爽はパチリと目を覚ました。土と草の匂いの混ざった独特の空気が鼻をくすぐる。そこは屋外だとすぐに認識した。
 毎回目を覚ます度にガッカリするのは、そこがまだ爽の書いた小説『ヴァルト・サガ』の世界……ファンタジー世界だという事を、すぐに実感する時だ。何度眠って目を覚ましても、そこは現代の住みなれた自分の寝室であることは無い。
 この世界に来て何日になるだろうか? もう細かく数えるのは辞めたけれど、たぶん1週間近く経っているのではないかと思う。
 爽はゆっくりと体を起こした、体の節々が痛い。硬い地面の上に、分厚い麻布を体に巻いて寝ころんだだけだから、寝心地なんて言い訳が無い。でも野宿はこれで何度目かだし、旅での疲れもあって、すっかり眠れるようになってしまった。
 自分の順応性の高さに少し呆れていた。子供の頃、虫とかがあまり好きでは無くて、キャンプに参加した事が無かった。屋外でなんか眠れないと思っていた。それに風呂だってそうだ。この世界に来て1度も入っていない。水浴びしたのは、あの泉での1回きりだ。毎日風呂かシャワーをしないと死ぬと思っていた。それがどうだ。案外平気だ。
 腕を伸ばして軽くストレッチをして、節々の痛い所を伸ばしていたら、焚火を挟んだ向かい側に座ってこちらを見ているノイマンと目が合った。
 爽はニッコリ笑って、「おはよう」と小さく言うと、ノイマンは微笑ながら恭しく会釈をした。交代で見張りをして夜を明かす。最初に誰かが当番で起きていて、深夜にノイマンと交代したのだろう。いつかは自分もやらないと申し訳ないと思っているが、多分誰もやらせてくれないだろうと思う。
 爽はゆっくりと立ち上がると、皆を起こさないようにそっとその場を離れた。まだ夜明け前だった。だが空は白んでいたので、まもなく日が昇るだろう。
 皆から少し離れた所まで歩くと、ウーンと大きく背伸びをして、明るくなっている地平線の方を眺めた。
 現実の日常では見れない光景。昨日、馬の背に揺られながら、この果てしない地平を眺めてずっと考えていた。
 なぜいつまでもこの世界から抜け出せないのかは分からない。櫻井先輩が意地悪をしているのかもしれないし、意地悪でなくても、櫻井先輩の事だから研究データが第一で、いつまでもやっているのかもしれない。もしかしたら、現在書籍化されている所まで、全部やるつもりかもしれない。
 もしくは最悪の事態として、何らかの事故で爽を元に戻せなくなった……という可能性までないとも言えない。
 でもそう言っている次の瞬間、突然現実に戻されるかもしれないのだ。とにかく今の爽には何も分からない。分からないから、もう色々と考えて不安になる事は辞めようと思った。初心に帰ろう。あんなに来たかったこの世界に来ているのだ。今それを楽しまなくてどうする? 自分の作った自分の大好きな世界に、現実のようにいられるなんて作者冥利に尽きると言う物だ。とことんイーリスとして、この世界を生きてみよう。
 爽はそんな決心をしていた。そしたらなんだかとても気持ちが楽になった。おかげで昨夜は早くから睡魔に襲われたのだ。
 それともうひとつ決心した事がある。それは『イーリス』という猫を被るのを止めようと思った。この世界に来て、「イーリスにならなきゃ!」と意識し過ぎていたように思う。「イーリスはこうでなくちゃ」とイーリスのイメージを美化していたのは、この中の誰でもなく、爽自身だったように思う。
 儚げで、清楚で、麗しい……そんなことばっかり意識していたから、なんだか演じてて次第に辛くなってきた。
『考えてみたら、オレも30才のおっさんなんだし、可憐な乙女のようにイーリスを演じるなんてキモいよな……これこそまさしく、危ない人だわ……情緒不安定も良い所だ。イーリスだって人間だし、生きてるんだし、男なんだし、チンポだってついてるんだし……とにかく女の子じゃないんだからさ……ナヨナヨしてないだろう』
