「んっ……うっ……くしゅんっ! くしゅんっ!」
 大きな自分のくしゃみで目が覚めた。爽は気を失っていたようで、目を開けてからもしばらくぼんやりとした顔で、仰向けに寝転がったまま、その見慣れぬ天井を見つめていた。自分の状況を理解するまでに、ほんの少しばかり時間を要してから、ようやくハッと我に返った顔をすると、慌てて体を起こした。が、またすぐに数回くしゃみをした。
 くしゃみをした理由はこの場所が埃っぽいせいだ。辺りを見回すと、そこは納屋のようだった。刈り取られた乾草の束とか、農機具とか、古い家具とか、色々なものが無造作に置かれていた。
 爽が居るのは、床に乾草を薄く敷いた上に、厚手の麻布が敷かれた簡易ベッド(ベッドと言う程の物でもないが)のようなものの上で、体には木綿のような布が、掛布代わりに掛けてあったので、どうやら倒れていたというよりは、ここで寝起きをしているようだ。
「ここって……」
 爽は思わず口走りながら、自分の服装を確認した。粗末な木綿の服を着ている。粗末な……と言ったのは、特に柄や飾りの無い、茶色の木綿の生地で膝上のワンピースのようなストンとした形の服に、これまた特に飾りも柄も刺繍も無いこげ茶の帯で少し緩めに腰を縛っているだけのものだったからだ。下半身は足にピッタリなくらいに細身の薄い生地の黒いズボンを履いていた。
 自分の服装を確認して改めて、自分の置かれた状態を認識した。
「本の世界に入れたんだ」
 思わず呟いて嬉しそうに微笑む。初めてあの装置でバーチャル体験した時のような、半信半疑の不安は無い。日常とはかなり違う今の自分の格好や状態で、すぐにここが本の中の世界、「ヴァルト・サガ」の世界なのだと、納得し理解することが出きた。
 辺りをキョロキョロと見回して、鏡は無いかと探したがもちろんこんな小屋にあるはずがなかった。
「ヴァルトにしては……なんか腕とか、胸板とか貧弱だな〜……というか、これってオレそのままじゃないか」
 本の中の世界の主人公になってヴァーチャル体験するのだから、当然自分は「ヴァルト・サガ」のヒーロー、ヴァルトになっている物だと思っていた。
 長身で屈強な肉体を持つ戦士ヴァルト……の体とはとても思えない。見慣れた痩せた自分の体とあまり変わらない。唯一違うのは、髪が腰まで長く伸びていた。
「え〜……もしかしてビジュアルはオレ自身のままなの?」
 ガッカリしたように呟いて、ゆっくりと立ち上がった。う〜んと大きく背伸びをしてから、とりあえず外に出てみようと思った。そう思ってから、またふとある事に気づいた。この納屋には、自分一人しかいない。自分がヴァルトであるならば、ヴァルトには4人の忠臣がいるはずだ。彼らの姿がどこにもいない。そしてもう1人というか、もうひとつの守護も……
「ジン? いるのかい?」
 爽は恐る恐るその名を呼んでみたが、その呼びかけに答えるものはなかった。少しばかり期待をしていただけに、爽はガッカリと肩を落とした。
「おかしいな〜……」
 ポリポリと頭を掻きながら、扉の方へと歩いていくと、簡素な木の扉をぐいっと押し開けた。サァーッと乾いた風が吹き込んできて、爽の体を包む。目の前に広がる光景は、当然ながら見慣れた日本の風景とはまったく異なるものだった。
 転々と見える建物は、黄土色の土壁を外壁に塗り込められたレンガ作りのような四角い建物。地面も同じような色の乾いた大地。緑は少なく、背の低い木が、いくつか見えるだけだった。
 爽の居る納屋のすぐわきには、木の柵で囲まれた家畜の放牧場と、その奥に家畜小屋も見えた。放牧場には、ヤギと羊の中間みたいな動物が20頭ほど居た。
 辺りを見回しながらぼんやりと佇んでいると、「名無しさん!」と呼ぶ声がした。「え?」と思って声のする方を見ると、すぐ脇の小道を歩く、ふくよかなおばさんの姿があった。彼女は、ニコニコと笑顔で爽をみつめながら近づいてきた。
「何か思い出したかい? 名無しさん」
 近くまで来ると、そう言われた。爽は不思議そうに首をかしげて見せた。
「名無しさんって、私のことですか?」
「おや、今度は、名無しさんって呼ばれている事さえも忘れちまったのかい?」
 彼女は驚いたような顔でしばらく爽を頭の先から足もとまでジロジロとみつめてから、やがて少し憐れむような顔になって小さくため息を吐いた。
「あんた、なんか悪い病気になってるんじゃないのかね? そんなに記憶を無くすなんて……私はね、あんたみたいな綺麗な顔して、女みたいに細っこい体で、品がよさそうだから、どっかの国のお貴族様かなんかじゃないかって思ってたんだよ」
「え!?」
「こんな辺境の地の森の中で、たった一人で何も持たずに倒れているなんて、旅人って事も無いだろう? だから変な薬飲まされて、記憶を無くされて、誘拐されて捨てられたんじゃないかって……近所の者たちとそんな噂話をしていたところなんだよ」
 おばさんは、とてもまじめな顔でペラペラとそんな事を語った。
「森に倒れていたんですか? あの……ここはどこなんですか? 村?」
「ここかい? ここは辺境の街リターラの端にある農村地帯だよ。ここら辺りは、マチネ村って言って、家畜を飼っている家の多い村さ。あんたは3日前に、村のはずれにある森で倒れていたのを村の者たちがみつけて、身元が分かるまでって、村長さんが預かってくれているのさ……この納屋、村長さんの所の納屋だよ。そういうのも何も覚えていないのかい?」
 彼女はまた心配そうな顔で、爽の顔を覗き込むように見つめてそう言った。
「リターラ!?」
 爽が驚いたようにその街の名前を口にしたので、おばさんがまた不思議そうな顔をした。
「リターラの近くの森でって……え? じゃあ……私はイーリス?」
 爽が頭を掻きながらそう言うと、おばさんはちょっと驚いた顔になった。
「あんた名前を思い出したのかい?」
「え? あ、ええ……たぶん……私の名前は……イーリスかなぁ? って……」
「イーリス、そう、綺麗な名前だね。他には何か思い出したかい?」
「ああ、いえ、まだ……」
「そうかい……でも名前を思い出しただけでも良かったよ。『名無しさん』じゃあ、あんまりだもんね。村長さんに伝えたらきっと喜んでくださるよ。食事はまだだろう? 行っておいでよ。村長さん家は、ほら、あそこの家だよ」
 おばさんは世話焼きらしく、爽の背中を押しながら、納屋の奥の方に見える少し大きな家を指さしていった。
「あ、はい、ありがとうございます」
 爽はペコリと頭を下げると、村長の家へと向かって歩き出した。
 それにしても……自分がイーリスだなんて思っても見なかったことだ。なぜなら、イーリスというのは、『ヴァルト・サガ』では、ヒロイン的なキャラクターだからだ。
 ヒロインというには、少しばかり語弊がある。イーリスは女性ではない。だが男性でもないかもしれない。「かも」と言ったのは、そこは『謎』にしているからだ。イーリスというのは、人か精霊かも分からない、謎の人物として描かれている。そして主人公ヴァルトとは純愛の関係でもあるキャラクターだ。

