カチャリと扉が開いて伊勢崎が部屋の中から出てきた。クルリと部屋の中へと体の向きを変えて、一度部屋の中を軽く見回すように間を置いてから「それでは失礼致します」と、落ち着いた口調でしかしはっきりとした声で述べると、45度の角度で丁寧にお辞儀をしてからゆっくりと扉を閉めた。
 カチャリと完全に扉が閉まって、4〜5秒の間を置くまでずっと頭は下げたままだ。そこでようやく小さく息を吐いてから、伊勢崎の口元がみるみると笑みを浮かべる。
 姿勢を戻してから、一度軽く視線を上へと向ける。扉の右斜め上に、スチールのプレートが張られており『営業本部部長室』と書かれてあった。
 伊勢崎は歩き出した。歩きながら今にも鼻歌でも歌いだしそうなほどにあからさまにご機嫌な様子だ。足取りも軽くスタスタと、自分のオフィスへと向かう。
 すれ違うものが不思議そうに振り返るのも気にせずに、伊勢崎は笑みを浮かべて歩いていた。ニヤケてしまうのを止められない。足早にオフィスへと戻り、大きな窓付きのオープンな扉を勢いよく開けて中へと入った。
「おい! みんな聞け! 春のフランチャイズレストラン向けの新企画案。オレ達のプランが通ったぞ! 販売営業部で早速チームが組まれるそうだ。本部長からお褒めの言葉を貰ってきたぞ」
 伊勢崎の言葉に、部内に居た部下達が一斉に喜びの声をあげた。この会社には、第一営業部、第二営業部にそれぞれ2つの企画室がある。普段は別々の企画を練ったりしているものだが、年に2回各企画室を競わせて、能力向上を図るためのイベントがあるのだ。
 その前期春の企画で、伊勢崎達のチームが勝利したのだ。こんなに彼らにとって嬉しい事はなかった。
「この企画が成功すれば、社長賞も夢じゃないぞ」
 ニンマリと満足気な顔で伊勢崎がそう言うと、ドッと部内が沸き立った。
「さあ! 企画を成功させるためにマーケティング調査を独自に行なって、販売営業部をフォローするぞ。オレ達の企画だからな、この後人任せって訳にも行かないだろう」
 伊勢崎がパンパンと手を叩いて、皆に発破をかけるように言うと、全員が頷いて真剣な顔でPCに向かった。
「あっ……そういえば、伊勢崎さん、世良はどこですか?」
「あ゛ぁ?」
 不意にそんな事を聞かれて、伊勢崎は変な返事を返してしまった。返してから部内を見回す。確かに世良の姿が無い。
「世良はどこだ?」
「それが解らないから伊勢崎さんに聞いているんじゃないんですか」
 伊勢崎の返事に、近くに居た田宮が笑いながら答える。
「いつからいないんだ?」
「1時間くらい前からです。てっきり伊勢崎さんと一緒なんだとばっかり思っていたんですけど、違うんですか?」
「オレは本部長に、今の件で呼ばれていたんだよ……つーか、なんでオレと世良が一緒って思うんだよ」
 急に伊勢崎がちょっとばかし不機嫌そうに返したので、田宮と井口が顔を見合わせてから笑った。
「だって仲良しじゃないですか」
 二人が声を揃えて答えてまた笑うので、伊勢崎はキュッと眉を寄せた。
「おいおい……ちょっと待て、お前らの認識が間違っているぞ。別にオレは奴と仲良しじゃない」
「ハハハ、別にだからって、オレ達は『贔屓』って思っていませんから大丈夫ですよ。まあ大学の後輩だし、あんなに懐かれたらかわいがりたくなる気持ちも解りますし」
 なあ、と言って田宮達が頷きあうので、伊勢崎は慌てて首を振った。
「待て待て……えっと……なあ、ちょっと聞いていいか? オレと世良って……そんなに仲良しに見えるのか? その……前からそうだっけ?」
 伊勢崎は恐る恐る言葉を選びながら尋ねてみた。『恐る恐る』なのは仕方ない。なぜなら世良は『異世界から来た不思議な人間』って奴で、周囲の人間の記憶を、自分の都合のいいように少しばかり操作しているのだ。それか通じないのは、どうやら伊勢崎だけで、だからヘタな事を言うと、伊勢崎のほうが「変なことを言う人」になってしまいかねないからだ。
「前からって……まあそうですかね? この企画室に来てからの事しか知らないですけど……ああ、確か伊勢崎さんもここで初めて世良とも会って、同じ大学だったって知ったんですよね。でもそれからすごく気が合うみたいだったし、何より世良がやたら懐いていたし……でもすごく仲良しってほどはなかったような……オレが仲良しだなぁ〜と思うようになったのは最近かな」
「ああ、そうそう、オレもそれは思う。最近特に仲良しですよね」
「一緒に帰ったりしているでしょ?」
