ふっと目が覚めてぼんやりとした意識の中で天井を見つめてから、また静かに目を閉じた。だが再び眠りにつくことは無く、次の瞬間ガバッと飛び起きていた。目と耳と鼻から一気に入ってくる状況を認識して、脳が覚醒したのだ。眠っている場合ではない。
 爽はベッドの上に上体を起こしたままで、両手を胸の前に掲げてジッとみつめていた。
 この世界に来て久しぶりにベッドで眠った。疲れもあったのでとてもよく眠れた。その所為で、現実の世界に戻っている夢を見た。そのまま目が覚めて、現実世界のつもりでいたが、すぐに違う事に気が付いた。
 視界に入った見慣れぬ古い板作りの天井、少しカビくさい乾いた空気の匂い、遠くで聞こえる馬の嘶き……それらは現実世界の爽の住んでいる高級マンションの寝室ではありえない物ばかりだ。
 ジッと両手を見つめながらゆっくりと両方の掌を握ってみる。それは確かに自分の手で、感触もある。バーチャルの世界のはずなのに、それはひどく生々しい。何度もこの世界で眠って朝を迎えた。こんな事は始めてだ。おかしい……さすがに何かがおかしいと、爽は感じ始めていた。
 視線を感じて、ハッと顔を上げてその方を見ると、ギルマンが身を起こして静かにこちらを見つめていた。視線が合ったが、爽は思わず目を逸らしていた。
「どうかなさいましたか?」
 隣のベッドでヴァルトが体を起こしながら爽に声を掛けた。二人とも起こしてしまったようだ。部屋の中はまだ少し薄暗い。外は少しばかり空が白みかけ始めたぐらいだ。まだ早朝だ。
 いや、これが例え深夜でも、僅かな異変で二人は起きてしまうだろう。そういう僅かな油断もならない世界で、彼らは今まで生きてきたのだ。
 爽が飛び起きて、ヴァルトから声を掛けられるまで、実際にはほんの2~3分の事だったと思う。だが爽には時間が止まっていたかのように長く感じていて、ヴァルトに声を掛けられて、ふっと緊張の糸が切れた。
「あ……いえ……なんでもありません……夢を見ていて……寝ぼけていたようです」
 しどろもどろに、ぼんやりとした様子で爽が答えると、ヴァルトはフッと微笑んで見せた。
「まだ時間も早い、もう少し休まれた方が良い……こんな風にゆっくりと宿で休める機会は少ないですから」
ヴァルトに言われて、爽は頷くと大人しくそれに従った。ゆっくりと横になり、薄い毛布を顔が半分隠れるくらい引き上げた。
 まだ眠い訳ではなかった。ただ不安に駆られて、頭がボーッとなっていた。
 ここはバーチャルの世界のはずだ。ちょっと実験で、1時間ほど体験しているはずだ。現実の世界とこちらの世界で、時間の流れが違ったとしても仕方ない。どれくらいをして、現実世界の1時間経過に相当するのかは判断が難しい。
 例えば単純に、『小説』としてとらえるならば、たった1行で、一日が経つこともある。1ページで1年が経つこともある。『読書』として本を1時間読む分量が、この実験で言う所の1時間だとしたら、これくらいの経験は必要なのかもしれない。
『ヴァルト・サーガ』の第1巻……冒頭から1時間読み進めたら、どれくらいの所までになるのだろうか? それは爽のペース? 櫻井先輩のペース?
 そんな事をグルグルと考えていた。今の爽には、それくらいしか考えることは出来なかった。まさか『事故』が起きたなんて、そんな想定が出来るはずもなかった。
 ヴァルトは再び横になったイーリスをジッとしばらく見届けてから、自らもまた横になった。ギルマンはそんな二人を静かに見守っていた。

 次に爽が目を覚ました時は、先程とは違い部屋の中は明るくなっていた。外から聞こえる喧騒も賑やかなもので、朝と言ってももう大分時間が過ぎているようだった。それにハッとなり、慌てて起き上った。部屋の中には誰も居なかった。
 寝過ごした? 置いて行かれた?
