日の出前の空は、薄い白けたような色の青空だった。まだかすかに星が見える。
 町は静まり返り、人影はなかった。宿屋の主人には、早朝に旅立つことを前の夜に伝えておいたので、一行が玄関のカギを開けて外へ出て行こうとする頃、主人が寝間着姿で目を擦りながら奥から出てきて「お気を付けて」と声をかけて来た。
 旅の準備は十分に出来た。水も宿屋で貰った。馬も十分に休めたようで、顔つきが良かった。
 爽はギルマンに買ってもらった衣服とマントを身に着けていた。旅人らしくてカッコいいと思った。鏡を見たかったが、宿屋には大きな姿見が無かったので、自分の姿を確認する事が出来なくて残念だった。
『あとはこれに剣なんか下げたら、ファンタジーっぽくていいのにな』
 そんな事を考えていると、ヴァルトが爽の手を掴んだ。
「え?」
「さあ、どうぞ」
 爽がハッとなってびっくりしたように見ると、ヴァルトはニッコリと笑って、馬に乗るように爽の手を鞍に掛けさせた。
「あ……ありがとう」
 爽はヴァルトに抱えられるようにして馬上へと乗り込んだ。イーリス(爽)がちゃんと跨ったのを確認して、ヴァルトもその後ろにヒラリと跨る。
「大丈夫ですか?」
 後ろから囁かれて爽はドキリとなった。
「は、はい……よろしくお願いします」
 爽は慌てて返事をした。ヴァルトの両腕が、爽の体の両側から前へと伸びて手綱を掴む。考えてみたら、一日中ヴァルトにこうして抱きしめられているみたいにして過ごすなんて、すごく幸せじゃないか? なんて考えて、爽はカアッと赤くなった。
 その逞しい胸に凭れ掛かるみたいに背中を預けて、その太い腕で抱きしめられたら……なんて幸せなんだろうと思う。これで愛が芽生えない訳がない。ヴァルトはこんなにカッコいいんだから、こんな風に思っても仕方ないよね。  などと考えたが、馬が走りだしたら、振り落とされないように鞍にしがみつくので必死で、そんな甘い考えなどしている余裕はなくなる。
 一日中馬を走らせて、日が暮れる前に、一夜を過ごせる場所を探した。
 その日は、何もなかったので、道から少し逸れた所で休むことになった。
「木も何にも生えてないな」
「近くに川でもあれば、地形も変わるんだろうけどな」
 地平線が見えるほど何もない荒野だった。点々と小さな藪のような低木が生えているくらいで、森や林はなかった。
「まあ仕方ない。暗い中走り続けるのも危険だ。日が沈みきる前に、野営の準備をしよう」
 ギルマンが辺りを見回した後、そう言って馬から降りると、鞍に積んだ荷を下ろし始めた。それをきっかけに、他の者たちも馬から降りて、荷を下ろし始めた。
 ヴァルトが先に降りて、爽に手を貸してくれた。爽は『お姫様みたいだよな』なんて思いながら、少しテレくさい様子で馬から降りる。
 爽も辺りを見渡した。右も左も果てしない地平線が広がっていて、山も何も見えなかった。真っ赤な夕日が、ゆっくりと地平線へと降りていくのだけが見える。
「木とか何もないと、やっぱり良くないのですか?」
 爽は荷を下ろしているヴァルトを手伝いながら尋ねた。
「そうですね。ここまで何もない荒野だと、夜になれば真っ暗な暗闇になります。月が出ていても、夜の闇はさほど変わりません。そんな所で焚火をたいたら、遠くからでも見えます。ここに人間が居ると教えているようなものですから、もしも我々の追手が居るとしたら、居場所を教えているようなものです……せめて、岩か茂みでもあれば、少しは隠せるのですが……」
 ヴァルトの話を聞いて爽はポンッと手を叩いた。
「じゃあ茂みを作りましょう。それくらいなら私にも出来るでしょう」
「え?」
 ヴァルトが不思議に思って、イーリスに聞き返そうとしたが、イーリスは辺りを見回しながら、何かを物色しているようだった。
「この辺りがいいよね、茂みがあるからたぶんここの地面には、草木が育つ程度の水があるんだろう……ノーラ! ここに水脈があるのならば、少しばかり水を湧き出してこの地を潤してくれないか?」
 イーリスがそう語りかけると、みるみると地面から水が染み出てきてその黄土を濡らし始めた。そして湧き出る水がスルリと1本の水柱の形に伸びあがると、人のような形を作る。
『イーリス、これでいいか?』
 水の精霊ノーラが、イーリスに語りかけた。
「ありがとう、ノーラ……オーベリ! この地に緑を生み出してくれ……そうだな、私たちを囲んで守ってくれるくらいの茂みと、出来れば大きな木を2~3本生やしてくれるとありがたいんだけど」
