二人がゼーマン国の首都に辿り着いたのは、港を出発した次の日の夕方近くになった頃だった。
 ウェイライの言うとおり、ゼーマンは小さな国だった。街道沿いに走り国境にある小さな村を過ぎてから、左右に広がる畑を眺めて馬をしばらく走らせて、2刻ほどで首都の街に辿り着いた。
 王都はそれなりに栄えてはいたが、それほど大きな規模の街ではなかった。ふたりはそのまま王都の中心、人工的に作られた丘の上に立つ城へと向かった。
 二人は門の前で馬を下りると、ウェイライが門番の前へと進み出た。
「私達はエルマーン王国の者です。私の名前はウェイライ。国王陛下に謁見を申し込みたく参りました。1年以上前に使者として御国へは訪問しており、宰相のファウス様にはお会いしているので、私をご存知のはず。まずはファウス様にお目通りをお願いしたいとお伝え下さい」
 ウェイライの言付けを聞いた兵士は、ウェイライ達にしばらくそこで待つように言い残して、門の中へと消えていった。やがて戻ってきた兵士が、二人を中へと案内すると告げた。
 二人は城の中へと通されて、中の1室で待たされることになった。広い客間のような部屋だった。椅子に座り待っている間、フォンルゥが落ち着かないように部屋の中を見回しているので、ウェイライが小さくクスリと笑った。
「何か心配?」
「オレにとっては見知らぬ地だからな……それに……」
 フォンルゥが何かを言いかけようとしたとき、扉がノックされて中年の男が入ってきた。
「これは……ウェイライ様」
 男はウェイライの顔を確認するように見ると、顔をほころばせて一礼した。ウェイライとフォンルゥも立ち上がると、ウェイライが深く頭を下げたので、フォンルゥもそれに習った。
「突然の来訪を申し訳ありません」
「何事かありましたか?」
 男は穏やかな口調で尋ねかけながら近づいてきた。向かいに立つとフォンルゥの方をチラリと見た。
「あ……彼はフォンルゥと申します。私と同じシーフォンです。実は色々と問題がありまして、ぜひ陛下にお力をお借りしたいと思って、図々しくもこちらへ立ち寄らせていただいた次第です」
「まあお掛け下さい」
 促されてウェイライとフォンルゥは椅子に座った。
「フォンルゥ、こちらはこの国の宰相のファウス様です」
 ウェイライがそう紹介すると、フォンルゥは黙ったまま頭を下げた。ファウスもそれに答えるように会釈する。ファウスは40過ぎくらいの中年の男だった。短く刈られた茶色の髪で、顎鬚を生やしていた。穏やかそうな雰囲気の男だ。
「ファウス様、実は……」
 ウェイライは、自分が西の国へ外交へ赴いた際に、混乱に巻き込まれて国の者たちとはぐれてしまったという話を簡単に説明し、偶然出会った仲間であるフォンルゥと共に、ここまで苦労して旅をしてきたことを話した。
「それはそれは……災難でしたな。エルマーンまではまだ遠いでしょう。しばらくここに滞在して休養を取られるのがよろしいでしょう。なんなら我が国から使者を出して、ウェイライ様がご無事なことをお知らせしましょう。迎えが来れば安心して国にお戻りになれますし……」
 ファウスの言葉に、ウェイライは顔を輝かせた。
「ああ……ありがとうございます。実はそれと同じ事を陛下にお願いできないかと思っていたのです」
「今のお話を私のほうから陛下にお伝えしておきます……今日はあいにく別用のため陛下への拝謁は無理ですが、明日謁見できるように手配いたします。きっと陛下もご承諾なさるはずです。なにしろウェイライ様のことはよく存じておりますし、我が国とエルマーンの関係は長きに渡るもの……これくらいの事でよければ、いくらでもお力になります」
「ありがとうございます。ファウス様」
 ウェイライは安堵して深く頭を下げた。


 二人は滞在用の客室へと案内された。侍女が去りようやく二人っきりになって、ウェイライはハアと大きく溜息を吐くと、大きく背伸びをした。
「あ〜良かった!!」
 ウェイライは明るい声でそう言った。ポイッとマントを脱ぎ捨てて、タタタッと軽い足取りで部屋の奥に有る大きなベッドに飛び乗った。
「なんかようやく安心できるって感じだね」
 ウェイライが嬉しそうに言うと、フォンルゥは難しい顔のままで返事もせずに立ち尽くしていた。
「フォンルゥ……どうしたの? マントを脱いでくつろいだら?」
 ウェイライは言いながら、服の胸元のボタンを2つほど外して、髪を縛っていた紐も解いてすっかり寛ぎ始めている。フォンルゥはしばらく黙ったままで立っていたが、ゆっくりと歩いてウェイライの側まで来た。
「何か心配事? この国なら大丈夫だよ。オレ達の素性を隠す必要も無いしさ……この長い旅で初めて本当にゆっくり出来るって感じだよ」
「この国は元々こういう国なのか?」
「え?」
「いや……国もだが……何よりも城の中が……」
「何? なんかおかしい?」