 だからもう『イーリスを演じる』のは辞めた。爽@イーリスでいこう! と思った。
『でもあんまりおっさん臭いと、ヴァルトがドン引きするかな……ほどほどにしよう』
 周囲の人からは、いつも「とても30才には見えない」って言われていた。それがお世辞かどうかはともかく、例えば50才なのに「全然見えない!お若いですね」と言われるのは嬉しいかもしれないが、30才の成人男子が、30才に見えないと言われるのは、外見の若さの事だけではなく、子供っぽいと言われているような物じゃないだろうか? と常々思っていた。だって女性ならともかく、男の場合30才と25才で、外見の差はそんなに大きく変わるとも思えない。でもそこに印象が加われば別だ。男らしさとか、落ち着きとか、そういう内面的なものが加わって、30才か25才かって違いが出る気がする。
 まあそれもすべて、周囲に対して猫をかぶっていたのだから仕方ない。『お人好しで優しそうな先生』を演じると、なんだか知らないけど、ちょっと「かわいこぶって」しまうのだから、それが原因なんだろうと思う。
『30才の男が、かわいこぶるはないだろう』と、よく自分に突っ込みを入れていた。
 その悪い癖が、今まさに出ていたと気づいてハッとなったのだ。
『オレ、やっぱり俳優にはなれないわ、演技ヘタ過ぎ……いや、ヘタって言うか表現方法間違ってる』
 脱! ナヨナヨイーリス! を心に誓ったのだ。

「おはようございます」
 皆が起きて来たところで、爽は宣言するつもりで中央にある焚火のそばに立った。
「皆さん、お話したいことがあるので、少しだけいいでしょうか?」
 イーリスがなんだか改まった様子でそう言ったので、皆は何事かと注目した。茂みの陰で用を足していたガイガーとマイヤーも、急いで戻ってきた。
「実は皆さんに謝らなければならないことがあります」
 開口一番、イーリスがそう言ったので、皆は不思議そうに顔を見合わせた。
「私は、実は今まで猫を被ってました……あ~~~、そのつまり、良い子の振りを演じてました」
「どういうことですか?」
 ヴァルトが不思議そうに聞き返したので、イーリスは困ったように笑みを浮かべた。
「ヴァルト様や……他の方々が、私を……イーリスを特別な存在のように言うので、自分もその期待に応えなければと思って、おとなしくて、しとやかで、清楚なふりをしてきました。だけど本当の私はそんなんじゃないんです。だから疲れてしまって……もう振りは辞めます。本当の私は、我が儘だし、面倒くさがり屋だし、これでも歳は30才だし、色々と大人のスレた所満載の普通の男なんです。だから今日からは地の私のままでいきます。ごめんなさい」
 イーリスはペコリと頭を下げた。皆はポカンとした顔で、一瞬何の事だか分からないという顔をして立ち尽くしていた。
 そんな中、ブハッと言って大声で笑いだしたものが居たので、皆がその者へと視線を送ると、それがギルマンだった為、更に驚かされた。
「ギルマン様……」
 イーリスも驚いて名前を口にしたので、ギルマンはまだクククッと笑いながらも、手を振って見せた。
「いやいや、すまん……私の中でずっと貴方様に対する疑念が、いつまでもモヤモヤと残っていたのだが、今の告白で気持ちがスッキリしたもんだからな……つまり……私の貴方様への疑念がそういうことだったのかと、そう合点したら、なんともおかしくなってしまってな」
 ギルマンは笑いをこらえながらそう答えたが、皆はまだ驚いたままだった。ヴァルトもマイヤーも、いや実の息子のノイマンだって、ギルマンがこんなに大声で笑う所など見た事が無かった。だから皆はその事に驚いて呆気にとられていたのだ。その所為で、イーリスの告白も深く考える暇もないほど、驚き加減では二の次になってしまっていた。