『ヴァルト・サガ』とは、剣と魔法、人と神と精霊が存在する異世界の物語。
大陸の中心にある『太陽の国』と呼ばれる大国サントゥアーリオ。2000年の歴史を持つその王国にて、ある時反乱がおきた。王弟アロンソが、兄である国王ベルンハルト・カール・ディートリッヒ三世とその妃、そして第2王弟フェリクスとその家族などアロンソに刃向う一族を抹殺し、王座を乗っ取った。
 当時7歳であった皇太子アレクシス・オロフ・ハルヴァリ二世は、忠臣たちの手で国を脱出し、追随するアロンソの追手を振り切りながら、北の果て辺境の地へと落ちのび身を隠した。
 それから13年。20歳の青年となった皇太子は、ヴァルトという名で、忠臣たちと共に故国サントゥアーリオへと旅立つ。両親たちの仇を討ち、王国を取り戻す為に……という物語だ。
 イーリスとはヴァルトが旅の途中で出会う運命の相手。占い師が「すべての鍵であり、大いなる力となる神の声を聴く導きの人。月の光より生まれしその者を味方とすれば、必ずや大望は成就するであろう」と予言し、ヴァルトはその者を探し出して仲間とした。それがイーリスだ。

『オレがイーリスなんて、ちょっとイメージと違うくないか? イーリスは光の化身。精霊のように儚く美しい姿をしていて、女性か男性か不明な中性的な人なんだぞ? ヴァルトが一目で恋に落ちる……』
「あ!」
 爽は考え事をして歩き出したが、ふと突然閃いたようになって、思わず口から声が漏れてしまっていた。慌てて口を押えて辺りを見回したが、誰もいなかった。
「そうだ……オレがイーリスなら、ヴァルトと恋が出来るんだ……」
 呟いて、ちょっとテレ臭そうに笑ってから、頭を掻いた。
 爽にとって、ヴァルトは理想の男性像だった。男らしくて、逞しくて、勇敢で、正義感も強く、誠実で、優しい。顔だってハンサムだ。金の髪と紫の瞳。彼はイーリスに恋をする。
「だけどヴァルトは、イーリスを神聖化しているから、絶対手を出さない……紳士で……純愛なんだよな……」
 ちょっと残念そうに呟いたが、それも自分が望んだことでもあるのだ。
 爽は今まで男運がなかった。初めての相手である櫻井には、実験動物のように抱かれた。その後も何人かと関係を持ったが、決していい思い出などなかった。SEX無しでも、真の愛は育めるのか? それが爽の抱えた問題でもあったから、それが小説へと反映されたのだ。
 そしてヴァルトとイーリスの純愛は、女性たちの支持を得て、人気作品となった。
「まあ……オレがヴァルトになるよりは、まだ良いのかな?」
 爽はため息交じりにそう納得して呟くと、村長の家の扉を叩いた。


「そうか、名前を思い出したか……それは良かった」
 人のよさそうな初老の男性が、微笑みながらうなずいて、パイプ煙草を一口吸い込んだ。村長のブラッコ氏だ。
「あの、それで今は何日ですか?」
「七の月の12日だよ」
 村長が答えると、爽はハッとした顔になった。
「七の月……満月はいつ頃ですか?」
 村長は、いきなり不思議な事を聞くものだという顔をしてしばらく考えてから、フゥと煙を吐き出した。
「確か……今夜あたりが満月じゃなかったかな? なあ、母さん」
 村長が奥の方へ声を掛ける。少しして、料理の盆を抱えた初老の女性が現れた。
「そうね、確か今夜あたりだったはずよ」
 彼女は食卓に料理を並べながら、ニコニコと笑って爽の顔をみつめた。
「それがどうかしたの?」
「思い出したんです。七の月の満月の夜、私を迎えにくる人がいることを」
「あら」
 奥さんは思わず驚いて声を上げた。村長も驚いていた。
「ラタの泉はどこですか?」
 爽は真剣な顔で尋ねた。


 夕日ですべてが赤く染まっていた。黄土色の乾いた大地も赤く染まっている。村を出て、爽は一人で歩いていた。村の外れの森を抜けた先にあるラタの泉を目指していた。
 七の月の満月の夜。その泉で、ヴァルトとイーリスは出会うのだ。ヴァルトはその場所を、占い師から予言されていた。
 小説はヴァルト視点で描かれている。だから話の冒頭は、王国での反乱から始まり、北の辺境の地で成長したヴァルトが旅立ち、最初の困難に打ち勝ちながら、予言を信じてこの西の辺境の地までやってくる物語が描かれている。