「静かだと思わないか? 異常なくらいに」
 フォンルゥはそう言って部屋の中を気配を探るように見回す。ウェイライは不思議そうな顔で、少しだけ眉間を寄せながらそんなフォンルゥをみつめた。
「そう……かな? 確かに静かだけど……さっきファウス様が、陛下は別用で……って言っていたから、来客中か何かの用で、みんないなくなっているんじゃないの?」
 ウェイライもつられるように辺りの気配を伺いながら、ポツリポツリと答えた。
「兵士や侍女達までもか? オレは傭兵の仕事をして、色々な国の城に入ったがここは静か過ぎる。人の気配が無いわけではないのに……なんというか空気が沈んでいるというか、重いというか……人の活気が無い。ここは小さな城だが、それでも兵士を含めて従事している者達は100人以上は居るだろう。それならばどんなに静かにしていても、人の気配や活気は自然と感じるものだ。だがこの城は……みんながまるで息を殺しているようだ」
 そう言われると、確かに異様なほどに静かだと思った。ウェイライは耳を澄ませてみるが、シーンと静まり返っていて行き交う人の気配も無い。
 以前来た時はこんなではなかった。もちろんあの時は、こちらも使者として公式に大勢で訪問したし、こちらの国のほうもそれを盛大に歓迎してくれたので、普段以上の活気に満ちていたかもしれない。だがそれにしても本当に静かだ。
「どういうこと?」
「オレが知るか……だから聞いたんだ。この国は元々こういう国なのかと」
「ファウス様は以前と変わりないように見えたけど……」
 そう言いかけて少し考え込むように顎に右手を添えた。「いや……」という思いが胸を過ぎる。
「そういわれると、ちょっと痩せられたかも……それに顔つきも……顔色があまり良くないような……でも『そういわれると』って程度だよ。さっきはそんなことも思わなかったもの。1年以上ぶりだし……人間だから1年もあれば多少の太ったり痩せたりはあるだろうし、歳も若くないしと思って、別に気にするほども無いと思ったんだけど……」
 ウェイライが急に不安そうな顔になって俯いてしまったので、フォンルゥはちょっと困ったような顔になり慌ててウェイライの隣に座った。
「すまん。オレの気のせいかもしれん。オレにとっては見知らぬ場所で、見知らぬもの達だし、今までの旅の癖で、疑り深くなっているんだ。お前の知り合いなのだから、信じてもいいと思うぞ」
「でも……フォンルゥが怪しいと思うんだったら……」
 ウェイライは俯いたままで小さく呟く。その声がひどく心細げだったので、フォンルゥは益々困ってしまった。
「いや……ただ用心に越したことがないというだけだ。そんなに気にするな。明日になって王に会えればすべてが分かるだろう。ヤバイと思ったら逃げ出せばいいだけだ。今までそうやってきただろう。それに……もしかしたらオレが怪しまれているのかもしれない」
 フォンルゥが不器用になんとか宥めようとするが、優しく宥めるような言い方は出来ない。いつもと変わらぬ無愛想な口調になってしまうが、フォンルゥにとってはそれが精一杯だった。これでもウェイライを宥めようとするだけ、以前よりも進歩したのだという事には、本人は気づいていなかった。
「だって今のオレには、フォンルゥだけだもん。他の誰よりも、フォンルゥしか頼れないし、フォンルゥしか信じられないよ……」
 ウェイライが顔を上げて、フォンルゥをジッとみつめながらそう言った。フォンルゥはウッと言葉を詰まらせて、ただみつめ返すしか出来なかった。そんな言葉に返す言葉が見つからない。ただ何かこみあがる感情があった。
 フォンルゥがウェイライの頬から顎のラインをそっと何度か撫でると、ウェイライは心地良さそうな顔になって目を閉じた。その表情を見つめるうちに、フォンルゥはウェイライに顔を近づけて唇を重ねていた。
 ウェイライが驚いて目を開けたときには、もうフォンルゥはさっきと同じ距離を置いて座っていた。頬をなでていた手ももうなかった。
『夢?』と思っても無理は無いような、そつと触れるようなキスだった……と思う。ウェイライの妄想でなければ……。
 ウェイライはパシパシパシと何度も瞬きをしてから、信じられないものを見るように大きく目を見開いて、じーっとフォンルゥの顔をみつめた。フォンルゥはいつもの無愛想な顔のままで、真っ直ぐに前を見つめていてウェイライのほうを見ない。
 フォンルゥは内心とても焦っていた。自分に何が起こったのか分からなかった。何しろハッと我に返ったときには、ウェイライの唇を奪っていたのだから、もうかなり混乱していた。混乱するあまり、サッとすばやく顔を離してから、ウェイライの方を見ないように真っ直ぐに窓のほうへと視線を向けるしかなかった。
 無愛想な顔なのは、決して冷静でいるからではない。むしろ混乱していて顔が強張っているのだ。
