「ご飯だよ!」
 勢い良く扉を開けてウェイライは元気な声でそう言った。が、それに対する反応はまったくなかった。
「あれ?」
 ウェイライはキョトンとした顔になって、部屋の中をよく見まわした。部屋の中にはフォンルゥが一人ベツドに横になっているだけだ。ウェイライは少し気が抜けたような顔になってゆっくりと扉を閉めた。中に進み入り、横になっているフォンルゥの顔をちょっと覗き込んでから、そのまま奥へと進みテーブルの上に抱えていた包みを置いた。
「彼らならどこかに出て行ったぞ」
「起きてたの?」
 フォンルゥがボソリと呟いた言葉に反応して、ウェイライが振り返って見ると、フォンルゥはまだ寝たままで居た。
「どこかに行ったって……どこに?」
 尋ねたがフォンルゥは何も答えなかった。ウェイライはしばらくじっと答えを待って、フォンルゥをみつめていたが、やがて諦めて小さく溜息を吐くと、包みを開けて中からパンや果物を取り出してテーブルの上に並べ始めた。
「せっかく食べ物を買ってきたのになぁ……今日はね魚肉の塊を焼いたのも手に入ったんだよ。下の3等客室のところに行くと、色んな行商人とかが居て面白いんだよ。みんなすっかり船旅に慣れてきたみたいで、店開きを始めたりしててさ……ちょっとした露天市みたいで面白いんだよ」
 ウェイライがペラペラと明るく話をしても、もちろんフォンルゥは相槌すら打ってくれないのだが、ウェイライはまったく気にする様子もなく話し続けた。
「料理を始める人も居てさ……こういうね、小さな火を起こす道具を持っててね。すごいんだよ。小さな焚き火みたいでさ」
 ウェイライは手で大きさを表現して見せながら楽しそうに話したが、もちろんフォンルゥの返事はない。というより寝ている。ウェイライはピタリと話をするのを辞めてから、ジーッとフォンルゥをみつめた。側まで歩み寄るとフォンルゥの寝顔を覗き込む。
「聞いてる?」
 尋ねたが反応はなかった。
「お腹空いただろ? 食事にしようよ」
 更に話しかけると、少し間を置いてからゆっくりとフォンルゥが目をあけた。覗き込んでいたウェイライと目が合ったが、フォンルゥは特に驚いたような顔はしなかった。
「起きているんじゃん」
 ウェイライはちょっと口を尖らせてからそう言って、すぐにニッコリと笑って見せた。
「食事にしよう?」
 フォンルゥは返事はしなかったが、ゆっくりと体を起こしたので、ウェイライはベッドから離れるとテーブルへと戻って、途中になっていた並べかけの食料を再び並べ始めた。
「フォンルゥ、ナイフで肉を切ってよ」
 魚肉の塊をフォンルゥに差し出して渡すと、自分は壁に備え付けの小さな棚に置いてある皿とコップを取り出した。それをテーブルに並べると、水差しの水をコップに注ぐ。
「テラ達の分も分けておいてね」
 フォンルゥは黙ってナイフで肉を切った。魚肉の塊はそれほど大きなものでなかったので、薄切りにして肉片を多く切り分けた。それを2枚ずつ皿により分けて、残りを紙で包みなおす。
「美味しそうだね……さあ食べよう」
 ウェイライはニコニコしながら言うと、肉片をパンの上に載せて口を大きく開けてかぶりついた。フォンルゥは、パンを手で千切って口の中に放り込む。
「ちょ、ねえ、すごく美味しいよ! これ! 食べてみなよ」
 ウェイライが急かすように言うので、フォンルゥは仕方なく肉片を一枚食べた。
「ね?」
「……ああ」
 頷いたフォンルゥに、ウェイライは満足そうに頷き返すと、またパクパクと食べ始めた。フォンルゥも黙って食事を続ける。
 ナーグカーンの港を出てから5日になる。最初の2日間はウェイライもテラとスーも、慣れない船旅に、部屋でグッタリとなっていた。フォンルゥから外の風に当たると良いと促されて、3日目にようやく甲板へと出た。
