体を覆うマントが、風をはらんで膨らみバサバサと音をたてる。頭に巻いているターバンの垂れている布の端も、風にハタハタとなびいている。だがそれは心地よい風で、決して不快なものではなかった。見上げる空はどこまでも青く、眩しく太陽が輝き照り付けている。遠くにチラホラと細い雲が見えるだけで、雨や嵐など無縁のように見えた。
 西の大陸を旅立って15日。このまま順調に行けば、あと4〜5日で東の大陸に着くと船員が言っていた。
 フォンルゥはまだ見えない東の大陸があるほうへと視線を向けた。
 この長い航海の間で、こうして甲板に出たのは2度目くらいだ。フォンルゥはほとんどを部屋の中ですごしていた。ウェイライは毎日日課のように甲板へと出ていて、フォンルゥに逐一その様子を語り、フォンルゥに甲板へ行くようにと促していた。だがフォンルゥはいつもそれを無視していた。
 縁に両手をついて、体をもたれ掛けさせながら、風に目を細めて『心地よいものなんだな』とふと思う。それと同時に、瞳を輝かせながら甲板での出来事を嬉しそうに語って聞かせるウェイライの顔が浮かんだ。
 ウェイライはよく笑い、よく話す。無口で無愛想なフォンルゥとは対照的だ。ウェイライはすでに船の乗客何人かと親しくなっている様子だし、船員とも顔なじみのようだ。それならば、無理に自分と仲良くなろうとしなくても、他の連中と一緒に居ればいいだろうに……とフォンルゥは思っていた。
 そんなに気を使う必要は無い。フォンルゥは好きで一人でいるだけだ。なぜそんなにウェイライが拘っているのかも分からない。
 フォンルゥは小さく溜息をついてから、周囲をグルリと見回した。ウェイライの姿は無い。
 それもそのはずで、少し前にフォンルゥが部屋を出てきたとき、上のベッドを覗いたらウェイライは丸く蹲るようになって寝ていた。いつもならとっくに起きている時間なのだが、フォンルゥは彼を起こさずそのままにしてそっと部屋を出てきた。
 ウェイライの様子が可笑しい。
 さすがのフォンルゥもそれには気づいていた。3日前に同行していたテラ達家族と別れた。それ以来様子が可笑しい。
『寂しいのだろう』
 フォンルゥはそう思っていた。
 あれ以来、ウェイライはあまりしゃべらなくなったし、笑わなくなった。部屋からも出なくなって、食事もあまりしなくなった。ずっとベッドで丸くなって寝ている。本当に眠っているのかどうかは分からないが、フォンルゥには、それに対してどうしてやることも出来ない。
「どうしたんだ?」と声をかけることは出来るのだが、もしもそれに対して「寂しい」とか何とか返事を返されたとしても、だからどうだと対応できないことは分かっているから、何もできずに居た。
 人を慰めたりするなんて、フォンルゥは得意ではない。いやむしろ苦手というか、そもそもやり方が良く分からない。誰かを慰めた経験などそんなに無い。
 それでもさすがに、こう3日も続くとちょっと気になるし、どうかしなければと思っていない訳でもない。
 いつからかウェイライの明るさが、フォンルゥにとっては必要なものとなっていたことに気づいていた。元気の無いウェイライというのは、どうも調子が狂うし……いや、調子が狂うという言い方は、今のフォンルゥの気持ちを正確には表していないと思う。だが今のフォンルゥの気持ちを上手く言い表せる言葉が、彼には分からなかった。
 ただ元のウェイライに戻って欲しい。その思いは確かだ。
「何か食い物を買って帰ってやるか」
 フォンルゥがそう思って身を翻した時、頭上から大きな声が響いた。
「嵐がくるぞ!」
 マストの上の見張り台にいる船員の声だった。
 フォンルゥは一度上を見上げてから、船員が望遠鏡でみつめている方角へと視線を向けた。そこには青い空しか見えない。
「乗客は船室へ戻ってください!」
 船員がそう叫びながら甲板を走り始めた。あっという間にマストの下へと6人の船員が駆け寄り、ロープを引っ張ってマストを畳み始めた。
 甲板に置かれている樽や木箱を繋ぎとめている縄も、更にキツク締めなおしたりしていた。
「君、早く船室へ戻るんだ!」
 フォンルゥに向かって怒鳴りつける恰幅のいい船員に、フォンルゥは視線を向けると「本当に嵐が来るのか?」と聞き返した。
「ああ、もう半刻もしないうちに、空が雲だらけになるよ。ほら見えないか、あっちの空が灰色になっているのが」
 船員の指差す方向を、フォンルゥはジッとみつめた。そういえばさっき見た時はまったくなかった雲が、空の果てに見える。
「風も湿っぽくなってきただろう……全員中に入ったら、水が入らないように甲板からの戸口を杭で留めちまうから、早く中に入ってくれ。嵐がきたらひどく揺れるからな、ベッドに横になっているほうがいい」
