すっかり懐かれてしまったように思う。
伊勢崎はキッチンに立ち、コーヒーメイカーで新しくコーヒーを煎れながら、居間の方をチラリと見てピクリと眉間を寄せた。
居間のソファには世良が座っていてTVを見ている。ここは伊勢崎の部屋で、それも土曜日の午前中で、なんでいきなり彼が訪ねて来たのか……いや、なんで部屋に入れてしまったのだろうとも思うが、とにかく伊勢崎は彼のためにコーヒーを煎れていた。
出来たコーヒーをカップに注いで、両手にひとつずつ持つと居間へと戻る。
「ほれ」
差し出すと彼は嬉しそうに笑って受け取る。
「それ飲んだら帰れ」
「ええ! そんな酷い……遊んでくれないんですか?」
「遊ぶって……お前……」
水曜日に彼を初めて合コンに誘った。彼の目的を早く達成させる為の協力のつもりだった。そこでは目的は達せられず、次回へ持ち越しとなったが……その時確かに伊勢崎が彼に「今度ゆっくり飲もう」と言った。「もっとお前のことを教えろ」とも言った。だがそれはまあ、半分は社交辞令に近いもので……まさか次の日の夜から「一緒に帰りましょう」と言われ「一緒に鍋食べましょう」と鍋セットを部屋に持ち込まれ、その後金曜まで連続でそんな感じでなだれ込まれて、その上休みである土曜の午前中から遊びに(?)来られるのはどうしたものかと思う。
普通は分かるだろう。いくら誘われたからって、その言葉のまま受け取って、毎日押しかけては来ないものだろう。図々しいにも程があるというか、常識知らずというか、空気読めないというか……とにかくこれで分かったのは、彼には「社交辞令」が通じないという事だ。
伊勢崎はそんな事を思うと益々不機嫌そうに眉を寄せて、ソファに座る世良を睨みつけながら床に胡坐を掻いて座った。
「だって……休みの日だったら、伊勢崎さんナンパでもしに行くかもと思って……そしたらぜひご一緒させてほしいなと思って……」
「行くか!」
伊勢崎が乱暴な口調で即答すると、世良はシュンとなってしまった。その様子に小さく舌打ちをする。
「あのな、いくらオレが今フリーで、恋人募集中とは言っても、そんなにがむしゃらに女を捜している訳じゃないんだよ……オレももうそんな若く無いし……無理に彼女を作ろうとナンパしまくる歳でもないんだよ」
「そうなんですか……」
世良はガッカリした様子で、カップのコーヒーをすすりながら背を丸くしていた。
「お前こそそんなにがむしゃらに、彼女を捜さなきゃならないなら、自分一人で行ってみろよ」
「……ナンパなんてした事ないんです」
ポツリと世良がそう言った瞬間、伊勢崎の脳裏に「世良はこの歳で童貞」という言葉が浮かんだ。
「あ〜〜……あのさ、余計な世話かもしれないが……花嫁探しももちろんだが、その前にもっと勉強しておいたほうがいいこともあるんじゃないか?」
「勉強?」
世良は不思議そうな顔で首を傾げる。
「そのお〜……男として一人前にならないとさ、彼女も出来ないもんだよ。例えば口説けたとしても、その後がマズイと振られる事だってあるし……」
「何のことですか?」
世良はまったく判らないと言う顔をしている。伊勢崎はちょっと困ったような顔になって頭を掻いた。
「えっと、お前さ、この前童貞だっていったろ? キスもした事ないのか?」
「はい」
これもまたキッパリと言われてしまった。この話題については、とても繊細な話だと思っていたので、木・金と2日も夕食を一緒したものの、あえて伊勢崎からは話題にはしなかったのだが……。
「キスもっ!?」
伊勢崎はさすがに驚いて声が少しひっくり返ってしまった。
「お前、どこの深窓の令嬢だよ……」
「おかしいですか?」
「おかしいだろう! よっぽどのデブでブサイクで女に嫌われているとか、アキバ系でリアル女の子と口聞いた事も無いっていうならともかく……普通の男だったら高校とか大学とか学生時代に彼女の一人は居ただろうし、せめてキスくらい……いや、その……ああっ、例えば素人童貞って事だったりするのか?」
「素人童貞? ……ああ、商売の女性とならあるのか? って事ですか? いえ、まったくの未経験です」
またサラリと言われてしまった。伊勢崎はあんぐりとなって世良をみつめた。世良は割りとハンサムな方だ。普通にモテるだろうと思う。健康な成人男性がどうしたら未経験になれるのか分からない。
