くるくると小さな竜巻に体をすっぽり覆われているかのように、爽の体の周りに風の層が出来ていて、髪や服が風に煽られていた。爽は楽しそうに笑いながらなすがままに身をゆだねている。
「アハハハ……自然のドライヤーみたいだ。これは便利だなぁ」
 爽は風の精霊ファンヌに頼んで、濡れた体を乾かすために、風を起こしてもらっていたのだ。爽はすっかりこの不思議な世界を堪能していた。現実世界であれば、『精霊』などは、当然出会う事のない、いわば空想の存在だし、実際に現実に自分の前に現れたら、きっと驚いて腰を抜かしてしまう事だろう。
 だがここは爽が書いたファンタジー小説の中の世界であり、空想の世界をバーチャル体験していると分かっているのだ。ファンタジー好きには、これが作られた世界だと分かっていても、こんなに嬉しい体験は無い。限られた時間の中で、やりたかった事をすべて試してみたかった。
「ファンヌありがとう。もういいよ。大体乾いたし……もうすぐ彼が来るかもしれないし……」
 爽はふと空を見上げた。月は大分上まで上がってきている。もうすぐ本物(?)のヴァルトに会える。そう思うだけで、胸が高鳴ってきた。頬も紅潮してきて、なんだか落ち着かない。どんな顔をして会えばいいのだろう? 想像通りだったらいいのだけど……と言っても、自分で作って書いたキャラなのだから、もしも会って想像と違っているとしたら、自分の文章力が無いという事になるのかもしれない。なんてモヤモヤと色々な事を、一瞬の間に考えた。そしてハッとなる。
「そうだった忘れてた。彼に会う前に、イーリスは3人の精霊を使役しておかなければならないんだった……」
 爽は呟いて森へと向かって歩き出した。目の前の一番大きな木の前に立つと、深呼吸をして真面目な顔で、その大木を見上げた。
「木の精霊オーベリ、我と契約を、その真実の名を交換せよ」
 すると大きな木の幹がグラグラと揺れて、枝を震わせその覆い茂る葉をガサガサと音を立てて揺らした。やがて幹の表面に顔が浮かび上がる。それは厳つい表情を浮かべた老人のような顔だった。その鋭い目がぎろりと爽を見下ろした。
『小さき人の子よ、そなたは何者か……そのか弱き体で、精霊を2人も使役するとは、いかなることか』
「か弱いからこそあなた方の庇護が必要なのです。力強き木の精霊よ、貴方の力をお貸しください。貴方の真実の名は……」
【バルブロ】と心の中で呟いた。
「我の真実の名を渡そう、我の真実の名は……」
【中屋敷爽】と同じく心の中で呟いた。
『確かに真実の名を受け取った。契約は交わされた。人の子よ、我はそなたと共にある』
 その枝を大きく揺さぶりながら、木の精霊がそう答えた。木の葉が雪のように降り注いだ。爽はホッとした顔になって微笑んだ。


ふらりと惹かれるように一歩を踏み出そうとして、ガシリと強く肩を掴まれた。
「ヴァルト様、不用意に近づくのは危険です」
耳元で、老兵の重みのある少し掠れた低い声がそう告げた。声を押し殺し、気配を押し殺しつつも、凛としたその厳しい韻を含んだ声に、ヴァルトはハッと我に返った。
「危険? 何が危険だというのだ? あそこに居るのは紛れも無く、我々が探し求めていた【導きし者】ではないのか?」
ヴァルトは怪訝そうに、その形の良い凛々しい眉を寄せて、隣で身を屈めている忠臣ギルマンの顔をみつめた。
「証拠がございません」
ギルマンは、その灰色の瞳に強い光を湛えながら、怯むことなくヴァルトを真っ直ぐに見つめ返して、そう唸るように言った。
「証拠? 証拠だって?」
ヴァルトは信じられないという顔をして、頭を抱えながら数歩後ろへと後退した。その体をすぐ後ろに控えていたガイガーが受け止めたので、ヴァルトは振り返って彼の顔を見た。ガイガーは困ったような顔をして首すくめてみせた。若い彼の立場では、老臣の言葉に異論は挟めないという様子だった。
思わずヴァルトは辺りを見回して、他の仲間の意見を求めた。
左右に座しているマイヤーとノイマンを見ると、二人共軽く往なすように首を振ってみせた。その返事に、ヴァルトは絶望したように項垂れると、深く息を吐いた。
しばらく沈黙が流れる。
「ヴァルト様……」
見かねてノイマンが何か言いかけたが、それと同時にヴァルトも口を開いていた。
「では我々は何のために苦労して、こんな西の辺境まで来たというのだ」
昂ぶる気持ちを抑えるように、ヴァルトは声を押し殺してそうつぶやいた。
