食べ物のいい香りが鼻をくすぐり、フォンルゥはパチリと目を覚ました。
「クスクス……おはよう!」
 そこにはすでに女装したウェイライが居て、手に木の器を持ったまま、フォンルゥを覗き込むようにして笑っていた。
「……なんだ?」
 フォンルゥは突然のウェイライの行動が分からずに、少しばかり不機嫌そうな声を上げた。寝起きの所為もあるかもしれない。だがウェイライは気にする様子もなく、またフフフと笑ってから屈めていた上体を起こすと少し後退りした。
「宿屋の奥さんから貰ってきたんだよ。昨日たっぷりと眠らせてもらったおかげで、夜明け前から目が覚めちゃってさ……着替えてちょっと外に散歩に出掛けたんだ。戻ってきたら宿屋の奥さんが待っていて、これをくれたんだよ。オレが病気で寝込んでいることをご主人に言ったの? それで心配してくれたみたいなんだ。栄養を付けなさいってさ」
 ウェイライはそう説明をしながら部屋の脇においてあるテーブルのところまで歩いていき、そこに木の器をコトリと置いた。
 フォンルゥは体を起こすと、不思議そうな顔でジッとウェイライをみつめた。ウェイライはひどく明るく振舞っているように見える。昨日の落ち込み具合が嘘のようだった。フォンルゥには、こんな風にコロコロと様子の変わる相手が、不思議で仕方なかった。元々感情表現を表に出すのが苦手なフォンルゥには、こんな風に表情や態度がコロコロと変わるウェイライの様子は不思議でたまらない。理解しがたいものである。
「良い匂いだろ? 野菜スープなんだけどさ……あの彼方此方で見かけたトゲトゲの木みたいな葉っぱみたいな植物があっただろう? あれの葉っぱの部分が入ってるんだってさ。甘い乳みたいな汁が出て、それがスープに合ってすごく美味しいんだってさ」
 ウェイライは一人でしゃべりながら、茶を注いだりして食事の準備をしていた。それをベッドの上に座ったままで、フォンルゥがジッとみつめていた。
「貴方がオレ達は宗教の関係で肉が食べれないって話を奥さんにしたんだろ? それでわざわざ野菜スープを作ってくれたんだよ。良い人達で良かったね! ……って……何? どうかした?」
 ひとしきりしゃべっていたウェイライが、ようやくフォンルゥの視線に気がついて、手を止めると不思議そうに首を傾げて振り返ってみた。
「……お前……その格好で散歩してきたのか?」
「え? あ、うん、そうだよ。他に服無いし、当たり前だろ?」
 キョトンとした顔でウェイライが答えると、フォンルゥは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻った。だからウェイライも更に首を傾げてみせる。
「何? 何だよ……」
「いや……お前、女装で人前を歩くのを嫌がっていたから……」
「ああ」
 フォンルゥの言葉に、ウェイライは小さく納得の声を上げてから、ニッコリと笑って見せた。
「だって仕方ないだろ? 正体を隠すための変装なんだから……これくらい大したことじゃないよ。貴方だって頭の先から手の先、足の先までグルグル巻きに布で隠して変装しているんだし……思ったんだけどさ、貴方も十分怪しい格好だと思ったんだよ。なんか盗賊しててもおかしくない風体だろ?」
「……盗賊……」
 ウェイライの言葉に、フォンルゥはちょっと不満そうに眉を動かして小さく呟いた。
「オレまで同じ格好をして正体を隠していたら、絶対みんなから怪しまれていたと思うんだ。貴方は今までは傭兵をやって暮らしていたから、そんな風体を怪しいとか気にする人も居なかったかもしれないけど、旅人としてはかなり怪しいよね。それこそ村の用心棒でも居たら、一番に捕まっちゃうと思うんだよ」
 ペラペラとよくしゃべるウェイライに、フォンルゥは反論の余地も無くただ眉間に小さくシワを寄せた。
「それでオレまで同じ格好をして、そんな格好の二人連れがいたら、絶対本当に怪しいよね。だからさ、これでいいんだよ。オレが女の格好をして、夫婦って事にしていたら、ここの宿の主人夫婦みたいにさ、すごく親切にしてくれるし、どこでも上手くいくと思うんだ」
ね? と言って笑って小首を傾げてみせるウェイライを、フォンルゥは黙って見つめ返すだけだった。
「女装は変だと思われるんじゃないのか?」
「変だと思う?」
 問い掛けに対して、更なる質問で返されて、フォンルゥは困ったような顔になる。それを見てウェイライはまたクスクスと笑った。
