パンパンッと大きく手が叩かれた。突然の事に皆がハッと我に返ると同時に、手を叩いた張本人に視線が注がれる。
「はいはい、暗い話はここまで! 気持ちを切り替えよう~!」
 マイヤーが少しふざけた調子でそう言ったので、皆が一瞬眉を寄せる。そんなみんなの顔を、マイヤーは一様に見まわしてから、口の端を少し上げた。
「いくら考えたって、後悔したって、憤慨したって、今のオレ達にはどうする事も出来ない話だ」
 マイヤーはそのおどけた表情とは裏腹に、ひどく冷静な口調でそう言った。ヴァルトはハッとなった。
「そ……そうだな。今のオレ達にはどうする事も出来ない話だ」
 ノイマンもハッとなってから自分に言い聞かせるように呟いた。チラリと視線をヴァルトに向けた後、ギルマンを見る。ギルマンは難しい顔をして、腕組みをしたまま深く頷いていた。
「……そうだな」
 ヴァルトは自分の想いを飲みこむようにして視線を落したまま呟く。爽はそんな彼らを見つめながら、キュウッと胸が痛くなって思わず右手で胸を押さえた。物語の全てを知っている。まだ連載途中ではあるけれど、今のこの時点よりもずっと先の話まで分かっている。彼らの悲しみや苦しみが少しでも軽くなるような、もっと明るい未来を知っている。それを教えてあげたいけれど、それをしてはいけないのだという事も分かっている。だからとても辛かった。
 小説として書いているときは、物語が面白くなるならば、彼らへの試練は辛いものであるほど良いと思っていた。こうしてその場に居合わせて、彼らと共に彼らの苦しみを実感すると、我ながらなんてひどい事をしているのだろうと思わされる。
 ヴァルトが純粋であればあるほど、彼を助けたくて仕方なくなる。
『ひどい“神様”でごめんなさい』
 爽は心の中で謝罪した。
「さあさあ、いい方の話を聞きたくないのか?」
 マイヤーがわざと明るい口調でそう言った。それを聞いて、一同はそういえば「いい話」もあると言っていた事を思い出して、気持ちを切り替えようとマイヤーの方へと身を乗り出した。
「マイヤー、そのいい話を早くしてくれ」
 ヴァルトはさっきの話を一瞬でも忘れたくて、急かすように言った。
「では……話しましょうか」
 マイヤーは髭を撫でてから、イーリスに向かってウィンクをしてみせたので、イーリスは思わずクスリと笑っていた。イーリスの笑顔にマイヤーもニッコリと笑い返す。まるでイーリスが泣きそうな顔をしていたのを見抜いていたかのようだった。
「ここから2日ほど南東に走った先に、ラグアニという小さな国がある。元々は遊牧の民だったラージャ族が、建国した国で畜産が盛んな国だ。小さいながら、貿易で財をなし、国としては平和で豊かな国だと聞いている。その国に、近々……シャンベルのリベルト王子がお忍びで訪問するらしいという話だ」
「え!」
 その話に一同が驚いたので、話したマイヤーは満足そうに微笑んで頷きながら髭をなでた。
「その話は本当か?」
 ギルマンが真面目な顔で静かに聞き返したので、マイヤーは首をすくめて見せた。
「お忍びだからね、どこまでが本当か……真偽のほどは確かではない。だがオレがその話を聞いた行商人によると、リベルト王子は、ここ半年の間に、精力的に外交活動をしているのは本当らしい。近隣の小国に王子自らが出向いているって話だ。それで最近ラグアニで、城下町の整備が慌ただしくされはじめて、その行商人が訪れた際に、近々他国からの貴賓を迎えるからだって、街がずいぶん賑やかになっていたらしく、公には言われてないがリベルト王子で間違いないだろうって話だ」
 マイヤーが自信を持ってそう話したので、皆はそれぞれの顔を見合わせた。
「それが本当なら……我々にとっては、好都合な話だ……いや……驚くくらいに良い話だ」
 ノイマンがまだ信じられないというような顔でつぶやくように言うと、腕組みをして考え込んだ。
「それって、シャンベルに危険を冒して行かなくてもよくなったって事だろう!? すげえ! 運が向いてきたって感じ?」 
 ガイガーが嬉しそうに言ったが、他の皆はまだ腑に落ちないというような顔で、それぞれ考え込んでしまっていた。
「え? あれ? 嬉しくないの? なあ、マイヤー、それすげえ良い話だよな」
 ガイガーは、皆の反応に首を傾げながら、マイヤーに話を振ったが、『良い話』と振った当人のマイヤー自身も、ちょっと苦笑しながら髭を撫でるだけで、何も返さなかった。
「なぜリベルト王子が、そんな小国にお忍びで来るのか、意図が分からん」
 ギルマンが難しい顔のままでボソリと言った。
「外交じゃないの?」
 キョトンとした顔でガイガーが答えたので、ギルマンはその能天気な顔をジロリと睨みつけた。
「シャンベルは小国とは言っても、歴史の古い王国だ。ラグアニなどの町に毛の生えたような小さな国とは、国としての格が違う。第一王子がわざわざお忍びで出向くような相手ではない……まして外交など……取ってつけたような言い訳にしか思えん……が、それ以外の目的に見当がつかん」
