消毒用のアルコールの匂いに、少し埃とカビの匂いの混じる独特の空間だった。
『君の脳波と心電図を測らせてくれないか?』
 その人はジーンズを履いただけの上半身裸の体にフワリと白衣を羽織りながら立ち上がってそう言った。
 爽はまだ気だるい余韻の中で、ぼんやりとソファに身をゆだねたまま、その人の姿を目で追っていた。言っている言葉の意味が一瞬わからずに答えないでいると、その人は振り返って、フッと口元を上げた。
『いくつか質問をするからそれに答えるだけで良いよ。何、簡単な質問だから、すぐに終わるよ』
 彼はそう言って、部屋の隅に置いてあった心電図の装置をゴトゴトと移動させてきた。ここは半ば彼が個人で使用していると言っても良い実験室だった。色々な器具や装置が置いてある。大学の旧校舎の一室。授業では既に使われなくなった建物だが、空いている部屋は、色々なサークルが部室に使っていたりする。ここもそんな部屋の一つで、『奇譚倶楽部』という怪しげなサークルの部室になっている。
 まだぼんやりとしている爽に、その人は手慣れた手つきで心電図の電極と脳波モニターの電極を付けていく。
 準備が出来た所で、モニターを見ながらその人は『君の名前をいってくれるかい?』と言った。
『な……中屋敷爽……』
『質問にはYESかNOで答えて……君は男性?』
『……YES』
『君は女性?』
『……NO』
『男の兄弟がいる』
『YES』
 それは本当に簡単な質問だった。何を目的にした質問かは分からないが、何かしら性別にかかわるような質問ばかり、10問ほどされた。
『ありがとう……また次回もデータを取らせてね』
 その人は満足そうに微笑むと、電極を外した爽の頭を優しく撫でた。爽は未だに、何をされたのか意味も分からずにいた。
『次回もって……櫻井先輩……これは一体……』
 爽が尋ねると、その人はちょっと冷たく見えるような薄い笑みを浮かべた。
『実験だよ。ゲイに嫌悪感どころか恐怖を覚える男性が、男性とSEXをした後の精神状態がどんなものなのか興味があるじゃないか……君は実に興味深い実験体だ』


 ガバッと飛び起きた。全身に冷や汗をかいている。
「嫌な夢を見たな……」
 中谷四季……いや、中屋敷爽は深いため息をついて、独り言をつぶやいた。少し長めの髪が、乱れて顔に掛かり、汗で額や頬に張り付いている。それを手で掻き上げてから、またため息を吐いた。
 ベッドサイドの時計に目をやると、5時15分の時刻を電光表示が示していた。爽はゆっくりとベッドから降りると、バスルームへと向かった。
 シャワーのハンドルを回して、温めのお湯を勢いよく出すと頭からかぶった。
 大学時代の夢だ。爽のトラウマになっている事件だったが、今では思い出すことも無くなっていた。櫻井からの呼び出しメールと、遠藤の言葉の所為で思い出したのかもしれないと爽は思った。
 櫻井は、爽の3学年上の大学の先輩だ。爽が大学に入った時は、すでに櫻井は大学内で彼を知らぬ者はいないほどの有名人だった。神経科学部の超天才で、博士号まで持っていた。ルックスも背が高く、顔立ちもなかなか整っていて、爽やかな好青年といった風貌だった。だがなんとかと天才は紙一重というように、櫻井はかなり風変わりな人物で、普通の心理学者などは考えないような奇抜な発想や実験をする為、周囲の学生たちは少し遠巻きにしていた。
 その櫻井が作ったサークルが「奇譚倶楽部」で、櫻井は世の中の不思議な現象や、幽霊、妖精、魔法などの産物はすべて人間の脳が作り出したものであり、だが決して空想の産物ではなく、人間の脳(脳波)によって、実際に実現させる事が出来るのだ。という論理の元に、それを実験にて実現させてようと言うサークルだった。
 ファンタジー世界が子供の頃から好きだった爽は、そのサークルに興味を持ち入部して、そこで櫻井に会った。そして恋に落ち、肉体関係を結ぶ間柄になった。
 夢で見たのは、実際にあった話そのままだ。
 爽はずっと櫻井の事が好きだった。櫻井が大学院に進んだ後もサークルに来ていた為、入部して以来ずっと2年も思い続けた。そして櫻井も最初からそれに気づいていた。櫻井は爽の気持ちを利用して関係を結んだが、それはすべて実験の為だった。
