ウェイライがジリジリと後退りをすると、カツッとテラスへと出るガラスの嵌った扉に踵が当たった。ウェイライがハッとなって振り向いて、扉の向こうに見えるテラスを見た。
「ウェイライ様……少しで良いのです。それをお貸し下さい」
「ダメです。これは……あなたには貸せない」
 ウェイライは再びファウスと向き合うと、少し眉間を寄せながら毅然としてそう答えた。
ファウスの目を見つめると、彼が尋常な覚悟ではないのがわかる。ウェイライの答え如何によっては、どんな方法を取ってもウェイライからこの石の卵を奪い取る気だ。ウェイライは腰に剣を下げてきていないことを後悔した。ファウスと戦いたくはないが、丸腰では身を守ることも出来ない。こちらの本気の抵抗を示すことが出来れば、まだ相手を宥めて冷静な話し合いが出来るはずなのだが、このままでは彼の狂気を止めることが出来ない。
「なぜだ! あなたは王子への慈悲の気持ちはないのか!」
「あります。オレだってルシュー様を助けてあげたい。だけどこれは薬ではないし、治してやることも出来ないんです……お願いです。分かってください」
「誤魔化さないでください。現にこうして王子の体は良くなっている」
「痛みをとってあげただけです。病を治癒したわけではない……これはそういうものではないんです」
「それでもいい、王子の病が治るまで貸してくれるだけで良いんだ。なんなら買おう、いくら金を払えばいいんだ。いくらでも払おう」
「お金の問題ではありません。これは誰にも譲れない……お願いです。分かってください」
 ウェイライの必死の説得はファウスには届かなかった。断りの言葉は、ファウスを追い詰めていくだけだった。
「なんでそんなに頑ななのだ! 何が望みだ! あなた方は永遠の命があるというのに、我ら人間を助ける心もないのか!!」
 ファウスが叫んでウェイライの腕に掴みかかった。
「ファウス様! やめてください! 落ち着いて!」
 ウェイライは必死に手を振り払うと、扉を開けてテラスへと逃げた。
「ファウス! 乱暴は止めるんだ!」
 王子が身を起こして必死になって止めようとしたが、咽てゲホゲホと咳き込みながらベッドに伏せた。
「殿下……」
 乳母が慌てて駆け寄る。それを横目で見てから、ファウスは鬼のような形相になってウェイライの後を追った。
「それを渡せ!」
「これはオレの半身、オレの命……譲ることは出来ないのです。ファウス様、どうか分かってください……これで王子の痛みが取れるのであれば協力はしますから……だけどこれだけは分かってください。これでは病は治せない」
「渡せ!!!」
 ウェイライの必死の説得はファウスには届かなかった。狂気に満ちた顔で迫り来るファウスに、ウェイライは恐れを抱いた。テラスの端まで逃げて、柵に手を付いて下を覗き込んだ。塔の下には森が広がっていた。とても飛び降りて助かるような高さではない。左右を見ると、右の眼下に城がある。それほど遠い距離ではない。並ぶ窓をみつめてウェイライ達の部屋はどこだろうかと思った。フォンルゥはもう部屋に戻っているのだろうか?
「フォンルゥ……」
 ウェイライは心細げに呟いた。
「渡せ! それを渡せ!」
 ファウスがウェイライに掴みかかり、手に持っていた卵の入った革袋を掴んで引っ張った。ウェイライも引き返して、懸命にそれに抵抗した。
「やめてください!」
「渡せ! 渡すんだ!! 王子の為だ! 王子の為だ!」
「ファウス様……やめて……落ち着いて……」
 必死に抵抗して革袋を取られまいと引っ張った。揉め合ううちに革袋の糸が切れて、ビリリッと袋が裂けた。
「あっ」
 ウェイライが声を上げた。石の卵は下へと落ちて、テラスの石造りの床に当たりガッと鈍い音をたてた。
「うっ……くっ……」
 突然ウェイライが顔を歪ませて胸を押さえた。
「あ……石が……」
 ファウスは、ウェイライの様子に一瞬気を取られていたが、床を転がる石にハッと気づいた。石は勢いよく転がって、そのままテラスから下へと落ちていった。
 ファウスが慌ててテラスの柵から身を乗り出すようにして、石の行方を追ったが、石は下へと落下して行き、森の中に落ちて分からなくなった。ファウスは青い顔になって、呆然とそれをみつめていた。
「うっ……」
 ウェイライの体がゆらりと揺れて、そのまま後ろへ倒れるように崩れた。ウェイライの体はテラスの柵を越えて、そのままフラリと力なく落ちていく。
