地平まで広がる空が、茜色に染まっていた。まもなく日が暮れる。今日は一日中馬を走らせていた。
 ヴァルト達にとっては、それはいつもの事ではあるが、爽にとっては、一日中ずっと馬に乗り続けるなんて初めての経験だ。そもそも乗馬なんて、大学時代に乗馬部の友人から勧められて、2度ほど乗せてもらったくらいだ。それだって本当に『乗せてもらった』というだけで、自分で操れるはずもなく、トコトコと馬場を何週か引いてもらって歩いただけで、走らせるなんてこともやった事が無い。
 TVや映画で見ていて、疾走する馬は風を切ってとても気持ちよさそうに見える。だが乗っている方は実はそれほど乗り心地のいいものではない。馬の背中の上は、びっくりするくらいに上下に揺れる。お尻なんてドカドカと鞍に打ちつけられて痛いくらいだ。上下の揺れに体を上手く合わせないと、お尻は痛いし、頭にまで振動が響くし、脳震盪でも起こしそうだ。
 最初のうちは、揺れに合わせるのに必死だった。そうするととても疲れた。疲れてグッタリとなり気を抜くと、体がフラリとバランスを崩して放り出されそうになる。するとヴァルトがそっとその大きな腕で、爽の体を抱きとめてくれる。
 爽がハッとなって振り返ると、ヴァルトは優しく微笑んで「少し休みましょう」と言ってくれるのだ。
 こうして爽(イーリス)の体を気遣って、休み休み進む行軍は、いつもよりもずっと遅いのだと思う。だが一行の誰一人として文句も言わないし、不満を顔にも出さなかった。むしろ皆がイーリスに優しい。
「申し訳ありません……私が馬に乗り慣れていないせいで、予定よりも随分と遅くなっているのではないですか?」
 何度目かの休憩で、爽がヴァルトに尋ねると、ヴァルトは一瞬不思議そうな顔になってから、ニコリと笑って首を振った。
「予定も何も、我々の旅には時間の制約などはありません。急げば良いという物でもない。長い事旅をしてきましたが、その中で分かった事は『何事も焦らない』という事です。我々が決起して旅だった頃、私はまだ若く何事にも焦っていました。ギルマンからは何度も窘められていましたが、若い私にはそれを聞く耳を持ち合わせていなかった。結果、功を焦る私に振り回された家臣たちを、多く失う事になってしまった……もうそんな過ちは繰り返したくありません。時とは……本当に必要な時にそう動くものです。貴方とこうして巡り合えたのも、その時を待ったからなのです。貴方と共に行動する事で、私達の歩みが遅くなったとしても、それもそうするべき時だからなのです」
 そう語るヴァルトの瞳はとても穏やかで、年齢よりもずっと何かを達観しているように見えた。爽は自分よりもずっと大人に思えるヴァルトに、頼もしさを感じて、更に好きになっていくのを感じた。
『自分で作ったキャラとは言え、かっこよすぎるよ……』
 爽はホウッと心の中で感嘆のため息を吐くしかなかった。
 休み休みの行軍で、予定よりも遅れがちではあったが、日が沈んで辺りが暗くなり始めた頃に、ようやく前方に家々の明かりを見ることが出来た。それはチラチラとした僅かな明かりではあったが、何もない荒野の中では、人々を安堵させる明かりだった。
「そんなに大きな村ではありませんが、宿もある宿場です。今夜はあそこで久々にゆっくりと休むことが出来ますよ」
 先を行くノイマンが振り返って爽に向かって言った。それを聞いて爽もホッと安堵した。野宿が嫌なわけではないが、何もない荒野で、他の人間にずっと会わないでいると、なんだかこの世に誰もいないようで不安になってしまっていた。それでなくとも、ここは爽の居た現実の世界ではない。本の中のファンタジーの世界だ。環境も生活習慣も、何もかもが現実離れしている。どんな大好きなヴァルトと一緒にいるからと言って、すべてをすぐに受け入れることは難しかった。
 一行は村の中へと入っていった。爽が思うよりはずっと、賑やかな宿場らしい村だった。酒場が1軒あり、明かりと共に楽しげな人々の声が漏れ聞こえていた。他にも旅人が逗留しているのだろう。その先の宿へとまっすぐに向かった。
 宿の前に馬を止めて降りると、荷物を下ろしてから宿の中へと入っていった。
「部屋は空いているか?」
 ガイガーが店の主人に尋ねた。主人は恰幅の良い中年の男性だった。彼は一行をジロジロと見た。
「ずいぶん大勢だね……今部屋は二人部屋が2つしか空いていないがいいかい? ベッドはそれぞれ2つずつしかないが、布団を出すから、1人は床に寝てもらう事になるけどね」
 それを聞いてガイガーはギルマンを振り返って見た。ギルマンは無言で頷いた。
「ああ、構わないよ。野宿に比べたらずっとマシだ。ただその分は宿代をまけてくれるよな?」
 ガイガーがニヤリと笑って言ったので、主人は頭を掻いて笑ってから、仕方ないなと言うように頷いた。
