クローゼットの扉を開けて、何着も下がっているスーツを手で掻き分けながら、「うーん」と小さく唸り声を上げる。
「やっぱ、今日はこの色かな?」
 チャコールグレー地にピンストラップの入った生地の背広を手に取った。お気に入りのブリティッシュスタイルのシングルスーツだ。それをハンガーごと、クローゼットの扉の取っ手に引っ掛けて吊るすと、次に扉の内側にたくさん下げられているネクタイを選び始めた。
「今日のラッキーカラーのイエローで……この小紋入格子柄のが上品だよね」
 念入りにその日着ていく服を選ぶのは、伊勢崎の日課だった。お洒落には気を使っているつもりだ。派手な格好には興味は無い。サラリーマンたるもの背広は戦闘服だと思っている。出来る男は、格好も自然とキマッているものだ……というのが信条だ。だから1週間の間同じ組み合わせのスーツは身につけない。ネクタイにもシャツにも気を使う。
「まあ……30にもなると、大人の魅力が滲み出るからな、別に着飾らなくても、スーツひとつで格好よく見えるものだ……若い連中の七五三姿とは違うからな」
 伊勢崎はフフンと鼻を鳴らして、キュッとネクタイを締めると、背広を羽織った。姿身の前で全身をチェックすると、髪に手櫛を入れて整える。チラリと視線を部屋の壁に掛かる時計へと向けた。8時7分。そろそろ出ないと、いつもの電車に間に合わない。
「よし、行くか」
 伊勢崎は呟いて、カバンを手に取ると歩き出した。

 伊勢崎の住むマンションから、JR荻窪駅までは歩いて5分。そこから会社のある市ヶ谷までは総武線で乗り継ぎ無しで22分。毎朝息も詰まるようなギュウギュウの電車に乗り込み通勤する。僅かな救いは、新宿で乗客が半分は降りる。そこでようやく小さな息を漏らして、少しばかり乱れた服を整えるのだ。
 伊勢崎はいつも身なりには気を使っていた。もちろん「何、あの格好付け」なんて思われないように、あくまでもさりげなく……だ。さりげなく。華美なお洒落には興味が無い。さりげないお洒落こそが本当のお洒落だと思っている。靴はいつも磨いていて綺麗だし、シャツはいつも洗濯ではなくて、クリーニングに出している。
 それもこれも自分が「格好良い」と自覚しているからだ。俳優みたいに二枚目……とまではいかないが、割とハンサムだと思っている。同じ会社の女子社員の憧れの的だという自覚もある。
 格好よくて、仕事も出来て、優しくて、上司からの評判も良い……そんな理想的な完璧サラリーマンのオレって格好よくない? そう思っていた。
 だからそのための努力は惜しまない。毎朝の日課のようになっている服選びも、仕事の為の勉強も、週2回のジム通いも……ずっと欠かさずがんばっている。
 おかげで現在、営業1課第2企画室の室長だ。課長待遇だ。肩書きを持っているのだ。偉いのだ。仕事だけではない。女にも不自由したことが無いのだ。
 市ヶ谷の駅に着いて、ホームに降りると、人々の流れに乗って階段を上がった。改札を出た所で背筋を伸ばすと、歩幅を大きめに颯爽と歩き出した。ここからはいつ会社の誰に会うか分からない。眠そうな顔は出来ないし、ダラダラと歩くわけにはいかない。
 完璧なオレ……のはずの伊勢崎なのだが……実は最近そうではなくなってしまった。先月付き合っていた彼女と別れた。交際歴は1年7ヶ月だった。別れた理由は……性格の不一致。変な理由と思われるだろうか? だったら最初から付き合うなと思われるかもしれないが、伊勢崎自身も、よく1年7ヶ月も続いたものだと思っているくらいだ。
 最初から合わなかった。大体歳の差がありすぎるのも問題だった。彼女はまだ22歳。付き合い始めた頃は、彼女はまだ大学生だった。モデルの仕事をやっている綺麗な子で、合コンで知り合った。若い彼女は我侭で気まぐれだが、そこがかわいくも見えて、魅力の一つでもあった。こちらも大人の男として、それに寛大に付き合うしかなく、いつも振り回されてばかりいた。だが次第に気持ちのすれ違いを感じるようになってきた。
 彼女曰く「伊勢崎さんと付き合うのに疲れちゃった」
―――それはこっちの台詞だ!!
