ウェイライは、長く続く王城内の回廊を足早に歩いていた。逸る気持ちで今にも全速力で駆けて行きたいのだが、王城内の回廊でそのような粗相をするわけにもいかず、足音に気をつけながらも、少しでも早くと足を速める。
 目的の部屋の扉の前にようやく辿り着くと、ノックをすると同時に返事を待てずに勢い良く開けていた。
「兄上!」
 そう叫びながら部屋の中へ飛び込むようにして入ると、広い部屋の奥に対峙する二人の姿があり、二人はゆっくりとこちらへと振り返った。奥に居る一人は金色の長い巻き毛の年配の男で、もう一人は大きな書机の手前に立つ藍色の肩の長さで切りそろえられた髪の若い男だった。
「ウェイライ……なんでここに」
 藍色の髪の男の方が先に口を開いた。
「兄上が争いごとをして咎めを受けていると聞いて……」
 ウェイライは少し乱れている息遣いでそう言いながら、ふと奥に居る金髪の男と目が合ったので、ハタと我に返り姿勢を正して頭を下げた。
「ウェイライ、案ずるな。ホンウェイは咎められることは無い」
「ラウシャン様……本当ですか?」
「ああ、本当だ。別に悪いことをしたわけではない。話し合いが少し白熱してしまっただけだ……そうだな? ホンウェイ」
「はあ」
 ラウシャンと呼ばれた金髪の男が、落ち着いた口調で諭すように藍色の髪のホンウェイにそう告げると、ホンウェイは少し困ったような顔になって頷いて見せた。それを見てウェイライもホッと安堵した。
「温厚な兄上が、争いごとをなさるなんて信じられなくて……一体何事があったのかと心配致しました」
「心配をかけてすまなかったな、ウェイライ」
 ホンウェイは、優しく微笑んで言った。それはいつもの兄の姿で、ウェイライは改めて安堵した。
――お前の所為だよ
 どこかから声がする。
――すべてはお前の所為だ
 また別の声がした。
「誰?」
 ウェイライが辺りを見回すと、そこはさっきまで居たはずのラウシャンの執務室ではなくなっていた。あたりが突然真っ暗になり足元さえも見えなくなっていた。ウェイライは不安になってキョロキョロと辺りを見回した。
「あの温厚なホンウェイ様が剣を抜きかけたそうだ」
 すぐ後ろのほうから男達のひそひそと話す声が聞こえてきた。ウェイライが振り返ると、ボンヤリとした白い人影があるだけで、その実態は影か蜃気楼のようだった。
「あれは相手のジウフェンが悪いのだろう? ホンウェイ様に失礼なことを言ったと聞いた」
「ああ、あれだろう? 竜無しの弟の話だろう? ロンワンの血筋なのに、竜無しが生まれるなんておかしいという噂は、前から色々と聞いていたから、別にジウフェンが言い出したわけでもないだろうに」
「だがホンウェイ様の耳に入るところで、ウェイライはアルピンの子じゃないのかなんて、冗談でも言うのはマズイだろう」
「ホンウェイ様も気の毒に、弟が竜無しの所為で……」
「母親のミンラン様もお気の毒だな。ウェイライの所為で、アルピンとの不義の噂などを流されたりして……」
「ウェイライもよく恥ずかしげも無くいられるものだ。竜無しの癖に」
「ラウシャン様に目をかけられているから調子に乗っているのだ」
「なぜ奴はラウシャン様の竜に乗れるのだ」
「竜無しのくせに」
――お前の所為だ
――お前の所為だ

「やめろ!」
 ウェイライが叫んで男達の影に向かって殴りかかったが、それはスッと消えてなくなり闇になる。後方からシクシクとすすり泣く声がして振り返ると、母親がソファに突っ伏して泣いていた。その肩を父親が撫で、側には兄が立っていた。3人とも悲しげな顔をしていた。
――お前の所為だ
――お前の所為だ
「父上……母上……兄上……オレさえいなければ……オレさえいなければ、そんな悲しい顔をせずに済むのですよね?」
 ウェイライは佇んでいた。3人の側に行くこともできず、両目から涙が零れ落ちた。
「オレさえいなければ……」

「おい!」
 グイッと強く肩を掴まれた。ウェイライはビクリとなり、パッチリと目を開けた。そこは闇の中ではなかった。明るい室内。古い木の天井とフォンルゥの顔があった。
「あ……」
「大丈夫か?」
「え?」
 言われてようやく夢から覚めた。ハッとなると、目の周りがジクジクする。手で擦ると涙に濡れていた。
「あ……オレ……」
「うなされていた」
 フォンルゥがボソリとそう呟くと、ウェイライのベッドから離れていった。ウェイライは少し気恥ずかしく思って、顔をゴシゴシと両手で擦る。それから体を起こすとフォンルゥが側へと戻ってきた。
「ほら」
 フォンルゥが水の入ったコップを差し出したので、ウェイライはちょっと驚いて顔を上げてフォンルゥの顔を見た。その表情はいつもと変わらない無表情で、からかっているのか怒っているのか解らない。
