消え去りし瑕

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「驚いたな……こんな所で会うとは……元気そうだな、何年ぶりだ?」
 石川社長の息子は、笑みを浮かべながらそう言った。
「ご、ご無沙汰しています」
 芳也は青い顔になって俯きながら答えた。
 東城は、上着の後ろの裾を握られている事に気づいていた。只ならぬ芳也の様子を気にしながらも、石川社長の息子をみつめた。東城よりは少し低いくらいだがスラリとした長身で、狸の息子にしてはまあまあハンサムだと思った。スーツ姿も板についている。噂によると、シカゴにある系列会社に5年間経営術を学ぶために行っていたそうだ。なかなか優秀で、単なるバカ息子ではないらしい。
 東城は上から下まで彼を値踏みするようにみつめた。
「ご子息は、藤崎君とお知合いなんですか?」
「はい、高校が同じで、私も野球をやっていたんですよ。藤崎君は野球部の後輩です」
 社長にワザと聞いたのだが、息子が代わりに答えてきた。東城は「ほお」とだけ答えた。
「懐かしいな……久しぶりにゆっくりと話したい。東城社長、失礼ですが少しばかり彼をお借りしても良いですか? 積もる話もありますので……」
 石川博雅の言葉に、芳也がビクリと体を震わせた。東城はそれに気づいていたが、少し眉間を寄せて考え込んだ。
「そうですね。どうぞお気兼ねなく」
 東城の答えに、ギュッと上着が引かれた。芳也が嫌がっているのは感じている。だが東城は止めなかった。
「藤崎君、向こうで話さないか?」
 石川がそう言って外へ出るように促したので、芳也は青い顔で東城と石川の顔を交互に見た。東城はチラリと芳也の顔を見た後、何も言わずに目を反らしてしまった。
「藤崎」
 石川が少しだけ声色を変えたので、芳也はびくりと震えてからコクリと頷いた。
 会場の外へと去って行く二人の姿を東城は見送った。
「いやあ……息子はそこまで野球センスがなかったもので、高校までで止めさせましたがね。後輩に彼の様な有望な選手がいるというのは、我が事の様に嬉しい物ですな」
 その横で、一人石川社長が色めき立っていた。東城は生返事をしてワインを一口飲んだ。