 という訳で別れた。
「そろそろ、結婚前提に付き合えるような、ちゃんとした相手を探した方が良いかな……」
 信号待ちをしながら、伊勢崎は小さく独り言を呟いた。小さく溜息を吐いてから、ハッと辺りを見回す。知っている顔が居ないことに安堵すると、真っ直ぐに前を向いた。信号が青に変わると同時に、周囲の人々と同時に前へと踏み出した。
 キィーーーーーーーーー―ンッ!!
 数歩歩いたところで、ふいに鼓膜が破れるかと思うほどの鋭い音に、「うっ」と伊勢崎は顔を歪めて、両手で両耳を押さえると立ちすくんでしまった。
「なんだ……この音……」
 金属的な音のようだが、なんだか分からない。とにかく耳が痛くて頭が割れそうだった。
「大丈夫か?」
 誰かにそう声を掛けられて肩を叩かれて、ハッとなり顔を上げると、信号が点滅している。横断歩道の真ん中で立ち往生している場合ではない。耳を押さえながらなんとか走り出した。数歩駆けたところで、ピタリと嘘のように音が止んだ。そのまま横断歩道を渡りきったところで、足を止めてハアハアと荒い息を吐く。
 車の走る音、人の足音、スズメのさえずり……先ほどと変わらぬ街の音が耳に入ってくる。辺りをキョロキョロと見回したが、道を歩く人々は別に変わった様子はなかった。
「伊勢崎くん、大丈夫か?」
 さっきの声と同じ声がまた聞こえて、ハッとなり声のほうを向くと、同じ会社の木村の姿があった。歳はひとつ上で以前第1企画室に居た頃一緒に働いていた同僚だ。
「あ……ああ、おはよう」
「おはよう、どっか具合でも悪いのか?」
「え? いや、今、ものすごく大きな音がしただろう? それで頭が痛くなってさ」
「へ? 今って……今? いや、別に何も無かったぞ」
「え?」
 伊勢崎が驚いたような顔をすると、木村はキョトンとした顔をしていた。
「いや、だって……ほら、たった今だよ。キーンッてなんか金属音みたいなものすごくデカイ音がして、鼓膜が破れるみたいな……」
 すると木村は顔を綻ばせて笑みを浮かべながら、ポンポンと伊勢崎の肩を叩いた。
「そりゃあ疲れてるんだよ。お前、室長に昇格してからがんばり過ぎてんじゃないのか? たまには有休でも取って休めよ」
「え?」
 伊勢崎はポカンとした顔になった。木村は本当に何も感じなかったようだ。あんなに大きな音だったのに……だが木村だけではない。確かに周囲の人々に異変は無かった。
「ああ、遅れるぞ、行こう」
 木村がそう言って促したので、伊勢崎も仕方なく歩き始めた。歩きながら、右手で右耳のあたりをトントンと小突いてみた。もう耳の痛みも頭痛も無い。やはり気のせいか……疲れているのだろうか? 確かにここ2週間ほど残業続きで、睡眠も毎日4〜5時間しか取れてない。先週の日曜日は、上司に付き合ってゴルフに行ったので休んでいない。
『疲れているのかな……』
 伊勢崎は額を押さえながらそう思った。思ってから眉間を強く指で押さえて溜息を吐くと顔を上げて歩き出した。


 会社に着くと、いつものように仕事が始まる。いつもと変わらないオフィス、いつもと変わらない部下達。いつもと変わらない……伊勢崎は、一番奥にある自分のデスクへと向かう途中で足を止めた。見知らぬ顔が居たからだ。
 伊勢崎の第2企画室は、総勢9人。8人の部下達の机が、2台ずつ向かい合わせに縦に一列並んでいる。数は確かに8席。だがのそのウチの1つに見知らぬ男が座っていた。客という訳ではなさそうだ。いかにも自分の机だというように座って、パソコンのキーボードを叩いていた。
「あ、先輩、おはようございます」
 彼は伊勢崎に気づいて顔を上げると、ニッコリと笑ってそう言った。
「?……どちら様ですか?」
 伊勢崎は首を傾げながらそう返した。『先輩』なんて馴れ馴れしく言われても、まったく知らない顔だ。人違いか? と思う。
 彼はキョトンとした顔になってから、困ったように笑った。
「先輩〜冗談はよしてくださいよ〜〜」
「いや……すまないが、冗談ではなく、ちょっと君に覚えが無いんだけど、誰だっけ? というかなんでそこに座っているんだ?」
「先輩? どうしたんですか?」
 彼から笑顔が消えて心配そうな顔になる。いつまでこんな冗談を続けるつもりなのかと、伊勢崎のほうも困惑気味な表情になって、思わず周囲に視線を泳がせた。他の部下達も不思議そうな顔で、仕事の手を止めてこちらを見ていた。
