「なんだ?」
 フォンルゥがジッと見つめながらそう言ったので、ウェイライは開きかけた口のまま、次の言葉を出せずにジッと見つめ返した。喉にとても大きな何かが詰まっているみたいで、全然言葉が出てこない。息をするのさえ苦しい。
「なんだ? どうした?」
 一瞬フォンルゥの顔が、とても優しく綻んだように見えた。そう思ったとき「はぁ」と細い息を吐き出すと、少しだけ体の力が抜けたような気がした。フォンルゥの無骨な太い指が、ウェイライの目の端を拭った。
「え?」
 それに驚いてキョトンとなると、拭われた目の端が濡れていることに気づいた。
「何を泣く」
 フォンルゥがぶっきらぼうな口調でボソリとそう呟いた。少しばかり困っているようにも見える。だがウェイライ自身、自分が泣いていることには気づいていなかった。
「あ……ご……ごめん。あれ? なんで……」
 ウェイライはカアッと赤くなって、恥ずかしくなって少し焦った。言葉と共にようやくはああぁと長い息を吐き出す。苦しくて苦しくて、声も息も出なかった。気持ちはひどく高揚していたが、緊張の糸は解れて息は出来るようになった。だがそれと一緒にもっと目が熱くなった。
「すまない」
 今度は急にフォンルゥがそんな言葉を吐いた。
「え?」
 ウェイライはまた驚いて顔をあげる。すると再び視線が合った。また外せなくなる。
「オレが悪いんだ……分かっている。すまなかった」
「え? な……なんで?」
「お前がテラ達と別れて心細く思っていたのは知っていた。だがオレは人を慰める術を知らない。お前に対して優しくなかったと思う。お前が傷ついているのも知っていながら、気づかぬ振りをしていた……だがお前の言うとおりだ。オレがいつもそうやって、自ら拒絶をしていただけだ。人とのふれあいを……それが嫌だったわけじゃない……ただ、オレ自身どうしていいのか分からなかったんだ。今まで誰ともこんな風に、親密になったことは無かった。歩み寄ってくる相手に、どうそれを受け入れれば良いのか分からなかったんだ」
「フォンルゥ」
 ウェイライは、バァッと涙が溢れ出てしまって、ハッとすぐにそれに気づいて恥ずかしくなって、両手で顔を隠すと下を向いた。
「ご……ごめん、オレ……なんでっ……こんな……涙なんて……あはっ……バカみたい……ごめんね」
 ウェイライは必死になって涙を止めようと、下を向いたまま目をパシパシと瞬いていた。だが目の奥がジーンと熱くなっていて、次々と涙が溢れて零れ落ちる。鼻水まで出てきて、一生懸命誤魔化そうと、明るい言葉を発しても上ずってしまって、鼻をズズッと啜ってはアハハと乾いた笑いを漏らすしかなかった。
 恥ずかしい。きっとフォンルゥは呆れているだろうと思った。
 するとギュッと肩を抱き寄せられたので、ウェイライは驚いて目を見開いたが、顔を上げることはまだ出来なかった。
「泣きたいなら泣けばいい。別におかしいことじゃない」
『優しくしないで』そんな言葉が浮かんだ。だがそれと同時に、優しくされることが嬉しい自分が居ることも確かだ。
 ウェイライは眉間を寄せて目を閉じた。
 船はひどく揺れていた。外では激しい雨の音と甲板に打ち付ける波の音がしている。
雷も鳴っていた。だが少しも気にならなかった。怖くも無い。フォンルゥの胸に寄り添い、強い腕に抱かれていれば何も怖くなかった。
 次第に昂ぶっていた気持ちが落ち着いてくる。涙もなんとか止まった。ハアと息をつくとゆっくりと顔を上げた。
「ごめんね」
 ウェイライがフォンルゥをみつめて言うと、フォンルゥは黙って頷き返した。
「オレこそ、すまなかった」
 そう返されてウェイライは小さく首を振った。
「フォンルゥは優しいよ……それにシュイさんって人もいたんでしょ? ちゃんと恋人もいたんだからさ」