「ウェイライ様!」
 ファウスは驚いて、咄嗟に手を伸ばしていた。かろうじてウェイライの腕を掴んだ。
「グッ」
 ファウスはドスッと柵で腹を打った。苦痛で顔をゆがめる。だがなんとかウェイライを掴む両手を離さなかった。目を開いてみるとファウスに手を掴まれてぶら下がっているウェイライは、ガクリと首を項垂れて意識を失っているようだった。
「きゃああああああああ!!」
 乳母が悲鳴を上げる。
「ウェイライ様! ウェイライ様!」
 ファウスが必死で呼びかけたが反応はなかった。気を失っているその体はひどく重く感じた。ファウス一人では引き上げることは出来ない。掴んでいる手が痺れて、ズルッズルッと手から滑り落ちていく。
「誰か! 誰か来てくれ!」
 必死で叫ぶファウスに、乳母が慌てて部屋を飛び出した。階下の兵士に助けを求めに行ったのだ。
「ウェイライ様!」
 ファウスは必死で名前を呼んだが、ウェイライはビクリとも反応しなかった。このままではそんなに長くはもたない。いくらウェイライがシーフォンと言っても、この高さから落ちたら助からないだろう。
「ウェイライ様……くっ……」


 フォンルゥが部屋に戻ると、ウェイライの姿がなかった。まだ書庫から戻っていないのだろうか? フォンルゥは渋い顔になってキョロキョロと部屋を見回した。妙な胸騒ぎがする。壁に下がる紐を引いて、侍女を呼ぶ呼び鈴を鳴らした。
「失礼します」
 少しして侍女が現れた。
「ウェイライは書庫から戻ってないのか?」
「ウェイライ様は……ルシュー様がいらっしゃる西の塔へ行かれています」
「西の塔?」
「どうしても見舞いたいとおっしゃったので……」
「場所はどこだ」
 フォンルゥが顔色を変えて、侍女に問い詰めようとしたときだった。どこからか悲鳴が聞こえてきたのでハッとなった。女の悲鳴だ。咄嗟に窓の外へと目をやった。
「どうかなさいましたか?」
 侍女には聞こえていないようで、フォンルゥの様子に不思議そうに尋ねる。フォンルゥはダッと駆け出してテラスへと出た。辺りを見回すと、どこからか「ウェイライ様」と叫ぶ声が聞こえてくる。声のほうへと顔を向けると、そちらには塔が見えた。テラスの柵まで寄ると、身を乗り出すようにして塔の方をジッとみつめた。人影が見える。目を凝らしてよく視ると、テラスから人影がぶら下がっているように見える。それがウェイライだと気づくのにそれほどの時間は掛からなかった。
 人より耳と目の利くフォンルゥには、ここからの距離でもウェイライが塔から落ちかけているのだという事が分かった。
「ウェイライ!!!」
 フォンルゥは叫ぶと、慌てて助けに行こうと部屋の中へと戻ろうとして、すぐに足を止めた。この距離では走って行っても間に合わない。という考えが脳裏を過ぎったからだ。もう一度振り返って、塔をみつめた。
 テラスに居るのはファウスだ。かろうじて繋ぎとめているが、ぶら下がっているウェイライの様子では、今にも落ちてしまいそうだ。視線を落とすと、塔の下は斜面になっていて、その下には森がある。塔の高さと斜面と森を見る限り、落ちたら命はない。
「ウェイライ!!!」
 フォンルゥはもう一度叫んでいた。全身の血が沸騰しそうなほどに猛り狂っていた。ウェイライの危機に、怒りと憤りで頭の中が真っ白になった。両手の拳を握り締めて、全身の毛が逆立つような、激しい昂ぶりを覚えた。
「うぉぉぉぉぉぉ!!」
 フォンルゥは唸るような叫び声を上げた。背中が焼けるように熱い。沸騰する血がすべて背中に集まるような感覚を覚えた。メリメリッと骨が軋み、服の背中が破れて、ブワッと空気が唸りを上げた。
「キャアア!」
 部屋の中にいた侍女が悲鳴を上げる。
 フォンルゥの背中から、大きな翼が生えていた。それは深緑の竜の翼だった。両翼がブワリと動いて空気をはらむと、フォンルゥの体が宙に舞っていた。


 ファウスは顔面蒼白になっていた。こんなことになるとは思わなかった。こんなつもりではなかった。ただ王子を助けたい一心だった。不思議な石を手に入れたいだけだった。先ほどまでの狂気はすっかりと冷めていた。ファウスはなぜこんなことになってしまったのか分からず、ただただ焦るばかりだった。手が痺れてきて、額に汗が滲む。
「もうダメだ……」
 ファウスはは腕をブルブルと震わせながら、ズルズルとずり落ちていくウェイライの体をこれ以上掴み続けることが出来ずにいた。諦めが脳裏を過ぎったとき、突風が吹いて吹き飛ばされそうになった。
