風が心地よかった。縁に腕組みしてその上に顎を乗っけて、ぼんやりと風に吹かれながら海面をみつめていた。ほどよく吹き付ける風に、船は帆を膨らませて調子よく海上を走っている。船が作る波に、海面が日差しを受けてキラキラと光っていた。それはいつまでみつめていても飽きることはない。
 ウェイライの故郷のエルマーンは、周囲を険しい山々に囲まれていて、海からは遠いところにあった。仕事で外へと出るときは、竜の背に乗って行くので、空高く雲の近くまで高く飛ぶから、海の上を渡る時ははるか眼下で、こんな風に海面を眺めることなんてない。
 空の上で受ける風と、こうして海の上で受ける風は違った。どちらも好きだ。そして何より、こうしてぼんやりとしている時間は心地よかった。何も考えなくて良い。何も面倒なことは考えなくて良い。
 船旅は、今までの旅の中で一番のんびりしていて、一番平和な時間だと思う。ここでは追っ手のことも考えなくていいし、目立つ行動さえしなければ、周りの目を気にすることもない。何もする事がないから、退屈になるくらいぼんやりとしていられる。退屈だと思えることは、とても平和でいいことだと思った。
 何も悩みも心配事もない。ただ目的とする東の大陸に到着する日を、ぼんやりと待つだけの日々……のはずだった。
 ウェイライはハアと溜息をついた。なんでこんなことになってしまったのか分からないけど、フォンルゥの事を考えると胸がチリチリと痛くなる。なんだかそれを意識するようになってからは、フォンルゥの顔をまともに見れないし、まともに話が出来ない。でもそれだと変に思われると思って、一生懸命普通に普通にって振舞っていると、すごく疲れてきてしまって、やっぱり心のどこかでもっともっと意識してしまうから、あの部屋に一緒に居るのが居づらくて、こうして甲板へと出てきてしまっていた。
「あ……鳥」
 ぼんやりと海面を見ていたら、白い鳥が海面すれすれをスーッと飛んで、船の速度にしばらく合わせた後、ふいっと上空へと上がっていってしまった。それをぼんやりと目で追う。
「ウェイライさん、こちらに居たのね」
 声をかけられて、ゆっくりと頭を上げて振り向くと、そこにはスーが立っていて、目が合うとニッコリと笑ってくれた。
「お邪魔かしら」
「いえいえ、ただボーッとしていただけだから」
 ウェイライがヘヘヘと笑って答えると、スーはにっこりと隣に立った。
「何を見ていたの?」
「ただぼんやり海を……今、鳥が飛んでいたから、近くに島があるのかもね」
「ええ、もうしばらくしたら、たくさんの島々が連なるクメン諸島に着くんですって……船員さんが言っていたわ。船を半日そこに停めて、水や食料の補給をするんですって……島に降りたい人は降りても良いそうよ」
「へえ〜……気晴らしに良さそうだね」
「私達、その島に降りようと思うの」
「ああ、オレも降りようかな」
「ウェイライさん……違うの。その島に住もうかと思うって意味なの」
「え?!」
 ウェイライはそこで初めて言葉の意味を理解して、驚きの声をあげながら、縁に持たれかけていた体を起こして、隣に立つスーをジッとみつめた。彼女は穏やかな顔で笑っていた。
「テラと話し合ったの……私達家族が静かに暮らせる場所について……東の大陸に行くのも良いと思うけど……よく分からないけど、やっぱり大きな大陸だと、また戦争があるんじゃないかとか、たくさんの人が住んでいるところも不安で……だからどうせ知らない土地なら、小さな島でひっそりと暮らすのもいいんじゃないかと思って……そう決めたの」
 ウェイライはスーの話を聞きながら、少しばかり表情を曇らせた。
「でも……オレ達の国に来れば、きっと平和に暮らせるよ? 戦争も無いし……それに話したとおり竜も見せて上げたいし……」
 スーはニコニコと笑って頷いた。
「そうね、貴方達の国にも行って見たかったけど、もうこれ以上貴方達に迷惑をかけられないし……船から下りた後、またしばらく馬で旅をしなければいけないでしょ? 赤ん坊を連れてだと、そんなに無理を出来ないから……ありがとう。本当に本当に感謝しきれないくらいお世話になってしまって……」
 ウェイライは口をへの字に曲げて黙ってしまった。その顔を見てスーがクスクスと笑った。
「そんな顔しないで」
「だって……せっかく仲良く慣れたのに寂しいよ」
「私達もさみしいわ。でもいつかは別れが来るものよ」
 ウェイライは再び海の方へと視線を戻した。しばらくの間何も言わずにジッとそうしていたが、やがて大きな溜息をついてから、再びスーを見た。
「絶対幸せになってね」
「ありがとう」
