幻の呪縛

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 松木が病院の玄関に入ると、入口では記者が中へ入らないように、球団関係者が数人見張っていた。
「TOJOの者ですが……」
 松木は名刺を差し出して、見張りの者に見せた。
「あ、これは……」
 彼はすぐに理解したようで、松木に頭を下げると、中へと案内してくれた。
「藤崎選手の様子はいかがですか?」
「まだ気を失ったままです。さっきMRIを受けていました。もうすぐ検査を終えて、病室に戻ると思います。医者の話では外傷は大した事が無く、脳波も正常なので、MRIで異常がなければ大丈夫だという事でした」
「そうですか」
 話ながらエレベーターが来るのを待った。扉が開いたので乗り込むと、案内の者が5階のボタンを押した。その時、バタバタと駆けてくる足音が聞こえた。
「すみません! 待ってください!!」
 松木が急いで『開く』ボタンを押して待つと、背の高い青年が駆け込んできた。ずっと走ってきたのか、ハアハアと大きく肩で息をしていた。
「すみません、ありがとうございます」
「あれ? 裕也君だよね?」
 案内の者が、その青年に声をかけた。
「あ、はい……えっと村井さん? でしたよね? いつも兄がお世話になっています」
 青年はペコリと頭を下げた。
「そうか。いやあ、しばらく見ない内に……また大きくなったんじゃないか? お兄さんより大きいだろう」
「はあ、兄達からは無駄な成長って言われています」
 青年はそう言って爽やかに笑った。
「兄の様子はどうなんですか?」
「うん、大丈夫だよ。今、検査しているんだけどね」
「そうですか……良かった」
 青年は安堵したように大きく息をついだ。その時、ふと松木と目が合って、青年はペコリと頭を下げた。どうやら藤崎選手の弟らしい。
 松木の知る限りの情報では、藤崎選手の弟は、柔道選手で、オリンピック銀メダリストの藤崎智也選手がいたはずだが、この青年とはちょっと違うと思った。そう言えば3人兄弟という話を聞いた気もする。
 この青年も、何かスポーツをやっているのだろうか? とマジマジと眺めてしまった。背がとても高く、190cm以上はありそうだ。東城社長も大きいが、もっと高い気がする。その上、とてもハンサムだ。
 スポーツ選手なのに、なんで兄弟揃って、俳優の様に美形なのだろう……と、松木は変な所で感心してしまっていた。
 5階に着くと、案内人に連れられて、病室へと向った。そこへ丁度、藤崎選手の乗ったストレッチャーが病室へと運ばれてきた。
「芳兄!」
「裕也」
「あ、智兄」
 芳也に駆け寄ろうとした裕也の前に、もう一人の弟・智也が進み出た。家族が病室の中へと入っていくのを、松木は廊下で眺めていた。
「あ、松木さん」
 顔見知りの球団広報担当者が、松木の所へとやってきた。
「わざわざお越しいただいてすみません」
「いえ、大事なオックスの選手ですからね。社長も心配していますので」
「そうですか。でも今、医者から聞いたのですが、検査の結果はまったく異常なしとの事でした。ご心配をおかけしてすみませんでした」
「そうですか。それは良かった」
 松木はホッとなった。社長もきっと安心してくれるだろうと思った。
「ベアーズとの残り2試合は休ませると思います。次のウィングズとの試合まで、少し空くので良い休養になるでしょう」
「そうですね」
 松木と広報担当者が、まったりと話していると、急に病室の中が騒がしくなった。
「気がついたようですね」
 二人がそう話して、病室の中を覗こうかとした時、裕也が病室から慌てたように顔を出した。
「すみません! 先生を呼んで下さい!!」
 裕也の言葉に、そばにいた看護婦が医者を呼びに走った。
「裕也君! どうかしたのか!?」
 広報担当者が、裕也に慌てて声を掛けた。
「芳兄が、目を覚ましたんですけど……オレ達の事が解らないんだ! 自分の名前も解らない……おかしいんだ!」
 裕也の言葉に、松木は驚いて呆然と立ち尽くしていた。


「社長……あの……社長……」
 営業部長の声に、東城はとても不機嫌そうに視線を向けた。今日は朝から随分ご機嫌がよろしくない。幹部一同は、その日行われる定例会議を前に、誰からとも無く流れたそんな一言を聞いて震えあがった。

 誰か何かやらかしたのか?

