消え去りし瑕

ススム | モクジ
「愛してる」
 夢の中で、彼の声が聞こえた。それは聞きなれた声。低い艶のある声、腰に響くようなバリトン。それは甘い囁き、とても優しい優しい声色。
『まちがいなく夢だな』と思った。現実ならば絶対にありえない。彼がそんな優しい声色で、そんな言葉を耳元で囁くはずが無い。そう思ってはいるけれど、夢が霞んできてなんだか今にも目が覚めてしまいそうだと思った。夢の中にはもう彼の姿は無い。
「愛してる」
 もう1度その声を聞いた。それと同時にうなじにキスをされたのを感じた。それは夢ではなく、現実的な感覚がして、「あれ?」と思ったら目が覚めた。
 まだ霞みがかかったような意識の中で、目を開くとそこには何も見えなかった。枕に顔を押し付けるように、うつ伏せになって眠って居たのだという事に気づいて、寝返りをうつ。照明の光が目に飛び込んできて、眩しくて思わず顔をしかめて目を細めた。
「起きたのか?」
 声がしてそちらに顔を向ける。
 クローゼットの扉を開けて、スーツを着る東城の姿があった。
「あ……ああ、今……何時だ?」
「もうすぐ2時だ」
 東城は、ネクタイを締めながらいつもの淡々とした口調でそう言った。
 芳也は「そうか」と小さく呟きながら起きあがった。何時の間にか眠ってしまっていたらしい。情事の後、シャワーを浴びてから、少し横になっただけのつもりだった。
「別に見送らなくても良いぞ、朝までゆっくり眠ると良い……疲れただろう?」
 東城は、ニヤリと笑いながら皮肉めいた言い方をした。
「別に見送るつもりなど無い!」
 芳也はカアッと赤くなって、反論した。だが東城は、無言のままでニヤニヤと笑っている。芳也はムッとなって、再び横になると、布団を頭から被った。それを見て、東城がクククッと笑う。
 絶対夢だったのだ。現実では有り得ない。あんないじわるで、鬼畜な東城が、優しく「愛してる」なんて囁いて、うなじにキスするなんて有り得ない。それも東城はさっさと帰る支度をしている所だったではないか。芳也はプリプリと腹を立てながらそう思った。
 そう夢だ……あれは夢の中の東城なのだ。そうだ夢……夢? 芳也はハッとなる。
 優しく「愛してる」と囁いて、うなじにキスをするような東城の夢を見たのか? そんな事を望んでいるのか? そう思って、カアッと血が上ってくるのを感じた。
 馬鹿馬鹿しい。実に馬鹿馬鹿しい。そんな事など有り得ない。なんでそんな事を望まなければならないのだ!芳也は一人で憤慨していた。
「芳也」
 東城が呼んだが返事をしなかった。
「芳也」
 もう1度呼ばれたので、仕方なく「なんだ」と返事だけをした。布団に頭まで潜ったままで。
「来月の14日の夜は開けておけよ」
「は?」
 いきなりの言葉に、芳也は驚いて体を起こした。
 そこには、すでに着替えが終った東城がいた。何事も無かったかのように涼しい顔で、ビシッとスーツを着ている。
「来月って……っていうか来年?」
 芳也は驚いた顔のままそう聞き返した。
 東城は「ん?」という顔になった後、「ああ」と納得したように頷いた。
「そうだな、来年1月だ……1月14日」
 20日以上も先の話しだ。今は12月。クリスマス前だ。いきなりそんな先の約束を取りつけるなんて……。芳也が驚いたのは2つの理由だ。
 いつも勝手で強引な東城が、事前に会う予約を取りつけると言うのは始めてだった。もうひとつは、それではこれから20日以上も会わないつもりなのだろうか? という事だ。
 芳也が驚いた顔のまま固まっているので、東城は不思議そうな顔になった。
「オフだろう? 球団関係の仕事では何も入っていないはずだ」
「スケジュールを調べたのか?」
 それにも驚いた。
「ああ……オーナーだからな、知っていて当然だ」
 東城はすました顔でそう言うと、背広の内ポケットからタバコを取り出して口に咥えた。
「プライベートの予定が入るかもしれないから解らない」
 芳也はムッとなって答えた。
「夕方6時に迎えに行く……政治家関係のパーティでな……まあいわゆる新年会だな。だからスーツを着ろよ」
「ちょ、ちょっと……待ってよ! 予定が入るかもしれないって言ってるだろ!?」
