国を逃れた時、ヴァルト……皇太子殿下は僅か7歳だった。ギルマンは元々国王直下の近衛騎士だった。皇太子が後継者の証を持って生まれた時、王より皇太子付の近衛中隊を任された。有事の際には、王よりも何よりも皇太子を守るように命じられていた。
 忠臣ギルマンは、皇太子付の騎士となった時、自分の3人の幼い息子を皇太子の傍に置いた。皇太子の影武者にする為だった。王弟アロンソの反乱の夜、皇太子を救い出すために、ギルマンのまだ12歳の長男が身代わりとなって死んだ。北の辺境の地まで逃れる間に、僅か6歳だった三男も皇太子の身代わりになって死んだ。
 息子が身代わりとなって死ぬことは覚悟していた事だった。それも王に命じられて嫌々従った事ではない。ギルマンが自ら勝手にやった事だった。主君の為に命を賭す事は本望。息子たちも皇太子を救う為ならば、名誉ある死であっただろうと、ギルマンはそう自分に言い聞かせて来ていた。悲しくない訳ではない。ただ、皇太子を守るという使命を全うする為に、この20年必死だった。悲しいと振り返る暇がなかった。
 逃亡生活と言う過酷な環境の中で、皇太子はすくすくと逞しく育った。捻くれることも無く、真っ直ぐに育った。常にギルマンの言葉に従い、ギルマンに教えを乞う素直な青年になった。ヴァルトが20歳になるのを待って、決起し、仇討ちをしようと計画したのもギルマンだった。ヴァルトはそれに従い、皇太子としての自分の立場も理解し、各地に散らばる家臣たちを集めまとめる為の活動に奮闘した。それは想像以上に更に過酷なもので、アロンソの執拗な追手は、未だに手を緩められておらず、各地に散らばる元家臣たちを探す行く手を阻み、あらゆる形で罠も張られていた。
 大きな戦いも何度もあり、その度に犠牲となって倒れていく家臣たちを前にして、ヴァルトが何度もくじけそうになるのを、ギルマンが心を鬼にして叱咤してきた。
 決起してから8年あまり、まだ流浪の身にある。ギルマンは時折、自問自答する事が多くなっていた。今まで自分がやってきたことが本当に正しいのか? 国の事はもう諦めて、殿下にもっと新しい生き方をさせるべきではなかったか? その方が幸せではなかったのか? ギルマンの言われるままに動いている殿下には、果たして国を取り戻す気力があるのか? ギルマンは何か間違ってしまったのではないか? と……。
 しかし今、目の前で熱く自らの気持ちを語ったヴァルトの姿と言葉に、ギルマンは心打たれていた。ヴァルトは……皇太子殿下は、ギルマンの言われるままに動いていた人形ではなかったのだ。僅か7歳で、大きな運命の波に飲まれながらも、ずっと復讐の炎を、その胸の奥に燃え上がらせていたのだ。その復讐心は、決して暗い闇の掛かるようなものではなく、真っ直ぐなその瞳に湛えられた強い光のような、未来を見据えた国を思う君主たる者のもつ復讐心であった。
 この度、初めてヴァルトがギルマンに逆らい、先詠みの言葉を信じて、『導きし者』という得体のしれない相手を探しに、遥々西の辺境まできたが、それを許したのも、ヴァルトを憐れに思ってしまったからという自分の心に気づき、ギルマンは深く反省していた。
 それこそが慢心であり、殿下を侮っていた証拠ではないだろうか? そんなギルマンを他所に、ヴァルトは真の王たる者に成長していたのだ。
 ギルマンは少し眩しそうに、ヴァルトをみつめて満足そうに頷いた。
「あの……ヴァルト様」
 爽が恐る恐る声を掛けると、ヴァルトは優しく微笑んで「なんでしょうか?」と返事をした。
 爽は周囲をキョロキョロと見回した。ギルマンを始め、家臣たちがイーリスの事を怪しんでいる雰囲気は、明らかに感じられる。今、ヴァルトがきっぱりと言ったので、彼らはそれに従う形になっているが、それは君主たるヴァルトの命によるものであり、個々の感情はどうにもならないものだ。この雰囲気のままでは、上手くいくはずがない。
 小説では、ここでイーリスが皆の疑いを晴らさなければならなかった。それがヴァルトの為にもなるのだ。物語は知っていても(自分で書いたのだから)自分がイーリス自身なのだと思うと、なかなか行動に移すには勇気がいる。
 ヴァルトの顔を見上げると、とても誠実そうな微笑を湛えて、イーリスの事を見つめている。このヴァルトの信頼に答えて自らが潔白を証明しなければ、彼の顔が立たない。
「貴方の守護精霊ジンの浄化の炎を私に使ってください。私の心に疾しい事があれば、私は炎に身を焼かれてしまうでしょう。でも潔白であれば、炎は私を焦がすことさえできないはず」
