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 藤崎は毎週火曜と金曜の夕方6時から8時までの2時間、中学3年生の女の子の家庭教師、月曜と木曜の夜7時から9時までの2時間、高校3年生の男の子の家庭教師をやっていた。
 藤崎にとって、どっちがやりにくいかというと、当然中学生の女の子だ。彼女はかわいいのだけど、なかなか勉強に集中してくれない。女の子の扱いはニガテだと思った。
 しかし2学期に入って最初のテストの結果が随分良くなったからと、母親からお礼に別料金まで頂いたし、バイト代もアップしたので辞められないでいた。
 彼女の名前は、服部沙那ちゃん。数学と英語が全然ダメで、いつも赤点……というか、1桁の点数しか取ったことが無かった。
 それでは当然ながら、高校受験はかなり危うい。ましてや母親が希望している『有名私立お嬢様学校』への合格など、お金を積んだってつま先も引っ掛かりそうに無かった。
 最初その成績を見た時、『なんとか人並みの点数まではいけても、有名私立の学校は無理じゃないか?』と思ったのだが、他の教科を見ると、彼女が好きだという国語と社会の点数は、なかなかどうして、良い点数を取っているので、とにかくニガテ意識さえ無くしてあげられれば、結構頭の良い子なのではないだろうか? と思い、がんばって教えることにしたのだ。
 そして彼女はがんばった。
 藤崎に教わるようになって、数学と英語を好きになり始めた。1学期の間で、随分理解力が上がった。
 1年生の問題から取りかかって教えたおかげで、随分基礎が解ったようだ。良い傾向だと思った。
 だけど……最近なんだか雲行きが怪しい。すっかり慣れてきたせいか、勉強以外の事に興味が沸き始めたようだ。
「先生、今度先生の写真を撮っても良い?」
 藤崎が作った英語の小テストの答え合せをしていると、彼女が突然ニッコリと笑って言った。
「え? なんで?」
 藤崎は赤ペンで添削を続けながら、返事だけをした。
「友達がね、先生の顔を見たがっているの」
「オレの?」
 そこで初めて藤崎は驚いた様に顔を上げると、彼女の顔を見た。彼女はニコニコ顔でいる。
「私の先生は超イケメンなんだよって、毎日沙那が言うんだけど、みんな全然信じないの……それでそんなに言うなら写真を見せてっていうからさ」
 藤崎は苦笑すると、何も返事をしないで再び添削を始めた。
「ね? いいでしょ? スマホ持ってないから、パパからデジカメを借りるつもりなの」
「はい沙那ちゃん、残念だったね、75点だ」
 藤崎は、完全に無視する様にニッコリと笑って、採点済の小テストを彼女に差し出した。
「これは綴りが間違っているね、『surprised』は『sarprised』じゃなくて『u』だよ。それからこれは現在進行形だから『ing』をつけてね……それからこの( )の中は、『catch』で良いんだけど、この場合は過去形にしてね」
 藤崎は丁寧に、間違い個所の説明をした。彼女は黙って聞いていたが、一通り聞き終わって自分で納得すると、顔を上げて「ね? いいでしょ?」と先程の話に戻ってしまった。藤崎は小さく溜息をついた。
「あのね……沙那ちゃん。オレは『格好良い先生』って誉められるよりも、『教え方の上手い先生』って誉められるほうが嬉しいんだ。だから、写真を学校で見せびらかされるよりも、沙那ちゃんの成績が上がるほうが嬉しいな」
 それを聞いて、彼女はプウッと頬をふくらませた。
「ケチ……写真くらい良いじゃない。沙那がみんなから『嘘吐き』って言われちゃうわ!」
「写真見せたって『嘘吐き』って言われるかもしれないだろ?」
「そんな事ないわ!! ウチのママだって、先生の大ファンなんだから!! あんなハンサムな先生が来てくれて良かったねっていっつも言ってるもん」
 藤崎は困った様に笑うしかなかった。
「ねえ、それよりも今の間違いは解ったかい?」
「……解った」
 彼女は口を尖らせたまま俯き加減で小さく答えた。藤崎はまた小さく溜息をついた。
「解ったよ……写真、撮っても良いよ」
「本当?!」
「でも悪用しないでくれよ?」
 藤崎は冗談の様に笑って言った。
 本当は半分冗談ではないのだが……最近の女子中学生だって、なかなかあなどれないのだ。知らないうちにネットで自分の顔が有名になってしまったり、どこかの雑誌に送られたりしたら、たまったものではない。
「うん、友達に見せるだけだから!」
 彼女は嬉しそうに笑った。