「どこの課の者だ?」
「先輩……いくらオレがかわいいからってそんなイジメはひどいですよ〜」
 男がちょっとふざけたような口調で言うと、他の者達からドッと笑いが漏れる。そのなごやかな雰囲気に、伊勢崎は違和感を覚えて改めて他の者達を見回した。
「お前らもグルか?」
「室長……それマジですか?」
 伊勢崎の様子に、ふざけているのではないと分かり、他の者達も困惑気味に顔を見合わせ始めた。そのみんなの様子に伊勢崎は不安を覚えた。どういうことだ?
「おい、朝から冗談はそれくらいにしろ。今日は午後から大事な会議があるから、準備で忙しいはずだろう……お前ももう自分の席に戻れ」
「先輩……本当にオレが分からないんですか?」
「ああ、分からないな……少なくともそこはお前の席ではないし、オレの部下ではない」
 伊勢崎は少しイラつきながらキッパリとそう言った。
「じゃあ、ここは誰の席なんですか?」
 すると男は真面目な顔になって、まっすぐに伊勢崎をみつめながらそう尋ね返してくる。伊勢崎は少し言葉に詰まった。
「そこは……」
―――誰の席だったっけ?
 伊勢崎は眉間を寄せて考え込んだ。部下が8人、席も8つ。この男は知らない。じゃあこの席の本当の持ち主は誰だ? だが思い出せない。頭に霧が掛かったようでぼんやりとなり頭痛がする。さっきの頭痛の所為だろうか? 疲れているのだろうか? 思い出せない……伊勢崎は額を押さえながら少し焦った。掌に脂汗が滲む。が、ふいにハッと閃いた。
「いや、違う。そこは誰の席でもない……第2企画室はオレを入れて8人。この机は空き机だ」
 そうだ! とポンと手を叩いて、伊勢崎はそう言い切った。すると男の顔が険しくなる。チッと舌打ちをすると、背広の内ポケットに手を入れて何かを取り出した。ライターくらいの大きさの楕円形の金属で出来た何かを取り出すと、それを伊勢崎の方へと向けて、親指でその物体の上の部分をギュッと押す仕草をした。
 カチリッとスイッチの入るような音がして、次の瞬間、キィーーーー―ンッという『あの』音が響き渡った。
「うわっ!!」
 伊勢崎は両手で両耳を塞ぐようにして頭を抱えながら背を丸めて苦しんだ。激しい頭痛と耳鳴りがする。だがそれは一瞬の出来事で、音はすぐに止んだので、頭痛もすぐに止んだ。
「お前っ!! 今何をしたっ!」
 伊勢崎は顔を上げると、ガッと男の胸倉を乱暴に掴んだ。男は両目を大きく見開いてとても驚いたような顔をしている。
「先輩……オレが分からないんですか?」
「分からないよ!! 誰だよお前!! 今のはなんだ!!」
 伊勢崎が怒鳴ったので、室内が騒然となった。
「室長! どうしたんですか! 世良が何かしたんですか?」
 男の向かいの席に座る大場が、慌てて立ち上がりながらそう声をかけてきた。
「世良?」
 伊勢崎は大場の方を見ながら、その名前を聞き返す。
「そうですよ、世良ですよ……どうしたんです? 室長……まさか本当に分からないんですか? オレ達のことは分かります?」
 その隣の席の田宮が困惑したような顔でそう聞いてきた。伊勢崎は男の胸倉を掴んでいた手を放して、ぼんやりとした顔で辺りを見回した。みんなが驚いたような困惑したような顔でこちらを見ている。
「なにをみんな言っているんだ? 分かっているさ……大場、田宮、岩井、井口、山下、鈴木、相良……みんな分かっているに決まっているだろう……なんだよ世良って……こいつは何者だよ」
 伊勢崎の方が困惑していた。なんだろう? この違和感は? と思う。まるで自分だけが記憶喪失にでもなっているみたいだ。みんなはこの見知らぬ男のことを本当に知っているらしく、また仲間だとでもいうかのような雰囲気だ。それを知らない伊勢崎が、むしろおかしいかのようだ。
「伊勢崎さんと同じ大学の後輩だって……いじめながらもかわいがっていたじゃないですか」
 大場が本当に心配そうな顔でそう言った。
 後輩? かわいがる? それはまるでずっと前から彼がここに居るかのような言い方だ。伊勢崎は大場とみつめあった後、世良と呼ばれる男へと視線を向けた。世良は険しい表情で、ジッとこちらを見ていた。
 伊勢崎は混乱してきて額を押さえた。頭痛がする。一体今何が起こっているというのだろうか?