「貴方が変じゃないって言ったんだ。だから良いよ。女の格好をしていたって、それはただの変装で……別に貴方がオレを女みたいだなんて思わないって言ってくれたんだ。だから行きずりの人から何と思われようとも、それってすごくちっぽけなことなんだって思ったんだ。だから平気……むしろさ、変だと思われないくらいに、オレが女とのフリを上手くやればいいんだよね」
 ウェイライはニコニコと笑いながら、再びフォンルゥの側へと歩いてきた。
「さあ、旦那様、食事の準備が出来ましたよ」
 ウェイライはわざとちょっと高めの声でそう言ってから、ポカンとした顔のフォンルゥを見て、アハハハハと笑い出した。フォンルゥには、まったく理解できないことだ。それはウェイライが『女装が平気』と言っていることではない。そんな風に1日で気持ちをコロリと切り替えられて、前向きに明るくいられるウェイライのその気持ちの変化が理解できないのだ。
『不思議な男だ』と思う。だがそれは決して不快な気持ちにはならなかった。
 フォンルゥは小さく溜息を吐いてからベッドを降りると、テーブルへと向かいウェイライと一緒に朝食を摂った。朝食後、互いに荷物をまとめると、出発の準備をした。

「お世話になりました」
 ウェイライは物腰柔らかく女のように礼をすると、宿屋の夫婦に別れを告げた。フォンルゥはその横で黙って頭を軽く下げ、ウェイライを馬に乗せてから、自分も馬に跨り、並んで出発した。

「ね? 今の良かったろ?」
 村を出た所で、ウェイライが楽しそうにそう言ったが、フォンルゥは前を見つめたままで何も答えなかった。だがウェイライは、満足そうにフフフと笑う。
「まいったな……そのうち癖になっちゃったらどうしよう」
 笑いながらウェイライが言うと、フォンルゥはそこでチラリと視線だけを向けた。
「無理してるんじゃないのか?」
「え?」
「別に無理しなくても良い……それにオレに気を使っているのならば、それも必要ない……そんなに無理にしゃべったり、明るく振舞う必要は無い」
 フォンルゥがボソリとそう言うと、ウェイライはその大きな目を更に見開いて、驚いたようにジッと横を併走するフォンルゥの顔を(ほとんど布に隠れて見えないが)凝視したが、しばらくして大きな溜息を吐いた。
「ごめん、最近ちょっとオレが落ち込んだり、ウジウジメソメソしていたり、なんか後ろ向きだったから、貴方に気を使わせてしまったよね……オレはもともと結構おしゃべりだし、性格だって明るいほうだし……図々しいくらいに好奇心強いし……割と考え無しに行動するくらい無鉄砲なところもあるんだよ。後先考えずに、任務中に家出したりしたくらいだからね……だから無理してないよ、大丈夫」
 ウェイライはとてもはっきりとした口調で言った。鼻から下を布で隠しているので、よくは解らないが、多分その口元は笑みを浮かべているだろう。
「それに……オレはもっと強くならないといけないんだ」
 それは強い意志を込めるような口調だった。
「オレ甘ちゃんだから……貴方みたいに強くならなきゃ」
 ウェイライはそう言ってから、馬の腹を少し蹴って、足を速めるとフォンルゥよりも前へと出た。フォンルゥはその様子をただ黙って眺めていた。

 2日馬を走らせて、3日目の昼にようやく町の影が遠くに見えてきた。ナーグカーンの手前にあるというクエッタという小さな町だ。その辺りになると街道を行きかう旅人の姿を何人も見かけるようになった。町のほうから来る者、フォンルゥ達と同じように町を目指す者、歩く者、馬車を使う者、馬を使う者、様々だ。
 町の入口が見えてきたところで、たくさんの人の集まりが見えた。そこからきびすを返して戻ってくるものも居る。フォンルゥ達は馬の足を緩めると、互いに顔を見合わせた。群集の手前で馬を止めて降りる。人々が口々に文句を囁いていて、とても賑やかな状況になっていた。
「どうかしたのか?」
 フォンルゥが近くの男に尋ねた。
「入口で通行料を取られているんだ。それに荷物とかも調べられるらしい。それでなかなか町の中に入れないんだ」
「通行料……いくらだ?」
「一人500リム」
「500リム!?」
 それを聞いて思わずウェイライが大きな声を上げてしまった。周囲の者達が一斉に振り返ったので、ウェイライは慌てて口を押さえて俯いた。しかし驚いてしまったのも無理は無い。500リムと言ったら、小銭といえる範囲の金額ではない。この辺りの物価でならば、一人一泊の宿代が100リム前後だ。それも宿に泊まるような旅人は、まだ割と裕福なほうだと言える。野宿をする者も多いし、今の現状、戦場を逃れてやってきた者も多い、着の身着のままの者も居るだろう。家族連れなどは、一人にそんなには金を払えないはずだ。