「オレとシュイは、恋人同士というのも少し違うかもしれない」
「え?」
「シュイ達アルピンは……代々オレを育ててくれた彼らは、あくまでも従者であって家族ではなかった。よくしてくれたし、オレを愛してくれていたと思うが、決して家族のそれではなかった。シュイもそうだ。シュイの両親も亡くなり、最期の一人になってしまって……オレと二人きりで一生を暮らした。オレはシュイが生まれた頃から知っていたし……誰よりも愛しいと思っていたが、それは恋愛のそれとは違うような気もする」
 そんなことを語るフォンルゥの顔はとても穏やかだった。
「でも……フォンルゥはシュイさんのために、エルマーンに行くんでしょ?」
 フォンルゥは頷いた。
「シュイはずっとエルマーンに憧れていた。二人でよく見たことも無いエルマーンの話をした。だからシュイの髪をエルマーンの地に埋めてやりたいと思ったんだ。オレがシュイにしてやれる唯一つのことだ」
「それを終えたらどうするの?」
 フォンルゥはすぐには答えずに、しばらく考え込んでいるようだった。ジッとウェイライをみつめる。
「実は何も考えていない」
「オレ……これからもずっとフォンルゥと一緒に居たい」
 それは今のウェイライに言えるせいいっぱいの思いだった。それを聴いて、フォンルゥは少しばかり目を見開いて驚いたような顔になった。ウェイライはジッと真剣な顔でフォンルゥをみつめ続けた。その視線を真っ直ぐに受け止めながら、フォンルゥはしばらく考え込んでいた。
「オレはエルマーンで暮らしていけるかどうか分からない」
「それでもいいよ……この先どうなるかなんてオレも分からないけれど……そういうのはどうでもいいんだ。ただとにかくフォンルゥとずっと一緒に居たいんだ。ずっと……」
「ウェイライ」
「シュイさん以外とはずっと一緒に居れない?」
 フォンルゥがちょっとだけ眉を寄せて、小首を傾げて見せた。
「シュイとどういう関係があるんだ?」
 その問いに、さすがにウェイライは答えることが出来なかった。失敗した……と、ちょっと思った。フォンルゥに自分の気持ちを告白している訳ではない。ただ『ずっと一緒に居たい』と言っただけだ。それだけではフォンルゥにウェイライの気持ちは伝わってはいない。今はそんな言い方をすべきではなかったと後悔した。
「ご……ごめん。違うんだ。その……シュイさん以外のパートナーは必要ないのかと思って……」
「お前は今もパートナーだろう?」
「え?」
「パートナーだろ?」
 もう一度フォンルゥが言った。とてもぶっきらぼうな言い方だが、とても穏やかで優しい口調だった。
「う……うん」
 ウェイライは嬉しくて、慌てて何度も頷いて見せた。フォンルゥがそう思ってくれているのならばそれでいいと思う。それだけで十分だと思った。
「ずっと……ずっと一緒に居ても良い?」
 ウェイライがもう一度尋ねると、フォンルゥはジッとウェイライをみつめたまますぐには答えてくれなかった。
「フォンルゥの側に居たいんだ……こんなこと思ったの初めてなんだ。フォンルゥには迷惑かもしれないけど……エルマーンに行くまでのパートナーじゃなくて、ずっとその後も一緒に居たいんだ」
 ウェイライは一生懸命に言葉を続けた。
「じゃ……邪魔には絶対にならないから……もしも……もしもフォンルゥに恋人が出来ても、結婚しても……絶対に邪魔しないし、ただこれからもずっとパートナーで居させてくれればそれでいいから……だから……」
「恋人は作らないし、結婚もするつもりはない」
「シュイさんだけなの?」