 でも爽はイーリスだから、物語には描かれていない、イーリス側の話が今こうして進んでいるのだと思う。
「物語に書いてないんだから、これは完全に楽屋落ちだよな……でもイーリスが突然この西の地に現れ、記憶を無くしたままで物語が始まるというのは合っている訳だから、まあこれでいいのか……」
 爽はブツブツと独り言をつぶやきながら、足早に目的地へと向かっていた。日が暮れるとともに、荒野には魔物が現れやすくなる。
 出かけるという爽に、村長たちは心配をして、村人たちに護衛を頼むと言ってくれたが、大丈夫だと何度も言って、それから世話になった礼を述べてから出てきた。
 村長が心ばかりだけどと持たせてくれたのは、ランプと護身用のナイフ、簡素な旅人用のマントと僅かばかりのお金だった。
 爽は、何度も何度も礼を述べて出てきた。
「ああ、もう暗くなった」
 日が落ちるのは早い。森に着く前に辺りは暗くなってしまっていた。さすがに少しばかり心細くなってきた。自分が作った世界とは言っても、ここは魔物が住む世界だ。特に夜の闇には、多くの魔物が活発に活動をし始める。人々は明るい街の中や、家の中から夜は決して出ない。
 ましてやここは辺境の地。人が住める最果ての地で、ここより西には荒野が続く。そこは魔物の巣窟だった。
「やだなぁ……」
 爽はため息を吐いて足を止めた。目の前には森の入り口があった。手に持つランプを掲げるが、周囲が少し照らされるだけで、森の中までは届かない。
「懐中電灯が欲しいよ」
 ブツブツと呟きながら、仕方なく歩き出した。月が真上に上るまでに、ラタの泉へと行かなければならない。
 森の中は更に真っ暗だった。虫の声や何か獣の鳴き声があちこちから聞こえた。下草がガサッと音を立てるたびに、爽はビクリとなった。怖くないはずがない。次第に足取りが速くなる。
「怖くない、怖くない」
 爽は何度も呟きながら足早に歩いていたが、ふと、ある事を閃いて足を止めた。
「そうだ……味方を付ければいいんだ。イーリスには味方が居た」
 爽はポンッと胸を叩いた。
「ファンヌ!」
 その名を呼んでみたが、応答はなかった。
「あれ? もしかして、この時点ではまだ契約していないって事?」
 爽はちょっと慌てた。もう一度名前を呼んだがやはり何も起こらない。爽は深く息を吐いた。
「えっと……じゃあ……風の精霊ファンヌ、我と契約を、その真実の名を交換せよ」
 すると森の木々がザザザッと音を立てて、風が吹き抜けて行った。
『我を呼ぶのは人の子か? 精霊との契約に敵いし力があると自惚れてか? そのか弱き身を粉々に切り裂いてやろうか』
 それは不思議な響きの声だった。小さな竜巻が起こり、その中心が淡い形を持って人のような姿を作った。
「脅してもダメだよファンヌ。オレはお前の真実の名を知っている。我と契約しろ。お前の真実の名は……」
【アエラキ】と心の中で名前を唱えた。すると激しい竜巻で作られていたその精霊の姿は、フッと風が止み、ぼんやりとした輪郭だけが浮かび上がった。長い髪の美しい女性のようにも見える。
「さあ契約だ。我の真実の名をお前に渡そう、我の真実の……」
 続きを爽が言いかけた時、突然すぐ側の茂みから、咆哮を上げながら魔物が飛び出してきた。真っ黒な毛に覆われた小型の熊のような魔物は、赤い大きな口を開けて、爽に向かって襲いかかってきた。
「うわ〜〜!!」
 爽は思わず逃げ出した。必死に走っていると、その傍らに先程の風の精霊が並行して飛んでいた。
『人の子よ、早く契約を』
「あ! ハアハア……そうだった!……我の真実の名をお前に渡そう、我の真実の名は……」
【中屋敷爽】と心の中で名前を唱える。
『確かに真実の名を受け取った。契約は交わされた。人の子よ、お前が望むならば守ってやろう』
「頼む!! 助けて!」
 爽が思わず叫ぶと、精霊はフッと一瞬姿を消した。そして次の瞬間、鎌鼬のような疾風が、魔物に向かっていくつも放たれて、魔物は断末魔の悲鳴を上げながら、その身をズタズタに切り裂かれて息絶えた。
「うわあ!!!」
 魔物の切り裂かれた肉片が四方に飛び散る。傍に居た爽にも当然ながら血飛沫が浴びせられて、爽は驚きのあまり、その場に尻餅をついてしまった。
『大丈夫か、人の子よ』
「ファンヌ……ありがとう。オレの事はイーリスと呼んでくれ」