『オレは一体なにをしてるんだ』
 背中をダラダラといやな汗が流れていた。心臓がバクバクと鳴っている。今ウェイライにキスをしてしまった。ウェイライに……なんでそんな事を? と自分に何度も聞き返すしかなかった。
 しかし……と、フォンルゥは心の奥の方で呟く。実はこんな感情になったのは初めてではなかった。キスのことではない。キスをしてしまう直前までの感情だ。なんと表現して良いのか分からないが、何か熱いものが胸に込みあがってきて、何か得体の知れない衝動に体を突き動かされそうになるのだ。
 それは決まってこんな風に、ウェイライがフォンルゥの事を真っ直ぐな目で見つめてくるときで、衝動に突き動かされそうになる体は何をしたいのか分からないが、いつもそれを理性で押しとどめていた。それがこんな結果になるとは思いも知れなかった。
 あの感覚に身を任せていたら……きっとウェイライの体をギュッと強く抱きしめて、もっと深いキスをしてしまったかもしれない……そんな考えが頭を過ぎって、驚いてフォンルゥは思わず立ち上がった。
「フォンルゥ?」
 ウェイライもそれに驚いて更に目をまん丸に見開いてからフォンルゥの姿をみつめた。
「あ……いや……なんでもない」
 フォンルゥは右手で頭をがしがしと掻いてから、ブルブルと首を振った。が、再び同じ場所に座ることも出来ず、身の置き所を無くして更に困って頭を掻いた。
「フォンルゥ」
 ウェイライがもう一度名前を呼んだが、フォンルゥはこちらに背を向けたままで返事をしてくれなかった。
「フォンルゥ」
 更に呼んだがやはり返事をしてくれない。ウェイライは困ったように立ち上がると、フォンルゥの側に寄った。
「フォンルゥ?」
 覗きこむようして名前を呼ぶと、フォンルゥが眉間にシワを寄せてからフイと視線を逸らしてしまった。
「なんだ?」
 ぶっきらぼうに返事を返す。
「あの……」
 ウェイライは、さっきの幻のようなキスの事を尋ねようとした。しかし思い直して言葉を止めた。それを聞いてどうするつもりなのだろう? と自分に疑問を持ったからだ。さっきのキスの意味を聞いて、自分はどうするつもりなのだろう? 本当にウェイライの気のせいだったら? そしたらきっとフォンルゥはウェイライを「変な奴」と思うかもしれない。
 大体フォンルゥがウェイライにキスをする理由がない。そんなはずが無い。
「なんだ?」
 半ばヤケクソのような口調で、フォンルゥがもう一度尋ね返してきた。視線はまだこちらを向いていない。
「ううん……なんでもない……ごめんね」
 ウェイライはそういったっきり黙りこんで俯いてしまった。フォンルゥも黙っているからなんとも落ち着かない微妙な空気が流れる。
 その時扉をノックされたので、二人ともビクリと反応した。
「は……はい」
「失礼致します」
 ゆっくりと扉が開いて、二人の侍女が現れた。手には水瓶を抱えている。
「お水をお持ちしました。どうぞこれで体をお拭き下さい。お食事を後ほどお持ちいたしますが、お召し上がりになりたい時間はございますか?」
 侍女達は部屋の中央に水瓶を置くと、一緒に持ってきた手拭いと着替えの衣服を側に置いた。
「食事はいつでも構いません……今日は疲れているので、のんびりさせていただきます」
「かしこまりました。それでは1刻後にお食事をお持ちします」
 侍女がそう言いながら、部屋の脇にある洋燈に火を入れ始めたので、もう外が暗くなり始めていることにようやく気がついた。
「失礼致しました」
 侍女達が去って、また二人きりになった。ウェイライは困ったようにフォンルゥの方をチラリと見てから、小さく溜息をついて水瓶の側へと寄った。手拭いを水で濡らして絞ると、それで顔や首周りを拭いた。胸元のボタンも外して体も拭く。
「フォンルゥ……スッキリするから拭いたほうがいいよ」
「ああ……後でする」
 フォンルゥの答えを聞いて、ウェイライはもうそれ以上は無理に話しかけたりしなかった。その後、食事の間もずっと二人の間に会話は無く、ウェイライは諦めて早くにベッドで休んだ。
 なんだか気になって眠れない……と思ったのは最初だけで、気がついたら朝になっていた。

   ウェイライが目を覚ますと、すでにフォンルゥは起きていて、テラスに立ち外を眺めていた。
「フォ……フォンルゥおはよう」
「ああ」
「何か見える?」
「いや……だが街も静かだ」
 フォンルゥの隣に立ち、ウェイライも外の景色を眺めた。眼下に広がる城下町は、整然としていて、時折歩く人の姿を確認できたが、活気のある朝というにはほど遠い。それを眺めながら、確かにどこかおかしいとウェイライは思った。
 その違和感の真意は、それほどの時間を待たずに、目の前ではっきりと見ることになる。


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