 爽は一瞬そんな事を考えて、顔面蒼白になった。小説ではこの場面はどうだったか……咄嗟にそれを思い出す余裕も無く狼狽して、ベッドから飛び降りると、慌てて小走りに扉へと向かっていき、勢いよく扉を開けた。
「わっ!」
 驚いたのは、扉の外にいたガイガーだった。その驚きの声に、爽はもっと驚いて「わあ!」と半分悲鳴に近い声を上げた。
「あ、わ、イーリス様! 驚かせてすみません!!」
 ガイガーが慌てて謝罪した。
「あ……」
 そこでようやく置いて行かれたわけではないのだと分かって、爽は安堵するとともに、冷静さを取り戻してきた。
「あ、いえ、今のは私の方が悪いです。いきなり勢いよく扉を開けたりして……私こそ驚かせてすみませんでした」
 爽がペコリと頭を下げると、ガイガーはちょっと赤くなって、困ったような顔になってから戸惑いながらも同じように頭を下げた。
「イ……イーリス様は悪くないです。オレが変な声出したから……それにちょっとぼんやりしてて、気が緩んでて……ちゃんと見張っていたら、イーリス様の足音に気づいただろうし、そしたらいきなり扉があいても驚かなかっただろうし……こんなのギルマンさんに知れたら、またどやされちゃいますよ」
 ガイガーはそう言って、恥ずかしそうに少し頬を染めてガシガシと頭を掻いた。
「見張り? あの……皆さんは?」
「旅の買い出しと、情報集めに行きました。イーリス様はお疲れのご様子だったので、そのまま寝かせておこうとギルマンさんが……それで、それでオレはイーリス様をお守りする為に残った次第です」
 最後の部分は、ちょっと自慢気な顔になって言ったので、爽はそんなガイガーを「かわいい」と思ってクスリと笑った。
「私が寝坊してしまったせいですみませんでした……足手まといになって恥ずかしいです」
「仕方ないですよ。馬での長旅なんて、慣れないうちはひどく疲れるもんです。オレだって、仲間になったばかりの頃は、3日目でぶっ倒れましたもん」
 ガイガーはそう言って、あははははと明るく笑い飛ばした。彼のこの明るく人懐っこい性格が、暗くなりがちな彼ら一行の雰囲気を保っていると言っても過言ではなかった。
「貴方は私とは違って立派な騎士様です」
 爽はニッコリと微笑んでそう言った。ガイガーはその言葉と、イーリスの花のような笑顔に、ボーッとしばらく見とれてからみるみる耳まで赤くなった。
「あ、貴方が女性ではないなんて、こうして近くで拝見しても信じられません……いや、女性だって、こんなに綺麗な人見たことない」
 ポウッとした顔でまるで熱にでも浮かされているようにそう言ったガイガーに、爽はちょっと驚いてから『え~、それは褒めすぎだよ』と思ったが、ふと、今の自分は爽ではなくイーリスであり、そんな美しい容姿だという設定にしているのだから、本当の爽の姿をそのように形容しているのではないのだという事にハタと気づいて、ちょっとだけがっかりした。
「そうですね……男と言うにはあまりにも頼りない体ですから……貴方がた騎士様のように逞しい腕も、立派な体格もしていませんし……いや、騎士様でなくても、こんなにひ弱な男などそうそういるものではないですよね」
 爽はわざと気落ちした様子を装ってそう言った。ガイガーがあまりにかわいいのでからかいたくなったのだ。まあ事実、小説でもイーリスはこんな感じの事を言って、ガイガーを慌てさせた。もっともイーリスには特に悪気は無く、からかうつもりもないのだが……。
「も、申し訳ありません!! 別にイーリス様の事を悪く言ったつもりではないのです!! ただ……ただ本当にお美しいからそう思っただけで……け、けっして男らしくないなどと悪い意味で言ったわけではなく……」
 ガイガーが慌てた様子でなんとか取り繕うとした。その様子に、爽は思わず口元が緩んだ。こんな逃亡の日々の中で、彼らがギスギスしていないのは、ガイガーのこの素直さ明るさが一躍買っている。ムードメイカーだ。
「ええ、分かっています。ガイガー様はお優しいのですね」
 爽がニッコリと笑って言うと、ガイガーはちょっと赤くなって頭を掻いた。


 ヴァルト達はそれぞれ割り当てられた物資の調達や情報収集を行うと、待ち合わせにしていた広場へと集合した。
「ノイマン、何か分かったか?」
 顔を突き合わせるなり、ギルマンが厳しい顔でノイマンに尋ねた。ノイマンは深刻な顔でコクリと頷いた。
「少しばかりですが、東の状況が分かりました。詳しい話は宿に戻って話します」
 その返事に一同は頷くと、早速宿へと歩き始めた。
「オレもちょっとした情報を手に入れましたよ」
 マイヤーがニヤリと笑って言った。
「その様子だと、良い情報なのか?」
 ヴァルトが興味のある様子で尋ねると、マイヤーは口ひげを触りながら目を細めた。マイヤーがこのような仕草をするときは、自慢気な気分の時だ。よほど良い情報なのだろうと、一同が少しだけ期待をした。『少しだけ』なのは、過酷な逃亡生活の中で、あまり過度な期待を持たないような習慣になってしまっていたからだ。