 ウェイライは女装をしなくて良いと言われたので、ナーグカーンで買っておいた男物の服に身を包み、すっかり元気になった。今では船の中をウロウロと歩き回ったりして時間を潰すことが多い。
「ああ、美味しかった。夜は食堂に食べに行く?」
 満足そうな顔でフォンルゥに尋ねると、フォンルゥは水を飲みながらしばらく考え込んでチラリとウェイライを見た。
「食うことばかりだな」
「だって……ほかに楽しみはないだろう?」
 ウェイライは食べ終わった皿を片付けながらそう言った。確かに船の中ではこれと言って楽しみはない。船の中をウロウロとするウェイライはまだしも、フォンルゥはずっと寝てばかりだ。
「テラ達は甲板かな? 探しに行ってこようかな」
 部屋に備え付けの水瓶の水で濡らした布で、皿を拭いてから棚に仕舞うとそんな事を呟いてみて、チラリとフォンルゥを見た。
「一緒に行かない?」
「いや……」
 フォンルゥは小さく溜息をつく。
「彼らはオレのことが苦手なのだろう、せっかくどこかで気晴らしをしているのに、わざわざオレが行くこともあるまい」
 フォンルゥはそういうと、またベッドへと戻った。脇に立てかけている剣を手に取り、ベッドに腰掛けると布で磨き始めた。ウェイライは驚いたような顔をしてフォンルゥをみつめていた。
「なにそれ?」
 ウェイライが問いかけたがフォンルゥは答えなかった。ムッとした顔になって、ウェイライがツカツカとフォンルゥの側に歩み寄る。
「フォンルゥ……今言ったのどういうことだよ。テラ達が何か言ったの?」
「いや……そういう訳じゃない」
「じゃあなんでそんな言い方するのさ」
「そんな風に感じるからそう言ったまでだ」
「……フォンルゥ……なんか卑屈だよ?」
 ウェイライは両手を腰に当てて、ちょっと膨れっ面で言ってみた。フォンルゥが一瞬手を止めてチラリとウェイライを見上げる。
「こんな狭い部屋の中だ。一緒に居てそうそう隠しきれるものではない。オレが普通と違うことは、もう彼らも気づいているはずだ。普通の人間ならば気持ち悪いと思うだろう」
 フォンルゥがそう言うと、ペチンと音を立ててウェイライがフォンルゥの頭を軽く叩いた。フォンルゥはジロリとウェイライを見上げる。
「ふふふ……髪を剃っているからいい音がするね」
 ウェイライは笑ったが、もちろんフォンルゥは笑わない。ジッとみつめてくるフォンルゥを、そのままジッと見返しながら、ウェイライは小さく溜息をついた。
「テラ達には、オレ達がシーフォンという竜族であることは話したんだ。髪の色……きっと変だと思うだろうから……くわしくは話していないけどね。話したって分からないと思うし……ただ、フォンルゥの体には戦争の所為でとても醜い傷跡があって、それを人に見られたくないんだって言ってある。だからテラ達はそれを信じていると思うよ……テラ達はフォンルゥに気を使っているだけだよ。苦手とかそんな風には思っていない。そんな人達じゃないよ」
 ウェイライは言い聞かせるように、ゆっくりと穏やかな口調で語った。フォンルゥは聞き終わると、視線を落として何もいわなかった。ウェイライは小さく溜息を吐いて、フォンルゥの頭をナデナデと撫でてみた。少しばかり髪が生え始めていて、表面がザラザラとした。その感触にクスリと笑った時、バッとその手首をフォンルゥに掴まれた。ジロリとまた睨んでいる。
「よせ」
 フォンルゥは怒っている様子でボソリと言った。ウェイライはちょっと驚いた顔をした後に、小さく笑って見せて「ごめんごめん」と言ったが、フォンルゥはウェイライの手首を掴んだままで睨んでいる。ウェイライは困ったように笑って見せた。
「フォンルゥはどうしてそんなに頑ななの?」
 尋ねても答えてはくれなかった。
「オレにもまだ全然心を開いてくれないよね?」
 フォンルゥはジッとウェイライをみつめたままで、何もいわない。