「……確かに……シュイを失ったときは、もう二度と誰も愛さないと思った。だがあれから30年近くの月日が流れてしまった。オレ達にとっては、それほど長い年月ではないと言っても、やっぱり長かった……オレはそれでもこれからも何十年だって生きていかなければいけないし、思い出はどんどん古くなっていく。シュイへの思いだって、いつの間にか古い思い出になってしまった。今は……こうしてお前が居てくれて……正直な気持ちを言うと、一人よりも誰かが側に居るのはいい事なのだと思った。だが恋愛はもう出来ないかもしれない……いや、オレは結局誰も愛せない」
「どうして?」
「結局……シュイの事だって、ちゃんと愛してやっていたかも分からないし、幸せにはしてやれなかった。オレは誰とも恋愛は出来ない。それにこんなオレを愛してくれる人も居ない」
「そんなことない! フォンルゥを愛してくれる人は居るよ!」
 フォンルゥがそっとウェイライの髪を撫でて、困ったような顔をして見せた。
「それに、もうオレより先に愛する者が逝くのを見るのは辛い」
「オレなら……オレならフォンルゥと同じだけ生きられるよ。アルピンや人間達とは違う。シーフォンだから、フォンルゥと同じだから、同じだけ生きられるよ」
 だがまだフォンルゥは困ったような顔をしていて、何も言わないのでウェイライはハッとなって首を振った。
「いや、あの……別にオレのことを愛してくれとか言っているわけじゃないんだ……ただ……ほら……フォンルゥがオレの事をパートナーって思ってくれるんならさ……ずっと側にいても良いんなら……こ……恋人の代わりじゃなくてもさ、フォンルゥより先に逝ったりしないし……オレはフォンルゥの事好きだから……好き……だよ」
 フォンルゥはそれを聞いて、答える代わりにウェイライの髪を優しく撫でた。ウェイライはそのままフォンルゥの胸に顔を埋めて目を閉じた。このままずっと側に居れたらそれだけで良い。何も多くは望まない。もしかしたらシュイさんもこんな思いで居たのかもしれない……ウェイライは穏やかになった気持ちでそう思った。


 目が覚めると嵐は止んでいた。


「わあ!! 久しぶりの陸地!!」
 トンッと橋桁から港に飛び降りて、ウェイライが嬉しそうにバンザイをしてみせると、後から降りてきたフォンルゥがドサリと地面に荷物を下ろして溜息をついた。
「とりあえず馬を調達しよう」
「うん」
 ウェイライは元気に頷いた。
 辿り着いた東の大陸の港町。そこで二人は馬を調達すると、早速エルマーンに向かって走り始めた。
「ここからあとどれくらいだ?」
「馬でずっと駆けつづければ10日くらいかなぁ……とりあえずこの先にあるゼーマンという国を目指そうよ」
「ゼーマン?」
「うん、小さな国だけど、エルマーンとは長く国交の有る国だから、オレ達がシーフォンだってバレても大丈夫だし、きっと良くしてくれるよ……そこから使者を出してもらって、エルマーンから迎えに来てもらってもいいし……」
 馬を駆けさせながらウェイライは、遥か先の地平線をみつめてしばらく考えた後フォンルゥの方を振り返った。
「東の大陸は、西ほどひどくはないけど、それでもやっぱり小さな小競り合いは色々な国で起きているし、決して治安がよくて平和だって訳じゃないんだ……それに西に比べれば、エルマーンが近い分だけ、誰もがオレ達竜族の事を知っている……シーフォンに対して好意的な人間ばかりじゃないから、もしかしたら西の大陸よりも、もっとこの身に気をつけなければいけないかもしれない……だからゼーマンみたいな国に助けを請うた方が安全なんだよ」
「……分かった。ゼーマンまではどれくらだ」
「そんなに遠くないよ……丸1日走れば到着するよ」
 フォンルゥは頷くと、馬の腹を蹴って速度を上げた。ウェイライもそれに続くように速度を上げる。
「エルマーンまでもうすぐだよ」
「ああ」
 二人は真っ直ぐ前を見つめた。


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