友達にくらいは入れて欲しいんだけど」
「あら、それはこっちの台詞よ? 伊勢崎さんはわが社の女性達の憧れの人ですもの。私のほうこそ同僚以上、友達にくらいはしていただきたいわ」
「世良、氷川さんは秘書課1の美人なんだぞ? 本気で言っていると思うか?」
 伊勢崎がわざと世良にそういったのだが、世良はどう答えていいのかわからずにオロオロとなったので、見ていた氷川がクスクスと笑い始めた。
「世良さんってかわいいのね。伊勢崎さん、次の飲み会には彼もぜひ連れてきてね」
 彼女は笑いながらそう言って、一度世良に向かって会釈をすると、先に中へと入っていった。伊勢崎達はそれを見送った。
「すげえ美人だろ?」
「伊勢崎さんは彼女みたいなのが好みなんですか?」
「そう……ここだけの話……彼女はオレの事が好きなんだよ」
 伊勢崎が世良にそう耳打ちしたので、世良は驚いて「ええ!」と思わず声をあげた。「シィッ」と伊勢崎が慌てて世良の口を塞いだ。あたりをキョロキョロと見てから、ゆっくりと促すように会社の中へと歩き出す。
「ばか、大きな声を出すな」
「すみません……あの……じゃあ、お付き合いされるんですか?」
「いや、まだそういう話じゃない」
「でも……」
「最初に会った頃から、彼女がオレに好意を寄せている事には気づいていたんだが、当時オレには恋人がいたんだよ。彼女もそれを知っている」
「でも……伊勢崎さんは今は彼女とも別れているんですよね」
「まあね、でもオレが恋人と別れたから、じゃあ……って簡単な話じゃないんだよ。オレも彼女の事は嫌いじゃない……っていうか好きなほうだけど……互いに様子見って感じかな」
「なんでですか?」
「男女の間ってそういうもんだよ。お互い出会ったきっかけが合コンの席で、お互いに友人との付き合いで出席していた合コンなんだよ。オレにはちゃんと恋人が居たし、彼女もその頃はたしか恋人がいたんだ」
「たしか?」
「ハッキリと聞いたわけじゃないけど……大学時代からの彼氏と遠恋してたって言ってて、その頃まだ付き合っていたのか、別れた頃だったのか……そんな風な話を後で聞いたんだ。とにかく初対面の時は、彼女も別に彼氏が欲しくて合コンに参加していたわけじゃなくて……で、『お互い付き合いで大変だね』って意気投合したのがきっかけだからさ」
 伊勢崎がそこまで話したところで会話を止めた。エレベーターホールに来たからだ。周囲の目を気にして会話を中断した。世良も口を噤んだ。エレベーターに乗り込み、ギュウギュウの状態のまま、部署のある階までジッと我慢した。
 辿り着いてエレベーターを降りると、ホッと二人とも息を吐く。
「とにかく、彼女はダメだからな」
「え?」
「解ったろ? オレが狙っているんだ。彼女は候補から外せよ」
「ええ、はい、解りました。というか……オレの相手は、伊勢崎さんみたいに記憶のコントロールの効かない人しかダメなので、大丈夫ですよ」
 世良がそう言って、懐からチラリと銀色の装置を見せたので、伊勢崎はアッと小さく言って頷いた。
「そうだったな……じゃあ安心安心」
 伊勢崎はニヤリと笑って、世良の肩をポンと叩くと先にオフィスに向かって歩き出した。しかし世良のほうは、あまり浮かない顔をしていた。
『伊勢崎さんに好きな人がいたなんて……』
 世良は伊勢崎の後姿をみつめながら、そんな事を考えて暗い気持ちになっていた。


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