「皆も今その目で見ただろう? あの者が精霊たちを操るさまを! それ以外に何の証拠が居るというのだ? 我らの血族以外に、どこに精霊を意のままにできる者が居るというのだ。私でさえ、ジン一人しか使役できないというのに、あの者は水と風を操り、そしてまた今目の前で木の精霊も使役してしまった。それほどの力のあるものが【導きし者】以外の何者だというのだ? 叔父のような偽物ではない」
最後の言葉に、皆が声をつまらせて息を飲んだ。その雰囲気を察して、ヴァルトは余計なことを言ってしまったと、すぐに後悔して、苦々しげに顔を歪めて目を伏せた。
「ここまで来て、もう後には引けない。我々は、何としても【導きし者】が必要だ。先詠みに占ってもらい言われたではないか、だからここまで来たんじゃないのか」
誤魔化すようにヴァルトは言葉を続けた。皆は黙って聞いていた。厳しい顔のままのギルマンも、それ以上は何も言わなかった。
ヴァルトは振り切るように歩き出した。
皆が一瞬ハッとなって止めようかとしたが、ヴァルトの背には、それらを一切寄せ付けないような威厳があった。

ガサッと茂みが音を立てたので、爽がハッとなってその方を見た。そこには背の高い青年が立っていた。少し長めの金の髪が、月の光を浴びてキラキラと光って見えた。菫色の瞳は、意志の強さを思わせる強い光をたたえてこちらをまっすぐにみつめていた。
彼の姿を見るなり、爽は息を飲み、体がブルリと震えた。全身が毛羽立つような、なんとも言えない興奮が湧き上がる。
「ヴァルト」
思わずその名を口に出していた。
突然名前を呼ばれて、青年が目を丸くしたのは言うまでもない。驚いた様子で固まったように立ち尽くしている。
爽は一瞬しまったという顔をして、手で口を隠した。
『あれ? だけどここでイーリスは、ヴァルトの事を知ってて良かったんだっけ?』
俯いて考えこむ爽の様子をどう受け取ったのか、ヴァルトは声をかけるべきか躊躇して差し出しかけた手をそのまま宙に泳がせた。
「ヴァルト様っ!」
制止を振りきって単身で飛び出したヴァルトを案じて、家臣たちも次々と林の中から姿を表した。勢ぞろいした4人の顔ぶれを見て、爽はまた「あっ」と声を上げた。
「ギルマン、ガイガー、マイヤー、ノイマン」
4人の名前を爽が言ったので、またまたヴァルトは驚愕して、一度後ろに現れた家臣たちを振り返って視線を合わせた後、再び爽の方を凝視した。
再び爽は「あっ!」と慌てて両手で口を塞いで俯いた。
『ヤバイ! ん? ヤバ…イ? いや、良いんだっけ? ここではもう知ってて良いんだっけ?』
爽は気持ちを落ち着けようとした。爽はかなり興奮していた。なぜなら、自分の妄想でしかなかった『ヴァルト・サーガ』の登場人物が、今目の前に現れたからだ。これもある種の妄想ではあるかもしれないが、今こうしてバーチャルに彼らを見ることが出来るなんて夢のようだ。そして、目の前に現れた彼らが、爽が思い描く通りの容姿だったのだから、興奮するなという方が無理な話だ。
『ヴァルト……すっごいかっこいい……』
思わず口元がニヤケるくらいだった。まったくもって想像通り、爽の理想通り、とにかく格好良い。
美しい金髪も、ギリシャ彫刻のような凛々しい端正な顔立ちも、形の良い筋肉に包まれた雄々しい肉体も、すべてが爽が思い描いていたそのままだった。
そしてまた家臣達……ギルマン達も、爽が思い描いていた通りの容姿だった。
『これって、オレの文章力がとりあえずは正しいって事になるんだよね? この世界はオレの小説を元に構築されているわけだから、キャラクターのビジュアルが、自分が思い描いた通りに見えるって事は、イコール文章表現がそれだけ綿密だって事にならない?』
変な所で作家としてのプライドを取り戻した爽は、ニヤニヤと口元が緩んで仕方なかった。
そんな爽を他所に、ヴァルトが突然その場に跪いて、爽に向かって深く頭を下げたので、爽はとても驚いて顔を上げると、キョロキョロと周囲の家臣たちの顔とヴァルトを何度も見回した。
家臣たちも戸惑っている様子だった。
「聖なる御方よ……どうぞ私にお力をお貸しください」
 ヴァルトは傅いたまま恭しくそう述べた。
 爽はキョトンとした顔で「え? オレのこと?」という様子でいた。だがヴァルトはそれっきり何も言わずにただ深く頭を下げている。家臣たちも仕方なくそれに習って、ヴァルトの後方に跪くと同じように深く頭を下げた。屈強たる武人達に平伏されて、爽はいよいよ困ってしまった。
「あ、あの……どうか顔を上げてください……というか、どうか立ってください」
 戸惑いがちにヴァルト達にそう声をかけたが、まったく動く気配が無い。