 芳也が慌てて否定したが、東城は無視するようにタバコに火をつけた。それは無言の拒否だ。東城は芳也の都合なんて聞いていない。そう言っているようだ。芳也はムッとなりながらも、内心では諦めている。東城に逆らえるはずが無いのだ。芳也は東城に逆らえない。解っている。それでもまだ抵抗を続けるフリをした。
「それにパーティってなんだよ! なんでそんなのにオレが行かないといけないんだよ!」
「なんだ? デートならいいのか?」
 東城がまたニヤリと笑ってそう言ったので、芳也は耳まで赤くなった。ああ言えばこう言う……東城はいつも芳也の言葉の揚げ足ばかりを取るのだ。きっと芳也の胸の内なんて見透かしているのだろうと思う。だから逆らえないのだ。
「なにバカな事を言ってるんだよ」
「とにかくそういう事だ……忘れるなよ? 年内はオレも忙しくてもう会えないかもしれないからな……」
 東城が大きく煙を吐き出してからそう言った。『年内はもう会えない』そう芳也は東城の言葉を噛み締める様に、心の中で反芻してみる。昨年だってそうだったではないか……何を期待していると言うのだろう。東城との関係はセフレという名の主人と奴隷。決して間違っても恋人同士ではない。一般の恋人同士が楽しむようなイベントなど無関係なのだ。そう二人の間に『クリスマス・イブ』なんて物は関係の無いイベントだ。
『別に東城とイブを過ごそうなんて思ってなんかいない』芳也は心の中で呟いた。呟いて、なんだか胸がチリチリと痛んで目を伏せた。
 東城はそんな芳也の様子を目の端で捕らえながらも、吸い終わった煙草を灰皿でもみ消して、一呼吸溜息のように息を吐く。
「そうだ……ついでだが……明後日も空いてるんだろ?」
「え?」
 芳也はビクリとなって東城の顔を見上げた。東城はクローゼットからコートを取り出して羽織ろうとしている所だった。心を見透かされたのかと思って、芳也は顔を強張らせてしまった。明後日……明後日はクリスマス・イブだ。
「な、なんで?」
「今、パーティの話をしていて思い出したものだからな……取引先のパーティに呼ばれていてな……まあ、こっちはどうでも良いパーティなんだが、顔を出さないといけないものでな……お前が暇なら連れて行くのも良いかと思っただけだ」
「べ、別に暇じゃないよ……失礼だな」
「なんだ? 何か用があるのか?」
 東城が意外そうな顔をして片眉を上げたので、芳也は顔を背けた。この男はその日の意味を解っていてわざと言っているのだろうか? 芳也はその思いが顔に出てしまいそうで、東城の顔が見られない。答えを迷っていると、コートを着込んだ東城が、小さく溜息をついてからクローゼットの戸を閉めた。
「まあ良い……別に無理にとは言わん」
「ま、待って……」
 去ろうとする東城に、芳也は慌てて声をかけた。
「じゃあなんでオレを誘おうとしたんだよ」
 聞かなくても良い事を聞いている。解っている。こんな事を聞くのはおかしい。でも無理強いしない東城の態度もらしくないと思った。だから思うより先に聞いていた。
「退屈なパーティなんでな」
 東城は少し考えるような顔をしてからポツリと呟くように言った。『だから?』芳也は首を傾げる。
「お前がいれば、オレの退屈しのぎになるかと思っただけだ。用があるなら別に良い。気にするな。それよりも大事なのは1月の……」
「行くよ」
「あ?」
 東城の言葉を遮って、芳也は大きな声で言っていた。東城が驚いた顔になってこちらをみつめている。それでも芳也は言葉を続けた。
「明後日……パーティに行くから、迎えに来てよ」
 なんで意地になってそう言ったのか解らない。ほら、でも東城があんな顔をしている。驚いている。それだけでなんだか勝ったような気になって芳也は内心満足していた。東城の言いなりにばかりはならない。退屈なパーティに、退屈凌ぎでも思い浮かんだ相手が、どこの美女でもなく芳也だと言うのならば行ってやる。クリスマス・イブ……恋人ではない二人。仕事がらみのパーティで過ごす。それも良い。一人で家で過ごすより、他の相手と東城が過ごすより、どれよりも良い。セフレという名の『奴隷』である芳也のプライドだと、頭のどこかでそう思って苦笑した。プライドね……。
「解った」