「先輩、疲れているんですよ……頭痛がするんですか? 少し休んだほうが良いですよ」
 世良はそう言って立ち上がると、伊勢崎の背中を押した。
「総務で薬を貰ってきましょう……さあ」
 伊勢崎は促されるままに歩き出した。企画室を出て廊下をのろのろと歩く。その間、グルグルと頭の中はこの世良という男のことを考えていた。
 歳は25〜6くらいだろうか? 少なくとも伊勢崎よりも若い。身長は伊勢崎よりも少し高めで、体格もガッシリとしているスポーツマン体型だ。顔もまあまあ良い。一重だが切れ長の大きめの目と高めの筋の通った鼻、面長の顔。短く刈られた髪が、そのスポーツマン的な印象を更に強くする。爽やかな印象の青年だ。どこにでもいるような平凡なルックスの男ならともかく、少なくともすぐに忘れるような見栄えの男ではない。大学の後輩? いくら考えてもまったく分からない。
「お前……本当に誰だよ」
 伊勢崎がボソリと呟いたが、世良は何も答えなかった。伊勢崎の背中を押しながら黙って廊下を歩いている。
「誰だよ」
「世良ですよ……世良大輔……本当に覚えていません?」
「まったく知らないな」
 伊勢崎が少し怒りを込めた声色でボソリと答えると、世良は足を止めた。クルリと体の向きを変えると、近くの扉を開けて素早い動きで伊勢崎の腕を掴んで中へと引き入れると、パタンとドアを閉めた。
 小会議室のひとつ。誰も使っていなかった。窓のブラインドが半分ほど下ろされているので、電気がついていないと少しばかり薄暗い。
「なんだよ! いきなり!」
 伊勢崎が声を荒げながら世良を見ると、世良は手にまたあの楕円形の金属の塊を握っていた。あっと思う間もなく、カチリとスイッチを入れられて、キィィー―ンッというあの鋭い音が響く。
「うわっ……くっ……それやめろよっっ!!」
 伊勢崎は鼓膜の破れるような激痛に苦しみながら、怒鳴りつけると咄嗟に手を振り上げて、世良の手に持つその金属の塊をパンッと手で払った。弾かれてカッと床に落ちるとカラカラカラッと転がっていく。
「あ……」
 世良が慌ててそれを拾いに走る。伊勢崎は肩で息をつきながら、額を押さえていた。頭がガンガンと痛む。朝からのあの怪音は、それが原因に違いないのだと思った。それが何かは分からないが、ますますこの世良という男が怪しくなる。
 ブルブルッと首を振ってから、改めてジロリと世良を睨みつけた。世良は床に転がるその金属の塊を拾い上げると、こちらを振り返った。
「なんだよそれ……お前は何者だ」
 伊勢崎が怒鳴ると、世良は緊張した面持ちになって屈んでいた体を起こすと、まっすぐに伊勢崎に向き直った。しばらくジッとみつめてから、眉間をキッと寄せる。
「……こんなの……想定外だ」
 世良はポツリとそう呟いた。


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