 爽にとっては、櫻井は初体験の相手で、初めての恋人だった。その為、それを知った時の精神状態は普通ではなく、1年近く大学を休学することになった。その時に書いた小説が、作家デビューのきっかけとなるのだが、それを良かったと思えるまでには、ずいぶんと時間が必要だった。

 爽はバスルームを出て、バスローブを羽織ったままでキッチンに行くと、冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターのボトルを1つ取り出した。蓋を開けて一気に半分ほど飲み干した。
 大学に復帰してから、櫻井を避け続け、もちろんサークルを辞め、なんとか卒業をしてそれっきり。櫻井の事も大学の事も忘れて、ひたすら作家の道を進んできた。当時からの友人は遠藤のみだ。他の友人とはすでに縁を切っている。
 もう何年も会わなかったのに、誰に聞いたのか、櫻井の方から去年突然に連絡があった。爽の小説に興味があるから話が聞きたいと言ってきた。
 爽は一瞬会うのを躊躇したが、もう互いに大人なのだし、爽も過去の呪縛から解き放たれたくて、会う事を決意した。
 会ってみれば……櫻井はまるで過去の事など何もなかったかのように、久しぶりに会う先輩後輩のような態度で、爽を出迎えた。彼はまだ大学に教授として残っていた。あいかわらず、奇妙な実験を続けているようだった。
 そしてまた明日、櫻井に会いに行く。会うのは去年の再会から3度目。彼に未練がある訳ではない。ただ彼から逃げ出したままなのが嫌だったのだ。今の自分はあの頃の中屋敷爽ではないという自負がある。両親のいいなりになっていた人形のようだった自分ではない。今は、自分の力で作家として成功している。
 それに彼のような最低の人間を見分けられ、上手くそれを利用して付き合えるだけの強かさも身に着けた。
 彼に会いに行くのは、彼が今進めている研究に興味があったからだ。


「あ、篠田さん? 原稿のデータ届いた? うん、じゃあ出版社に送っておいて。うん、ありがとう。オレはこれから大学に行くから……そう、母校。うん、前に話していた先輩の所。だから夜まで連絡着かないから……はい、よろしくお願いします」
 爽は電話を切ると、そばの椅子の背もたれに掛けていたジャケットを手に取り、部屋を出た。
 エレベーターで地下の駐車場に降りると、愛車の赤いシボレー・カマロに乗り込んだ。


 大学に着くと受付で櫻井を呼び出し、ラウンジの椅子に座って待つ。15分ほどして、その人は現れた。
「サワ!」
 あの頃と変わりない声でその名を呼ぶ。爽は目を伏せてひとつ深呼吸をした。それからゆっくりと立ち上がり、その人の方を振り返る。
「よく来てくれたね」
 彼は優しげな笑顔でそう言った。あの頃と変わらない。物腰の柔らかな優しげな口調、表情。だがその中身は狂気に満ちた、ただのマットサイエンティストだ。
「先輩が有無を言わせずに呼びつけたんでしょ?」
 皮肉を返せる自分は、もう昔とは違う。たぶん先輩も分かっている。だから二度と昔の話を先輩からはしようとしない。『面倒くさい男になったな』と思っている事だろう。
「前回の実験の結果を踏まえてね。ずいぶん改良したんだよ。5ヶ月も掛かってしまったが……まあとにかく歩きながら話そう」
 研究の事になると、あいかわらず興奮して饒舌になる。この人は本当に人として欠陥があると思う。わざわざ呼び出しに応じてくれた後輩を、実験のモルモットとしか思っていないのだ。
 櫻井は歩きながら、嬉々として改良した研究内容について語った。専門的な話をされても、爽にはまったく分からないのだが、そんな事は櫻井にとってはどうでもいいことなのだろう。
「パワーアップに成功したんだ。これで前回よりも長い物語を再生可能だ」
「長い物語って……先輩、それはいいですけど、今日は早めに切り上げたいんですが……来る途中、雲行きが怪しくなってきて、遠くで雷鳴が聞こえたんですよ。雨がひどく降り出す前に帰りたいんですけど」
 爽は歩きながら窓の外をみつめて言った。東の空を黒い雲が覆っているのが見える。さっきよりもこちらに近づいてきているようだ。