 そんな不安を胸に、それぞれが冷や汗を掻きながら、自分や自分の部下の行動を思い返していた。やがて定例会議に現れた東城社長は、誰の目にも「すこぶる不機嫌」だった。それぞれの部門長が、各自議題に従って報告を進めたが、東城はその間何一つ発言をしなかった。
 いつもならば細かい指摘と突っ込みで、なかなか報告が先に進まなくなったりしていたのだが、今日は何も指摘される事も無く、淡々と議事が進んでいった。
 東城はその間、ずっと不機嫌そうな顔で、報告書の束とレジュメに目を通していた。最後の報告となった営業部長が、発言を終わっても尚、まったく動きの無い社長の様子に、さすがに全員が不安気な顔になって、おろおろとし始めた。営業部長が、恐る恐る東城に声をかける。

「社長……あの……社長……」
 営業部長の声に、東城はとても不機嫌そうに視線を向けた。凍りついた様に静まる会議室。営業部長は、縮み上がって視線を逸らすと俯いて、卓上の書類をみつめてしまった。
 東城は、バサリと音を立てて、書類を机の上に置くと、小さく溜息をついた。
「何か……問題はあるのか?」
 ようやく発せられた東城の一言に、誰も何も答えられなかった。
『問題はあるのか?』
そんな質問をされて、即答できる部下は一人もいなかった。むしろ『何も問題はない』で済ませたいのが、各部門長の正直な気持ちだ。業務上の細かい問題に付いては、会社的な大問題でも無い限りそれぞれの部署で、部門長の指示の元、解決をつけているつもりなのだが、最終的にはかならず社長に報告をする。
 いつもの会議では、例え解決済みの事であっても、東城の意に添わなければ、容赦無く攻撃を浴びせられるのだ。それが、今日はいつもと違う。
 不用意な発言は避けるべきだが、このまま無言に伏しては、更に社長の気を悪くしてしまう気がして、全員がおろおろと視線を泳がせた。
「専務はどうお考えですか?」
 突然、東城が隣に座る専務に尋ねた。いつもであれば滅多に振られることの無い質問に、専務も驚いて一瞬言葉を失った。
「いえ……今日の報告の中には、特に問題になるような事は無いかと……企画開発の問題については、先週からの引き続きで、まだ即決の回答は得られないと思いますので……社長のご判断を仰ぎますが……」
 専務は自分より遥かに歳若い社長の顔色を伺いながらそう述べた。
「では、終わりにしよう」
 東城はアッサリとそう告げると、誰よりも早く立ちあがってサッサと会議室を出て行った。その後を、秘書の松木が慌てて追いかける。松木は、東城の不機嫌の理由が解っているだけに、この会議のメンバーに対して、気の毒に……としか言い様が無かった。
『藤崎選手は、頭部強打により、一時的な記憶障害を起こされています』
 見舞いに行った松木のその報告を聞いて、東城はめずらしく動揺の色を見せた。
『ですが、あくまでも一時的な物で、時間と共に元通りに戻るでしょうというのが、担当医の所見でした』
 続けて述べた松木の言葉で、東城はいつもの表情に戻った。
『お見舞いはなさらないのですか?』
 付け加える様に言った松木の一言で、東城は不機嫌になってしまったのだ。眉間を寄せて、無言のまま松木を睨みつけると、すぐに前を向いて「社へ戻れ」と運転手に告げた。
 それから2日、東城は一向に見舞いに向かう気配はなく、ただずっとこうして不機嫌なままだ。
『一体、どういうおつもりなんだか』
 松木は、心の中でそう呟くと溜息をついた。


 オックスのスター選手・藤崎芳也が、試合中受けたデッドボールで、頭部を強打して病院に担ぎ込まれてから4日。
 報道では、『まったく異常なし』と流されたにもかかわらず、なかなか退院しないので、世間が不審がって騒ぎ始めていた。
 受けた場所が、場所なだけに用心して、1週間ほど様子を見ているだけだ。との球団関係者からのコメントにも、マスコミはあまり納得していないようだった。