 東城はそう答えてクスリと笑うと部屋を出て行った。
 閉じられたドアを見つめながら、芳也は溜息をついた。
「バカだなオレは……」
 静まり返った部屋でポツリと呟く。
 何がしたいんだろう? オレは……東城とどんな関係でいたいんだろう? オレは……。


「あれ?兄貴……スーツなんか着ておでかけ? あっ!! イブだもんな」
 弟の智也かニヤニヤと笑いながら、からかうように声を掛けてきた。洗面所の鏡に向って、髪を整えながら芳也は眉間を寄せて、鏡越しに弟を睨んだ。
「仕事だよ、仕事……そういうお前はどうなんだ?」
「あん? 合コン・クリスマスパーティ。今年は一人に決められなくってさぁ」
 アハハと笑いながら言う弟の言葉に、芳也は溜息をついた。
「あんまりバカなことするなよ? 仮にもお前は有名人なんだからな」
「兄貴もね」
「オレはっ! だから仕事だって!」
 怒鳴る芳也に向って、手をヒラヒラと振りながら、茶化すように笑う智也の態度に、芳也はカチンと来て追いかけると、智也は笑いながら「ごめんごめん」と言って逃げた。それをとっ捕まえると、後ろから首に腕を回して羽交締めにしてから、プロレス技を掛けた。
「ギブギブ!!」
 手足をバタつかせて悲鳴を上げる智也に「ごめんなさいは?」と耳元で囁いていると、母親が騒動を聞いてキッチンから顔を出した。
「あんた達、いい歳していい加減にしなさい!! 暴れるなら外でしなさい!! 家が壊れるわ!! 芳也! スーツがシワになるわよ!!」
 母親の怒鳴り声で、仕方なく芳也は智也を解放した。智也はゲラゲラと笑っていた。
 そこへタイミング良く、玄関のチャイムが鳴った。
「オレが出るよ」
 智也がヒーヒーと笑い過ぎで腹を抱えながらもそう言って玄関へと向かったので、芳也は「まったく」と苦笑してから、少し乱れた上着を直した。
「はい」
 智也が玄関を開けると、スーツ姿の男性が立っていた。その顔は見た覚えがあった。
「えっと……」
 智也が名前を思い出そうとしていると、その男性は上品な笑顔をみせてペコリと頭を下げた。
「失礼致します。TOJOの社長秘書の松木と申します。芳也さんをお迎えに上がりました」
「あっ!」
 それを聞いて、ポンッと手を叩いた。兄貴の彼氏の……そう思ってから、いやいやと一人で首を振って、松木に向って「ごくろうさまです」と言うと、クルリと振りかえった。
「兄貴! お迎えだよ」


 パーティ会場は、恵比寿の高級ホテルだった。
「適当に挨拶していればいいから」と東城が芳也に言ったので、芳也は素直に頷いた。もっとも接待しろって言われても、そんな事出来ないのだけど……。
 東城の後に着いて会場へと向った。受付は松木が代わりにしてくれていて、芳也達はコートをクロークに預けると、そのまま会場の中へと入った。
 広い会場。スーツ姿の男達……いや、オヤジばかりだ。きっとそれぞれ肩書きのある人ばかりなのだろうと思った。綺麗に着飾った女性達の姿もチラホラと見えた。
 東城が会場に入ると、一斉に視線が集まった気がした。東城は目立つ……こんな人の多い会場でさえ、彼の存在は別格だった。その長身も、そのルックスも、そして威厳も……目を奪われてしまう。芳也は、途端に東城へと群がり来る人々をぼんやりと不思議そうに眺めていた。こういう場所はあまり慣れていない。第一知っている顔も無い。だからなんだか人事のように傍観するだけだった。
 東城はつくづく社交的なのだと、こうして見て思う。笑みを作って、饒舌に会話を交わす。次々と相手の名前が出てくる。こんなにたくさんの人の名前を覚えているなんてすごい。そして東城の周りには人垣があっという間に出来て、誰もが彼に声を掛けてもらいたがっている姿がなんだか滑稽だった。
 これなら退屈なんてしないだろうに……芳也は一人部外者のようで、ぼんやりとしながら思った。
「あの……失礼ですが、プロ野球選手の藤崎芳也さんですよね?」
 ふいに見知らぬ女性から声を掛けられた。化粧が濃い中年の女性だ。
「はい、そうですが……」
「まあ!! まあまあまあ! やだわ、嬉しい!! 握手してください」
「は、はあ」