「それにこのタイミングで……本当に我々にとって上手すぎる話だ。にわかに信じていいのかどうか、疑ってしまうのも無理はないでしょう」
 ノイマンが補足するように言ったので、ガイガーは「え~」という顔になってガクリと肩を落とした。
「まあね、オレもそれは思った」
 マイヤーは自虐的に冷笑しながら頭を掻いた。
 部屋の中の空気が、とても居心地の悪い物になっていた。爽は彼らの様子を冷静に見つめていた。「良い話」の1つでさえも、誰も心から喜べない、信じることが出来ない。それほど彼らがこの20年余り、過酷な目に遭ってきたという証だ。すべてにおいて、疑ってかかる事が身についてしまっているのだろう。
 爽は隣で静かにしているヴァルトの様子が気になって、チラリとその表情を盗み見た。原作では、この場面でヴァルトだけがその話を信じて掛けてみようと、皆を鼓舞する所だ。ヴァルトがどんな思いでそうしたのか、実際の様子が気になった。小説だから、その表情までは分からない。
 しかし爽は、ヴァルトの顔をチラ見した瞬間、ハッとなりチラ見のつもりだったのも忘れて、ジッと凝視してしまった。意外にも、ヴァルトはとても穏やかな表情をしていたからだ。薄く笑みさえも浮かべている。そしてその瞳は、まるで喜んでいるかのように、強い光りを湛えていた。
 それは本当にその話を信じているようだった。
「ラグアニに行こう!」
 ヴァルトが強い口調でそう言ったので、それまで浮かない顔で考え込んでいた皆は、「え!」と驚いて顔を上げると、ヴァルトを見た。
「すごいじゃないか! こんな好機を逃す手はない! 行こう! ラグアニへ!」
「え、ちょ……ちょっとお待ちください。真意が分かるまでは、慎重に行動した方がいいかと思いますが……」
 ノイマンが慌ててヴァルトを制したが、ヴァルトはノイマンの言葉に、少し首を傾げた。
「真意? なんの真意だ?」
「リベルト王子が、なぜラグアニのような所にお忍びで来るのか、その目的です。ギルマン殿が今言ったではないですか。聞いていなかったのですか?」
「そんなもの、我々には関係ないだろう」
 ノイマンの言葉に、ヴァルトが平然とそう返したので、益々皆が驚いた顔になった。
「ヴァルト様っ……」
 ギルマンが憮然とした様子で、何か言いかけたのを、ヴァルトは右手をスッと上げて制した。
「皆どうしたんだ。何を悩む必要がある。我々はリベルト王子に逢うために、シャンベルに向かっていたはずだ。それが向こうから、我々の行く先近くまで出向いてきているというのだから、これほど幸運な事はないではないか。我々にとって、一番の障害は、シャンベルの国内へどうやって潜入するか、そして王子とどうやって接触するかだった。ラグアニならば、そんな心配は一切無用なのだ……リベルト王子が、なぜラグアニに来るのかの真意? そんなもの我々には関係ないだろう。それは向こうの都合だ。彼らが何かしようとしていたとして、それがなぜ我々と関係する? なぜ警戒する?」
「でも我々が向かっているこの時に、ちょうど都合よく、王子が現れるなんて、そんなのは、都合が良すぎるとは思わないのか?」
「思わない」
 ノイマンの問いに、ヴァルトが即答したので、また皆は驚いた。
「じゃあなにか? リベルト王子は、我々が彼の元に向かっているのを知って、何か罠に掛けようとしているとでもいうのか? なぜ? そもそもそうだとしたら、誰がその情報を知らせた? 我々の中にスパイでもいるのか?」
「そんな訳はないだろう」
 マイヤーが宥めるように言って、ノイマンに目配せをしたので、ノイマンは大きく息を吸ってから、気を落ち着けるように深く座りなおした。
「リベルト王子がラグアニに来るという話を、どういう風に疑っているかは分からないが、それで行くのを辞めるというなら、そもそもシャンベルに行くのも辞めるべきだ。我々がリベルト王子になぜ会いに行くのか、その目的を忘れてはいないか? 危険も承知のはずだ。ならばシャンベルに行くのも、ラグアニに行くのも同じ事だ。上手すぎる話? 当然だ。我々には、イーリス様が居るのだ。イーリス様が来てから、運が向いてきたのだ」
 自信を持ってそう言ったヴァルトに、ガイガーが「おお!」と嬉しそうに賛同した。
 爽は、ノイマン達の視線が自分に向いている事に気づいて、困ったようにヴァルトを見た。ヴァルトは爽の視線に気づいて振り向くと、ニッコリと笑って見せた。
 爽は困った視線を逸らしたが、皆がなにかイーリスの言葉を待っているような気がしたので、何か言わなければと焦った。ここでイーリスがヴァルトを擁護すれば、皆の空気が変わるはずだ。