「ありがとう」
 ウェイライはおずおずとそれを受け取った。コクコクと飲むと、意外と喉が渇いていたことに気がついた。飲み干してホウと息をつくとなんだか落ち着いてきた。さっきの夢の所為で、ひどく気持ちが昂ぶっていたようだ。現実に戻って来たような感じだ。そこでふとフォンルゥが心配してくれていたのだと改めて気づいた。
 チラリとフォンルゥを見ると、目が合ったがやはり顔色は変わらない。
「オレ……なんか変な事とか言ってた?」
「いや……」
 気恥ずかしそうにウェイライが尋ねると、フォンルゥは無愛想に一言そういっただけだった。
「ただ……ばかみたいによく寝ていた」
「え?」
 急にそんな言い方をされて、ウェイライは少し眉を寄せた。
「ばかみたいって……まだ朝だよね?」
「もう昼だ」
「え!?」
 ウェイライはギョッとなって、窓のほうを振り返った。窓は大きく開け放たれていて、外の耀と日差しが入ってきていた。外の喧騒がかすかに流れ込んでくる。
「朝から買い物に出掛けてきたが、戻ってもお前が寝ていたから呆れてみていたところだ。そしたら急にうなされ始めたから起こした」
 言われてウェイライはカアッと赤くなった。そんなに寝こけていたなんて……フォンルゥが起きだして出掛けるための身支度をしていても気づかなかった。
「ご……ごめん、ちゃんとした宿は久しぶりだったから……それにフォンルゥも一緒だし、安心しちゃったのかもしんない」
「オレと一緒が?」
 フォンルゥは少しだけ眉を動かして、怪訝そうな声色で言ったので、ウェイライはコクリと頷いてフォンルゥをみつめた。
「そう、貴方と一緒だと安心だから……一人部屋だったらちょっと不安だったかもしれない」
 ウェイライがニッコリと笑って見せると、フォンルゥはちょっとだけ眉を寄せてジッと見つめ返してきた。右手が伸びてきてウェイライの額をそっと触る。ウェイライは驚いて目を見開いた。
「熱がある」
「え?」
「具合が悪いから、うなされるような夢を見たのだろう……横になっていろ」
「え? 大丈夫だよ、熱なんて……」
 ウェイライは言いかけて立ち上がろうとしたが、クラリと眩暈を感じてそのままストンと座り込んでしまった。確かに改めてそういわれてから自覚すると、頭が痛いし体が熱い。
「薬を買ってくる」
「あ、いいよ……少し寝てれば治ると思うから……」
 止めたがフォンルゥはまったく聞かずに出て行ってしまった。残されたウェイライは、困ったように溜息をついて再び横になった。
「熱の所為か……」
 小さく呟く。
 嫌な夢だった。家族の夢なんてずっと見なかった。なんで見なかったのだろう……と、不思議になるくらいだ。考えてみたら外の世界は想像以上に厳しくて、いろんなことが立て続けにありすぎて、そんな感傷に浸る暇も無かった。
 家族は今頃どうしているだろうか? 天井をみつめながらそんな事を考えた。
 夢で見た兄の事件が全てを知る切っ掛けだった。それまで、自分自身に対する世間の中傷があることは、うすうすと感じてはいた。人々の奇異の目も知っていた。だが家柄のおかげで、ウェイライに直接罵倒や中傷を浴びせるものは居なかったし、嫌な思いもせずに済んだのは全て家族のおかげだったのだと後で知った。
 両親が身内から中傷されていたことも、変な噂を流されていたことも知らなかった。温厚な兄が剣を抜きかけるほどの事、どれほど腹に据えかねたことがあったのだろうと思うと、それだけでも胸が痛む。
 ごめんなさい、ごめんなさいと何度も心の中で繰り返して家族の下を去る決心をした。上司でもあり大叔父でもラウシャンには、とてもよくしてもらっていたというのに、任務の最中にそっと部隊を抜け出して逃げてきてしまった。きっと迷惑をかけてしまったと思う。
 ウェイライの所為で、たくさんの人に迷惑をかけて、たくさんの人を不幸にしてしまった。今だって……フォンルゥに迷惑をかけている。
 そんなことを悶々と考えていると、ジワリとまた涙が滲んできた。手の甲でゴシゴシと擦るように拭う。
 なんて弱いんだろう……自分が情けなくなった。自分と同じ竜無しなのに、フォンルゥはなんて強いのだろうと思う。ずっと一人で生きてきたのだ。自分も彼を見習って、もっともっと強くならなければいけないのに……こんなだから、女の格好をしていて丁度いいのだ。男らしくなんて無い。シーフォンとしても出来損ないなのだから……。
 考えれば考えるほど、悪い方向にしか思いが浮かばない。情けなくて辛くて、どんなに歯を食いしばっても涙が止まらなくなってきた。その内、この部屋に一人で残されていることさえ、不安になってきてしまった。
「フォンルゥ……フォンルゥ……」
