高級料亭の奥座敷。
 趣のある和室に、5人の男女が向かい合わせに座っている。黒い品の良い黒檀の座卓の上には、会席料理が並んでいた。だがその料理に手をつける者は一人もいない。
 下座に座る女性が、自分の前の皿などを脇に避けて、広く空間を作りそこに手帳を広げて、何かを熱心に書き込んでいる。手帳の傍にはボイスレコーダーが2つ、向かいに座る相手にマイク部分を向けるようにして置かれていた。
「先生の書かれる作品に出てくる男性はとても魅力的であり、それが女性読者に支持される要因の一つでもあると思うのですが、何か意識して書かれている事とかあるのでしょうか?」
 女性は少し緊張しながらも、頬を薄っすらと上気させて、正面に座る相手にそう言った。言われた相手は若い男性だった。彼は腕組みをしてから、少し小首を傾げてしばらく考え込んだ。
「特に意識しているつもりはありません。もちろんキャラクターの性格やイメージなどは物語を考える時に、一緒に構築するものですが……むしろ女性の方から見て魅力的だと感じてもらえるのならば、成功しているという事なんですかね?」
 彼はそう答えてニコリと微笑んだので、ライターの女性はポッと頬を染めた。
「今、大人気のファンタジー小説『ヴァルト・サガ』は、20代女性に絶大なる支持を集めていますが、それも主人公・ヴァルトの人気はすごいと思います。成功しているなんてものではないと思います」
 彼女は高揚した様子で、そう熱弁したので、先生と呼ばれた男性は、少し苦笑しながらも「ありがとう」と答えた。
「先生が素敵なので、ご自分をモデルにしているという事は無いのですか?」
 勢いのまま彼女がそう尋ねると、男性の方は一瞬顔を曇らせて目を伏せた。
「すみません! そういう先生の性別を意図させるような質問は止めて頂きたいと最初に言ったはずですが!」
 男性の隣で、それまで静かに座っていたマネージャーらしき女性が、キッと睨むような視線を送り、厳しい口調で言ったので、ライターはビクリとなると、みるみる顔色を白く変えて、次にみるみる赤くなった。
「も、申し訳ありません! 今の質問は忘れてください! すみません」
 彼女は何度もペコペコと頭を下げて、必死になって謝罪した。
「先生、申し訳ありません。おい、そろそろ」
 ライターの女性の隣に座っていた中年の男性が、頭を下げながらインタビューを切り上げるように促した。
「そ、それでは最後に、ファンの方々へのメッセージをお願いします」
 慌てて無理やり締めるように最後の質問を投げると、先生と呼ばれる男性は、少し苦笑をしてからコホンと小さく咳ばらいをした。
「そうですね……私は色々なジャンルの作品をこれからも書き続けていきたいと思っています。サスペンスで好きになってくれた方、恋愛小説で好きになってくれた方、ファンタジーで好きになってくれた方、入り口は皆様違うかもしれませんが、すべて私の作品ですので、すべてを好きになってもらえると嬉しいです。そしてこれからも新しいジャンルに挑戦していくので、一緒に挑戦してみてください」
 彼は落ち着いた様子で、そう語った。ライターの若い女性が、ウットリとした顔で、彼の穏やかな語り口調に聞き入っている。
「それではこれで取材は終了という事でよろしいですか?」
 男性の隣に座っていたスーツ姿の女性が、ハキハキとした口調でそう言って、ライターの女性が余韻を楽しむのを遮るように、その場を締めようとした。ライターの女性はハッとなり、少し赤くなりながら慌てて姿勢を正してから「ありがとうございました」と言って深々と頭を下げた。それと同時に彼女の隣に座る中年の男性二人も深々と頭を下げて礼を述べた。
「いやあ、先生。この度は小誌の取材に応じて頂きまして、誠にありがとうございました」
 一番偉そうな感じの男性が、自分の息子ぐらいの歳の若い男性に深々と頭を下げる。それに習うように他の二人も深々と頭を下げた。
「いえ、デビューしたばかりの頃お世話になった布川さんの頼みとあれば断るわけにはいきませんから」
 青年は微笑を浮かべながら静かにそう答えた。
「あれから何年になりますかね? 7年……いや8年か、早いものですな。今や中谷四季(ナカタニシキ)先生は超人気の売れっ子作家だ」
「布川さんに目を掛けていただいたおかげです」
「まあまあ、積もる話は食事をしながらでもいかがですか?」
 もう一人の男性が、座卓の上に並べられた料理を勧めた。
