フォンルゥとウェイライを乗せた馬が、ようやくその歩みを緩めたのは、空が茜色に染まり始めた頃だった。フォンルゥは川を見つけると、しばらくその川沿いを早足で走らせてから、疎らに木が生えた小さな林の側でようやく馬を止めて下りた。
 ウェイライも下ろされて、その場に放置された。フォンルゥは馬に水をやり、それから林で木の枝を拾ってきてから、黙々と焚き火を作り始めた。
 ウェイライは、しばらくそれをぼんやりと見つめていたが、やがて疲れてゴロリと転がっている大きな岩に腰を下ろして、頬杖をつきながら尚もずっとフォンルゥをみつめていた。
 不思議な男だと思う。その風体も変わっている。見上げるような長身で、体格も良いのだが、その全身を包み隠すように黒尽くめの衣装を着ている。頭にも長く黒い布をぐるぐるに巻いて、髪はおろか顔も半分ほど隠してしまっていて、目の部分しか見えない。だから表情が分からなくて、この男がどういう者なのかうかがい知る事が出来ない。
 だがウェイライは、その場から逃げ出すことはせずに、ぼんやりと男の様子を眺めていた。逃げようと思えば逃げられるだろう。男はこちらには無関心のように見えるし距離もある。まあ馬で追いつかれればそれまでなのだが、そういう理由だけではなく、ウェイライは逃げ出す気にはなれなかった。
 今の自分の立場も状況も理解している。こんな見ず知らずの土地で、闇雲に逃げたところで、自分にはどうする事も出来ないし、逃げ延びる自信も無い。鎖は引きちぎってもらったものの、まだ右足首には、鎖で繋がれていた時の枷がくっついている。剣も持っていないし、身を守る術はない。こんな状態で、運良くどこかの村か町へ逃げ延びたとしても、また誰かに捕らえられるとも限らない。
 この目の前の怪しげな男の目的は分からないが、最悪の状況から助けてくれただけでもマシだと思って、もうしばらく様子を見守ることにしたのだ。
 薪に火がついて、やがて十分な大きさの焚き火へとなった。それを見届けてから、フォンルゥは川のほうへと行ってしまった。中へと入り、何をしているのかと思って見ていると、器用に素手で魚を捕まえていた。それに驚いて、ウェイライはまたぼんやりとフォンルゥをみつめていた。
 フォンルゥは魚を2匹捕まえると、持っていた木の枝に突き刺して戻ってきた。それを焚き火で炙り始めた。しばらくして魚の焼けるいい匂いがしてくる。
「こっちに来て食べろ……魚は食べられるだろう?」
 フォンルゥがウェイライに向かって言ったので、ウェイライは驚いてポカンとみつめていたが、少し考えてから立ち上がると、恐る恐る焚き火の側へと歩み寄るとその場に腰を下ろした。
「獣の肉はダメだが、魚は大丈夫なんだろう?」
「あ……ああ」
 フォンルゥがボソリと独り言のように呟いたので、ウェイライは戸惑いながらも頷いた。フォンルゥはこちらを見ないし、顔も見えないし、彼に助けられてから今までの間、まったくと言っていいほど会話を交わしていないので、上手く意思の疎通が出来ない。馬上で何度も話しかけたが、彼はまったくウェイライの問い掛けに答えてくれないし、ずっと無視されていたのだ。だから突然こんな風に声を掛けられると戸惑う。その上「魚は大丈夫だろう」なんて、何故そんな事を知っているのだろうか?
 シーフォンは、元来「草食」である。肉は食べることが出来ない。禁止されているとかではなく、体が受け付けないのだ。それは太古の戒めの所為だと聞かされている。だが魚は食べることが出来た。そういうシーフォンの体質をなぜこの男は知っているのだろうか?