 爽は思い切って、この場面でイーリスが言った言葉を口にした。ギルマンをはじめ、家臣たちの間に動揺が走った。無論、ヴァルト自身も動揺して、言葉を詰まらせた。
「さあ、お願いします」
「しかし……」
「やっていただかなければ、これから先、私は存分に貴方の役に立つことは出来ないでしょう。仲間の心に僅かでも疑心があれば、それが敵の思うつぼになる事でしょう。私の力を借りたくば、私の潔白を証明してください」
 爽がジッとヴァルトをみつめると、ヴァルトも爽を見つめ返した。互いのその瞳の中に、微塵も曇りは見られないと、それはお互いが分かっていた。だがこれを仲間たち全員に納得させるには、口で説明して分かってもらえることではないことも理解していた。
 爽が促すようにコクリと頷いたので、ヴァルトはゴクリと唾を飲みこんだ。
「ジン」
 その名をヴァルトが呼ぶと、周囲の空気がユラリと揺れて、ヴァルトの背後に赤い炎の柱がボォッと立ち、それはあっという間に人のような形を作り出した。頭の左右に大きな羊の角のようなグルリと捻じれた角を持ち、隆々とした逞しい筋肉のついた雄々しい大男のような姿を形作る。
『呼んだか、我が主』
「ジン……この人に浄化の炎を使ってくれないか」
 ヴァルトが爽を左手で指しながら言うと、炎の精霊はジッと爽をみつめた。
『この者は何者か? 人のようで、この世の人に非ず……だが我ら精霊でも非ず……』
「……このお方は、我らに力を貸してくれる方なのだ。だがギルマン達の信頼を得るために、自ら浄化の炎で潔白を示したいと言われるのだ」
『……分かった。だがその者の守護精霊が邪魔をするかもしれん』
「ああ……」
 言われて爽はハッとなった。
「そうだね、手出しをしないように言っておきましょう……ファンヌ、ノーラ、オーベリ……浄化の炎を受けるのだ。これは攻撃ではない。手出しはしないように」
 すると泉の水面がパシャリと音を立て、木々がざわめき、風がサァーッと吹いた。
「大丈夫です。さあ、お願いします」
 爽はヴァルトに告げた。しばらくヴァルトは爽をみつめていたが、決心したように頷いた。
「ジン、頼む」
 すると炎の精霊ジンがその逞しい両腕を振り上げた。瞬きする暇もないほどの一瞬で、爽の体は蒼い炎に包まれた。
「あっ!」
 思わず声を上げたのは家臣たちだった。
 爽は怖いと思ったから、ヴァルトにお願いしますと言ってすぐに目を閉じた。その後何をされているのかは、見なければ怖くないと思った。これは櫻井先輩の作ったヴァーチャル装置で体験している夢のようなものだ。実際に怪我したりすることは無いし、もちろん死ぬことだってない。だけど目の前で起こる事は、本当の事のように感じてしまうから、見なければ何も怖くないと思ったのだ。
 ゴォォォッと炎の音が耳の鼓膜を震わせているが、熱さなどは何も感じなかった。
『やっぱりね』と爽は小さく心の中で呟いた。見なければいいのだ。
 やがて静かになったので、恐る恐る目を開けた。すると目の前にはヴァルト以下家臣たち全員がズラリと並んで跪き、爽に向かって深く最敬礼をして傅いている姿があったので、爽はとても驚いてしまった。
「え? あれ? あの……皆様どうなさったのですか?」
 驚いてそう声を掛けると、ヴァルトが顔を上げて優しい眼差しを爽に向けた。
「貴方様の潔白が証明されたのです。もう誰も貴方様を怪しいものだというものはここには居ません。何よりも、浄化の炎に身を投じると自ら進言成されたその尊きお心に、我々一同は感銘を受けました。どうか改めてお願い申し上げます。我々に貴方様のお力をお貸しください」
 爽は一度大きく深呼吸をしてから「はい」と微笑んで答えた。

 夜明けとともに一行は旅立った。ヴァルトの馬に、爽は乗せてもらっていた。目指すは祖国サントゥアーリオ王国の南西に位置する国シャンベル。小国ではあるが、豊富な鉄資源を算出する鉱山を有し、サントゥアーリオ王国とは古くから国交のある国である。
 この国に行こうと進言したのは爽だった。昨夜、焚火を囲んだ簡素な夕食を摂りながら、爽がヴァルトに進言したのだ。
「しかし……シャンベルは我が国と古くから国交のある国、当然ながら皇太子追討の令が伝えられているはず。敵地に乗り込むようなものだ」
 ギルマンが渋った顔でそう言ったので、他の家臣たちも頷いた。ヴァルトはイーリスに期待するように、ジッとみつめてきたので、爽は困ったように目を逸らしてギルマンの方を見た。