「貴方様は我々がなぜここに来たのかご存知なのでしょう? 我々の目的も……いや、そればかりか私の素性も……」
 ヴァルトはおもむろにそう言うと、顔を上げて爽をみつめた。だがそのみつめる瞳は少しばかり眩しいものを見るような、そんな様子に感じられて、爽はドキリとなった。
「あ……はい、知っています。ヴァルト……貴方はサントゥアーリオ王国の皇太子アレクシス・オロフ・ハルヴァリ2世殿下」
 そう答えると、一瞬ザワッと動揺が広がった。ヴァルトは目を大きく見開いて、驚愕の表情でしばらく爽をみつめた後、みるみる神々しいものを敬い奉るような表情に変わり、再び顔を伏して頭を下げた。
「やはり貴方は神の化身に間違いない……私は貴方に会うために遥々この地にまで長い旅をしてまいりました。どうぞ私にお力をお貸しください」
『神の化身……あ、そうか……神=原作者……なるほどね。確かにオレは神様だ』
 爽は変な所で納得すると、目の前で傅くヴァルトを見下ろしながら、とてもいい気分になってきていた。理想の男性であるヴァルトが、今自分の目の前にいる。それも傅き、自分の事を崇めているのだ。そして彼はイーリスに心を奪われている。そう、そのイーリスとは、今ここに居る自分なのだ。そんな事を考えると、夢を見ているようで(まあある意味夢なのだが)口元が緩んでニヤニヤしてしまいそうになる。
「ヴァルト……どうか顔を上げてください。私のような非力なものに、何のお力添えが出来るか分かりませんが、どうぞお好きにお使いください」
 爽はちょっと芝居がかった感じで、小説のイーリスのこの場面での台詞を思い出しながら言ってみた。
 するとヴァルトは顔を上げて、瞳を輝かせながら爽をみつめた。
「本当ですか、本当に私にお力をお貸しくださいますか!」
 喜びの表情でそう言ったヴァルトに、爽は微笑んで頷いて見せた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。聖なる御方」
「イーリスとお呼びください」
「イーリス様……そのご慈悲に感謝します」
 ヴァルトは心からそういうと、爽の右手を取って、その甲に口づけた。爽は真っ赤になって思わずその手を引込めたので、ヴァルトは少し驚いて爽の顔を見上げた。
「ご無礼を……嬉しくて思わず……お気を悪くなされたか?」
「あ、いいえ、その……突然で驚いただけです。あの……どうぞ、どうぞお立ちになってください」
 爽は慌ててヴァルトの手を取ると立ち上がるように促した。頬が火照って熱い。体も熱かった。心臓がバクバクと激しく鼓動をうつ。たかが手の甲にキスされただけで、こんなにときめくなんて……と内心、自分の態度に恥ずかしくなっていた。赤くなるなんて変に思われただろうか? 暗闇で分からなければ良いのに……そんな事を思って、まともにヴァルトの顔が見れなかった。
 まるで長い事片思いをしていた相手に、キスでもされたかのようなそんなときめきと恥じらいを感じていた。こんな気持ちどれくらいぶりだろう。
 ヴァルトは、その手を取ったイーリスの細くか弱い手の柔らかさに、ドキリとなっていた。白い肌がほんのり朱染まっていて、少し熱を持っている。なぜこの神の化身でもある聖なる御方が、まるで乙女のように儚げで愛らしいのだろうと思っていた。声や話し方は決して女性のそれではない。だが男性にも見えない。中性的な不思議な姿で、精霊のようなのに、こうして握るその手は、乙女の手のように暖かくて柔らかい。
 ヴァルトはふと、その体を強く抱きしめてみたいという衝動に駆られた。ジッとみつめると、その漆黒の瞳は、視線を逸らしてしまう。逃げてしまいそうで抱きしめたくなった。
「ヴァルト様、しばしお待ちください」
 その盛り上がるヴァルトの気持ちを制するかのように、老臣ギルマンが静かな声で言った。
 ヴァルトはハッとなって、イーリスの手を離すと、後ろを振り返った。
 爽も、慌てて手を引込めると、少し後ろに退いた。右手をぎゅっと左手で包むように胸に押し付けながら、ヴァルトに握られていた右手をひどく熱く感じていた。激しく高鳴る心臓を必死で押さえつけようとした。
『なんて熱い眼差しでみつめるんだろう』
 心の中でそう思って、ホウと思わずため息を漏らす。
 ヴァルトは一目でイーリスに恋をした。と小説に書いたのは自分ではあるが、今その対象が自分となると話が別である。分かっていても、こんなに一途な瞳でみつめられて、こんなに恋する瞳でみつめられて、平静でいられるわけがなかった。