 悪い子ではないのだけど……女の子のこういうキャピキャピしたノリは、やはりニガテだった。
 この母子は、彼女が無事高校進学後も、藤崎に家庭教師を続けて欲しいと言ってきたが、それは丁重にお断りした。
 女の子相手の家庭教師は、もう懲り懲りです……という本心もあるのだけれど、藤崎も3年になれば自分の勉強が忙しくなって、バイトどころではなくなるだろう。
 1人暮ししてもバイトしないで、勉強に集中できるように、今までお金を貯めてきたのだ。
 それを理由に言ったら、彼女の母親は納得してくれた。
 自分で自覚がないけれど、『爽やか』が売りらしい藤崎は、お母様方の評判もすこぶる良い。その家の普段のメニューはどうだか知らないが、藤崎が来る日は、決まってすごく豪華な夕食が用意されていた。
 最初は遠慮したりしていたが、せっかく用意されているのを毎回断るのも失礼だし、今は遠慮無く頂く事にしている。
「先生、本当は恋人いるんでしょ?」
 またその話だ……と藤崎は思ったが、顔には出さずに「さあ」とだけ答えた。
「いるんだ。いるよね、そんなに格好良いんだから……」
「いるとは言ってないだろう?」
「いないとも言ってない」
 どうして女の子って、こういう事を知りたがるのだろうか? 『恋人がいる』と言っても別にいいのだが、それを認めたらそれ以降の質問が次々と浴びせられることが解っているので、藤崎はあえて肯定していなかった。
 この話になると、誤魔化すに限る。
「オレのプライベートについては秘密だよ。勉強とは関係ないだろう?」
 藤崎は、出来るだけ穏やかな口調で答えた。
「だって……沙那、先生の事が好きなんだもん」
 彼女は悪びれも無く言った。
「それはどうもありがとう」
 藤崎はあえてはぐらかす様に、ニッコリと笑って答えた。
「ありがとうじゃなくて〜〜〜!! 先生、本気にしていないでしょ! 私は本当に先生が好きなの! 恋人になりたいの!」
「そうだね……あと5年もしたら考えてもいいかもな」
 藤崎は、大人らしい回答を返した。その言葉に、彼女はかなり憤慨した。
「ひどい!! ぜんぜん本気にしていないんだ!」
「本気にする訳ないだろう? 君はまだ中学生だ。残念ながらオレの好みの範囲じゃないんだよ」
「これでも、脱いだらすごいんだから」
「はいはい。ほら、勉強する気がないんなら、オレはもう帰るよ?」
 ここ最近こんなやりとりばかりで、藤崎はかなり閉口しつつも、大分慣れてきていた。彼女はかなり納得できない様子で、しばらくの間恨めしそうに藤崎をみつめていたが、小さく「はあい」と言って、教科書に目を移した。
 藤崎はそれを見て、安堵した様に微笑んだ。


 あれに比べたら、本当にこっちが楽だよな……と思うのは、家庭教師先の男子高校生の方だ。藤崎と同じY大を目指している。
 名前は、鈴村修君、第1印象は「真面目なガリ勉君」という感じの『委員長タイプ』の子だ。学校の成績ももちろん良いらしいし、進学塾にも通っているのだが、それでも不安らしく、現役Y大生にも家庭教師をしてもらおうという事らしい。
『石橋を叩いて渡る』タイプなのだろう。
 お母さんは優しそうな人で、教育ママという感じではなかった。もちろんこちらのお母さんも、藤崎贔屓だったりする。
「先生って、弁護士を目指してるんですか?」
 鈴村君が、問題を解きながら、ふと手を止めて尋ねてきた。
「ああ、そうだよ」
「どうして弁護士になろうと思ったんですか?」
『よく聞かれる質問だ』と思った。この質問をされる時には、答えもちゃんと用意してある。
「祖父が弁護士でね、尊敬しているんだ」
 藤崎はニッコリと笑って答えた。
 嘘ではない。藤崎の父方の家の男子は、代々みんな弁護士をやっていた。唯一、藤崎の父親だけが、弁護士ではない。
 彼は野球小僧で、甲子園にも出場した事があるが、プロになれるほどの才能はなく、社会人になってスポーツ新聞の記者になった。
 藤崎は小さな頃から読書が好きで、祖父の所蔵する推理小説を読むのが大好きだった。暇があれば、祖父の家に遊びに行っていたので、祖父も藤崎をとてもかわいがった。
 藤崎の兄達は、祖父が怖くてニガテだったらしく、あまり寄り付かなかった。そのせいもあるかもしれない。
 藤崎が祖父の影響で、小さな頃から弁護士に憧れていたかと言うと、実は『嘘』になる。祖父を尊敬していたし、弁護士の仕事も素晴らしいとは思っていたが、別になりたい訳ではなかった。