 田宮たちがひやかすように笑いながら言い出したので、伊勢崎はサァーと少し青ざめた。『なんだそれ』と思う。なんだこの方向……オレのスマートでお洒落なビジネスライフと違う……伊勢崎はそう思っていた。
「別にいいんじゃないんですかね? 世良も仕事が出来て有望だし、伊勢崎さんが自分の後任として育てたくなるのも解る気がしますし」
 部内で一番年長の相良が、穏やかな口調でそう言ったので、「あっ」と伊勢崎は急に我に返った。
『そういう事ならいいや』と思ったからだ。みんながそういう風に思ってくれるならば別にいい。伊勢崎はホッとなった。『変な男・世良』と『変な秘密』を共有する身としては、変に神経質になるくらいに、回りからどう思われているのか気になってしまうのだ。
 もちろん世良と仲良くしていたからって、『異世界』という秘密がばれてしまう事は無いのだが、そういう物はすごく『変なもの』と思っている伊勢崎にとっては、自分までもが『変な奴』扱いされてしまうのではないか? というのが、ひどく気になるところだ。
「ただいま、戻りました」
 そこへ世良がひどく暢気にも明るい声で、そう言いながら部屋の中へと入ってきた。
「おまっ! どこに行っていたんだよ!」
 思わず伊勢崎が怒鳴ると、世良はキョトンとした顔で立ち尽くしている。手には数冊のファイルを抱えていた。
「どこって……5階の営業資料室です……伊勢崎さんが本部長に呼ばれたんで、多分例の企画の事かと思って……それで何かプレゼンの資料をそろえておいたほうがいいかと思って……フランチャイズレストランの前回のイベントの際に回収したアンケート集計の資料を取りにいってました」
 キョトンとしたまま答えた世良の言葉に、仲間達が「おお」と声をあげた。
「お前は本当に気が効くなぁ〜」
 大柄の大場が、ハハハと笑いながら世良の肩をパンパンと叩く。世良は素直に喜んでヘヘヘと笑っている。そんな様子を伊勢崎は、思わず笑みを浮かべてみつめていたが、ハッと我に返ってプルプルと首を振った。
「ったく、休み時間じゃないんだ。席を外すときは誰かに言付けていかないと、行方不明扱いになるだろう。新入社員じゃないんだから、それくらいちゃんとしろっ! えっと……た、田宮がお前を探していたんだぞ! なあ! 田宮」
 慌てて叱りつけてから、話を田宮へと振ったので、田宮は笑いながら「そういえばこれだけどさ」と何か書類を持って立ち上がって、世良に話を始めた。それを見届けてから、なんとも複雑な心境で伊勢崎は自分の席へと座った。


 世良は本当に気が効くし、仕事も出来る。部下として何も問題は無い。役に立っている。性格もいいし、みんなから好かれているし、嫌いになれない。悪くない。そう思うのだけど……。
「これってどうよ!」
 伊勢崎は自分のマンションの居間で仁王立ちに立って、両手を腰で組んで、イラッとした顔で、居間のソファでくつろいでいる世良を睨みつけながら叫んでいた。
「へ?」
 世良はソファに座り、膝を抱えてポテチを口に咥えたまま、驚いた顔で伊勢崎を見ている。
「お前! 何くつろいでるんだよ! 自分の部屋にもどれ!!」
「……別にいいじゃないですか。伊勢崎さんも暇なんでしょ?」
「暇って言うな!!」
「何イライラしているんですか?」
「イライラもするわ! お前、なんで毎週毎週休みの日に朝からオレん所にくるんだよ」
「だって……伊勢崎さん以外友達いないし」
「友達言うな!」
「そんなに怒らなくっても……」
 世良は口を尖らせてシュンとした顔になった。伊勢崎は、その様子にちょっとチクリと胸が痛んで、チッと舌打ちをすると、コーヒーの入ったマグカップをキッチンのバーカウンターの上から2つ手にとって、ソファの所まで歩いていくとテーブルの上にコトリと置いた。自分は向かいのラグの上にドカリと座る。最近すっかりここが定位置になってしまった。
 別に床に座るのが好きなわけではない。2人掛けのラブソファに世良と二人で並んで座る気がないだけだ。
「あのな……お前、この世界に来てどれくらいになる?」
 伊勢崎は一度深呼吸をしてから、出来るだけ穏やかな口調を心がけて尋ねる。
「えっと……三ヶ月?」
 世良がそう言ってエヘッと笑ったので、伊勢崎はまたプチッと切れそうになった。
「三ヶ月だぞ! 三ヶ月!! 三ヶ月っていうと約90日だぞ!」
「そうですね」
「その間、お前何してた」
「えっと……今回の春の企画案を最初から一緒にプランニングしました」
「そうだ……っていうか、違〜〜うっっ!!!」
