「ん……」
 ふっと意識を取り戻して、ウェイライはうっすらと目を開けた。ぼんやりとする視界には、薄茶色の布が目の前に見えるだけだ。ユラユラと視界が揺れるのは、自分の所為ではなくて、馬上で揺られているためだと気づくのに、少しの時間を要した。次に自分が誰かに抱きかかえられていることに気づくのに、更なる少しばかりの時間を要した。パチパチと瞬きをしてから、次第に頭がはっきりとしてきて、顔を上に向けた。そこにはフォンルゥの顔があった。
「フォンルゥ……」
 名前を呼んだが、声が掠れて上手く音にならなかった。しかしフォンルゥはウェイライに気づいてチラリと一度視線を下に向けてから、手綱を操って馬の足を緩めた。
「気がついたか」
「あ……うん……」
「ちょっと待て、休む場所を探す」
「え? あ……いや……大丈夫だよ」
 ウェイライが慌てて引きとめようとしたが、フォンルゥはそれ以上はもう何も答えずに、辺りの様子を伺いながら馬を駆けさせていた。ウェイライはもっと抵抗しようかとも思ったが、すぐに思いとどまり大人しくその身をフォンルゥの体に預けた。体を支えるように抱きしめてくれているフォンルゥの左腕は、硬い鱗に覆われた竜の腕のはずなのに、とても温かい気がして安心できた。頭をフォンルゥの胸に押し付けるようにして目を閉じた。トクトクとフォンルゥの心臓の音がする。この歳になって、こんな風に誰かの胸に身を寄せるなんて事はなかったな……と、ふと思った。男なのだから当然なのだが、今時分の置かれている状況に、「男の癖に変だ」なんて思いはまったく無かった。それにフォンルゥも何も言わない。
 安心した所為か、少しウトウトとし始めた頃、馬が足を止めた。
「大丈夫か? 降りるぞ」
 フォンルゥが気遣うように優しく声をかけてくれた。ウェイライは目を覚ましてフォンルゥの顔を見上げると、コクリと頷いて見せた。フォンルゥはウェイライを抱きかかえたまま、ゆっくりと馬から下りると、数歩歩いた所にある大きな岩陰に、ウェイライの体をゆっくりと下ろして、岩に背を凭れ掛けさせた。それから馬のところへと戻ると、背に積んでいた荷物のひとつを下ろして、水の入った革袋を取り出した。小さな手拭い用の布切れを水で湿らせると、それをウェイライに差し出した。ウェイライはされるがままに大人しく従った。受け取った湿った布で顔を拭うと、フウと息を吐く。
 それを見守ってから、フォンルゥはウェイライの側に屈むと水筒を差し出した。
「ありがとう」
 ウェイライが、安堵した顔で言うと、フォンルゥはジッとウェイライの顔をみつめた。
「さっきのこと……覚えているか?」
 フォンルゥの言葉に、ウェイライは一瞬きょとんとなったが、しばらくして思い出したような顔になり「ああ……」と小さく頷いた。
「そうか……オレ、能力使って気を失っちゃったんだ」
「能力?」
「うん」
 ウェイライは水筒の水を一口飲んで、またフウと息を吐くと頷いた。
「シーフォンの能力なんだよ……人間の心を操作できるんだ」
「人間の心を?」
「うん……だからさっきのは殺してないよ、みんなの気を失わせただけ……催眠術みたいなものかなぁ……シーフォンでも、血統が良くないとなかなかね……ラウシャン様とかタンレン様とか直系のロンワンは、自在に操ることが出来るんだけど、庶子の血筋になるほど能力が弱くなるし、自分で自在に操れなくなる。オレも普段は自分で意識しては使えないよ……っていうか、実はこれが初めてなんだ。使ったの……自分でも驚いた……フォンルゥだってロンワンの血筋だから、使えるはずだよ。自在には無理かもしれないけど」
 ウェイライの言葉を聞いて、フォンルゥは不思議そうな顔をして、ただ黙ってジッとみつめていた。その様子を見つめながら、ウェイライはクスリと小さく笑ってから大きく深呼吸をした。