「いえ、せっかくですが……先に食事の席はお断り申し上げていたはずですが?」
 中谷先生と呼ばれる青年の隣に座る女性が、少し厳しい口調で咎めるようにいったので、言われた男性は萎縮したように首をすくめて「申し訳ありません」と頭を下げた。
「先生、お気を悪くされたら申し訳ありません。彼も悪気があったわけではなく、先生を接待しなければという気遣いが裏目に出ただけで、先生がこのような席をお好きでない事は重々承知しているのですが……」
 布川が庇うように言って苦笑して見せた。
「せっかくこんなおいしそうな料理をご用意いただいたのに、食べずに帰るのは勿体ないですよ。頂かせてもらいます」
 中谷は微笑を浮かべながら、向かいに恐縮して座る三人の顔を一様に見渡してから、穏やかな口調でそう言った。そして隣に座る厳しい表情の女性にも視線を送って、「ね?」というように目配せをした。女性は仕方ないというように小さくため息を吐く。
「先生もそうおっしゃっていますので、今日の所はご馳走になります」
 義務的な口調でそう告げて彼女が頭を下げたので、出版社側の3人はホッとした表情になった。
 しばらくの間、その場は食事をする微かな音だけが響く静かな空間となった。呼ばれた仲居が酒を持ってきたが、それはやんわりとした様子で中谷が断ったので、招いた側の男たちが困ったように顔を見合わせた。特に一番末席にあるライターの若い女性などは、おろおろとした様子で食事も喉を通らないようだ。
 そんな雰囲気を察して、中谷は箸を置くと、フッと小さく微笑みを浮かべて周囲を見回した。
「すみません、なんとも気難しい男だと思われていると思いますが……私は事情があって、私の年齢も性別も素性も一切を隠して作家の仕事をしています。これはまあ……ここだけの話、私の実家の問題なのですが……作家と言う私の職業を理解して貰えていない物で……私が私であるという事を隠さなければ作家が続けられないという……そういう事情なのです。とはいえ、あまりにも頑なに拒否ばかりしていては、出版社の方々にもご迷惑をかけるのは重々承知していますし……それでも私の我が儘を聞いて、私の作品を扱って頂けるのはありがたいことだと思っています。ですから……今回は特別に取材をお受けしたのだと……そうご理解いただけるとありがたいのです」
 中谷はそういって、深々と頭を下げた。
 ぼんやりとした様子で、中谷の話を聞いていた三人は、そこでハッとなると、慌てて深々と頭を下げ返した。
「先生、そんな、とんでもありません! こちらこそ色々と無理を申し上げて、本当に申し訳ありません。これっきりですから! もう二度とわが社で、先生に取材をする事はありませんから、どうかお許しください」
 布川が頭を下げたままそう言って、他の二人も「よろしくお願いします」と何度も頭を下げるので、中谷は困ったように苦笑してから、隣に座る女性へと目配せした。


 中谷達の乗ったタクシーが角を曲がり見えなくなるまで、布川たちは頭を下げて見送っていた。その姿が見えなくなったところで、ようやくホウッと中谷が大きなため息を吐いた。
「お疲れ様でした」
 そう声を掛けられて、中谷はクスッと小さく笑いながらネクタイを緩めた。
「お疲れ様は、篠田さんでしょ? ごめんね、いつも憎まれ役させちゃって」
「それが私の仕事ですから」
 彼女はクールにそう答えた。
「先生は執筆に専念して頂ければそれでいいんです。それ以外の事はすべて私がやります。今日の取材だって、いつものようにFAXコメントで済ませましたのに」
「布川さんにはお世話になったからね。前から何度も頼まれていたし……一度は顔を立てておかないと」
 中谷は、外の夜景を眺めながら、ため息交じりにそう言った。
「ほら、面倒なことはさっさと済ませておいた方が、後々楽だし」
 篠田の様子を察して、中谷はクルリと顔を向けてから、ニッコリと笑ってそう言った。篠田はここでようやく笑みを浮かべて見せた。
「先生がそんな風だから、私も放っておけなくてマネージャーをやってるんですよ」
「そんな風って?」
「人に気を遣いすぎるお人よしな所です」
「そうかな? 随分自分勝手で我が儘だと思うけど……」
 中谷は困ったように笑って見せて頭をクシャッと掻いた。
「性別も素性も全てシークレットにしなきゃいけないのに、相手を困らせることが出来ないなんて……バレたらもう作家活動が出来なくなるって言うのに……先生。私は先生の才能に惚れてるんです。これからもずっと書き続けて頂かないと困るんです。先生自身がとことん我が儘になれないのなら、私が口煩いマネージャーになるしかないでしょ?」