「まあその話も宿屋に戻ってゆっくりしましょう。それよりヴァルト様はちゃんと『値切り』は出来たんでしょうね?」
 マイヤーが冷やかすように言ったので、ヴァルトは少しムッとなった。
「いい加減、私だってもうそれくらいの事は一人でできる」
 ヴァルトの様子にマイヤーとノイマンが顔を見合わせてクスリと笑った。素直で実直な性格のヴァルトは、以前は一人で買い物をさせると、値切るどころか相場よりも高く商品を買わされていた。だからなかなか一人では買い物に行かせてもらえず、常に誰かと一緒に行動させられていたのだ。
 さすがに最近は騙されることは無くなったが、それでもなんとなくいつもギルマンなどと一緒に買い物に行っていた。
 ところが今日は、ヴァルトが自ら「一人で買い物をする」と役割分担に進言してきたのだ。イーリスが仲間に加わって、張り切っているのだろうとマイヤーが笑って言ったが、ノイマンは少々まだ心配していたのだ。
「塩と胡椒と干し肉とパン……お前達から言われた金額よりも2割安く買ったぞ」
 ヴァルトがそう言って、中身の詰まった麻袋を掲げたので、マイヤーとノイマンが「ほほう」と言ってそれを受け取ると中身を確認した。
「確かに……量も誤魔化されてないようですね……ん? これは?」
 ノイマンが中に一緒に入っていた紙包みを取り出してヴァルトの顔を見た。
「あ、それは干したエッセの実(リンゴのような果物)だ。味見したら甘くて美味しかったから……」
「それは……イーリス様のためかい?」
 マイヤーがニヤニヤと笑って聞いたので、ヴァルトは少し赤くなった。
「他のが安く手に入ったし……干し肉ばかりだと飽きるだろう……食後に少しぐらい……たまには……」
 ヴァルトは懸命に言い訳をしようとしたが、マイヤーがまだニヤニヤと笑い続けているので、それ以上言うのを諦めた。
「ところで父上は何を買ってこられたのですか? ヴァルト様とは別に行動されていらしたのでしょう?」
 見かねたノイマンが助け舟を出すように話を変えた。尋ねられたギルマンは、雑紙で包まれた少し大きめの荷物を肩に担いでいた。
「イーリス様の服を買ってきた」
 ぶっきらぼうにそう答えたギルマンに、一同は「ええ!?」とちょっと驚いた顔になった。
「イーリス様の服……ですか?」
 ノイマンが恐る恐るもう一度尋ねると、ギルマンはいつもと変わらぬ無愛想な顔でコクリと頷いた。3人は思わず顔を見合わせた。そんな彼らの様子に、ギルマンは小さくため息を吐いた。
「別に驚くような話ではない。大体、あのような軽装で長旅をすること自体が無茶な話だ。少なくとも雨風避けのマントは必要だろう。それに乗馬用の革の尻当ての付いた厚手のズボンもな。イーリス様は何もおっしゃらなかったが、あんな薄い生地のズボンで、昨日は長い事馬に乗っていたんだ。特に乗馬に慣れている者でも無し……さぞや尻や股が擦れて腫れている事だろう。皮も剥けてしまっているかもしれん。だが弱音ひとつ吐かなかった……お前らよりよっぽど根性があるのかもしれんな」
 ギルマンはそう言い捨てると、宿へと向かって歩き始めた。ノイマンとマイヤーは驚いたように顔を見合わせてから、先にどんどん進んでいくギルマンを改めて見た。マイヤーは首をすくめて見せてからヒューと口笛を吹いてニヤニヤと笑う。
「さすがギルマン殿……堅物に見えて、美しい奥方を射止めただけの事はある。細かい心遣いが憎いな~、なあノイマン」
 話を振られて、ノイマンは少し返事に困って眉をひそめたが、改めて実父の眼力の鋭さに感服した。いつもそうだ。見ていないようで、すべてに気を配り見ている。自分もそうなりたいと願うが、なかなか難しいものだと思った。
「さあ、我々も宿に戻りましょう」
 ノイマンがそう言うと、マイヤーも「おう」と言って歩き出した。だがふとヴァルトの様子がおかしなことに気付いた。
「ヴァルト様? どうかされましたか?」
「いや……なんでもない」
 ヴァルトはノイマンの顔を見ずに呟くように答えてから歩き出した。ノイマンは少し気になったが、深く詮索をするのは辞めて歩き出した。
 ヴァルトはとてもショックを受けていたのだ。もちろんギルマンの言葉にだ。
『だから昨日ギルマンは、馬を急がせることをあんなに止めたのか……一緒の馬に乗りながら、そんな事にも気づかなかったなんて……イーリス様もオレに気遣って、痛いのを我慢されていたのだ……こんな身近な人のそういう事にも気づかず、心配りも出来ず、オレはなんて不甲斐ないのだろうか……』
 ヴァルトは悔しさにきつく唇を噛んだ。


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