 フォンルゥが焼けているのを確認してから、魚の一つをウェイライに差し出したので、ウェイライは大人しくそれを受け取った。受け取りながらジッとみつめると、フォンルゥは視線を反らしてウェイライを見ようとしない。
「フォンルゥ……さん、って言ったっけ? なんでオレを助けてくれたの?」
 ウェイライは魚を手に持ったまま、今がチャンスとばかりに質問を再開した。この質問は馬上で何度か試みたのだが、もちろん答えてはくれなかった。そればかりかしつこく尋ねていたら「馬の上で話すと舌を噛むぞ!」と怖い声で一喝されてしまった。だから今までずっと我慢していたのだが、やはり聞かずには居られない。
「エルマーンに連れて行けって言ったけど、どうしてエルマーンに行きたいの?」
 さっき尋ねた質問をもう一度繰り返してみた。
 だがフォンルゥは無言のままだ。
 ウェイライはムッとなりながらも、強い眼差しで睨みつけていた。するとフォンルゥがようやく視線をウェイライへと向けてくれた。視線が合う。緑色の目がそこにあった。しばらくジッとみつめていると、ウェイライはハッと何かを感じて少し顔色を変えた。
 ―――なんだろう。なんだかこの感じは以前にも覚えがある……
 ウェイライはその形の良い眉を寄せた。しばらく考えてから、またハッとなり「あっ」と小さな声を漏らした。
「貴方は確か……トレイトの城下町で……」
 ウェイライがその事を思い出して口にした時、突然フォンルゥが動いた。両手を上げると、おもむろに頭に巻いている布を解き始めた。突然何だろう? と、ウェイライは戸惑いながら、黙って見つめていると、やがて驚きの余りに声を失ってしまった。
 すっかりと取り去った布の下に現れたフォンルゥの姿に驚いてしまったのだ。目が釘付けになったのは、その『髪』だ。髪の色だ。短く切られているその髪は、明るい若草色のような『緑色』をしていた。もちろんそれは普通の人間ではありえない髪の色だ。そのような不思議な色の髪は、ある特定の人種でしか、この世界ではありえない。
「あ……貴方も……シーフォンなんですか?!」
 驚いてそう呟いたウェイライに、フォンルゥは無言のままで、ジッとその緑色の瞳で見つめ返すだけだった。
「シーフォンとか、そんな物はオレは知らない……が、オレがどこの種族の者かと言われれば、多分そうなのだろう」
 フォンルゥは、とても落ち着いた口調で、静かにそう語り始めた。
「オレは産まれてすぐに親に捨てられた。だから親の顔を知らないし、生まれた国も知らない……だがオレを育ててくれた者達から、少しは話に聞いている。エルマーンの事も、シーフォンの事も……それだけだ」
「捨てられた!? 捨てられたって……そんなバカな……そんな事が許されるはずが……シーフォンの掟は厳しい。一族の血の存続の為、とても厳しい掟が定められているんだ。親殺し子殺しは当然ながら、身内同士……いや、シーフォン同士で傷つけ合うことは許されない。それでなくても、シーフォンは今数が少なくなっているんだ。子供を捨てるなんて……親の名前は?」
 ウェイライは驚きの余り、捲くし立てるようにそう話して、詰め寄るように尋ねた。フォンルゥは、無言のまましばらくウェイライをみつめてから、静かに目を閉じた。
「父の名はモオション、母の名はカリエン」
 ウェイライはその名を聞いて「ああっ!」と思わず声をあげていた。自分でその声に驚いて口を塞いだが、心臓がドキドキしてきた。
「知っているのか?」
「……く……くわしくは知らないけど……名前は……」
「健在なのか?」
 フォンルゥの言葉に、ウェイライは苦しげな顔になってから首を振った。
「奥様はずっと前に亡くなっていると思います。オレの産まれる前の話だし……モオション様は、大罪を犯されたので、地位を剥奪されて、黄昏の塔に幽閉されていました。30年くらい前に病で亡くなられましたけど……」
「大罪?」
「……オレが聞いているのは……子殺しの罪だと……」
「子殺し?」
「もう150年以上前の話ですが……生まれたばかりの子を殺したと聞いています……後にも先にも、そんな事件はエルマーンでは初めてで……大変な騒動だったと聞いています。それにモオション様は、ロンワンの血筋の方で、地位も高い方でしたので……じゃあもしかして、その『殺された子』というのが……貴方なのですか?」