「久しぶりだな」
 会場の外にでて、少し離れた廊下の先に置かれたソファに座ると、石川がそう切り出した。隣りに座って身を硬くしながら、芳也は俯いて何も答えなかった。
「オレがアメリカに行っている間に、随分プロでご活躍だったみたいだな。芳也」
 名前を呼ばれてビクリと体が震えた。手の先が冷たくなっていた。芳也はギュッと膝の上に乗せていた手を握り締めた。震えたらダメだ。もうこの人とは関係はないのだ。そう何度も自分に言い聞かせた。
「今は、東城社長がパトロンなのか?」
 卑らしい韻を含んだ言い方だった。芳也は驚いて顔を上げて石川を見た。ニヤリと笑っているその顔に、ゾッとなった。ああ、昔の石川先輩だ。そう思ったら体がガタガタと震えてきた。
「なんだ? 震えているのか? 心外だな〜そんなにオレは恐いか? 昔、かわいがってやったじゃないか……芳也、それともその体はもうオレを忘れちまったのか?」
 石川はそう言って芳也の肩に触れた。芳也はビクリとなって、ギュッと目を閉じた。ダメだ。震えたらダメだ。そう思うのに体は勝手に震え始める。怯えては、石川の気持ちを刺激するだけだ。彼の残虐な心を……。
「やめてください。オレは……もう昔のオレじゃない」
 芳也は勇気を振り絞って言った。でも声が震えてしまっていた。グッと奥歯を噛み締めた。負けてはダメだ。あれからもう12年も経っているのだ。遠い昔の事だ。そう何度も自分に言い聞かせた。
「どう昔のお前じゃないんだ? 東城社長を咥え込んでいるんだろ? この卑らしい体は…そうだよな? お前の体は淫乱なはずだろ? オレに犯されて悦んでいたくせに」
 パンッと音が鳴り響いた。芳也は石川の頬を叩いていた。赤くなった頬を手で押えながら、石川はクククッと笑っている。
「と……東城さんはそういうんじゃない……」
「へえ……じゃあ、オレとの関係を教えてやったら驚くだろうな?」
「やめろ!」
 真っ赤になって怒鳴る芳也を見て、石川は「へえ」と言ってニヤリと笑った。
「バラされたくなかったら、明日の夜オレに会いに来いよ。そうだな、記念にこのホテルが良い。明日の夜8時……このホテルのロビーに来い」
「いやだ」
「来なくても良いさ。お前の過去が東城社長に知れるだけだ」
 石川は楽しそうにクククッと笑った。芳也は真っ青になって唇を震わせていた。
「ここにいたのか」
 ふいに東城の声がした。ハッとなって見ると、東城がこちらに向って歩いてきていた。
 芳也は思わずバッと勢いよく立ち上がると、逃げる様に駆け出していた。
「芳也!」
 名前を呼ばれて、ビクリとなって足を止めた。名前を呼ぶ声はふたつ。二人の声がハモった。東城も驚いたようにもう一つの声の主、石川を見た。彼は東城の方をチラリと見てニヤリと笑うと、芳也の方へと顔を向けた。
「さっきの件、解ったな」
 念を押すように言われて、芳也は振り向かずにまた駆け出した。
 東城は呆然とそれを見送ってから、石川へと視線を向けた。その顔は、右頬が赤くなっていた。おそらく芳也に叩かれたのだろう。何があったというのか?
「東城社長……申し訳ありません。がウッカリと彼を怒らせてしまったようで……ついつい昔のくせで先輩面をしてしまったらしい」
 彼はそう言ってクククッと笑った。東城は一瞬眉間を寄せたが、すぐに冷静な顔に戻った。
「いえ、私ももう帰りますので……失礼します」
 軽く会釈をしてからその場を去った。
 ロビーへと降りてから、懐から携帯電話を取り出すと、芳也の番号を呼び出した。3回コールした後「ただいま電話に出る事ができません」という案内が流れた。拒否された。もう1度掛け直すと今度は「電源が入っていないか……」との案内が流れた。電源を切られた。拒否された。
 東城は携帯電話のディスプレイをしばらく眺めてからチッと舌打ちをした。
 薄々とは感づいていた。あの男……石川博雅とは、『石川先輩』なのだ。芳也の心の傷になっている過去の男……東城にはそれくらいしか知らない。だが初めて芳也と会ったのも『石川先輩』という名の所為だった。だから忘れる訳が無い。ずっと芳也を縛り続けている『瑕』だ。
「あれが石川先輩だと? 全然オレと似ていないじゃないか。あんなハナタレが石川先輩だと! クソッ!」
 思わずイライラと声に出していた。玄関にいたポーターが驚いた様に東城を見ていた。


 「ただいま」も言わずに、家に駆け込んでいた。あまりにも早い帰宅に両親が驚いて何か声を掛けてきたが、耳に入らずそのまま階段を駆け上がっていた。乱暴にドアを閉めて電気もつけずに自室へと閉じこもった。ベッドに体を投げ出して、しばらく放心していた。
 まだ体の奥が震えている。忘れていた過去が、体は覚えていた。
『石川先輩』遠い過去の人だったはずだった。風の便りで、アメリカに行ったと聞いてホッとしていたはずだった。もう2度と会わないのだと……。
 彼の暴力に支配されていた過去……『卑らしい体』石川がそう言った。そうだ。この体は卑らしい体だ。石川を恐れ怯えながらも、どこかで欲して悦んでいた。彼が遠くに行って安心しながらも、どこかで寂しく思っていた。そうだ……昔は……昔は確かにそうだった。だから初めて東城に会った時、その後姿に石川の姿を無意識に重ねていた。あの時は懐かしさに声を掛けていた。あの時は……そうだ、東城に出会ってから変わったはずなのだ。この体はもう東城の色に染まっている。石川から受けた傷はもう消えたはずなのだ。もう昔の自分ではないのだと……そう思っていたのに……もう石川を思い出す事もなくなっていたというのに……。
 枕に顔を押し付けて、カバーの布を噛んだ。
 石川ならば……本当に東城に言うかもしれない。あの忌まわしい過去を……きっと嬉しそうに語るだろう。東城はどう思うだろうか? 怒るだろうか? 誰に? いや、きっと芳也の『卑らしい体』を知って呆れるだろう。
 終りだ……そう思った。いくら東城が、芳也を奴隷のようにしているからと言って、そんな汚れた体にはもう興味を示さないだろう。そう思った。東城が支配していたから興味があったのだ。他の男のおもちゃだったと知ったら、あのプライドの高い男は、もうこんな体に愛想をつかしてしまうだろう。
 そう思ってハッと気づいた。
 芳也が恐れているのは石川ではない。東城に捨てられる事を恐れているのだ。
 芳也はムクリと体を起こした。カーテンの引かれていない窓からは、月明かりが射し込んでいた。東城に知られたくない。そう強く思う。明日、石川に言われた通りホテルに行けば、どんな目に会うだろうか? ぼんやりと思う。
 石川の事だから、ただでは帰してくれないだろう。またあんな事をされてしまうだろうか? そう思ったらブルリと体が震えた。
 でも逃げるわけにはいかない。東城に知られる訳にはいかない。
 グッと拳を握り締めた。