 篠田はそういうと、メガネをクイッと少し上げて見せた。それを見て、中谷がクッと笑った。
「篠田さんのご主人に怒られそうだ」


 やがてタクシーは、新宿の一角で止まった。ドアが開いて、中谷が一人降りた。
「先生、ほどほどにしてくださいね」
「大丈夫だよ。今日は店を見に行くだけで、遊ばないから」
 中谷は車の中に居る篠田に向かってそう告げると、ドアを閉めて走り去るタクシーを見送った。
 ネオンのにぎやかな通りを歩いて、1本奥の路地に入った所のまだ真新しい細長いテナントビルの中へと入っていった。ビルの外には、色とりどりのライトアップされた看板が掲げてある。奥のエレベーターを使って3階へと向かった。
 エレベーターを降りて、細長い通路に2つあるドアの奥の方へと進んだ。
 黒い革張りの重い扉を開けると、中は静かな1軒のバーだった。黒を基調にした内装と、淡いブルーの間接照明、抑え目な音量で流れるジャズ、落ち着いた雰囲気の品の良い店だった。
 黒い革張りのソファのテーブル席が4つと、カウンター席が6つ。広い店内の割には、席数を少なくして、ゆったりとした空間が作られている。
 テーブル席は2つ埋まっていた。男ばかりが5人と4人。何か楽しそうに話しこんでいる。
 中谷は店内を見回してから、カウンター席に座った。
「久しぶりね、いらっしゃい」
 バーテンダーの男性が、中谷に向かって微笑みながら言うと、おしぼりを差し出した。
「最近忙しくてね……どお?」
「まあいつもどおりね、常連さんは減ってないし……そんなに増えても無いけど」
 バーテンダーが笑ってそう言うと、中谷も微笑んで見せた。
「別に繁盛する必要はないよ。常連のお客さんが来やすい店ならそれでいいんだ。来なくなる常連さんが目立つようなら言ってね」
「了解……アキラさんは本当に欲が無いのよね〜」
「そういう訳じゃないよ。ここはオレにとっても安らぎの場所だからね。居心地のいい場所をいつまでも残しておきたいだけさ」
 差し出されたブランデーの入ったグラスを受け取ると、中谷はそう言って微笑んで見せた。バーテンダーもそれ以上は構う様子はなく、自分の仕事の続きを始めた。
 中谷はフゥと小さく息を付くと、しばらくの間ぼんやりと宙を見つめていた。ただこうして静かなお気に入りの場所で、ぼんやりと過ごすのが好きだった。家でならば、いつだって一人で静かに居られるのだが、誰かがいる空間と言うのが居心地良かった。一人は寂しい。その為に彼はこの店のオーナーをしていると言っても過言ではなかった。
どれくらいの時間、そんな風にぼんやりとしていたのか、グラスの氷が溶けて、カランッと音を立てたのでハッと我に返った。手に取り一口飲んでから、またため息を吐く。
ポケットからスマートフォンを取り出して、メールチェックを始めた。画面をゆっくりとスライドさせる指先が、ふと止まる。画面に表示された文面をしばらくみつめてから、また小さくため息を吐いた。
「あの人はあいかわらずだな……」
 誰に言うでもなく、ポツリとつぶやくと微かに苦笑して口元を歪めた。
 その時ポンッと肩を叩かれたので振り向くと、見慣れた笑顔がそこにあった。
「遠藤……居たのか!?」
「いや、お前が来ているって、ママから連絡あったから急いで来た」
 遠藤と呼ばれた男はそう言うと、中谷の隣に座った。
「ごめんなさいね、頼まれていたのよ。アキラさんが来たら教えてくれって……ほら、私、遠藤くんには弱いから」
 バーテンダーはふふふと笑ってから、遠藤に水割りを出した。中谷はちょっと驚いてから、仕方ないなと言う様子で苦笑した。
「お前、忙しくてなかなか捕まんないからさ」
「忙しいのは遠藤の方だろう? 病院、ずいぶん流行っているみたいじゃないか」
「おいおい、ウチは心療内科だぜ? 流行っているのは、そういう心の病の人がたくさんいるって事だろ? 喜べないって……まだ外科や内科の方が流行った方がマシさ」
 遠藤は少しばかり自嘲気味に笑った。爽やかな雰囲気のいい男だと思う。モテるのも当然だ。彼は大学の頃から女にも男にもモテていた。それでいて、気取った所が無い。誰にでも分け隔てなく接する。社交的で友人も多い彼が、なぜ自分と親しくしているのかは未だにわからないと、常々中谷は思っていた。