「皆さんの心配はごもっともです。でもラグアニは本当に小さな国です。何か陰謀が出来るような国ではありません。それに……もしもアロンソの罠だとしても、軍隊を隠せるような場所もありません。皆さんが私の進言を信じて、リベルト王子に会いに行くという目的をこのまま遂行するのならば、ラグアニに行くべきだと思います。同じ罠ならば、シャンベルよりはマシなはずです。それともここで辞めますか?」
「行く! 行きます!」
 慌ててガイガーがそう言って立ち上がった。ギルマン達の視線に、ガイガーはちょっと躊躇したが、グッと両手の拳を握りしめた。
「だってヴァルト様は行くつもりなんでしょ? イーリス様と二人でも……オレはヴァルト様を死んでも守るってついてきているんだから、行先がどこだってついて行きます。それだけです。難しい事は……わからないから……」
 ガイガーはちょっと頬を染めて俯いた。
「そうだったな」
 ヨッコイショとマイヤーも立ち上がると、ガイガーの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「オレもヴァルト様について行くよ。確かに……それだけの話だな」
 マイヤーがノイマンを見たので、ノイマンは困ったような顔でギルマンを見た。そして改めてヴァルトを見た。
 口に出さなくても、もうギルマンの気持ちは分かっている。自分ももちろんそうだ。ヴァルトをこれ以上止めるつもりもない。だがそれにしても、ヴァルトは変わったと思った。こんなに自信に満ちたヴァルトは、今まで見た事が無かった。王としての威厳の片鱗を感じるとも思った。
 それもすべてイーリスが来てからの変化だ。
「ギルマン」
 ヴァルトがギルマンに声をかけた。ギルマンは黙って頷いた。
「明日の朝、発ちましょう」
 ギルマンの言葉に、ガイガーはホッと安堵の息を吐いて、マイヤーと笑いながら拳をコツンと突き合わせた。
 爽もホッとした。結果はすべて分かっていても、ついつい当事者となると忘れてしまう。それに自分がこの場に居る事で、何かが少しずつ変わっているような気もしていた。
 それは本当に僅かな事だった。台詞が少し違うとか、話す相手が違うとか、反応が違うとか、原作通りでは無い事が、チラホラとある。でもそれは生きている人間同士の事だから、その時の状況が僅かでも違えば、台詞や行動が違う事もあるだろうと思った。
 そもそも自分がイーリスとして参加しているのだから、その時点でこれは「嘘」になってしまう。自分は本物のイーリスではないから、多少なりイーリスと違う行動や発言をしてしまうだろう。
 自分の書いた小説だからと言って、台詞を一言一句覚えている訳ではない。イーリスの台詞を、小説と全く同じには言えない。そのイーリスの台詞の違いや、行動の違いが、周囲に影響を与えているのだろうと思った。
 それでも物語は、今の所変わることなく進んでいるから、大丈夫だろうと思った。もしもこの先話が大きく変わるようなことがあったら大変だ。例えば今の場にしても、皆がやはりラグアニには行かないと決めてしまったら、どうなってしまったのだろうと思う。
 爽はなんとしても軌道修正に勤めなければならないと思うが、それもやり方次第では、取り返しのつかない状況になってしまうかもしれない。そうなると、この物語自体が崩壊してしまう。
 これは本を使ったヴァーチャル体験装置による疑似体験世界だ。だから本来であれば、本に書いてある通りに進むはずだ。
 爽が初めて実験に参加した時は、本当にそんな感じで、自分は物語の中にいるけれど、物語の世界には一切干渉出来なかった。違う言葉、違う行動をとったとしても、それを無視するように物語は進んで行った。だから安心して、その疑似体験を楽しむことが出来た。
 しかし今、爽が体験しているこの世界は違う。爽が小説と違う言葉、違う行動を取れば、周囲はその影響を受けてしまっている。
 櫻井先輩が、改良した新型装置だと言っていたから、よりリアルに体験できるのかもしれないが、それにしてもなんだか変だ……という違和感がいつまでもぬぐえない。それどころか、日々不安が増していくようだった。
 この世界で殺されたら、本当に死んでしまうかもしれない……と思う位に、すべてがリアルに感じられた。
「大丈夫です。もしも罠だとしても、貴方の事はオレが守ります」
 ヴァルトがそう言って、爽の手をギュッと強く握ったので、爽は驚いて顔をあげてヴァルトを見た。目が合うと、ヴァルトは優しく微笑んで見せる。不安そうな顔をしているのがバレてしまったようだった。爽の不安は決してそんな事なのではないのだけど……しかし握られた手はとても温かかった。ヴァルトの大きくて骨ばった手に、強い信頼を感じて心強かった。
 今は考えても仕方がない。とにかく彼らと共にイーリスとして居続けるしか方法は無かった。
 爽はギュッと強くヴァルトの手を握り返した。


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