 船員に言われて、フォンルゥはここは大人しく従うことにした。船のことは海の男達に任せるに限る。フォンルゥはただの乗客に過ぎないのだ。フォンルゥは急いで船室へと戻った。

 部屋に戻るとまだウェイライはベッドに丸まって寝ていた。フォンルゥは覗き込むと溜息をつく。
「ウェイライ」
 声をかけたらピクリと体が動いた。起きているようだ。それならば返事をしようがしないだろうがお構い無しに、一方的に話しかけることにした。
「今、甲板に行ってきたんだが、もうすぐ嵐が来るそうだ。ひどく揺れるからベッドで大人しくしてろと言われた」
「え!?」
 初めてウェイライが反応をした。ガバッと顔を上げて驚きの声を漏らす。しかしフォンルゥは特にそれに答えるわけでもなく、スタスタと部屋の奥まで歩いていくと作りつけのソファに腰を下ろした。
 戻ってくる途中で買ってきたパンと果実酒の瓶をテーブルに置く。
 ウェイライは驚いた顔のままで、ジッとベッドの上からフォンルゥをみつめていた。
「大丈夫なの?」
 ようやく口を開いてそう問いかけた。
 フォンルゥは瓶の蓋を開けているところで、それに対して返事をしなかった。
「フォンルゥ……嵐が来るって大丈夫なの?」
 ウェイライはもう一度尋ねた。するとフォンルゥは顔を上げてウェイライを見た。視線が合うと、フッとウェイライのほうが少し視線を逸らす。これもここ最近ずっとこんな感じだ。だからフォンルゥは敢えて気にしないことにしていた。
「この船はデカイから多少の嵐では転覆することはないだろう。まあ……オレもこういう長い船旅は初めてだから、嵐に合ったらどうなるかなんて分からないんだが……ただひどく揺れるだろうな」
 フォンルゥはとても落ち着いた様子でそう答えた。
「飯にしないか? 嵐がきたら飯食うどころじゃなくなるだろう」
 フォンルゥにそう言われて、ウェイライはちょっと考え込むように俯いた。お腹が空いていないわけではない。ここ3日ほどろくに食事をしていない。フォンルゥの事を思うと胸が痛くて、食べ物が喉を通らなかった。今だって、ついさっきまでならちょっと「お腹空いたなぁ」と思っていたのに、フォンルゥの顔を見て、久しぶりに会話を交わしたら、またちょっと胸が痛くなってきた。
 フォンルゥはそれっきり、無理にウェイライを誘うことも無く、一人でパンを千切って、それに果物のペーストを塗って食べ始めた。
 しばらく俯いたまま考え込んでいたウェイライがチラリとフォンルゥを見ると、黙々と食事をしている様子が目に映った。「うっ」とちょっと思う。美味しそうに見える。テーブルには、まだパンが4個も転がっていて、フォンルゥはウェイライの分まで持ってきてくれたのだ。
 ウェイライはゴクリと唾を飲み込んで、プルプルと頭を振った。するとキュルルルルッと盛大にお腹が鳴ってしまった。
 ウェイライは慌てて両手でお腹を押さえたがそんなことでは音は止まらない。真っ赤になって恐る恐るフォンルゥの方を見ると、フォンルゥはまったく気にしていない様子で食事を続けている。
『聞こえたはずなのに……』
 ウェイライは唇を尖らせて心の中で呟いた。それから大きく溜息を吐くと、諦めたように体を起こしてベッドからゆっくりと降りた。ペタペタと勢いの無い足音を立てて、素足のままでフォンルゥの側まで歩いていった。するとフォンルゥがチラリとウェイライを見て、空いているコップに果実酒を注いで、自分の隣へと置いた。
「ありがとう」
 ウェイライは小さく呟くように言ってから、テーブルを回り込んでフォンルゥの座るソファのほうへと移動すると、一度背伸びをして壁の高い位置にある小さな窓を覗き込んだ。外は明るくて嵐のくるような気配はなかった。
『嘘なのかな?』
 ウェイライはチラリとフォンルゥを見たが、フォンルゥは黙々と食事を続けている。もしかしたらウェイライを起こすための嘘だったのだろうか? と思った。ふうと息をついて、ちょこんとソファに座る。
 果実酒を少し口に竦んでから、テーブルの上に置かれたパンをひとつ手に取った。半分に千切ると、フォンルゥが薄く切ったチーズをその上に乗せてくれた。
「ありがとう」
 ウェイライがフォンルゥの顔を見ると、視線が合った。フォンルゥは穏やかな表情をしている。
「食え」
 一言そう言って視線を外したので、ウェイライはそのままパンへと視線を移動させてジッとみつめてから、バクリとかぶりついた。美味しい。パクパクと3口でその塊を食べてしまうと、果実酒で流し込んだ。
「嵐が来ます! 乗客の皆様は部屋から外へは出ないで下さい! 嵐が来ます!」
 船員が大きな声で繰り返し叫びながら廊下を通り過ぎていった。それを聞いて驚いたような顔のままウェイライがフォンルゥをみつめた。フォンルゥは落ち着いた様子で果実酒を飲んでいる。その横顔をジッとみつめた。
「本当にくるの?」
「……嘘だと思っていたのか?」