 伊勢崎は怒鳴ってバンッと床を叩いていた。世良はとても驚いて目を丸くしている。
「違うだろっ!」
「え? え? な……なんですか?」
「お前がこの世界に来ている目的は!?」
「あ……えっと……花嫁探しです」
 世良はちょっと恐縮したように小さく答えた。
「だよなっ!」
 伊勢崎は語気を荒げる。キッと睨むと、世良は目を伏せた。
「三ヶ月だ! ひとつのプロジェクトの企画を発案からプレゼンまでが出来るくらいの期間だぞ!」
「はい」
「やろうと思えば、電撃結婚もできちゃった結婚もできる期間なんだぞ!」
「はあ……そうなんですか?」
「そうだよ!」
 怒られて世良はしょんぼりとしている。伊勢崎はしばらく睨みつけてから、ハアと大きな溜息を吐いた。
「まったく……何やってんだよ……早く花嫁探さなくて良いのかよ」
「別に期限はないんです……さすがに何年もってわけにはいきませんが……1〜2年はかかっても大丈夫です」
「だからって、毎週オレの部屋でくつろいでいる場合じゃねえだろうがっ」
「そうですけど……」
 世良はしょんぼりとした様子で俯いて、テーブルの上のマグカップをみつめていた。伊勢崎はわざと聞こえるような溜息を吐いてから、自分の分のマグカップを手にとって、ずずっとコーヒーを啜った。しばらく沈黙が続く。チラリと時々世良を見ると、世良はまだしょんぼりとした顔のままで、マグカップをジッとみつめていた。
 彼が何を考えているのかは解らない。だが伊勢崎が怒ったことには、何も間違いはないと思うし、迷惑なのも本当の話だ。かわいい女の子ならともかく、なんでこんな図体のでかい男に懐かれて、毎週男二人で過ごさなければ鳴らないというのか。それも相手は得体の知れない『異世界の人間』なのだ。一見見た目は、自分達とまったくかわらない人間に見えるのだが、理解しがたい装置を持っている。
 ちらりとまた見ても、まだ世良はしょんぼりと俯いたままだ。
 伊勢崎は心の中で盛大な舌打ちをした。こいつは、絶対『犬型』だと思う。大きな犬だ。しっぽを振って、人懐っこく甘えてくる。叱るとこんな風に、しっぽを丸めてしょんぼりとする。なんだかこっちが悪いような気がしてきてしまうから始末が悪い。
「あのな、お前はここに来るよりも、仲良くなれる女の子を捜したほうが良いだろうって言っているんだよ……オレも……まあ確かに最近暇だけどよ。だからってお前に合わせて、毎週ナンパする気も無いし……たまには一人でやってみろよ」
 伊勢崎は今度はちょっと優しめな口調で言ってみた。宥めるように、言い聞かせるように言ってみる。すると世良がチラリと一度伊勢崎を見た。目が合うと、またすぐにプイと逸らしてマグカップをみつめる。
「ナンパにいい場所にも、何度か連れて行ってやっただろ?」
 伊勢崎は更に言い聞かせるように言ってみた。するとようやく世良が動いた。手を伸ばして、両手で包み込むようにマグカップを手に持つと、ずずっとコーヒーを啜って、ふうと息を吐いた。
「オレ……このままがいいなぁ、なんて思っているんです」
「あ゛?」
 ようやく口を開いた世良が言った言葉に、伊勢崎は意味が解らずに変な声で返した。だが世良はすぐには答えずに、またずずっとコーヒーを啜っている。伊勢崎はジーッと世良をみつめた。
「このままがいいって……なにが?」
 伊勢崎はもう一度、今度はちゃんと聞き返した。すると世良がチラリと伊勢崎を見て、ことりとマグカップをテーブルの上に置いた。
「居心地がよくて……このままがいい気になってきてるんです」
「だから何が?」
 伊勢崎はちょっと嫌な予感がして、眉間を少しばかり寄せた。
「オレ、伊勢崎さんと一緒に居るほうが、女の子と一緒に居るより、ずっといい気がするんです」
「あ゛あ゛っ!?」
 伊勢崎は眉間を寄せて露骨に嫌な顔をした。
「おまっ……どういう意味だよ。オレはゲイじゃねえぞ!」
「オレだってそうですよ……いや、別に伊勢崎さんを花嫁の代わりにするとか言う意味じゃないんですけど……ただ、本当に……ずっとこうして伊勢崎さんと一緒にいるほうが居心地いいし……オレ、伊勢崎さんの側に居たいなぁって」
「世良――っ!! てめっ! 寝ぼけた事言ってんじゃねえぞ!」
 眉間を寄せて、怒りで顔を赤くした伊勢崎の怒鳴り声が響き渡る中、なぜか世良は嬉しそうにエヘヘヘヘと笑っていた。


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