その上どうしてこうも堂々としているのかも分からない。自分だったらば、恥かしくてそんなカミングアウト出来ない。嘘ついてで見栄を張るものだろう。
「えっと……分からないけど……それは何か家のしきたりとか?」
「まあ……それに近いですね」
『童貞』のしきたり!! 結婚するまでは貞操を守る……って、しきたり?? 女じゃなくて男が?? そんな家は絶対に嫌だ!! と伊勢崎は心の底から思った。それと同時に、ものすごく世良に同情心が湧いてきた。なんと気の毒なのだろう。
「えっと……まあじゃあとりあえず順番として聞くけど……まずお前、SEXは分かるよな?」
「はい、知識だけですが分かります」
「……知識って……AVとか? エロ本とか?」
伊勢崎の質問に世良は少しばかり考えた。
「AVとはこの世界のエッチな映像の事ですよね……そういう……色物ではないのですが、どっちかというとちょっと真面目な性交渉のやり方ハウツーみたいな教育映像です。愛撫の仕方とか、挿入の仕方とか、基本的な体位とか……特に子作りに適したやり方を習うといった感じです。だから色っぽいドラマ性のある映像ではないです。まあ年頃になって見せられるので、それなりに興奮はしましたけど」
世良が真面目に答えるのを、伊勢崎は益々変な気持ちになりながら質問を続けた。
「じゃあ、自慰はやった事ある?」
「はい……時々定期健診で、正常な精子を作れる体かどうか調べられたりもしますので」
世良の話を聞けば聞くほど、伊勢崎は不思議な違和感を覚えていた。
「なんか……お前の世界……ちょっと変じゃねえか?」
「え? 変って……そうですか? どの辺が?」
世良は首を傾げながら聞き返してきた。改めてそう聞き返されると返事に困る。違和感を感じて、ちょっと変だと思っただけで、どこがどうという確信があるわけではない。でもおかしいと思う。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
「はい?」
「お前がこの世界に来た目的の花嫁探しって、お前の世界の……っていうか、国とかそういう規模で強要されている事なのか?」
「え……どうしてですか?」
「だって普通に考えても可笑しいだろう? 個人で出来る事じゃないし……仕組みは全然分からないけど、お前の世界からこっちの世界に来るのだって簡単な事じゃないんだろう? そのヘンテコな装置にしたって、その腕時計の装置にしたって、すべてそうだし……データを取られているとか言うし……」
伊勢崎が真剣な顔で言うと、世良も真剣な顔になって考え込んだ。手に持つカップの中のコーヒーをジッとみつめながら、しばらくの間考え込んでいた。伊勢崎はそんな世良を黙ってみつめていた。
「国家機密なので話せませんけど……確かにオレ個人の問題ではないです」
「分かった。お前がこの世界に来た目的についての真相は聞かないでおこう。代わりに教えて欲しいのは、お前がその歳で『童貞』だっていうの、お前の世界では一般的なことなのか? いや、ほら、オレ達の世界だって、国が違えば色んなしきたりや風習があるからさ。例えば日本では男は18歳以上、女は16歳以上じゃないと法律で結婚は出来ないけど、国によっては12〜3歳で結婚OKつていう場合もあるし……だとしたら、オレはそんなお前を可笑しいと思うけど、それがお前の国の常識だというのならば、仕方ない事だろう?」
世良は伊勢崎の言葉を真面目な顔で聞きながらも、また考え込んで即答はしなかった。伊勢崎も黙って見守っていた。
「そうですね……常識のようで、常識ではないようで……オレもそれはよく分かりません。すみません。上手く答えられません」
世良が頭を下げて、言いにくそうな口調でそう言った。伊勢崎はしばらく考えてから溜息をついて立ち上がった。
「出掛けよう」
「え?」
「ナンパには行かないぞ……でもこうして男二人で部屋にいたって仕方ないし、人の多いところに行けば、何か出会いがあるかもしれないだろ?」
「は……はい! ありがとうございます」
嬉しそうな顔で慌てて立ち上がった世良が、一瞬大型犬に見えて伊勢崎は苦笑した。