「ギルマン様……その……私への疑念とはなんでしょうか?」
 驚いている皆の中で、イーリスだけが驚くと言うよりも、不安になってギルマンに尋ねた。両手をギュッと強く握り、キュッと眉間に力を入れて、まっすぐにギルマンを見つめて問うたので、ギルマンは笑うのを辞めて、だが笑みをたたえた優しい眼差しでイーリスを見つめ返した。
「貴方様に一欠けらも悪意が無い事は、ヴァルト様の精霊の力で証明されていたし、それでなくとも一緒に傍で過ごしている中で、確かにそうだと誰もが認めざるを得なかったと思う。貴方様は、ヴァルト様が言うように、我々を導くものに間違いないのだろう。私だってそう思っています。だがどうしても何か引っかかる物があって、それを払拭する事が出来なかった。なんというか……悪意ではないが……貴方様には何か隠している事があるのではないかと言う漠然とした想いです。貴方様が何かに悩み、何かに不安を感じている事に気づいておりました。それが何か……分からないから疑念になっていたのです。しかし……それもおかげで晴れました」
 ギルマンはそう言ってから、ゆっくりと立ち上がると何事も無かったかのように荷造りを始めた。それをきっかけにするかのように、皆にも落ち着きが戻り、改めてイーリスへ視線を集めた。イーリスはハッとなってから、ギルマンに向かってペコリと頭を下げた。
「えええ~~~!!」
 間をおいて、突然ガイガーが変な叫び声をあげた。何事かと皆がガイガーを見ると、ガイガーは驚いた顔で、パクパクと口をしばらく開閉した後、ようやく声にならない声が、絞り出されるように出て来た。
「イ……イーリス様……さ……さ……30才って……本当ですか!?」
 ガイガーにそう言われて、爽はハッとなった。
『しまった……ノリでそう言っちゃったけど、別にイーリスにはそんな設定ないし(年齢不詳)もちろん彼自身の台詞で、そんなものはないんだけど……調子に乗りすぎたかな? やっぱりこれはマズイ?』
 爽はチラリチラリと他の者たちを見た。ヴァルトもノイマンもマイヤーも、イーリスに注目している。
「え、あ……いえ……本当の事を言うと、私は自分が何歳か知らないんですよ。子供の頃の記憶が無くて……でもなんとなく……それくらいには大人かもと……思っているだけです……でも……ヴァルト様が27歳でとても落ち着いて大人でいらっしゃるから……私の方がもっと子供かなと……最近は感じています」
 爽は苦し紛れの言い訳をした。それを聞いて、ガイガーはホッとした顔になった。
「な~んだ……びっくりするじゃないですか」
「お前のびっくりはそこかよ!」
 安堵してガクリと体の力が抜けたような様子のガイガーに、マイヤーが思わずツッコミを入れた。それに思わず一同も笑いが漏れる。
「イーリス様……オレの振舞の所為で、イーリス様が自分を偽らなければならなくなったのでしたらお詫びします。申し訳ありませんでした」
 ヴァルトが真面目な顔になって、改めてイーリイに言ったので、爽は困ったように首をすくめて見せた。
「こちらこそ……ヴァルト様を幻滅させてしまうかもしれませんが……」
「そんな事はありません!」
 ヴァルトは慌てて否定したが、上手くフォローする言葉が見つからず、続きを言う事が出来ずに固まってしまった。それを見て、マイヤーが助け舟を出した。
「そうそう、しとやかだろうが、我が儘だろうが、そういうのは人の性格の表面的な一部だろう……人の根っこの部分はそうそう変わりませんよ。イーリス様はイーリス様に変わりない。オレ達は別に、清楚でしとやかだからイーリス様を仲間に受け入れたわけじゃないんだから……なあ」