「フォンルゥ……オレ達は人間じゃないんだよ。竜族だ。だから不思議な力を持っている。オレ達は竜を持っていないから、ついつい人間と同じような気で居るかもしれないけど、紛れも無くシーフォンで、人間じゃないんだ。でも化け物なんかでもない。オレもフォンルゥも同じなんだよ……フォンルゥはまだ自分の事を化け物だと思っているの? フォンルゥは、オレがさっきみたいな事をしたのを見て、オレの事化け物だと思った?」
 ウェイライが真っ直ぐな目で見つめてくる。その真っ直ぐな視線を受け止めながら、フォンルゥは真っ直ぐな視線で見つめ返して「いや」とボソリと答えた。その答えを聞いて、ウェイライはニツコリと笑った。
「じゃあ一緒だ。オレ達はシーフォンだよ。化け物なんかじゃない」
 フォンルゥはぼんやりとした顔になった後、ハッと我に返りプイッと視線を逸らして立ち上がった。
「傷の手当てをしたほうがいい」
 無愛想な様子でそう言って、また馬のほうへと戻っていった。その姿を見つめながら、ウェイライは驚いて体を起こした。
「傷の手当てをするべきなのはフォンルゥだよ! その背中!」
 ウェイライが叫ぶように言ったので、フォンルゥは振り返り首を傾げる。ウェイライが驚くのも無理は無い。フォンルゥのマントの背の部分はパカリと切れて開いていた。それはマントだけではなく、中の服までもちろん切れていて、空いた切り口から背中の素肌が見えていた。碧に鈍く光る鱗の部分と、生身の肌の部分が半々に見えていて、バサリと切られたその部分は、生身の部分の肌を切り、その周囲の衣服が血で濡れて、すでに茶色く固まってしまっていた。
「……これくらい、別に平気だ」
 フォンルゥはボソリと答えてから、荷物の入った麻袋を漁って、中から小さな素焼きの入れ物を取り出した。それを持ってウェイライの元に戻ってくると、脇に屈みこんで、その大きな無骨な手に握られた素焼きの入れ物の蓋を開いて、中に入っている乳白色の軟膏を指に掬った。
「腕を出してみろ」
 知らない人が聞いたら、怒っているような無愛想な口調。でもウェイライは、もう慣れてしまっているので、大人しくそれに従って右手の袖を捲り上げて差し出した。浅い切り傷が数箇所ある。紫色の痣も出来ていた。フォンルゥは指につけた軟膏を、その傷口に塗り始めた。
 不器用そうな無骨な太い指が、それでも気を使って丁寧に薬を塗る様子を、ウェイライはジッとみつめては、時々チラリと視線をフォンルゥの顔へと向ける。フォンルゥの顔は、あくまでも真剣だ。
「オレだって、男だから、これくらいの傷は平気だよ」
「お前はケガに慣れていないはずだ。小さな傷でも、こんなにたくさんつけたんだ。ちゃんと手当てをしておかないと、あとで熱出して寝込んだりするんだ」
 ボソボソとフォンルゥは低い声で呟くように言った。ウェイライは、おかしくて笑いそうになるのを我慢して、ジッと大人しくしていた。
 今、彼がとても近くに感じると、ウェイライは思っていた。今まで長い時間を一緒に過ごしてきて、ずっと近くに居たつもりだったけれど、今初めて近くに来た気がしていた。フォンルゥの不器用な優しさが嬉しい。なんだか胸の奥がホクホクと暖かくなってくるようだ。
 右手を手当てしてもらい、次に左手、右足、左足と丁寧に手当てしてもらった。その間中、ウェイライはずっと黙って大人しくしていた。一通り終わったところで、待っていたといわんばかりに、ウェイライは深呼吸をしてから、絶対に断らせない勢いで「次はフォンルゥの傷の手当てをするから」と言った。
「オレは良い」
「ダメ! ダメだよ……せめて、血で汚れているところを拭かせてよ」
 キッと睨むような強い眼差し観念したように小さく溜息を漏らして「解った」とフォンルゥが答えた。
「じゃあ上半身裸になってよ……オレ以外、誰もいないからいいだろ?」
 ウェイライに言われて、少しの間の後、フォンルゥは渋々というように、マントを脱いで、上着を脱いだ。フォンルゥの逞しいからだが露になる。
 以前一度だけ見たその体だ。再び見ると、やはり少しばかりドキリとなる。半身が碧の硬質な鱗に覆われた肉体。その異質な部分を除けば、胸も腹も背中も、筋肉の形がクッキリと分かるほどに鍛え抜かれている男らしい体だ。