「うわっ」
 掴んでいたウェイライの体が軽くなった。そう思うと同時に、黒い影が目の前に現れた。
「なっ……」
 ファウスは言葉を失って呆然となっていた。目の前の光景が信じられなかった。深緑の大きな翼を持ったフォンルゥがウェイライの体を抱き上げると、緑色に光る瞳でファウスをギロリと睨んでいた。
 ファウスはパクパクと口を開閉したままガクガクと震えていた。フォンルゥは黙ったまま、ゆっくりと翼を羽ばたかせて空中に停滞したままファウスをしばらく睨んだ後、しっかりとウェイライの体を抱きしめて、ゆっくりとそのまま飛び去っていった。


「ウェイライ……ウェイライ……」
 フォンルゥは城から遠く離れたゼーマンの城下町外れの丘の上に降り立ち、ウェイライの体を抱きかかえたまま必死で名前を呼び続けていた。だがウェイライは気を失ったままで反応がない。胸に耳を寄せると、心臓は動いていたのでホッとした顔になった。
「ウェイライ」
 名前を呼んで何度も体を揺さぶった。それでもウェイライは目を開けなかった。次第にフォンルゥは焦り始めていた。背中にはまだ大きな翼が生えたままで居たが、フォンルゥは自分のその体の変化よりも、ウェイライの方が心配でそれどころではなかった。
 青白い顔のままで目を開けないウェイライは、まるで死んでいるようで、フォンルゥは必死に名前を呼び続ける。ギュッとその体を抱きしめる。
「ウェイライ、目を開けろ! ウェイライ!! 一体なにがあったんだ!! ウェイライ!!」
 その時風が巻き起こり、フォンルゥ達の頭上を何かが横切った。フォンルゥが空を仰ぎ見ると、そこには茶色の大きな竜の姿があった。その後ろには、もう2頭の竜の姿がある。フォンルゥは始めて見るその生き物の姿に驚いて大きく目を見開いた。
 大きな茶色の竜は、羽ばたいて風を巻き起こしながらゆっくりとフォンルゥ達の近くに舞い降りた。その背に乗っていた金髪の長い巻き毛をした中年の男が、丘の上に飛び降りると、ゆっくりと歩いてフォンルゥに近づいてきた。
 フォンルゥは警戒するようにギュッとウェイライの体を抱きしめると、近づいてくるその男をにらみつけた。男は近くで足を止めると、眉間を寄せたままジッとフォンルゥをみつめて、それから視線をウェイライへと動かした。頭上を2頭の竜が旋回している。
 男は再びフォンルゥをまっすぐにみつめると、ピクリと眉を上げた。
「お前は何者だ」
 男が口を開いたが、フォンルゥは答えなかった。沈黙が流れる。
「お前が胸に抱いているその者は、私が探していた部下のウェイライだ。私の名前はラウシャン……エルマーン国の外務大臣だ……お前は……シーフォンだな?」
 それでもフォンルゥは何も答えなかった。だが『ラウシャン』という名前はウェイライから聞いた事があると思っていた。この者がラウシャン……そう思ってジッとみつめ返していた。
「なにがあった?」
「……ウェイライが城の塔から落ちそうになっていたのを助けただけだ……だがウェイライは気を失ったまま目を覚まさない」
 ようやくフォンルゥが口を開いた。その言葉を聞いてラウシャンは、再びウェイライをみつめた。血の気のない白い顔をみつめる。
「ウェイライは卵を持っているか?」
「え?」
「卵だ……竜の卵だ。ウェイライの半身の事を聞いていないか?」
 ラウシャンの言葉にハッとなり、フォンルゥはウェイライの懐を探った。だがそこにはウェイライの卵の革袋がなかった。
「無い……いつも身につけていたのに……」
「気を失っているのは卵が無い所為だ。だが生きているのならば、卵はまだどこかで無事にあるのだろう」
 ラウシャンがそう淡々とした口調で言うと、フォンルゥはしばらくぼんやりとなってから、胸に抱いているウェイライの顔をみつめた。ホッとなり深く息を吐く。するとフォンルゥの背中の羽が緑色に光り、やがてその光は背中の中に吸い込まれるようにして、大きな翼は消えてなくなった。
 ラウシャンは眉間を寄せながら、その様子を眺めていたが、気を取り直すようにコホンと咳払いをした。
「ゼーマンの城へ戻るぞ……まずはウェイライの卵を探さねばな」
 ラウシャンの言葉に、フォンルゥは小さく頷くと、ウェイライを抱いたまま立ち上がった。


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