 フォンルゥは目を閉じたまま、ジッと何かを考えているようだった。焚き火の中で、パチッと木が弾ける。
「子殺しの話も、その後の彼らの話もオレは知らない。親の名前をそう教えられていただけだ。親に会おうと思ってはいけないと教えられた。国にも帰ってはいけないと教えられた」
「ど……どうして? あなたがその子だというのならば、国に帰るべきです。死んだと思っていた貴方が生きていたと分かれば、王も喜ばれることでしょう」
 ウェイライは持っていた魚の付いた枝を土に突き刺して、フォンルゥを説得するように身を乗り出した。
「オレがなぜ捨てられたと思う? そしてなぜ親は、その子を「殺した」と嘘を吐いたと思う?」
「え? ……それは……」
「捨てた子を探されたくなかったからだ」
「だ……だけどそんな事……だって、その為にモオション様は大罪を犯した罰に幽閉されてしまったのですよ? 地位も血筋も絶たれてまでそんな……」
「知りたいか?」
 フォンルゥの言葉にウェイライはゴクリと唾を飲み込んだ。そんな真顔で言われると言葉に躊躇してしまう。
フォンルゥは確かにシーフォンなのだと思う。その髪の色が確かな証拠だと思うし、顔立ちもとても整った男らしく精悍な顔立ちをしている。シーフォンは皆、容姿が美しいといわれている。皆が皆そうなので、どこを基準に美醜を判断すれば良いのか、ウェイライには分からないが、確かにアルピンと比べたり、他の国の人々をたくさん見てきて、容姿には美醜があり、シーフォンの顔立ちは「美しい」と言われるのも分かるようになった。そういう意味で言うと、フォンルゥはとても綺麗な顔立ちをしていた。少しやつれた様に頬がコケている上に、鋭いその眼光の所為で、「美しい」と称するよりも先に「怖い」とか「怪しい」と相手に思わせてしまうが、確かに美形だ。
だが今もまたその険しい表情を向けられて、鋭い眼光を向けられて、ウェイライはその『訳』を聞くことを躊躇してしまっていた。困ったようにグルグルと考えていると、ある一つの結論に辿り着いてしまう。
「あ……そうだ……竜。そう、竜がいないんだ。フォンルゥ、貴方がシーフォンだとするならば、貴方には竜がいるはずだ。シーフォンは、人の身と竜の身と、二つの体を持って産まれてくる。でも貴方の側には竜がいない……どこかに隠しているのではないとするならば……貴方は竜を持たずに産まれたんでしょう?」
 ウェイライの言葉に、フォンルゥは一瞬ぴくりと眉を動かしたが、すぐには答えなかった。代わりにウェイライが、話を続けた。
「そうだ。竜無きシーフォンだ。異端児だ……オレと同じだ」
 ウェイライはそう言ってから、苦笑してみせたので、フォンルゥが初めて少し驚いたように表情を変えた。
「オレも竜がいないんです。シーフォンとしては奇形なんですよ……前の王が逝去された後、次の王として即位されたフェイワン様には、随分長いことリューセー様が現れなかった。前の王のリューセー様も早世されてしまったし……その頃からずっとシーフォンの世界には異変が起きていて、子供が生まれにくくなったり、産まれてきてもシーフォンの力が弱かったり……ロンワンの血筋から離れた下位のシーフォン程、その失力がひどくて、中には竜を持たずに産まれる子まで現れた……オレもその竜無しの子の一人……奇形児だって言われたよ。ただオレの場合は、父がロンワンの血筋で、地位も高かったし、長男ではなかったし……それにオレの場合は、竜がいなかったってわけじゃなかったから、差別を受けたわけじゃないけど……」
 ウェイライはそう言いながら、服の中に手を突っ込んで、ゴソゴソと探り始めた。随分深く手を入れてから、何かを中から取り出した。布の袋が出てきて、その中から掌に収まるほどの丸い石を取り出して見せた。
「これ……オレの竜……生まれてきてくれなかったオレの竜なんだ。こういう状態、普通、卵の石化って言って、死んだ事になるんだけど……どうやらかろうじて中身はかすかに命があるらしいんだ……その証拠にオレはこうして生きているしね。聞いてるだろう? 半身が死ぬ時、もう半身も死ぬんだ。竜が死んだらオレは死ぬし、不死身の竜だってオレが死んだら死んでしまう……このオレの竜は、卵のまま育たずに、半分石化しちゃっているけど……オレの半身なんだ……今回オレが捕らえられたのも、実はこいつの所為なんだけどね」