 前金を払ってから、一行は案内されて宿の二階へと向かった。部屋の前で、ガイガー・ノイマン・マイヤーの三人が「では我々はこっちの部屋で」と言った。
「ちょ……ちょっと待ってくれ、イーリス様はどうするんだ?」
 それまで黙っていたヴァルトが急にそう言いだした。
「どうするも……ヴァルト様と私との三人で休むことになりますな」
 ギルマンが代わりに答えたので、ヴァルトは「え!」と驚いた。
「それは……よくないだろう。イーリス様には別に1部屋を……」
「え? なぜですか? 私は別に一緒で構いません」
 爽が慌てて言うと、ヴァルトは首を振った。
「そういう訳には……」
「特別扱いはなさらないでください。私も皆さんと同じ旅の仲間です。私は床に寝ますから、どうぞお気になさらずに」
「床には私が寝ますから、そういうご心配は必要ありません」
 ヴァルトが答えるより先に、ギルマンがそう言った。
「そしてイーリス様が言われるように、ヴァルト様もそのようなお気遣いは無用です」
 更にヴァルトに対してもビシリと牽制を打った。
「だったらヴァルト様とイーリス様が一緒のベッドに寝ちゃったらいいじゃん」
 ガイガーが笑いながらそう言うと、ドスッと背後からマイヤーが肘で突いたので、「なんだよ~痛いなぁ~」と言いながらガイガーはマイヤーの方を振り返った。するとマイヤーはチッと舌打ちをして、目配せでヴァルトを見るように合図する。
 ガイガーが不思議そうな顔で、チラリとヴァルトを見ると、ヴァルトは耳まで真っ赤になって困った顔で何も言わずにそっぽを向いていた。そんな様子のヴァルトを見て、爽までなんだか恥ずかしくなってしまった。
「え? あれ?」
 ガイガーがまだよく状況を把握できずにいるので、マイヤーとノイマンが「やれやれ」と言いながら、ガイガーの首根っこを摑まえてズルズルと引きずりながら自分達の部屋へと向かった。
「ちょっと休憩したら食事をしに行きましょう。それでは後程」
 ノイマンがギルマンに向かってそう声を掛けると、ギルマンは黙って頷いてから、部屋へと歩き出した。
 ヴァルトもそれに続くように歩き出したので、爽も少し遅れて後に続いた。ジッと目の前のヴァルトの後ろ姿をみつめていた。耳の後ろと首筋が赤くなっている。純情だな~としみじみと思った。
 ヴァルトがイーリスに恋しているのは、作者なのだから知っている。そのイーリスが自分なのだという現在の立ち位置にはちょっと戸惑いを覚えるし、そんな「自分=イーリス」にヴァルトが恋しているというのも、なんだか実感が無い。だがこうして目の前で、ヴァルトの気持ちが分かるような状況に遭遇すると、なんとも新鮮な気持ちになるし、ときめいたりもする。
 こんな理想の男性のような素敵な相手から想われて、嫌な想いをするものなんているのだろうか?
『嬉しすぎてヤバイな』
 爽はニヤニヤとしてしまわないように、顔を引き締めた。思わず後ろからギュッとヴァルトに抱きつきたくなるのもグッと堪えた。

「なになに? どういうこと?」
 部屋に入るなり、ガイガーがマイヤーに食いつくようにして言ったので、ゴツンとマイヤーが無言でガイガーの頭を拳骨で叩いた。
「イッテェ~~~……」
「声が大きい、騒ぐな」
 ノイマンが呆れたようにそう言ってから、荷物を床に下ろした。
「お前、あんまし余計な事を言ってヴァルト様をけしかけるなよ……それとも天然か?」
 マイヤーが少し声を潜めて、ガイガーに顔を近づけてからそう言ったので、ガイガーは頭を擦りながら涙目で、目の前のマイヤーの顔をジッとみつめた。
「へ? どういうこと?」
 その答えに、マイヤーとノイマンが同時にハア~~~と大きなため息を吐いた。そんな二人に、ガイガーはキョロキョロと交互に見ながら「なになに?」と聞き続ける。
「見て分かるだろう……ヴァルト様はイーリス殿に一目惚れされているんだよ」
「え!?」
 ガイガーが驚いて大きな声をあげようとしたので、慌ててマイヤーが手で口を塞いだ。ガイガーは口を塞がれながらもモゴモゴと何かを必死で言って、手足をジタバタとしている。
「分かってる、分かってる、イーリス殿は男性だろう? たぶん……なあ?」
 マイヤーが困ったような顔で、ノイマンに意見を求めたので、ノイマンが苦笑しながら頷いた。
「そこらの女性より何倍も儚げでお美しいがな……水浴びされている姿を遠目で見たし……それはヴァルト様とて同じだろう。だからこそご本人も戸惑っておいでなのだ」
 ノイマンはそう言ってドカリとベッドに腰を下ろした。
「まあ……オレは別に男色を否定しないし、そういう文化が流行っている国もあるしな……中には上流階級の嗜みになっている国もあるくらいだ……オレはやったことないけど……男と寝るのも結構気持ちいいらしいぜ」
 マイヤーがニヤニヤと笑いながらそう言ったので、ノイマンが眉を寄せて「おいっ」と注意した。マイヤーは笑いながら、「すまない」というように頭をペコリと下げてから、塞いでいたガイガーの口から手を放してやった。