 両手で顔を覆って嗚咽しながら無意識にその名を繰り返し呼んでいた。するとしばらくしてバタンと勢い良く扉が開いた。その勢いに驚いて、ウェイライが顔から手を離して扉の方を見ると、フォンルゥが驚いたような顔をしてこちらを見ていた。
「何を泣いている」
「え……うっ……ごめん……なんか……自分が情けなくて……ごめんなさい……」
 ウェイライの答えを聞いて、フォンルゥはハアと大きな溜息をついて肩を落とした。
「オレの名前を呼ぶのが聞こえたから、何かあったのかと思ったじゃないか」
 フォンルゥは低く呟くようにそう言った。
「だって……このまま置いていかれたらどうしようって思って……」
「……何が悲しいのか解らないが……オレはエルマーンに行かなければならんのだ。行き方が解らないのに、お前を置いていくわけが無いだろう」
 フォンルゥは、ちょっと呆れたような口調で呟きながら、ガサガサと手に持っていた袋の中から乾燥した葉っぱを数枚取り出した。それを手でグシャグシャと乱暴に握りつぶして、粉々になったそれをコップの中に落とす。そこへ水差しから水を注ぎいれた。
「熱さましの薬だ……飲め」
 差し出されて、ウェイライは素直に受け取ると口にした。
「苦い……」
 ウェイライが顔を歪めて言ったが、フォンルゥは黙っていた。仕方なく顔をしかめたままで、薬を飲み干した。
「薬が美味いわけないだろう」
 フォンルゥは無愛想にそう言って、飲み終わったコップを受け取った。
「ありがとう」
 そんなフォンルゥにウェイライは礼を述べた。が、やはりフォンルゥは何も答えなかった。ウェイライは小さく息をついてから、ズズッと鼻を啜って、大人しく横になると天井をみつめていた。
 気配がして、フォンルゥが隣のベッドに腰を下ろし、剣を磨き始めたのを確認して、またホッと息をつく。もうどこにも行かないと、態度で示してくれているようだった。
 フォンルゥは無愛想だが優しいと思っていた。この旅の間、至る所でその優しさを感じていた。だからウェイライはフォンルゥを信頼できたし、頼りにしていた。今は彼と離れるほうが不安だ。
 しばらくそうしていたが、気持ちが落ち着いたらフォンルゥと話がしたくなった。今までも旅の間、少しずつ色んな話をしてきた。大抵はウェイライが、一方的にエルマーンの事などを話して聞かせるだけだった。フォンルゥの事を知りたかったが、なんだか聞きにくくて、そんなにくわしくは聞けなかった。
 でも今、こうして落ち着いて宿の部屋にいる所為か、フォンルゥの事が知りたくなってきた。心細くなった所為もあるかもしれない。彼のことを何も知らないことが、心細く不安にさせられているような気がした。
「フォンルゥを育ててくれたアルピン達は、もうみんな亡くなってしまわれたの?」
「……ああ」
「じゃあ……ずっと一人だったの?」
「ああ」
「どれくらい一人だったの?」
「……20年以上になる」
 フォンルゥの言葉に、ウェイライは胸が痛くなって眉を寄せた。
「そんなに……ああ……じゃああの時の……あの時のご老人が、最後のアルピンだったの?」
 ウェイライは西の果ての国で見た老人の事を思い出した。あれは20年以上前だ。偶然ウェイライがフォンルゥを見た最初のときだ。彼は瀕死の老人を抱えて、医者と口論をしているところだった。
 黙ってしまったフォンルゥを、ウェイライはジッとみつめた。剣を磨き続けていて、表情は変わらないし、こちらにも視線を向けてこない。
「フォンルゥにとっては唯一の家族だったんだよね?」
「……シュイは……オレの恋人だ」
「え?」
 ウェイライは驚いて少し頭を上げてフォンルゥを見た。
「恋人? あのご老人ですか? アルピンの?」
 聞き返したが、フォンルゥはもうそれ以上何も言わなかった。しばらくじっと答えを待ったが、ウェイライは諦めて頭をベッドに沈めると静かに溜息をついて目を閉じた。なぜだかフォンルゥの深い悲しみを感じた気がした。アルピンは、普通の人間だ。シーフォンとは、生きる時間が違う。シーフォンは人の何倍も長生きをする。ウェイライが目にしたのは、弱々しい枯れたような老人の姿であったが、彼が若い時でさえフォンルゥの時間でいえば、それほど昔の話ではないのだ。二人が釣り合う見かけの年齢だった頃もあっただろう。その頃に二人が恋人になっていたとしても、決して不思議なことではないのだ。現にエルマーンでも、アルピンと恋に落ちたシーフォンの話を耳にしたことがある。
 フォンルゥの背負う物のあまりの重さに、ウェイライは底知れぬ痛みを感じて、眉間を寄せた。そしてどれほど自分が頼りなく情けないかも痛感した。
 もつと強くなりたい……もっと強く……。


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