「オレも一度遠藤の所で見てもらった方が良いかもな」
 中谷が苦笑して言った。
「サワは別に心の病なんて持ってないだろう」
「遠藤」
 中谷がビクリとなって、遠藤を窘めるようにキッとみつめた。
「ああ、ごめん……この呼び方はお気に召さないか? ここではなんだっけ? 『アキラ』だっけ?」
 遠藤が困ったように頭を掻きながらそう言ったので、中谷はハッとなって、気を静めるように一口酒を飲んでからフウと息を吐いた。
「ごめん……別にいいよ……ただ、サワなんてお前前から呼んでたっけ?」
「呼んでたよ。大学の頃は……ほら、あの人。櫻井先輩がそう呼び出して、サークルのみんなも真似しはじめたんだっけ……と……ごめん、櫻井先輩の話はNGかな? ああ、そうだな、卒業してからはお前が嫌かと思って、その名前では呼ばないようにしていたんだったっけ……」
「別にいいよ……先輩と特に何かある訳じゃないし……さっきも丁度先輩からメールが来たところでさ」
 中谷はそう言って、スマートフォンの画面をチラリと見せた。
「なに? お前まだ先輩と関わってるのか?」
「うん、最近……たまにね」
「お前、あの人に利用されているだけだろう? もう関わるのはよせよ」
 遠藤がとても真顔になって言うので、中谷はプッと吹き出した。クククッと小さく笑ってから、軽く首を振って見せた。
「君が心配しているようなことはもう無いよ。先輩に会うのだって1年前に、本当に大学卒業以来久しぶりで連絡貰ってからだし……あの人の研究に少しだけ手を貸してあげているだけだよ」
「研究? あの人今何やっているんだ?」
「あいかわらず、頭のおかしい事をやってるよ」
 中谷ははぐらかすようにクスクスと笑いながらそう言って、グラスの酒を飲みほした。コトリと置いたグラスの中で氷が回る。それをジッとみつめる中谷の横顔を、遠藤がジッとみつめていた。心配してくれているのだということは分かった。彼は昔からこういう奴なのだ。
「ね、だから一度お前の所に行かないといけないなと思って」
 中谷が顔を遠藤の方へ向けると、遠藤は少し慌てたように視線を外してから、中谷の言葉に首をかしげた。
「なんかオレ、情緒不安定だろ? あいかわらずいつも周りの視線を気にしてばかりだ……今日ね、雑誌の取材を受けたんだけど……性別隠したり、名前隠したり……改めてオレって何者なんだろうと思って……こういうのって、やっぱり精神的にちょっとおかしいのかもと思ってさ」
「作家なんだから、ペンネームなんて誰だって付けるだろう? 性別隠している作家なんて他にもいるだろ?」
 遠藤が肩を竦めてみせたので、中谷は黙ったまま、また氷だけ入ったグラスをみつめた。
 彼は分かっているのに、分からない振りをしてくれている。
 自分でも一体何から逃げているのか分からないが、いくつも名前を使い分けて、別の自分を演じているのは、少々異常ではないかと時々思う。
「中谷四季」作家としての名前だ。
「先生」周囲の人々は今はもうこの呼び名でばかり呼ぶ。
「アキラ」この店での名前。
「サワ」大学時代のあだ名だ。
そして本名は「中屋敷爽(ナカヤシキ ソウ)」。気が付いたら、本名の方はもうずいぶん使ってないし、人からもこの名前で呼ばれることは無い。
 本当の自分が嫌いで、出来ればもうこのまま消滅してしまっても構わないと思う事がある。そんな自分は少しおかしいのではないかと思うのだ。
「まあなんか悩んでることがあるなら、いつでも話聞くし……病院来るのが嫌なら、オレの家に来てくれても良いし……ああ、もちろん下心は無しだ。友達としてな」
 遠藤は笑ってそう言った。中谷も微笑み返して頷いて見せた。
 時々、彼の好意を利用して楽になれればいいのにと、中谷は思うことがある。遠藤は大学時代からずっと中谷に好意を寄せてくれている。告白されたこともあった。だが断っても彼の友情は変わる事は無かった。
 中谷にとっては、唯一の友人であり、同性愛者であることを隠さずにいられる同志でもある。唯一心を許せる相手なのだ。
「じゃあ、オレはもう帰るよ」
 中谷が立ち上がり、奥に居るバーテンダーに目配せを送った。
「とにかく……櫻井先輩にはあまり深入りするなよ?」
「大丈夫だよ。ありがとう……また今度ゆっくり会おう」
 心配そうな遠藤の肩をポンと叩いて、中谷はその場を去った。


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