 背中の傷は斜めに切れていた。鱗に覆われた左の肩口からバサリとやられたのだろう。もちろん左半分には、かすり傷一つついていない。だが生身の肌の部分は、半分切れていた。傷口はもう塞がっているようで、茶色に固まった血が、傷口の周りにベッタリと張り付いている。
 ウェイライは水で濡らした布で、その血の固まった傷口を丁寧に拭いた。
「痛い?」
「いや、平気だ」
 フォンルゥは淡々と答える。自分だったら、絶対悲鳴を上げるだろうな……とウェイライは思いながら手当てを続けた。フォンルゥはまったくビクリともしないのに、傷口を拭くたびに、ウェイライの手が震えた。最初の一打が鱗に覆われた部分だったようで、生身の傷は浅く、スパリと刃に撫でられて切れたといった様子だった。それでも皮膚がパックリと割れて、肉が見えている。血の塊を拭い取ると、赤く鮮やかに肉が露になった。
「本当に痛くない?」
「……ああ」
 恐る恐る尋ねるウェイライに、フォンルゥは面倒臭いというように短く答えた。ウェイライは小さく溜息をついてから、自分にも塗ってもらった軟膏を、傷口に塗りこんだ。ふとみると肩や二の腕にも古い傷跡が残っていた。傭兵として長く暮らしていた彼の生き様がそこにあった。
「うらやましいな」
 ウェイライが溜息とともに小さく呟いて、そっとその背中に両手を添えた。傷の手当ては終わっていた。ウェイライはただジッとフォンルゥの逞しい背中を見つめていた。
「……何が?」
「え? あ……ごっごめん、手当て、終わったよ」
 ウェイライが慌てて立ち上がると、フォンルゥもゆっくりと立ち上がった。ウェイライは地面においていたフォンルゥの上着を手にとって広げてみてから、血に汚れて、破れてボロボロになっている様子を見て、チラリと視線をフォンルゥへと向けた。
「これはもう着れないね」
「ああ、あと半日も行けば、ナーグカーンに着く、そこで服を買おう」
 フォンルゥはそう言って、ウェイライの手から上着を受け取った。グシャグシャとそれを丸めると、地面においてそのままどこかに向かって歩き出した。
「どこに行くの?」
「薪になるものを探してくる、お前はそこにいろ」
 ウェイライは後を追おうかと思ったが、これ以上迷惑をかけるわけには行かないと思い、諦めて馬の背から下ろした麻袋を漁り始めた。
 しばらくしてフォンルゥが枯れ枝や枯れ草を腕一杯に抱えて戻ってくると、ウェイライが岩陰に座って、布を広げて何かをしていた。
「何をしている?」
 フォンルゥは先に丸めておいていた上着の所に、枯れ枝を置きながら、ウェイライを不思議そうな顔で見つめて尋ねた。
「ああ……とりあえずの貴方が着れる服を作っていたんだ」
「服を?」
「繕う道具が無いから、服を縫うって訳には行かないんだけど……ほら、マントだけだとさ、同じように背を切られているから、切り口が開いていて風通しが良いし……色々と不便だろ? ナーグカーンの町に入ってもとりあえずは大丈夫なようにさ……ちょっと着てみてよ」
 ウェイライは立ち上がり、広げた布をフォンルゥに渡した。フォンルゥがそれを手にとって首を傾げると、着る手順を教え始めた。
「ここの真ん中の穴に、頭を突っ込んで……そう、で、両腕はこっちで……その紐を絞ってここで結んで……そう」
 それは一枚の布の中央に穴を上げて、頭からすっぽりと被れるようにしてあり、両腕の部分は袖になるように簡単に刃物で切ってあり、その袖となる部分から両脇までの部分は、何箇所かに小さな穴が開けてあり、糸の代わりに麻糸で、とても大雑把ではあるが縫い合わせてあった。本当に簡易に作った衣服といった感じであった。
「そのままだと変だけど……マントを上から羽織れば解らないし……これならフォンルゥの嫌がる腕や背中を見られなくて済むだろう?」
 フォンルゥは言われるままにそれを着て、しばらくぼんやりと立ち尽くしていたが、フッと小さく笑みを漏らした。
「ああ……助かるよ」