 イーリスの問いかけに答えるように、目の前の小さな茂みがガサガサと揺れたかと思うと、その周囲の地面から、次々と芽が生えて、それはどんどん成長をしていった。
 低木が何本も生えて、垣根のような鬱蒼とした大きな茂みを作りだし、更に見上げるような大木が5本生えて、ちょっとした林を作り出した。
『イーリスよ、このようなものでいいか?』
 大木の一つが、ガサガサと枝を揺らしながら、地を這うような低い声でそう語りかけてきた。
「ありがとう、オーベリ、十分だよ」
 イーリスが嬉しそうに礼を述べると、精霊たちも満足そうに姿を消した。その様子を、ヴァルト達は驚いたようにみつめていた。
「いかがですか?」
 イーリスがクルリと振り返り、自信満々な顔でそう言ったが、皆がすぐに返事をしないので不思議そうな顔で、改めて皆の顔を見まわした。ヴァルトを始め、ノイマン、マイヤー、ガイガーが目を丸くしてみつめている。ギルマンは表情こそ変えていないが、作業の手を止めてジッとこちらをみていた。
「あ、あれ? あんまり良くないですか?」
 皆が喜んでくれるとばかり思っていたのに、反応が思わしくないのでイーリスが困ったようにおろおろとしてしまい、その様子にヴァルトがハッと我に返った。
「あ、いや、すごい、すごいです。なあ、みんな」
「あ、ああ……いや、まさかこんな事が出来るとは……これなら、安心して野宿する事が出来ますよ、なあみんな」
 ヴァルトとマイヤーが慌てて擁護したので、他のみんなも慌てて喜びの声を口にした。
「……ギルマンさん……ダメですか?」
 イーリスが、おずおずとそう尋ねたので、ギルマンはコホンッとひとつ咳払いをしてから、首を振った。
「いや、助かります」
 しかし皆の反応が、思っていたものと違ったので、改めて喜ばれてもなんだか腑に落ちなかった。
『あれ? ここでイーリスはこういうことしなかったっけ? 小説では……ここのシーンは特に書かなかったっけ? 自分の中で考えている設定と、実際に書いた物語との違いが分かんなくなるな……最初の方だし忘れちゃったよ……編集さんに「ココの部分は省いても良いかも」って言われたような気もする……自分では、同じ精霊使いでも、イーリスとヴァルトの違いを表すために、大事な設定だと思って考えていた部分なんだけどな……』
 爽はちょっと失敗しちゃったかな? とドキドキしてしまった。困ったような顔でモジモジとしていると、それを察したマイヤーが笑いながら助け舟を出した。
「いやあ、我々は昔から精霊様とは、普通の人々に比べて、ずっと馴染み深くよく知っているつもりでいたが、王となる方の身を守るべく憑いているものと思っているから、そんな日常の何でもないような事に、力を使ってもらうなんて、恐れ多い事と思っていたから、イーリス様のすることにびっくりしちまったよ」
 マイヤーのその言葉で、ふっと皆の周りの空気が変わったようだった。ガイガーもつられてクククッと笑いだした。
「いや、本当にびっくりしちゃって、オレ、アホみたいな顔しちゃった」
「アホな顔は元々だろう」
 マイヤーがからかって言ったので、ガイガーは赤くなって怒ったが、ノイマン達を笑わせて、その場がとても和やかになった。
「あ、そ、それはもちろん、そうなんですけど、使役している精霊は何も戦いとか危険な事から守るのだけが役目ではありません。彼らは常に何か役に立ちたいと思っています。彼らは人間よりはるかに優れた種族であり、本来人間が使役できるものではありません。しかし中にはヴァルト様や私のように、契約を交わす能力を持つ人間も居ます。精霊はそうして契約を交わし使役された人間を特別に認めているからこそ、守ってくれているのです。ですから精霊はもっと自分を頼ってほしいと常に思っています。どんな些細な事でも、頼まれることは嫌ではありません。ヴァルト様のジンだって、たぶんいつも皆さんが焚火の火を起こすのに苦労しているのを見ながら、なぜ自分に頼らないのだろうと思っているはずです」
「え!?」
 それを聞いて、驚きの声を思わずあげたのはヴァルト本人だった。他の皆も驚いた様子でヴァルトと顔を見合わせた。
「それは本当ですか?」
 ヴァルトがイーリスに聞き返すと、イーリスはちょっと困ったように苦笑してから肩をすくめた。
「もちろん本人に聞いてみないと分かりませんが……『その程度の事、私に頼めばいいのに、なんと人間は愚かな物か』なんてイラついているかもしれないって、私は思っています」
 イーリスの言葉に、ヴァルトは少し動揺した様子で、皆の顔を一様に見回してから「ジン」と精霊を呼んだ。するとヴァルトのすぐ側で『我を呼んだか?』と声だけが聞こえてきた。