「少しずつですが、記憶を取り戻してきている様です。もう家族の事などは解るみたいですし、ご自分の今の仕事の事も……ただ、あの試合前後の記憶が、混乱しているみたいですけど、それも時間と共に、元に戻るそうです」
 松木の報告に、東城は何も答えなかった。しかし「余計な事を」とも言わなかった。
 花束を持って、K医大病院の玄関を歩いていた。自分も、送る相手も、『花束』なんて柄ではないのだが、『お見舞い』といえば、この辺りが無難だろう。
 東城は松木には内緒で、コッソリと来た。
「あいつは最近、小姑みたいにうるさい」
 思い出して、東城は舌打ちをした。ロビーをまっすぐに横切り、病室棟へと向かう廊下を通って、エレベーターに乗った。途中、報道関係者らしき人物をみかけたが、一瞥して放っておくことにした。5階に着いて、病室を探す様に視線を動かしながらゆっくりと歩く。途中ですれ違った看護婦が、驚いた様にマジマジとみつめていた。
 長身のガタイの良いハンサムな男が、スーツを来て、バラの花束を抱えていれば、それはもう目立って仕方が無い。東城は、特に気にする様子も無く、芳也の病室を探した。
 特別病室は、他の病室とドアから違うので、すぐに解った。ドアの前には、球団関係者が立っている。彼は東城の顔を見るなり、とても驚いた顔をしてから、深々と頭を下げた。
 東城は手を軽く上げる素振りをして、『構うな』というようなジェスチャーをすると、ドアをノックした。返事がしたのでドアを開ける。
 広い病室。来客用の応接セットが手前にあり、シャワールームまで付いていた。ベッド脇の間仕切り代わりの薄いカーテンが、少しだけ引いてあったので、入口から主の姿を確認する事は出来なかった。
 東城がドアを閉めて、部屋の中へと進むと、他には誰の姿もなく、ベッドに座る芳也の姿が見えた。彼は、東城と目が合うなり、ニッコリと嬉しそうに笑った。
 東城はその態度にドキリとなって、思わず足を止めてしまった。1年以上も関係を持っていながら、今まで1度もこんな笑顔を向けられた事が無かった。
 だからこちらも、どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか、東城らしくもなく、戸惑ってしまっていた。何も言わずに、花束を持ったまま佇んでいると、芳也は不思議そうな顔になり、やがて顔を曇らせると、小首を傾げるような仕草をした。
「あ……友人か誰かかと思って、馴れ馴れしい顔をしてしまって……すみませんでした。あの失礼ですがどちら様ですか?」
 芳也は苦笑してから、ペコリと頭を下げて東城に尋ねた。その言葉に、東城は更に衝撃を受けてしまった。
「お聞きだと思いますが、今はまだ少し記憶が曖昧になっていて……顔を見てもすぐに解らない人が、いたりするものですから……でも、大分思い出してきたので、名前とか関係とかを教えて頂ければ、多分思い出すと思うんです。本当にすみません」
 芳也は、東城の顔をみつめながら丁寧な口調で説明した。その瞳があまりにも真っ直ぐで、そしてあまりにも他人行儀な言い方に、東城は固まってしまった。
「あの……」
 芳也は、さらに不安そうな顔で、東城をみつめた。東城は我に返ると、小さく咳払いをした。
「いや、オレ……私は、オックスに出資している会社の者です。関係者としてお見舞いに来ただけですからどうぞお気になさらずに」
「あ、そうなんですか……それはわざわざありがとうございます」
 芳也は、ようやく安堵したような顔になると、姿勢を正して深く頭を下げた。
「具合は……いかがですか?」
 東城も、他人行儀な聞き方をする。
「はい、お蔭様で、体のほうはどうもないのですど……記憶喪失と言うのは、本当に厄介な物です。頭の中に霧が掛かっているみたいにモヤモヤとしていて、さっきも言いましたが、知り合いに会っても、その顔がぼんやりと見えるみたいな感じで、すぐに誰だか認識できないのです。監督がお見舞いに来た時も、すぐに分からなかったので怒られました。早く元通りになりたいんですが……」
 芳也は、苦笑して目を伏せた。不安な様子が伺える。東城の胸の中で、チリチリと何か不愉快な痛みを感じた。
「早く球場に復帰される事を祈っています。それではこれで……」
「はい、わざわざありがとうございました」
 東城は、花束をベッド脇のテーブルに置くと、一礼して部屋を後にした。
「あの!」
 ドアに手を掛けた時、芳也が声を掛けてきたので驚いて振り返った。何か思い出したのかと思った。
「あの……関係者の皆様には、本当にご迷惑をおかけしてしまってすみません。来週には復帰するつもりなので……よろしくお願いします」
 芳也はそう言って、また深く頭を下げた。
「いえ……お体を大切になさってください」
 東城は一言答えると、一礼をして病室を後にした。
 東城の不機嫌具合は、ピークに達していた。何を期待としていたというのだろう。自分に向って問いかける。記憶喪失になっても、自分の事を忘れる訳が無いとでも思っていたというのか? 芳也が覚えていなかった事に、こんなにショックを受けているなんて……。
 胸の奥がチリチリと痛んで、東城は「クソッ」と忌々しげに呟いた。

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