「ゲリラ豪雨だろう。1〜2時間待てはすぐに止む」
 櫻井もチラリと窓の外を見たが、そっけなくそう答えた。
 ようやく歩みを止めて、1つの扉の前に立った。櫻井は首から下げていたIDカードを、扉の横にある読み取り機に上から下へと通した。ピピッという電子音がして、その後カチャリと扉のロックが外れる音がした。櫻井は扉を開くと、爽を中へと先に入れた。
 そこは小さな小部屋になっていて、簡素な事務机がひとつあるだけで、他には何もない殺風景な部屋だった。それも当然で、ここは何かをするための部屋ではなく、ただの通路でしかない。さらに奥にもう1つ扉があった。
 扉の横にある装置に、櫻井が顔を近づける。網膜認証だ。スキャンが済むとピピッという電子音が鳴り扉のロックが解除された。ここも扉を開けると、爽を先に中へと招いた。
 あいかわらず、随分厳重なセキュリティだ。爽も詳しい事は分からないが、どこかの企業が櫻井の研究に出資してくれているらしい。
 爽が櫻井と大学で初めて知り合った時、櫻井はすでに、アメリカの大学をスキップで卒業しており、帰国後19歳で改めて日本の大学に入りなおしていた。自由に研究をさせてもらえるという特別待遇で……だから大学でも有名人だったのだ。
 確かに……これから爽が被験者になる実験内容は、爽自身も興味をひかれるほど、奇抜で魅力的な物だ。だがこんな得体のしれない物に出資する会社と言うのは、一体どんな会社なのだろう? と爽は不思議に思っていた。
 もちろんすべて極秘で、爽には詳しい事は知らされていないし、ここで行われた実験内容についても、他言無用で、事前に誓約書まで書かされた。爽にしてみれば、誰にも最初からいうつもりは無い。なぜなら信じてもらえそうにない実験だからだ。
「サワ、見てくれ、前よりも装置が大掛かりになっているだろう? これならば君のファンタジー大作『ヴァルト・サガ』の世界も体験出来るよ」
「え!?」
 櫻井のその言葉に、思わず爽は嬉しそうに反応してしまった。しかし櫻井と目が合って、あの少しばかり人を見下したような冷ややかな笑みと眼差しに、サッと顔色を変えて冷静さを取り戻した。
「いや……それはどうでしょうか……ヴァルトは新書サイズで今の所全6巻あります。文字数も相当になる。前回試した短編とは比べものにもならない」
「ああ、前回は途中でパワーダウンしてしまった。君のその優秀な脳が、再現された世界の中で、色々と動き回る物だから、物語世界の構築と、被験者の脳とのリンク、それから脳波解析、状況に対応した世界の再構築……それらすべてを行うのに、パワーが足りなくなったんだよ。これは反省すべき点だった。君に被験してもらう前に、当然ながら私の助手達で検証済みで、問題なく機能していたから、部外者である君への実験に許可が下りたのだが……一般人と作家では、想像力と言う部分の能力に随分差があるようだね。だがとてもいいデータを取る事が出来て、こうしてバージョンアップが可能になったんだよ」
 半分くらい、櫻井の言っている事が分からなかったが、とにかく前回は装置がパワーダウンした為、実験途中で中止になってしまった。だがそれでも爽にとっては、とても素晴らしい体験だった。だからこそ、こんなに会うのが嫌な櫻井の呼び出しに、またこうして応じたのだ。
 詳しいことは分からない。専門的な事ももちろん分からない。だがこの実験とは……この装置とは、小説などの物語を、バーチャル体験出来る装置なのだ。バーチャルと言えば簡単だが、実際にはそれほど安易な事ではない。とにかく『リアル』なのだ。そうバーチャルリアリティもリアリティ。本当に自分がその世界の中に存在するように体感するのだ。実際は爽は眠った状態で、この装置の電極を頭に取り付けられて、脳に直接何かを働きかけるようなのだが(「何か」と言ったのは、爽が専門的なことが分からないからだ)『夢』とはまた違う。光、音、匂い、味、触感……五感で感じられるすべてのものが、まるで現実のように感じられるのだ。
 前回呼び出されて、実験の説明をされた時には、ほとんど信じていなかった。どこかのアトラクションにでもあるような、ゲームみたいな機械で、そういう夢を故意にみさせるようなものなのかと思っていた。