 ガイガーは、マイヤーの話をポカンとした顔で聞いていた。しばらくしてようやく事態が呑み込めたというように「ほえ~」と変な声を上げた。
「ヴァルト様がイーリス様の事をね~……いやいや、イーリス様が男性だって事はともかく、あのヴァルト様にもようやく春が来たって事かあ~~~これっていい事じゃないですか?」
 ガイガーが浮かれたように言ったので、マイヤーとノイマンは顔を見合わせて、「うう~ん」と唸ってから腕組みをして考え込んでしまった。そんな二人にガイガーは不思議そうな顔をする。
「晩生のヴァルト様が恋に目覚めるなんていいことじゃないですか。マイヤーさんだって、あんなに何度もヴァルト様を花街につれて行って、筆下ろしをさせようとしていたじゃないですか……そういうのを知っておいた方が良いと思ったからでしょ?」
「それは……女っ気の無い所で育ったから、ちゃんとそういう性教育もしておいた方が良いと思ったからだ……なにしろ、ヴァルト様は皇太子だぞ? 国を取り戻せば、いずれはどこかの姫を娶って、後継ぎを残さなければならないんだから……だから……イーリス殿ではダメなんだよ」
「あ……あ~……そうかぁ……」
 ガイガーはようやくすべてを理解したようだった。
「とにかくこの件は、もうこれ以上触れるな……特にヴァルト様にはこれ以上自覚して頂く必要はないからな、けしかけるようなことはするなよ」
 ノイマンがそう言ってガイガーにくぎを刺したので、ガイガーはそれでもなんとなく納得がいかないという顔で、「はい」と小さく答えた。
 マイヤーはそんな様子を見て苦笑した。

 一方、ヴァルト達三人は、なんとも微妙な空気の中にいた。ヴァルトは黙ったままで、2つあるベッドの一方に荷物を置いて腰を下ろした。ギルマンは、宿主より貰った寝具を床の隅にドサリと置いて、自分の荷物もその横に置いて、黙って荷解きを始めていた。爽は真ん中に立って、どうしたものか困ったように、ギルマンとヴァルトを交互に見た。
「イーリス様、先程は失礼いたした。だが先程も申したようにお気になさらずベッドをお使いください。そうしてくださらないと、私もヴァルト様も眠れませんので」
「分かりました……お言葉に甘えさせていただきます」
 爽はこれ以上ギルマンを困らせたら悪いなと思って、大人しく従った。チラリとヴァルトを見ると、ヴァルトはまだ黙って背を向けたままだった。
「ヴァルト様もお気遣いありがとうございました」
 そう声を掛けると、ヴァルトの体がビクリと反応した。
「あ、いや……なんか余計な気遣いをイーリス様にさせてしまってすみませんでした……その……我々のような無骨な男どもと、イーリス様は違うように思っていたもので……つい、一緒の部屋では不都合が無いかと思ってしまいまして……」
「クスッ……ヴァルト様、私もこう見えて男ですよ? ひ弱な体なので、ヴァルト様達のような屈強な男性からすれば、女みたいに見えるかもしれませんけど……」
 爽は苦笑して言った。こういう言い方は、意地悪かな? とも思ったが、ヴァルトの反応がかわいくて、ついついそういう言い方をしたくなってしまった。
 実際の所、ヴァルト達と自分では違う生き物ぐらいに体格が違った。一番小柄なガイガーでさえ、爽よりも頭一つ背が高いし、腕の太さなどは、爽の足の太さ以上にある。まるでアメリカ人のアメフト選手の一団みたいに、ごつくて体格のいい大男達からすれば、小枝のような体の爽は、女みたいなものだろうと思った。
 ましてやこの世界のイーリスは、精霊のように美しいという設定だ。実際の爽よりも何割か増しで、儚げな容姿なのではないかと思った(鏡を見ていないので分からないけど)
「いえ、決してそのようなつもりは……」
 ヴァルトが立ち上がってイーリスの方を向くと、必死に弁明しようとした。だがまだガイガーから言われた言葉を引きずっているのか、目を逸らして少し赤くなっている。
 たぶん振り向いてみたら、思った以上に隣のベッドとの距離が近くて、そこにイーリスが寝るのだと考えたからだろう。
「私も少し鍛えねばなりませんね……ギルマン殿、ご指導をお願いします」
 爽はヴァルトをからかうのを辞めて、ギルマンの方へ声を掛けた。ギルマンは一瞬手を止めて、チラリと爽の方を見てから、無言でYESともNOともつかないような頷きをして見せた。
 扉がノックされて、少し間をおいて開かれると、マイヤーがひょっこりと顔を覗かせた。
「食事に行きませんか?」
 ニッコリと笑ってそう言ったので、ヴァルトがハッと顔をあげてから、イーリスとギルマンへと視線を送った。
「そ……そうだな、行こう」
 ヴァルトが答えたので、ギルマンと爽も頷いた。


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