 彼女のはしゃぎように圧倒されていると、回りもそれに気づいたらしかった。どっとどよめいて、今度は芳也が餌食となってしまった。1度にあちこちから声を掛けられて、パニックを起こしていると、スッと東城が芳也の前に立った。
「失礼、彼は私の連れでして……ちょっと向こうに用がありますので……」
 東城は笑みを浮かべてそう言いながら、芳也の腕を掴むとその場を後にした。あまりにも見事なあしらい方に、芳也はぼんやりとして東城の横顔をみつめていた。
「どうした?」
 東城はクスリと笑う。
「いや、別に……」
「もう少し我慢してくれ……あと何人か挨拶をしないといけない相手がいるんでな。それが済んだら逃げ出せる」
「逃げ……」
 東城は微笑んでいた。逃げ出すという言葉に驚いたが、そう言った東城がなんだかちょっと子供っぽくて、芳也は思わず微笑んでしまった。逃げ出して、その後どうするつもりなのだろう? 芳也と一緒に過ごしてくれるつもりなのだろうか? だから芳也を誘ったのだろうか? そう思ったら急に胸がドキドキとしてきた。腕を掴む東城の手の力を意識した。
「これは東城社長」
 声を掛けてきた相手に、東城が足を止めた。芳也から手が離れる。ちょっと残念に思いながらも、芳也は東城の背中越しに相手を見た。恰幅の良い60才近い男性だった。
「これは石川社長。ご無沙汰しております」
「あいかわらず目覚しいご活躍ですな……あらゆる分野に次々と乗り出されて……我々もTOJOに脅かされるのではとヒヤヒヤとしておりますよ」
 なんだか嫌な感じだと芳也は思った。この男はなんだか腹に一物を持っているような感じで、そのしゃべり方が勘に触ると思った。だが東城はまったく気にもしていないようだ。側を通りかかったボーイを呼びとめて、ワイングラスを2つ取ると、ひとつを後ろにいる芳也に渡してきた。芳也は大人しくそれを受け取った。
「天下の石川重工が何をおっしゃる。その優れた開発力は、ぜひとも見習いたいものですよ」
 なんだか狐と狸の化かし合いの様だなと思って二人のやり取りを聞いていた。
「おや? そちらの方はもしかして、西武オックスの藤崎選手ではないですか?」
 目ざとく狸が……いや、石川社長がこちらに気がついた。芳也は仕方なくペコリと頭を下げた。
「今日は、私の連れとしてご足労願っているんですよ」
 東城がそう言うと、石川社長は納得したようにうなずいた。
「そういえば、TOJOはオックスのスポンサー会社でしたな。いやいや、お会いできて光栄ですよ。実はうちの息子も昔野球をやっていましてね」
「そういえば、ご子息はアメリカから帰国されたそうですね。いよいよ、世代交代ですか?」
「いやいやまだまだ……まあ勉強で5年も向こうにやっていましたからね。ようやく役に立ちそうになったので戻した所です。これからまだまだ私の下で勉強させるつもりですよ……それにしても本当に兆度良かった。息子もここに連れてきていましてね、ぜひ会っていただきたい……」
 彼はそう言ってキョロキョロと辺りを見まわしていた。
「博雅! 博雅!! ちょっとこっちに来なさい」
 彼が大きな声で誰かを呼んだ。少し離れた所で談笑をしていた人物が呼ばれてこちらへと歩いてきた。
「博雅、ほらTOJOの東城社長だ。ご挨拶をしなさい」
「はじめまして、石川博雅です」
 彼は礼儀正しくそう挨拶をして名刺を差し出した。東城はそれを受取ると、自分も名刺を差し出して渡した。
「東城です。父上とは、私の父の時代から懇意にさせて頂いてます」
 東城がそう挨拶をしたので、彼はもう1度東城に深く頭を下げ返した。その横から石川社長が息子の腕をグイグイと引いていた。
「博雅、ほら驚いたぞ、西武オックスの藤崎選手だ。お前知っているだろう? 確か同じ高校だって言ってなかったか?」
 社長のその言葉に驚いて、彼は顔を上げると、東城の後ろに立つ芳也をジッとみつめた。芳也も目を丸くしてその相手をみつめていた。
「いし……石川先輩……」
「藤崎……藤崎芳也か?」
 彼は驚いた顔でそう名前を呟いてから、ニッと口の端を上げた。
 芳也は固まって、無意識にギュッと東城の上着の裾を握っていた。

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