 ウェイライは右手を差し出してスーと握手を交わした。
「ウェイライさんは、フォンルゥさんと喧嘩でもしたの?」
「え!?」
 突然のスーの言葉に驚いた。スーはその反応を見てクスクスと笑っている。
「ど……どうしてそう思ったの?」
「だって一昨日からウェイライさんの様子が可笑しいもの」
「そ……そんなに可笑しい?」
 スーは笑いながら頷いたので、ウェイライはちょっとショックを受けたような顔になってから、溜息を吐いて項垂れた。
「そんなに分かりやすいかな……」
 ウェイライはポリポリと頭を掻いた。
「フォンルゥさんは変わりないけれど……」
 スーがそう言ったので、ウェイライは観念したように苦笑して見せて頷いた。
「そう、別に喧嘩とかじゃないんだ。オレだけがなんか可笑しいの」
「ウェイライさんだけが? どういう意味?」
「確かに……一昨日ちょっとフォンルゥと口論みたいなことにはなったんだけど……喧嘩ってほどのことではなくて……でもね、なんかその時にオレ……なんか自分でも変になっちゃって……」
 ウェイライはそこまで言って、縁に両肘を掛けて背を持たれかけさせながら、また小さく溜息を吐いた。
「フォンルゥは……オレのこと、友達ともなんとも思っていないんだよ……ただの旅仲間……いや、仲間とも思っていないかもしれない。ただ一緒の同行者……ただそれだけなんだ。オレはフォンルゥの事好きなのにさ……なんかすごく悔しくて……そう思ったらすごく辛くて、胸がチリチリと痛くて……なんかフォンルゥの顔もまともに見れなくてさ……アハハハハ可笑しいよね」
 ウェイライが苦笑して見せてスーを見ると、スーは少し驚いたような顔をしていた。
「お二人は恋人同士じゃなかったんですか?」
「え!?」
 スーの言葉に驚いて、ウェイライは思わず大きな声をあげてしまっていた。それからカッと少し赤くなって、片手で口元を塞いだ。
「こ……こ……恋人って……オレ達、男同士だし……」
「西の大陸では、男同士の恋人なんてそんなに珍しくありませんでした。男色の王様が居る国があるくらいですから……もちろんそれが普通という訳ではありませんが、特に物珍しいわけでもないです。東の大陸では珍しいのですか?」
 それを聞いてウェイライはちょっと納得した。自分が奴隷として売られそうになった意味がなんとなく見えてきた。働くほうの奴隷ではなくて、性奴隷だったのだ。だから体を綺麗に洗われて身奇麗にされたりしたのだ。
「そりゃ……東の大陸でも、男娼のいる花街がある国もあったけど……いや、でもやっぱり普通じゃないだろう?」
「普通じゃないけど、私は別に差別はないから……お二人がそうだとしても別に可笑しいとは思っていませんでした」
「な……な、なんでオレ達がそんな風に見えたの?」
 ウェイライの言葉に、スーは腕組みをして少しばかり考え込むような素振りをした。
「初めて会ったときからそう見えていましたから……自然と……最初にウェイライさんを女性だと思っていて、お二人が普通に夫婦に見えていた所為かもしれませんけど、でもなんというか……仲がいいとかそれだけではなくて、お二人の間の空気というか……上手く説明できませんけど、ウェイライさんがなぜフォンルゥさんがウェイライさんの事を、ただのたびの同行者としか思っていないだなんて思われるのかが分らないくらいです」
「え? ど……どうして?」
 戸惑い気味の表情をしたウェイライに、スーはニッコリと笑ってみせた。
「だってフォンルゥさんは、ウェイライさんの事を、とても大切に思っていらっしゃる感じだから」
「フォ……フォンルゥが?!」
 スーはクスクスと笑った。
「ええ、フォンルゥさんって無口だし、愛想も無いし、ちょっと怖く見えるくらいでしょ? でも不思議と私は最初から、フォンルゥさんを怖いとは思わなかったんです。テラはちょっと怖かったらしいんですけど……それで私もなんでかなぁ? って考えたんですけど……フォンルゥさんがウェイライさんを見つめる時の目が、すごく優しいんだという事に気づいて……それはとても見覚えがあって……つまりテラが私を見るときの目と一緒だから……だからそう思ったんです」
 ウエイはみるみる真っ赤な顔になった。その様子にまたスーはクスクスと笑う。
「ちがっ……違うよ!! フォ……フォンルゥには、恋人が居て……もう死んじゃったんだけど、でもフォンルゥはその恋人が忘れられなくて、その恋人のことしか考えてなくて……この旅だって、死んだ恋人のためなんだもん!」
「でも、ウェイライさんは、フォンルゥさんをそういう意味で好きなのね?」