 マイヤーが横に居たガイガーの頭をこつんと小突いて言うと、ガイガーは慌ててコクコクと何度も頷いた。
「イーリス様、どうぞ我々にお気遣いなく、気楽に自然のままでいらしてください」
 ノイマンもそう続けたので、爽はホッとなった。
『なんとか物語的には問題なさそうだな』
 そう思って安堵すると、チラリとヴァルトを見た。目が合うと、ヴァルトはニッコリと笑って見せた。
『とりあえずヴァルトが引かない程度にしよう』
 爽はコホンと小さく咳払いをして、皆に一度頭を下げた。
「改めてよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 皆もそれに答えた。


 一行はラグアニを目指して出発した。順調にいけば夕方までには到着できるはずだ。途中、休憩の時に到着後の段取りについて話し合われた。
「ラグアニの様子がどんな物かは着いてみないと分からないから、状況に応じて臨機応変に行動するしかないが、まずは二手に分かれて宿を取ろう。ここは慎重に目立たなくすることが先決だ。男ばかり6人が集団で旅をしているというのは、十分目立つし、警戒されかねない」
 ギルマンの言葉に皆は同意した。
「どう分かれます?」
 マイヤーが尋ねると、ギルマンは少し考えた。
「ヴァルト様は、マイヤー、イーリス様と3人。兄弟で通せるでしょう。私とノイマン、ガイガーで、親子で通しましょう」
「え~~」と思わずガイガーが声を上げたが、ギルマンにギロリと睨まれたので、慌てて両手で口を塞いでから、首を振って見せた。
「べ、別にギルマン殿と親子が嫌という意味ではないです! ただ、イーリス様と一緒が良かったな~と……」
 ガイガーの言い訳に、皆が「分かってるよ」と呆れたように言ったので、ガイガーは少し赤くなった。
「王子の来訪まで少し時間があると思うから、その間に十分な下調べは出来そうですね」
ノイマンがそう言ったので、ギルマンが頷いた。
「とにかく時間はあるから、焦らず目立たずだ。特にガイガー……分かっているな」
ギルマンに釘を刺されて、ガイガーは一瞬ギョッとした顔になり、すぐにプウと頬を膨らませた。
「なんでオレばっかり……そんなにバカじゃないですよ」
「バカじゃないが……調子には乗りやすいよな。イーリス様に良い所を見せようとして、ハメを外すなって事だよ」
 マイヤーが笑って、ガイガーの頭を小突きながらそう言うと、ガイガーはウヘエと情けない声を出してから、ポリポリと頭を掻いた。
「私にもお手伝いをさせてください」
 イーリスが手を上げて言ったので、皆が不思議そうに見た。
「お手伝いとは?」
「探索させてください」
「え、イーリス様……」
 ヴァルトが何か言おうとしたが、イーリスは気にせず立ち上がって宙を仰ぎ、「ファンヌ!」と風の精霊を呼んだ。サーッと涼やかな風が吹き、ぼんやりとした美しい女性の姿が宙に現れた。
『人の子よ、私に用か?』
「ああ、ラグアニに行って、アロンソの手の物が潜んでいないか、怪しい軍の動きはないか、調べてきてほしいんだ。お願いできるかな?」
『分かった』
 風の精霊は簡単に答えると、スーッと消えてしまった。
「精霊に探索をさせてるのですか?」
 ヴァルトが驚いた様子で尋ねたので、イーリスはニコニコと少し自慢気な顔で頷いた。
「風は縦横無尽に街中を駈け廻れるからね、それに小鳥たちの情報網もすごいから、なんでも分かるんだよ」
「街に着く前に、そう言う事が分かるのでしたら助かりますな」
 ギルマンに褒められて、イーリスは満足そうに頷いた。
「では出発しましょう」
 一行は休憩を終えて、再びラグアニを目指して旅立った。


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