 弁護士になろうと思ったのは、高校3年で進路を決めた時だ。色々と考えて、それが一番良いと選択したのだ。サラリーマンと違って転勤もないし、接待もしなくて良さそうだし、会社の派閥とかそういうのも関係ない。一生独身でも、周囲から詮索されることもなさそうだと考えた。それに経営者である眞瀬の顧問弁護士になるのも良いと思った。
 そんな事とは知らず、大抵の人がこう答えると、「それは素晴らしいね」と言って納得してくれる。
 鈴村も同じ反応だった。
「へえ……さぞや立派なおじいさんなんでしょうね」
 と、顔を輝かせて藤崎に言った。藤崎は、ニッコリと笑って頷いた。
「鈴村君は、将来何になりたいんだい?」
「実は特に目標ってないんです。父はY大を出て、一流企業に入れってそれだけで……」
「それだってすごい事じゃないか。一流企業なんて、入りたくて入れる物ではないし……まだ君は高校生なんだから、とりあえず今はそういうアバウトな目標でもいいんじゃないのかな? 大学に入って、色々な事を勉強して、経験して、その内にどんな職種の企業で働きたいのかが、きっと見えてくるよ」
「だげど……」
 彼は俯いて、少し考え込んだ。
「なんか夢がないですよね……ただのサラリーマンって」
「そんな事ないよ。一口にサラリーマンって言ったって、色々あるんだし……君のお父さんだって立派に働いている。オレの父親もね、新聞社に勤めるただのサラリーマンだよ。だけど父の事は尊敬しているよ」
「先生って……すごいよね」
「え?」
 藤崎は不思議そうな顔をしてみせた。鈴村は顔を上げると、ジッと藤崎の顔をみつめた。
「そういう事……サラリと言えるなんて」
「なにが?」
「お父さんを尊敬しているなんて……オレ、父を尊敬しているって言えないもん」
「え? なんで?」
 藤崎は本当に不思議そうに尋ねた。
「真面目そうで良い方だと思うけど……まあ、オレも2〜3回会っただけだから、知っているとはいえないかもしれないけどね」
「父の会社は、中小企業で……不景気の煽りをまともに食らって、リストラとか、給与カットとかでなんとか凌いでいるような会社だし……父はもう50才近いと言うのにまだ課長止まりで……真面目なだけの人で、趣味も何もないし……会社の為に、毎日遅くまで働いているけど、残業代もほとんど出ないし……家族の為に働いているのはすごいとは思うけど、父のような人生って、なんか嫌だなって……父も、自分でそう思っているから、オレに一流企業に入れって……夢も何もないですよ」
「君が本当に、そんな人生が嫌だと言うのなら、自分で何かをみつければいいじゃないか?Y大に入るのは、親の為かもしれないけど、大学に入ってからでも目標をみつける事はできるんだし……それに、お父さんをそんな風に見たらダメだよ。君がこうやって暮らしていけるのも、大学に行けるのも、お父さんのおかげなんだからさ」
 藤崎の言葉に、鈴村は少し赤くなって、ジロリと睨んだ。
「だからそういう事をサラリと言える先生って……絶対変だよ」
 鈴村は、口調も荒く言った。藤崎は、少し驚いたが、穏やかな顔のままで鈴村をみつめた。受験生は、みんな不安を抱えて情緒不安定なものだ。彼も将来に不安を感じてイライラしているんだろうと思った。
「どうして?」
 藤崎は、穏やかな口調で尋ねる。
「変だよ……そういう事が言えるのは、何も悩みとかコンプレックスとかがないからだ。先生は、頭も良いし、顔もハンサムだし……背が高くて、女の子にもすごくモテそうで……弁護士なんて格好良い目標もあって、自信があるんだ。だからそんな事が言えるんだ」
 鈴村は、興奮したように捲くし立てた。
 藤崎は黙って聞いていたが、彼が言い終わった後も、しばらく黙ってジッとみつめていた。
「そんな事無いよ……オレだって悩みはあるさ」
「嘘! 嘘だ。悩みってなんだよ!」
「ごめんね、それは言えない」
「やっぱり……無いから言えないんだ」
「違うよ。人に言えない悩みだから悩んでいるんだ。誰かに相談でも出来ればどんなにか楽だと思うよ。そしてこの悩みは、きっと一生……引きずっていく悩みなんだ」
 藤崎が少し遠い眼差しで言ったので、鈴村は思わず言葉を止めてその横顔をみつめた。
「だけどね。悩んでばかりもいられないから……なんとかがんばろうとはしている。がんばって解決できる悩みじゃないんだけどね。あまり後ろ向きになっちゃダメだって思ってる。強くならなきゃね」
「先生……」
 その時の藤崎は、鈴村が始めて見る表情だった。


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