「ねえ……フォンルゥにとって、オレはまだ……ただの道案人なだけの存在なの?」
 ウェイライが少し小首を傾げて見せると、フォンルゥはウェイライの手首を離して、眉間を寄せてから俯いてしまった。視線を外されて、ウェイライも眉間を寄せる。
「他に……何があるというんだ」
 フォンルゥがボソリとようやく答えた。ウェイライはその答えに僅かに顔をゆがめる。
「何って……仲間とか……友達とか……パートナーとか……なんだって……なんだって色々とあるじゃないか」
「じゃあお前が好きな呼び方にすればいいだろう」
「違うよ! 違う! そんなんじゃない……呼び方の問題じゃなくて……こういうのって気持ちの問題だろ? フォンルゥがオレの事をどう思ってくれているのかだよ! こんなに長く一緒に旅をして、危険な目にもあって、助け合って……それでただの道案内人だなんて……そんなん無いだろ?」
 ウェイライはムキになって言っていた。無性に悔しい気分だ。胸が痛い。フォンルゥがすべての人々との間に壁を作っていることは知っている。長い傭兵時代だって、相棒も仲間も居なかったと聞いた。ずっと一人で生きてきたと……友達なんて人生の中で一人も居ないのだと……それは長く隠れ住み、その生い立ちのため周囲の人間達を拒み、また逆に迫害もされた為に硬く硬く心を閉ざしてしまっているのだからだと……150年近いその年月は、同じく長い年月を生きるウェイライであっても、想像することも出来ないものだ。それはエルマーンで生きたか、人間の世界で生きたかの違いだ。
 今ウェイライは初めて人間の世界に入り、その異形を変装で隠しながら、人々の顔色を伺い、バレないように生きている。これを150年間過ごせといわれたらどうなのだろうか?
 それを思えばこそ、フォンルゥには同情もするし、その気持ちを理解しようと努力してきた。ガチガチに固まっている彼の心の壁は高く、扉は容易には開かないのだと……それでもウェイライは、同じ立場の同じ種族の者として、人間とは違う存在であると思って欲しかった。
 ウェイライはギュッと拳を握り締めた。
「じゃあ……お前はオレの事をどう思っているというんだ」
 フォンルゥが突然聞き返してきた。
「え?」
 ウェイライはハッとして、握っていた拳を緩めてフォンルゥをみつめた。フォンルゥはまだ俯いたままだ。ジッと床をみつめている。
「オレは……フォンルゥの事、大事な仲間だと思っているよ」
「それは同じ竜無しだからか?」
「それもある……確かにそれもあるよ。同じシーフォンで、同じ境遇だもの……」
「オレとお前は違う。お前には帰るところがあるだろう。家族も居る」
「それはフォンルゥだって……エルマーンに戻れば、みんなが迎えてくれるさ!」
「分かるものか! オレは親に捨てられたのだ。エルマーンに行ったところで、どんな扱いを受けるかわかったものではないさ。どうせ化け物だと言われるだけだ」
「言わない! オレが言わせない!」
 ウェイライが大きな声をあげてそう言ったので、フォンルゥが少し驚いたように顔を上げた。
「違うんだよフォンルゥ……そうじゃないんだ。上手く言えないけど……多分そんなことじゃないんだ」
 ウェイライは顔を少し歪めながら下唇を噛んだ。そんなウェイライをフォンルゥは不思議そうにジッとみつめていた。