 爽としては、それでも十分すごいのではないかと思っていたから(だって見たい夢を自由に見られるなんてすごいと思う)半信半疑ながら、遊びのようなつもりで実験に協力した。
 前回実験に使ったのは、爽が以前書いた探偵ものの短編。自分は物語の主人公を体感できる。物語の舞台は明治時代の東京……それは映画のセットなんかじゃない。爽は明治時代の銀座の街を歩いた。建物も、歩いている人々の服装も、写真で見たことのある、そのままのものだった。雑踏のざわめきや、車の走る音……日常の音はもちろんちゃんとリアルに聞こえるし、壁や物を触った手触りもリアルだった。喫茶店に入って、注文して飲んだコーヒーも、ちゃんと飲めたし味もした。
 まるで本当にタイムスリップしたような……そんな信じられない体験をした。途中で世界が真っ暗になって、起こされて、目を開けて、現実に引き戻された。そしてその時、改めてさっきまでの体験が夢とは違う物だったと実感したのだ。
 櫻井は、マッドだけど、確かに天才だと思った。
 爽は実験の為、実験用の衣服に着替えた。さっきより雷が近い。時々部屋の照明が、少しだけトーンダウンするので、爽は不安そうに窓の方へと視線を送った。窓には特殊なフィルターが貼られていて、外から中を覗くことが出来なくなっている。中からもあまり外の景色はよく見えない。光が遮断されているので、黒い透明のガラス越しに、薄らと外の景色が見えるような感じになっている。
 稲妻が光ると、ほんの少しだけ外の景色が光って見える。すでに雨が降っているのかもしれないが、ここからではよく分からない。
「ここに雷は落ちないですよね?」
 爽が半笑いでそう尋ねると、櫻井は薄く笑みを返して首を振った。
「避雷針がある。大丈夫だ」
 櫻井は冷静に答えて、爽を手招きした。酸素カプセルみたいなドーム型の中に、爽を入らせた。そこに横になるのだ。
『ヴァルト・サガ』の世界を体感できるなんて……爽は内心、かなりワクワクしていた。自分が作った世界とはいえ、ファンタジー好きならば、誰だってその世界に行ってみたいと思うだろう。爽だってファンタジーが大好きで、自分の理想とする世界として、この物語を書いたのだから、その世界を体験できるなど、興奮しない方がおかしい。
『あれ? だけど自分は主人公になるのだから、オレはヴァルトになるのか……ヴァルトに会いたかったから、それはちょっと残念だな』
 爽はそんな事を考えていた。
『ヴァルト・サガ』は、爽が今まで手掛けた中で、一番の超大作だ。念願のファンタジー小説でもある。2年前から出版を始めて、現在は6巻まで。10巻ほどで終える予定ではあるが、ベストセラーになるほどの人気の為、編集の方からもう少し話を続けてほしいと言われている。
 主人公のヴァルトは、爽にとっては理想の男性でもある。誠実で、勇敢で、優しい……何よりも決して人を騙したり貶めたりするような事をしない、正義の人だ。だから女性ファンにとても人気がある。ファンレターもたくさん来る。「彼氏にしたい」なんて書いてくるけれど、爽だって「彼氏にしたい」と思って書いているのだから、当然だと思う。
「あ、先輩!」
 爽がハッとなって目を開けると、近くに櫻井の姿を探した。
「なんだ?」
「この小説、戦いとか結構危険なシーンもあるけど、オレ、大丈夫ですか?」
「ああ、コンピューターのプログラムの中に、生命にかかわるような事例については自動回避するように組み込まれている。例え物語の中で、重要な場面であったとしても、被験者本人が、大怪我したり、死んだりしないように、物語が変わるようになっているから大丈夫だ」
「へえ……」
「もっとも、主人公が死ぬようなラストを迎えるアンハッピーな物語は、使用しないことになっているから大丈夫だ。第一、君のこの作品は、主人公は死なないだろう?」
「そうですが……」
 爽は納得しつつも、少しばかり不安だった。なにしろ『ヴァルト・サガ』はどっちかというとヒロイック・ファンタジーで、戦うシーンもある。もちろん主人公は死なないのだが、自分が主人公になるとしたら、自分が剣を持って戦わなければならないのだ。戦えるのだろうか?