 森を抜けた所に、小さな泉があった。ラタの泉だ。滾々と湧水を湛えたその泉は、澄みきって美しく、鏡のような水面には、空に昇り始めた月を映していた。
「あ〜……助かったけど、血生臭くて仕方ないよ……」
 爽は泉の畔に跪くと、両手で水をすくって返り血を浴びた顔を洗った。しかし髪にも服にも、魔物の血がついていて、とても臭かった。
「飛び込んで全身洗いたいところだけど……この泉、深そうだよな……あ、そうだ。水の精霊とも契約だ」
 爽はポンッと思いだして手を叩いた。
「水の精霊ノーラ、我と契約を、その真実の名を交換せよ」
 爽は大きな声で泉に向かって呼びかけた。すると、静かだった水面に波が立ち、やがて水柱となって、それは人の形を作り出した。女性のような姿をしていた。
『我を呼ぶのは人の子か? いや、すでに風の精霊を使役しているのか』
「そうだ。お前とも契約したい。お前の真実の名は……」
【イグロ】と心の中で名前を唱えた。
「我の真実の名をお前に渡そう、我の真実の名は……」
【中屋敷爽】と心の中で名前を唱える。
『確かに真実の名を受け取った。契約は交わされた。人の子よ、我はそなたと共にある』
「オレの事はイーリスと呼んでくれ、ノーラ。早速だけど、体を洗いたい。この深い泉の底にオレが沈まぬように助けてくれ」
『承知した』


『ヴァルト・サガ』の一説より。
―ヴァルトは、森の陰からその景色をみつめて息をのんだ。泉の中央で、水の精霊と戯れるように泳ぐ美しき一人の人物の姿。夜の闇のような漆黒の長い髪、月の光から生まれ出でたような蒼白い肌。水面に降り注ぐ月の光は、まるでその者の体の一部のように、すべてを輝かせていた。月の光の精霊のように。
ヴァルトは瞬きはおろか、息をするのさえ忘れたように立ち尽くしていた。一瞬にして、心を奪われていたのだ。―


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