 ウェイライはそう言いながら、大事そうにその石の様な卵を手で撫でた。
「まあ……蛮族に捕まったのはオレのミスだけど……戦って逃げようと思えば出来たんだ。それにシーフォンには、人間を操ることが出来る不思議な力があるからね。オレの力はそんなには強くないけど、少しの間、相手の動きを止める程度ならば出来たんだ……だけど身包みを剥がされて、荷物も剣もすべてを取り上げられた時、これがみつかってしまって……ただの石っころって思った奴らが捨てようとしたんだけど、オレが狂ったように必死になって返してくれってあんまり言うから、奴ら、オレの目の前でコレを叩き割ろうとしたんだ。もちろん簡単には割れなかったんだけど……卵に受けた衝撃を、オレがモロに食らってしまってさ、気絶しちゃったんだ。まあおかげで、これがオレの命の素だと分かって返してはくれたけど、その時の痛手の所為でオレはしばらくの間まったく体が動けなくなって、立ち上がることもできなくなってしまってさ……それで檻に囚われてしまっていたんだよ」
 ウェイライは話し終わると、卵をまた袋の中に仕舞ってから、懐の中に戻した。フゥと息を吐いてから、再びフォンルゥをみつめた。今度はもう前ほど警戒はしていなかった。ウェイライは少し笑みを作ってみせた。
「ね? 竜無しの奇形児は、貴方だけじゃないからさ……国に帰っても大丈夫だよ」
 フォンルゥは、ウェイライに微笑みかけられても表情を変えなかった。ただ黙ったままでジッとウェイライをしばらくみつめていた。
「その……それに貴方を捨ててしまったご両親も、もうこの世にはいらっしゃらないのだし……貴方が国に帰っても、もう困ると思っている人はいないと思うからさ……」
 ウェイライはちょっと困ったような顔をしながらそう続けた。こんな言葉を掛けるのは、あまり良い事ではない気もしていた。やっぱりどんな誤解があろうと、本当の親には生きて会いたかったのではないか? と思ったからだ。
 焦げ臭い匂いがしてきて、ふと見ると、焚き火に掲げていたもうひとつの魚が半分ほど炭化してしまっていた。
「あ……魚が……」
 ウェイライが言いかけた時、フォンルゥが立ち上がったので、ウェイライは驚いてフォンルゥを見上げた。
 立ち上がったフォンルゥは、突然マントを脱ぐと、上着のボタンも外し始めた。無言でさっさと上着を脱ぎ捨てて、手袋も外して、上半身裸になって仁王立ちにウェイライを見下ろした。見上げていたウェイライは、現れたその体に驚愕し、両目を大きく見開いて、息を飲んだ。
「どうだ? これがオレが捨てられた理由だ……オレは竜無しのシーフォンだが、ただの竜無しじゃないし、ただの奇形じゃない……こんな醜い姿、お前は今まで見たことがあるか? これでも国に帰って歓迎されると思うのか?」
 ウェイライにそう告げたフォンルゥの表情はまったく変わらず、いつもの冷静な物だった。口調もとても淡々としていて、落ち着きすぎているほどだ。目の前の光景と、そのフォンルゥの冷静な口調が、あまりにも合わず異様に思えて、ウェイライは背筋が寒くなった。
 なんだろう……この目の前に立つ男の姿は一体なんだと言うのだろう……。ウェイライは息をすることすら出来ずに、その場に硬直してしまった。
 フォンルゥのその上半身は、鍛え抜かれた鋼のような筋肉に覆われた立派な体をしていた。それだけであれば……。
 彼の左肩の首の付け根から左胸の半分と左腕、左手の指の先までが、緑色の鱗に覆われていた。それは焚き火の光を受けてキラキラと硬質の光を放っていた。魚の鱗などではない。それは見ただけでも分かるとても堅そうな竜の鱗だった。左手の指には、黒く堅そうなするどい鉄爪のような物が生えている。
 フォンルゥは驚いて硬直したまま凝視しているウェイライに更に見せるように、体を傾けてその背を見せた。背中の左半分も同じように鱗で覆われている。肩甲骨のあたりには、角の様なものが突き出ていて、それもとても堅そうに見える。
「気味が悪いか? ……オレは、竜と半身を分け損ねた醜い異端児なのさ」


© 2016 Miki Iida All rights reserved.