 もうすべてを見透かされてしまっているようで、ウェイライは何も言い返せずに、ただただ真っ赤になっていた。スーはクスクスと笑った後、ウェイライの頭をそっと撫でた。
「大丈夫よ……恋人同士になれるかどうかは、私には分からないけれど……少なくとも、フォンルゥさんは貴方のことを大切に思っていると思うし、決してただの旅の同行者なんかじゃないわ。それだけは自信を持って」
 ウェイライはスーに撫でられるのを、少し心地よく思いながら、ジッと項垂れて足元をみつめていた。
「自信なんて持てないよ……」
 小さくそう呟くしかなかった。


 それから2刻ほどして、船は帆を半分に畳んだかと思うと減速していき、やがてたくさんの島々が並ぶクメン諸島へと辿り着いた。海底が見えるくらいの遠浅の礁で繋がっている島には、船は近づくことが出来なかった。船が近くの海に停泊すると、島のほうから小船がたくさん近づいてきて、水の入った樽や食料などを船へと積み始めた。船からも小船が降ろされて、島へと降りたい乗客が次々と乗り込んでいった。
 ウェイライは、別れがたくなるからと船を下りるのを辞めて残る事にして、その場でテラ達と別れることになった。フォンルゥも甲板まで出てきて、テラ達と握手を交わした。
「がんばってね」
「ウェイライもね」
 スーが目配せをしてそう言ったので、ウェイライはちょっと泣きそうな顔をして笑って見せた。人との別れは辛い。特にこんな旅の途中では、普通よりもずっと情が移るものだ。ラズを一度抱っこしてから頬擦りをして別れを惜しんだ。


 4人部屋の客室に、二人だけになってしまった。
「さみしくなっちゃったね」
 ウェイライが、空いてしまった左側のベッドの下の段に腰を下ろしてポツリと呟いた。フォンルゥは右の自分のベッドに寝転がっていた。
「ああ、そうだな」
 返事は無いと思っていたのに、フォンルゥがそんな風に答えたので、ウェイライは驚いて顔を上げると向かいに寝転がっているフォンルゥをみつめた。フォンルゥは仰向けに寝ているだけで、目は開いていた。
「……フォンルゥも寂しいの?」
「そうだな……この前、お前が言っていた通りかもしれん」
「え?」
「オレが勝手に一人になりたがっているだけだ……親しくなった者との別れは辛い」
「フォンルゥ……」
 フォンルゥはそれっきり何も言わなかった。そんなフォンルゥをウェイライは黙ってジッとみつめていた。そしてまた胸がキュウッと痛くなった。
「じゃあ……じゃあ……オレと別れても……辛いと思ってくれる?」
 ウェイライは、やっとの思いでそれだけの言葉を口にした。口にしたら、もっともっと胸が痛くなってきた。苦しくて息が出来なくなりそうだ。ぎゅっと服の胸元を掴んだ。
「そうだな……辛いだろうな」
 フォンルゥはポツリと言った。ウェイライの方は向かない。ジッと二段ベッドの上の段の底板をみつめたままで呟いた。その様子を見て、その言葉を聞いて、ウェイライは更に胸が痛くなった。目の奥がなんだか熱くなってしまって、涙が出そうな気がしたからキュッと下唇を噛んで我慢した。
 きっとそれは違うのだ。フォンルゥがいってくれた言葉は、ウェイライが思っているものとは違う。その「辛い」は、テラ達と同じものだ。それまで誰にも執着せず、他人に情を移さずに生きてきたフォンルゥが、ようやく示してくれた感情なのだ。それだけでも十分だと思わなくてはならないのだ。
 自分がきっと可笑しくなってしまったのだと思う。ウェイライは思った。フォンルゥの背中に触れたいと思ったり、その腕に抱きしめられたいと思ったり……そんな風に思ってしまっている自分が可笑しいのだと、ウェイライは思っていた。
 きっとこんな事を思っているだなんて、フォンルゥに知られたら、また拒絶されてしまう。
 ウェイライは、ギュッと胸元を強く握り締めたまま立ち上がると、ベッドに架けられた梯子を上って、上の段に行くとゴロリと横になった。上掛けを頭から被ると、膝を抱えて丸くなり、ギュッと強く目を閉じた。
「ウェイライ?」
 下からフォンルゥの声がした。今は返事が出来そうにない。口を開いたら、泣き言があふれ出しそうだった。
「ウェイライ?」
 フォンルゥがもう一度呼んだが、ウェイライは答えなかった。フォンルゥは上体を起こして、上を覗き仰いだが、返事がないので諦めてまた横になった。テラ達との別れが辛いのだろう。フォンルゥはそう思っていた。だから今はそっとしておこうと思った。


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