人々が騒ぐのも無理は無かった。
 どうりで町の方から来る人々が、皆表情が暗く、肩を落としていたはずだ。通行料が払えずに、諦めて引き返してきたものたちだろう。
「町を迂回すればいいんじゃないのか? 遠回りにはなるだろうが……」
「それが最近、町の周りには盗賊が多く居て、たくさんの人が襲われているんだ。金品を取られるだけでは済まず、女は攫われたり、男は殺されることもあるらしい……町を通らせてもらうのが安全なんだが、それに目をつけたのか、新しい領主が通行料を取るようになったんだ」
 男の話を聞き終わって、フォンルゥ達は顔を見合わせた。集団から少し離れると、馬の影に隠れるようにして、ウェイライがフォンルゥを手招きした。フォンルゥは手招きに釣られるようにウェイライに近寄ると、体を少し屈めて顔を近づけた。
「なんかおかしいと思わない?」
「ああ」
 二人はひそひそと話した。
「あの宿屋の主人の話では、町長が雇った用心棒がのさばっていて、町の人も迷惑しているって事だったけど、話が違うよね……こんな法外な通行料を取ったり、町の周囲に盗賊が横行しているなんて……なんかすごく出来すぎた話のような気がする。町の周囲の盗賊って……それが例の用心棒じゃないのかな?」
 ウェイライの意見に、フォンルゥは頷いた。
「確かに怪しいな……町長が本当に治安のために用心棒を雇ったのならば、町の周囲の盗賊を退治しないのはおかしな話だ」
「そうだよ、第一、町を通らずに迂回しようとする旅人だけを狙うなんて、なんかおかしいよ。普通なら町を襲ったりするんじゃないのかな? それにそういう事に便乗して、急に通行料を取り出すなんて……盗賊の横行を逆手にとって利用しているとしか思えないよ」
 二人は頷きあってから、もう一度群集の先にある町の入口辺りを眺めた。あいかわらず揉めているようだ。諦めて引き返す者もたくさん居た。
「どうして? どうして引き返すの? お母さんに会えないの? ナーグカーンに行かないの?」
「お金が無いから、あの町を通れないんだよ。町を迂回するのは危険だし……諦めるしかないんだ」
「やだ! お母さんに会いたいよ!」
 ウェイライ達のすぐ脇を、親子連れが通り過ぎていった。小さな男の子は、泣きながら必死に父親にすがり付いて引きとめようとしていたが、父親はひどく暗い表情で子供を宥めるしかないようだ。それをウェイライは眉を寄せながら見送るしかなかった。
 突然フォンルゥがヒラリと馬に跨ったので、ウェイライも慌てて馬に跨った。
「どうするの?」
「町を迂回する」
 フォンルゥの言葉を聞いて、ウェイライは少し瞳を輝かせた。
「盗賊を退治する気?」
「……金を払いたくないだけだ」
 フォンルゥは無愛想に答えると、馬の手綱を引いて向きを変えた。ウェイライもそれに習う。街道を外れて、町を迂回するように馬を早足で進めるフォンルゥについていった。
「ねえ、でも盗賊をみつけたら戦うんでしょ?」
「さあな」
「何人くらいいるんだろうね……でもそんなに大人数じゃないと思うんだ。貴方は強いから、きっと大丈夫だよね」
 なんだかウェイライは少しばかりワクワクした気分で居た。一方的にペラペラと話を続けたが、フォンルゥは相変わらず黙ったままだ。表情も変えない。ただ馬を進める。
「オレも戦うし、盗賊を退治したら、町長も通行料を取るのを諦めるかな? あの親子も通れるようになるといいね。ふふふ……なんか悪者退治って、いい事するみたいでワクワクしない?」
「……お前……確かオレにもう戦わないで欲しいとかって言ってなかったか?」
 ふいにフォンルゥがボソリと言ったので、ウェイライは驚いたように目を見開いてフォンルゥを見た。そのすぐ後にふふふふふと笑い出した。
「うん、言ったよ。今だってそう思ってる。貴方には戦って欲しくないよ。傷ついて欲しくないもん」
「言ってることがおかしくないか? 盗賊を退治しろとかって」
「あはははは……盗賊を退治しろなんて、一言も言ってないよ。ただ盗賊をみつけたら戦うんだろうなって思っただけだよ。それを想定して話をしているだけ。だって貴方、優しいし、いい人だから、このままにはしておかないでしょ? 盗賊をみつけて逃げるような人じゃないでしょ?」
「さあな」
 フォンルゥは、ひどく不機嫌そうな返事をして、少し馬の足を速めた。それを嬉しそうに微笑みながらみつめると、ウェイライも馬の足を速めて後を追いかけた。


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