 ボソリと答えると、フォンルゥは焚き火を作り始めた。ウェイライは、ちょっと驚いた様子で立ち尽くしていたが、やがてニコニコと笑いながら頭をかいた。
『フォンルゥが笑った』
 それは初めて見る顔だった。無愛想なフォンルゥが、ちょっとだけど笑ったのだ。嬉しくて仕方なかった。


 簡単な食事を済ませて、ウェイライは大きな岩に背を持たれかけて座りながら、真っ暗な地平の彼方をみつめていた。星が瞬く夜空は綺麗で、遥か遠くの地平のあたりが、僅かだか紫色に見えて、そこが空と地の境なのだとわかった。他には何も見えない。
「追っ手は来ないようだな」
 フォンルゥが焚き火に木の枝をくべてから、ウェイライの隣に腰を下ろした。
「なんかオレ達、いつも追われているみたいだね」
 ウェイライがクスクスと笑っていったが、フォンルゥは何も答えなかった。怒っているのかな? と思って、ウェイライがフォンルゥの顔を見上げると、フォンルゥはジッとさっきまでのウェイライと同じように地平の彼方をみつめているようだった。
 ウェイライはその横顔をしばらくみつめた後、また前を向き直り小さく溜息をついた。
「……何が羨ましいんだ?」
「え?」
 突然フォンルゥがそう言ったので、ウェイライは驚いて聞き返した。再びフォンルゥの顔を見ると、さっきと同じ無表情で待つすぐに前を見つめたままだ。
「さっきそう呟いていただろう」
 またボソリとフォンルゥが前を向いたまま言ったので、ウェイライは目を丸くしてから、みるみる顔を赤らめていった。
「フォンルゥが……羨ましかったんだよ」
「オレが?」
 そこで初めてフォンルゥがウェイライの方を向いた。ちょっと驚いたような顔をしている。目が合って、ウェイライはバツが悪そうに顔を背けた。
「だって……すごく逞しくて、男らしい体をしているんだもん。同じ男として羨ましいし憧れるよ」
「こんな体がか?」
「そうだよ……さっき手当てをしながら間近で見たら、本当に羨ましくて……オレには無いものだし」
「……鍛えればいい」
「無理!」
 ウェイライはちょっと大きな声で即答してから、キッとフォンルゥを見上げてにらみつけた。その様子に、フォンルゥはちょっと驚いて顔を少し後ろに引いた。
「オレ、鍛えても全然逞しくなれないんだよ。チビだし……昔から、人より小さくて細くて……どんなに食べても鍛えてもダメなんだ。竜無しだから……きっと人より劣っているんだろうって……シーフォンの男はみんな立派な体格だし、背も高いんだ。オレの兄もそう……オレだけいつまでもこんなで……まあおかげで、女の格好もできたけどね」
 ウェイライがヘヘヘと笑って見せると、フォンルゥは逆に少し眉間を寄せて表情を曇らせた。
「悪かったな」
「え?」
「……お前がそんなに気にしているとは知らず、女の格好の変装などさせて、すまないことをした」
「え、あ、いや……大丈夫、平気! 無事に旅するためには仕方ないもん……迷惑かけたくないから……オレ、フォンルゥが一緒に旅してくれるだけで、本当に心強いから……足手まといにならないためなら、役に立ちそうなことなら何でもするしさ」
「役に立っているさ」
「え?」
「今回は、お前に助けられた。お前が居なかったらどうなっていたか分からない。それにエルマーンに行くには、お前が居なくては困る」
 フォンルゥは淡々とした口調でそういうと、側にあった枯れ木を焚き火に向かって投げつけて、また地平のほうを真っ直ぐに見つめた。ウェイライは、ジーッとフォンルゥの横顔をみつめながら、みるみる笑顔になっていった。
「うん……ありがとう、オレ、がんばるから」
 フォンルゥは何も答えなかった。だがウェイライは嬉しくて嬉しくてたまらなかった。認めてもらえたことが嬉しかった。フォンルゥは世辞はいわない男だと思う。だから尚のこと嬉しかった。
 フォンルゥに急速に惹かれていくその思いの形が何なのかは、この時のウェイライにはまだ分からずにいた。


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