「その……イーリス様が言っているのだが……いつも我々が焚火を作っているのを、お前に頼めばいいのにと思っているって……本当か?」
『我が火の精霊である事を忘れたか? なぜ一言頼まぬのかといつも思っていたのは本当だ』
 ジンの答えに、ヴァルトは更に驚いてしばらく言葉を失っていた。
「ジンもそう言ってますから、今日は頼んでみましょう。枯れ木を集めてきますね」
「あ、それはオレが!」
 イーリスが駈け出したので、慌ててガイガーが後を追った。
 荒れ地に倒木などの残骸は、至る所に転がっていたので、焚火にする燃料に事欠かなかった。二人はたくさんの枯れ枝や倒木の丸太を抱えて、すぐに戻ってきた。
 イーリスが作ってくれた茂みに囲まれた野営地の中心に、それらを集めて焚火の土台を作った。
 イーリスがヴァルトと目を合わせて、コクリと頷いたので、ヴァルトは躊躇しながらももう一度自分の精霊に声を掛けた。
「ジン……焚火に火を付けてくれないか?」
『造作もないこと』
 どこからかそう声がして、ヴァルトの側の空間が少しユラユラと揺れて、うっすらと人のような形を作った。そしてボッと枯れ木に火がついて燃え上がると、その人のような形は掻き消えた。
「ジン、ありがとう」
 ヴァルトは驚きながらもそう礼を言うと、返事の代わりに焚火の炎が一度ボオッと音を立てて大きく燃え上がった。
「よかったですね。彼は満足したみたいですよ」
 イーリスが嬉しそうにそう言ったので、ヴァルトはつられて微笑み返したが、内心はただひたすらに驚くばかりだった。
 ガイガー達は笑いながら焚火の炎を眺めている。ギルマンは何事も無かったように、野営の準備を黙々と続けていた。
 その夜の野宿はいつもと同じようで違っていた。皆の表情が幾分明るいように思えた。ギルマン達のイーリスに対する気持ちや態度が、更に良くなったというか、あれほどに『誰も何も信じない』というガチガチで頑なな一行の心を、更に少しずつ解していっているように思った。
 皆、口ではイーリスを「信じる」とは言っても、それほど簡単な事ではない。ヴァルトやガイガーは別格としても、一見柔軟そうに見えるマイヤーでさえ、やはり本当に信じてはいなかった。
 しかしイーリスの何気ない『常人とは違う』言動や行動を見るにつけ、その神秘さも相まって、皆がどんどんイーリスに惹かれていっているのは間違いなかった。 『不思議な人だ』  ヴァルトは、疲れて早く眠ってしまったイーリスを見つめながら思った。
 精霊を3つも使役しているというだけで、ただならぬ人物だと思うのに、当の本人は、とてもか弱い普通の人間にしか見えない。
 その容姿が美しい事を除いたとしても、男とは思えぬほど痩せて筋肉も薄いか細い体、背もガイガーよもずっと低く、子供のようにさえ見えるのに、これで成人男性というのならば、そういう小柄な民族の出身なのだろうと推察されるが、ヴァルトの知る限りの『小柄な人種』のどれともまったく違う容姿と雰囲気を持っている。
 彼が実は人間ではなくて精霊なのだと言われれば、なるほどと納得してしまいかねない。
 何より精霊との付き合い方に、本当に驚かされた。精霊に日常の事を頼むなど、考えても見なかった。
 ヴァルトの祖国サントゥアーリオ王国は、1200年も精霊と共に築いてきた王国だ。王は精霊に選ばれし者にしか成れず、選ばれた王には守護霊のように精霊が1つ使役される。精霊は王を守ると共に、国を守ってきたとても重要な存在だった。
 ヴァルトにも物心ついた頃から、側に火の精霊ジンが居た。ヴァルトの父王にも精霊が居た。直接ヴァルトは接した事が無いから、どのような精霊だったのかは記憶にないが、少なくとも父王は精霊に身の回りの事に力を貸せとは言ってなかったと思う。
 ヴァルト達サントゥアーリオ王国の者にとって、精霊とは神にも近いほど尊い存在だった。
 だがイーリスは違う。イーリスは自分の精霊をまるで友達のように扱う。ヴァルトが最も驚いたのは、イーリスが精霊たち……特に今回はヴァルトの精霊ジンの事を「彼」と呼称した事だ。まるで知人か友人を呼ぶように、「彼」と言ったイーリスの言葉に、本当に驚かされた。自然と口から出る言葉ではない。だがイーリスにとってはそれが自然なのだ。
『貴方は一体……何者なのですか?』
 ヴァルトは、神々しい物をみるかのように、イーリスの寝顔をみつめながら、心の中でそう問うた。


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