「確かに……分からないよ。エルマーンに行ったらどうなるかなんて……オレだってずっと差別を受けていたし……確かにそういう心の狭い人達も居るのは確かだよ。だけどね、全部がそうじゃないって言いたいんだ。オレ……こんな風になって初めてそういうのが分かってきたんだ。オレはずっと竜無しって事で差別されたり、いじめられたりしてきた。その事で家族も苦しんでいた。だけど……だけどそれだけじゃないんだよ。じゃあ不幸だったか? って聞かれたら、そうじゃないもん。オレは幸せだったよ。家族はみんなオレを愛してくれてたし、友達だって何人もいたし……ラウシャン様もかわいがってくれてた……オレは一人ぼっちなんかじゃなかった。全部が全部酷いわけじゃなかったんだよ。フォンルゥだってそうでしょ? フォンルゥを育ててくれたアルピン達は、みんなフォンルゥを愛してくれていたでしょう? 近くに居た人間達だって、一人や二人は親切な人が居たはずでしょ? シュイさんだって居てくれたでしょ? フォンルゥはずっと一人ぼっちな訳じゃなかったでしょ?」
 ウェイライは感情が昂ぶっているのか、顔を上気させて少し息を荒げていた。目が少しばかり潤んでいる。フォンルゥはそんなウェイライを黙ってみつめていた。
「フォンルゥは、自分で勝手に一人になろうとしているだけだよ……テラさん達に話しかければ、きっと話し返してくれるし、笑いかければ笑ってくれる。仲良くしようと思えば仲良く出来るよ。オレの事も、仲間だとフォンルゥが思ってくれれば、オレはフォンルゥの仲間になるよ。だってオレはフォンルゥの事が好きだもん」
 フォンルゥが驚いた顔をしたので、ウェイライもハッとなって、少し赤くなった。バツが悪そうに下唇を噛んだが、キッとまたフォンルゥを強い眼差しでみつめ返した。
「好きだよ。フォンルゥの事が好きだよ。だってオレ、フォンルゥと一緒にいないと不安だし、フォンルゥの側に居たいもん……守ってくれるから言うんじゃないよ。同じ竜無しだからでもない。フォンルゥが大事なんだよ! オレが勝手にそう思ったって良いだろう!」
 最後はもうなんだかヤケクソになっていて、ウェイライはそこまで言い捨ててから、そのまま部屋を飛び出していってしまった。
 廊下を駆けて、階段を駆け上がって、甲板へと出ると船尾の方へと走った。一番端まで行くと、縁に掴まってハアアアと大きく息を吐いた。
「オレ……何言ってるんだろう」
 ポツリと呟く。強い風が頬を叩いた。ウェイライの黒く染めた長い髪が風にたなびく。
「好き」
 もう一度言葉に出してみた。子供じゃあるまいし、好きだ好きだとあんな大きな声で、ばかみたいだ……そう思って苦笑した。フォンルゥが驚いたような呆れたような顔をしていたように思う。自分でも何にムキになったのか分からない。
 もう一度大きく深呼吸をすると、縁に両腕を組んで乗せて、その上に顎を乗せてから、ジッと波立つ海面をみつめた。
 フォンルゥが心を開いてくれないのが悔しかった。何度も色んな目にあって、心を許しあえていたような気になっていた。ナーグカーンに着く前……あの死闘の後、少なくともあの時は、フォンルゥも心を許してくれたと思っていた。成り行きというだけではなく、ウェイライ自身を身を持って助けてくれたと思っていた。それなのに……。そう思うと悔しくて、チリチリと胸が痛む。
「オレはこんなにフォンルゥの事を好きになっているのに……友達でもなんでもないのかよ」
 呟いてから唇を噛んだ。ひどく胸が痛んだ。好きと思えば思うほど胸が痛い。
「どうせフォンルゥは、シュイさんだけが好きなんだ。今もシュイさんだけが……」
 そう独り言を呟いてからハッとした。
「何オレ言ってるの? シュイさんは恋人じゃないか……フォンルゥがシュイさんを好きっていうのと、オレがフォンルゥを好きっていうのは違うんだから……そんなの比べたって……」
 自分で自分に問いかけながらも、その考えの行き着く先を思って、ぼんやりとなった。
「オレがフォンルゥを好きっていうのは……好きっていうのは……」
 チクチクッとまた胸が痛くなった。ひどく苦しい。
 ウェイライはギュッと自分の胸元を押さえながら、遠い波間をぼんやりとみつめていた。


© 2016 Miki Iida All rights reserved.