 落ち着いた口調で返されて、ウェイライはちょっと恥ずかしくなって立ち上がった。もう一度小窓から外を見ると、さっき見たときとは随分様変わりしていて驚いた。それほどの時間も経っていないはずなのに、さっきまで真っ青だった空が、真っ黒になっていた。まるで夕闇のような空だった。風が強いらしく、波が白く立っているのが見える。
「わっ……フォンルゥ……空が、空が真っ黒だよ」
「嵐が来るからな」
「そんなの分かってるけどさ……わっ」
 突然船がグラリと大きく揺れたので、ウェイライはバランスを崩して、後ろ向きにひっくり返りそうになった。それをフォンルゥがしっかりと抱きとめてくれる。
「危ないから座ってろ」
「ご……ごめん」
「酒が零れる。残りを飲んでしまえ」
 ウェイライをソファに座らせてから、コップを手渡された。フォンルゥの方は瓶の口をしっかりと塞いでいるところだった。ウェイライは言われるままに、コップに半分ほど残っていた果実酒を飲み干した。瓶とコップは、船に備え付けの棚の中に仕舞うと、棚の戸をしっかりと停め具で閉めた。
 船は大きくグラリグラリと揺れ続けていた。
「大人しくベッドで寝ているほうが良さそうだな」
 フォンルゥが言って立ち上がろうとすると、ぎゅっと袖を引っ張られたのでそのままストンとまた腰を下ろした。
「なんだ」
「オレ……上のベッドだと落ちそうで怖いから、フォンルゥの所に行っても良い?」
「……それならテラ達の使っていたほうのベッドが空いているから、そっちの下のベッドに寝ればいいだろう」
「……怖いから……」
 ウェイライはそれだけ答えて、ぎゅっとまだフォンルゥの袖を握っていた。フォンルゥはしばらく考えるようにしていたが、溜息をついて「分かった」とポツリと答えた。
 フォンルゥが立ち上がると、それにしがみつくようにしてウェイライも立ち上がり、一緒にベッドまで移動した。
 船はずっと揺れ続けていて、ギシギシとあちこちが軋むような音をたてていた。外は雨風が強くなってきたようで、船体に叩きつけてくる波の音なのか雨の音なのか分からない激しい音が聞こえてくる。
「狭いぞ」
 ベッドに辿り着いて、二人は這うようにして中に入ると、フォンルゥがポツリと言った。
「ごめん……だけど……」
「別にいい、ただ言っただけだ。いちいち気にするな」
 フォンルゥが溜息混じりにそう言って、ウェイライの肩を抱き寄せた。ウェイライは両腕をフォンルゥの体に回してギュッとしがみつく。
「船がバラバラになったらどうするの?」
「そう簡単にはバラバラにはならない」
「ひっくり返ったらどうするの?」
「ひっくり返らない」
「水が入ってきたらどうなるの?」
「そう簡単には沈まない」
 ウェイライが心細そうに呟く言葉に、フォンルゥはひとつひとつ宥めるように答えた。
「……いつものお前らしくないな。そんな女みたいに怖がるなんて……」
 フォンルゥがちょっとからかうような韻を含めてそう言うと、ウェイライはプツリと黙り込んでしまった。
「怒ったのか?」
 フォンルゥが腕の中に居るウェイライを覗き込みながら尋ねたが、ウェイライは俯いたままでその表情は見えなかった。それでもまだぎゅっとしがみつく腕の強さが変わらない。
「だって……」
「ん?」
「だって……オレ、泳げないんだもん! 海に落ちたら死んじゃうよ!」
 ウェイライが半ばヤケクソのような口調でそういうと、一瞬の間の後、ぷっと小さくフォンルゥが噴出すように笑った。
「あ! 今、笑ったな!」
「いや……笑ってない」
「嘘だ!! 笑った!!」
「笑ってない」
 恥ずかしさでフォンルゥの胸に顔を埋めているウェイライの頭を、フォンルゥは宥めるように撫でた。
「大丈夫だ、その時はオレが助けてやるから」
 優しい言葉にウェイライはズキンと胸がまた痛んだ。
「フォンルゥ……フォンルゥ……」
 何度もその名を呼びながら、その胸に顔を埋めて抱きついた。
『好き……好き……』
 心の中では、名前の代わりにその言葉を何度も呟く。それは決して楽になれる呪文ではなかった。繰り返せば繰り返すほど、胸が更に痛くなる。この逞しい広い胸も、強い腕も、こうしていると安心できるのに、胸が痛くて泣きそうになる。
 なんでこんなに辛いのだろうと思う。いっそ「好きだ」と告白してしまえば楽になれるのだろうか? そうしてはっきりと拒絶されれば諦めもつくのだろうか?
「フォンルゥ……」
 ウェイライが顔を上げると、間近にフォンルゥの顔があった。いつものフォンルゥの顔だ。冷たくはないが、決して緩めもしないその表情。真っ直ぐな瞳がウェイライをみつめていた。
「フォンルゥ……フォンルゥ、オレ……オレね……」


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