「シャンベルには、ヴァルトと年の近い第一王子のリベルト様がいらっしゃいます。彼は幼き日に何度かサントゥアーリオを訪れて、ヴァルトとも遊んだことがあるはず。彼は美しい王国サントゥアーリオに憧れていた者です。王弟アロンソの反乱以来……もちろん他国の者は反乱とは知りませんが……国王が変わり、すっかり国の様相が変わってしまったサントゥアーリオに、思慮深いリベルト様は不信感を抱いています。彼を味方に付けることが出来れば、シャンベルを味方にするのと同じです。現国王はアロンソの言いなりになっていますが、体を壊しておりもうそんなに長くありません。まずはリベルト様と接触を図るべきです」

 どこまでも荒野が続いていた。北の地平線の彼方に険しい岩山の山脈が見える。あの山脈の辺りが、ヴァルト達が8年隠れ住んでいた北の辺境だ。1年の2/3は寒い冬で、魔物も住むその厳しい土地には、ほとんど人は住んでいない。
 東と南にはどこまでも荒野しかないのではないかと思わせるような、赤い荒れ地の地平線が続いていた。このままずっと南に行けば海がある。だが海にたどりつく前に、南の辺境には樹海があり、そこには蛮族が古くから住んでいた。特殊な宗教観と生活環境を持つ蛮族とは交流を持つことが難しく、人々がそこへ足を踏み入れることは無かった。
 ここから東へ向かう程、大陸の中央へと向かう事になる。気候も安定し、山や川や森など豊かな自然に恵まれた内陸には、たくさんの文明が栄え、多くの国が出来、多くの人々が住んでいた。
 これから目指すシャンベルまでは、10日近く掛かる。途中にはいくつかの少数民族の部落や、小国を超えていくことになり、またサントゥアーリオに近づくことになる。それだけ危険も多くなるのだ。
 爽は辺りをキョロキョロと見回した。先頭を行くのはガイガー。彼は家臣の中で一番若い25歳。クルクル天パの短い赤毛で、鼻の頭にそばかすがある。明るい性格でこの家臣団のムードメーカーだ。父親がギルマンの副官であった。反乱の後、彼は母親や兄妹と共にサントゥアーリオを脱出し、西の小国ヒューロンに隠れ住んでいた。ヴァルトが20歳になって発起した時、かつての家臣たちを集める号令に乗って、兄と共に参戦してきた。その兄ブリオは、途中の戦いで負傷しそのまま行方不明となっている。
 ガイガーの後方、少し距離を置いてノイマンとマイヤーの二人が左右に並んでヴァルトを守るように進む。
 ノイマンはギルマンの息子だ。茶色の髪と灰色掛かった青い瞳。一番の長身で、30歳。ヴァルトに一番歳が近く、一番の友だ。物静かで、常に冷静沈着に物事を判断し、ヴァルトの良き相談相手でもあった。
 マイヤーはギルマンと同じ、近衛中隊の生き残りだ。42歳。反乱当時は、まだ若き勇敢な騎士で、ギルマンと共に、ヴァルトを救い出すためにアロンソの兵と戦った。弓の名手でもある。黒髪に緑の瞳で、立派な口ひげが彼のチャームポイントだ。飄々とした性格で、若いガイガーをよくからかったりしている。
 そしてヴァルトの背後を守るように、一番後ろにギルマンがいた。
「この先に小さな村があったはずだ。日が暮れるまでに辿り着ければいいが……もう少し足を速めますか?」
 ノイマンが振り返ってヴァルトにそう言った。
「そうだな……」
「このままでいい、急がずとも夜中までには着くはずだ。あまり馬を急がせては、二人乗りの馬に負担が掛かる」
 後ろからギルマンが大きな声でそう代わりに答えたので、マイヤーが振り返って、肩を含めて笑って見せた。
「すみません……私のせいで……」
「貴方が気に病むことではありません。ギルマンは気難しい言い方しかできないのです。気にしないでください。第一、貴方は羽のように軽い。この馬の負担になどなるはずがありません」
 ヴァルトはイーリスを気遣って、優しく微笑みながらそう言ったので、爽はヴァルトの顔を仰ぎ見てからちょっと赤くなって前を向きなおした。
『ヴァルトは優しいし、本当にかっこいいなぁ〜〜〜……マジで惚れるよ。それにしても……先輩、お試しで1時間くらいの体験って言っていたのに、ずいぶん長いな……物語の時間の流れと、現実の時間の流れは違うのかな? まあ……ヴァルトとこうして一緒にいられて嬉しいけど……』
 爽はそんな事を考えながら空を見上げた。真っ青な空には雲一つなかった。別にここは箱庭ではないのだから、空を見上げた所で櫻井先輩が見下ろしている訳でもない。ただなんとなく、そうしてしまうのだ。
 爽はまだ自分に起こった事件の事など、まったく知る由もなかった。


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