『今まで、こんなに一途に想われたことが無いからどうしていいか分からない……』
 爽は戸惑いを隠せなかった。
「ヴァルト様、素性の分からぬ相手を、そう簡単に信用してはなりません」
 ギルマンが小さな声でそう囁いた。
「ギルマン! お前はまだそんな……」
「お言葉ですがヴァルト様、我々は20年間そうして疑って、生き延びてきたのです」
 ギルマンの言葉は重かった。一瞬ヴァルトは反論できなかった。それはヴァルト自身もずっとそうやって生きてきたし、ずっとそう教えられてきたことだ。そしてたくさんの裏切りと、たくさんの罠にも合ってきた。そしてたくさんの家臣を失った。疑わなければ生きてこれなかった。
 国を追われてから20年あまり、ただひたすらに逃げ惑う日々だった。叔父の刺客の手は、どこまでも執拗に追ってきた。諦めてくれるという事は無かった。つまりそれだけ、皇太子であるヴァルトの存在が、重要かつ邪魔だという事だ。
「先詠みの占者の言葉を信じているのはヴァルト様だけです。我々はどうしても探すと言われるヴァルト様についてここまで来ただけです。そのような素性の分からぬ者の存在を、我々は信じていないし、すぐに受け入れることは出来ません」
 ギルマンは、断固たる意志を浮かべた眼差しで、ヴァルトをジッとみつめてそう言った。その右手は、腰の剣の柄に添われている。それはイーリスが少しでも怪しい動きをすれば、切って捨てるという意味をあらわしていた。しばらくの間ヴァルトとにらみ合い沈黙が流れた。他の家臣たちは、ジッと息を殺して見守っていた。
 少し離れた所から、爽もその様子を見守っていた。ここは重要なシーンだ。イーリスを仲間にするかどうかで、ヴァルトと家臣の間で対立が起きる。今まで何事もギルマンの言うとおりにしてきたヴァルトが、初めて反抗し、自分の意思を貫くと同時に、彼の内に秘めた思いを、初めて家臣たちの前でハッキリと言葉にするという大切な場面だ。ここではイーリスは一切邪魔をしてはいけない。
「ギルマン」
 ヴァルトが沈黙を破った。
「ギルマン、ガイガー、マイヤー、ノイマン……お前たちには感謝してもしきれない。オレを守り、国を追われ、追手と戦い続けながら、人も住まぬような北の辺境の地まで逃れ、そこでオレを20歳まで育ててくれた。その間の困難は、並大抵の事でないのは分かっている。そしてオレが20歳になったのを契機に、国を取り戻すために旅立ち、各地に散らばって潜伏していた仲間たちを集めた……だが、復讐はそう容易く達せられるものではなかった。国を取り戻すどころか、国に近づくことさえできない……幾重もの罠と追手……戦いの日々……20年前、国を脱出した時は、ギルマン……お前の指揮する近衛中隊1000人も居たというのに、今、オレの兵はお前たち4人になってしまった……復讐に立ち上がってもう8年も経ってしまった……万策は尽きた。だがオレは諦めていない。『太陽の国』と言われた美しい我が祖国サントゥアーリオ……こんな辺境の地までも聞こえてくる祖国の話は、荒れ果てた国の姿。国王の悪政に苦しむ民達の窮状。オレは……父や母たちの復讐だけではない、国を取り戻したいというだけではない、我が国民を救う為ならば……美しい祖国を元の姿に戻す為ならば、オレはどんな手段も択ばない。例え悪魔にこの身を売ったとしても……絶対に絶対に諦めない。ギルマン……お前たちがどんなに反対しようとも、オレはもう決めたのだ。それが神だろうと悪魔だろうと……力を得られるのであれば構わない。オレはどんな手を使ってもアロンソを討つ。お前たちの犠牲でオレの命が守られたところで……オレが生きているだけでは何の意味も無いんだよ。ギルマン。オレはあの方の力を借りて、アロンソを討つ。絶対に!」
 ガイガー、マイヤー、ノイマンの3人は少し驚いたような表情で、ヴァルトをみつめていた。ギルマンは表情にこそ出していないが、やはり驚いているようだった。
 ふたたび沈黙になり、やがてギルマンは剣の柄から手を離すと、ヴァルトに向かって傅いて頭を下げた。言葉は無かったが、それはギルマンがヴァルトの言葉に異論は無いという証だった。
 ヴァルトは少しだけ安堵の表情を浮かべてから、クルリと爽の方を振り返った。
「イーリス様、我々と共に参りましょう」
 ヴァルトの爽やかな曇りひとつない真っ直ぐな瞳を見つめ返しながら、爽はコクリと頷いて見せた。


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