伊勢崎は世良を連れて渋谷へと行った。文化村美術館へ行って、道玄坂から109をブラブラして女の子をウォッチングしながら、世良の好みのタイプを聞き出したり、夕方にはクラブに立ち寄りライブを聞いて、夜の部のダンスに参加して女の子に声を掛けてみたりしてみせた。
「なあ、今の子とかどうだ?」
「はあ、かわいいですね」
「好きなタイプか?」
「ん〜」
世良は困ったように笑いながら答えを濁す。今日一日女の子ウォッチングして、世良の好みのタイプを聞き出そうとしたが、毎回この調子だった。
「お前さ、真剣に花嫁探しする気あるのか?」
とうとう最後には伊勢崎がキレかかって、ムッとした様子で問い詰めると、世良はキョトンとした顔になって「はい」と答える。伊勢崎はハアと溜息をついた。
「あのさ……オレは協力してやっているだろ? だけどお前がはっきりしないとさ、話も進まないんだよ。今日は何のためにこうして出掛けていると思ってるんだ? お前の好みのタイプが分かれば、オレがナンパとか合コンとか、協力出来るからだろ?」
「すみません」
世良がシュンとなって項垂れる。周囲はガンガン音楽が鳴り響き、リズムに合わせて踊りまくる男女が居たり、テーブルで身を寄せ合うようにして話をしている者達が居たり、大変な賑わいだ。真面目な話が出来る場所でもない。女の子と仲良くしないなら、男二人でこうしていても仕方ない。
「帰ろう」
伊勢崎がそう言って世良の肩を叩くと立ち上がった。
その日は結局、女の子をお持ち帰りするどころかナンパも、二人で仲良く家へと終電で帰った。仲良く……結局世良と遊んでしまった……と反省したのは、伊勢崎がベッドに横になってからだった。
別れ際に「明日はお前には付き合わないからな」と忠告したので、多分大丈夫だろう。伊勢崎はそう思って安堵すると眠りに付いた。
日曜の朝は静かに目覚めた。時計を見ると9時を少し回っている。起き上がり、顔を洗って着替えをして、トーストとコーヒーだけの簡単な朝食を食べて、ソファに座ってTVをつけて、朝の情報番組をぼんやりとしばらく見ながら「今日は一日何をしようかな」と考えた。考えてから無意識にチラリと玄関の方へと視線を向ける。
さすがに昨夜忠告したから、今日は奴は来ないだろうと思う。そう思いながらもふと「奴は一人で何をするんだろう?」と考えていた。彼は別の世界の人間だ。だからこの世界にはまだ慣れていないのではないか? と考えてから、「大体別の世界ってどんな世界だよ」と呟く。
それはもう伊勢崎の一番苦手とする分野の話だ。別の世界……それをSF的に想像する事は出来ない。その辺りは考えるのは辞めて「とにかく違う世界なんだ」と無理矢理自分に言い聞かせる。そしてその「違う世界の人間」が、この世界の休日に一人で何をするんだろう? と考える。考え出したら止まらなくなって、ひどく気になり始めた。
「ハッ……オレ……どんだけ親切なんだよ」
我に返って呟いた。
野郎の心配をするなんて、伊勢崎の人生の中で経験の無い事だ。男の友達は何人もいたが『親友』と呼ぶほど、ものすごく親しくした男の友達は今まで持った事がなかった。いつも「クラスで一番遊ぶ友人」程度の付き合いだ。それも小学校までで、中学になる頃にはもう彼女と過ごす時間のほうが長くなっていたし(中学の頃から彼女が居た)それ以降の男の友達と言ったら、もう本当に学校でちょっと親しく話す程度の連中だ。
「……オレ……友達いない?」
我に返って、ちょっと寂しい気持ちになった。
「いやいや、大学の時にゼミも一緒で親しかった飯塚とか菅とか太田とか……バイトも一緒だったし……」
そう思い出してみたが、その連中とも卒業後はパッタリだ。
「そうだよ……そうだよ……だから世良とどう仲良くしたら良いのか分からないんだよ。大人の友達関係ってどうすりゃいいんだ?」
開き直るように独り言を呟いて、テーブルの上においてある新聞を乱暴に広げた。しばらく読んでいたがパサリと膝の上に置くと溜息をついた。
「何言ってんだよ……なんでオレが世良と仲良くしないといけないんだよ……」
自分に呆れた。が、やっぱり気になるのは仕方ない。諦めたような顔になると立ち上がって玄関へと向かった。スニーカーを引っ掛けて廊下に出ると、隣の玄関の前に立った。フウと息をついてから呼び鈴を鳴らした。