 ホテルのロビーのソファに、ぼんやりと座っていた。時計はまだ8時を指していなかった。たくさんの人が行き来するのをぼんやりとみつめていた。
「早かったな」
 声を掛けられて、振り向かずにゆっくりと立ちあがった。
「上に部屋を取ってある……解ってるだろう?」
 続く言葉にも頷く事もなくただ彼の側へと歩み寄った。それでも彼は満足そうに笑みを浮かべて、芳也の肩をポンと叩くと歩き出した。その後に黙って従った。

 部屋に入ると、石川は上着を脱ぎながら冷蔵庫を開けていた。芳也は入口に立ち尽くしていた。
「何か飲むだろ? おいおい、そんな所に立ってないでこっちにこいよ」
 随分ご機嫌だな。そう思いながら、芳也は大人しく部屋の中へと入った。昔から彼はこんな風に解り易かった。芳也が大人しく言いなりになるのが、彼の機嫌を良くした。そういう時は、あまりひどい事をしないから、芳也もおとなしく従った。
 ふと汗とカビの匂いの入り混じった薄暗い部室を思い出した。高校の野球部の部室。忌まわしい場所。石川が卒業した後も、ずっとあの場所に行くのが恐かった。あそこへ行くといつも体が震えた。後輩達に気取られそうになるほどに……。
「どうした?」
 ぼんやりとしている芳也を見て、石川が不思議そうに声を掛ける。
 目の前にいるのは、坊主頭の先輩ではない。すっかりエリートビジネスマンの顔になった男だ。12年経って、お互いにもう変わった筈だ。そう……芳也だって、何の力も無い1年坊主ではもうない。27才のいい歳をした男だ。それなりに社会的地位のある大人だ。
 グッと腹に力を入れてから、芳也はおもむろに上着を脱いだ。
「石川先輩、最初にハッキリとさせて欲しいんですが」
「なんだ?」
「オレは約束通り来ました。貴方がオレに何を求めているのかも解っている。今夜は気が済む様にして下さい。でもこれっきりです。もうオレには関わらないで欲しい。貴方だって、別にもうオレに興味がある訳ではないでしょう? あの時のオレとは違う。背だって伸びたし、体だって……現役のスポーツマンですから、決して華奢ではない……貴方が好きだった『かわいい芳也』ではもうないのですから」
 芳也の言葉に、石川は驚いた様子で、飲み掛けの缶ビールをテーブルの上に置いた。しばらくマジマジと芳也の姿をみつめてからゲラゲラと笑い出した。
「そうだな。あの頃のお前は本当にかわいかった。まだ中坊っぽさが抜けてなくて、華奢で、女の子みたいにかわいい顔をしてて……オレの腕力にも敵わなくて……そうだな、今ならお前には腕力で負けるかもな。だが体は卑らしいままだ。オレに可愛がられたくて仕方ないんだろう? 優しくしてやろうかと思ったが……あの頃みたいに酷くした方がいいのかもしれないよな?」
 彼はそう言うと、ポケットからロープを取り出して見せた。
「今夜は気が済む様にしていいんだろ?」
 石川はそう言ってニヤリと笑った。
 芳也は絶望した様に黙って目を閉じた。
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