「教授、準備が整いました」
 助手が声を掛けたので、櫻井は頷いた。カプセルの中に横になり、頭に色々な電極のついたコードで繋がれている爽を覗き込んでみた。
「始めるが、大丈夫か?」
「はい……お願いします」
「今回は長編なので、すべてをやる訳にはいかないから、1時間ほどで中止する予定だ」
「はい」
 爽が返事をしたので、カプセルの蓋が閉じられた。
 助手たちが慌ただしく機械を操作している。たくさんのパソコンのモニターが並び、画面にはたくさんの数字が表示されていた。3人の助手がカタカタとキーボードを叩いていた。
「データ収集は完璧にしてくれ、記録用のビデオは回しているか? 脳波の状態はどうだ?」
 櫻井も次々と助手たちに指示を送る。
「教授、雷の所為で、電圧が時々不安定になるのですが……」
 助手の報告に、櫻井が慌てて装置にかけより、いくつかの計器を慎重に確認した。
「これくらいならば問題は無い、進めてくれ」
 装置が起動された。一瞬緊張が走る。装置から聞こえる稼働音が正常であることを確認して、皆がホッと安堵した。
「脳波正常。レム状態に入ります」
「バイタル正常」
「パワー100%維持」
「解析システム正常稼働」
 助手が次々と報告をした。
「そろそろ物語世界に入ったころかな? サワ、そこはどんな世界だ?」
 櫻井が楽しそうに笑みを浮かべた。その時、ほんの一瞬、フッと部屋の明かりが一斉に消えて暗くなった。だがすぐに何事もなかったように明るくなった。
「近くに雷が落ちたか……装置の方に影響は?」
「大丈夫です」
 そう助手が答えた次の瞬間だった。
 ドーンという耳を貫くような大音響がして、地響きとともに、部屋の中が真っ暗になった。真っ暗の中でいくつかのスパークが走る。悲鳴が上がり、色々なものが床に落ちる音がした。何かが焼けるような匂いもする。
 櫻井がハッと我に返った時は、床に尻餅をついていた。ほんの一瞬だけ意識を飛ばしていたと思う。そんなに長い時間ではない。
「誰か明かりを! 電源の復旧をすぐにしろ!」
 怒鳴り声と悲鳴が混ざり合う。研究室の中は大混乱だった。落雷したのだ。
 それはどれくらい時間が掛かっただろうか? そんなに長い時間掛かった訳ではない。30分くらいだったと思う。ようやく部屋の明かりが点いた。
 辺りを見回すと、机がひっくり返り、パソコンが床に落ちていた。装置から少し煙が出ている。櫻井は顔面蒼白になっていた。
「カプセルを開けろ! 早く!」
 助手に指示をしながらも、自らもカプセルに飛びついていた。
「サワ! 大丈……夫っ……なっ……なんだこれは!!」
 蓋を開けて中を見て、櫻井は一瞬絶句した後、目の前の光景が信じられないというように、口を半開きにして目を剥いて叫んでいた。
 カプセルの中は空だった。まったく何もない。誰もいない。それは忽然と消えたと言って良かった。

 中屋敷爽が消えた。


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