幻の呪縛

ススム | モクジ
 ホテルの一室。
 大きなダブルベッドに横たわるその男は、まだ少し乱れた息で、胸を揺らしていた。グッタリとした様子でうつ伏せになったまま、目を閉じて動かない。ただのその乱れた息遣いが、彼がまだ眠りに落ちていない事を悟らせる。
 その体は、とても均整の取れた引き締まった体で、鍛えぬかれた無駄の無い筋肉が、その細い体を飾っていた。マシンで作り上げられたボディビルダーのそれではなく、日頃の訓練で積み重ねられ、鍛えられ、引き締まった筋肉だった。その美しい肢体は、汗で薄っすらと濡れていた。
 バスルームのドアが開き、バスローブを羽織った男が現れた。
 ゆっくりとベッドまで歩み寄ると、横たわる相手をしばらくみつめてから、静かにベッドの端に腰を下ろした。サイドボードに置いてあるタバコに手を伸ばし、一本取り出し口に咥えると、ジッポライターの蓋をカチャリと開けた。
「ベッドは禁煙だぞ」
 火を付けようとした瞬間、寝ていた男がポツリと呟いた。言われた方の男は、クスリと鼻で笑った。
「なんだ。気を失っていたわけじゃないのか?」
 皮肉めいた口調でそう答えると、咥えていたタバコを指で摘んで口から離すと、クルクルと指で持て余し気味に回した。
「誰がこの程度で……」
 言い返した言葉は、とても小さくてまるで独り言のようだった。聞こえていたが聞こえないフリをして、口元だけ笑みを作ると、うつ伏せになったままの相手の背中をジッとみつめた。
「芳也……もうここで会うのは今日限りとしよう」
 いつもの彼らしい淡々とした口調。しかしその言葉に、うつ伏せになっていた『芳也』と呼ばれた男は、ハッとなって体をひねりながら、顔をこちらへと向けた。とても驚いたような顔で、ジッと見つめている。
 端整なその顔立ちは、俳優でも十分通用しそうだと、こんな状況になっても、冷静に分析しながら、それが彼には当然予想していた相手の反応だとでも言うかのように、驚く芳也のその顔を、いつもの余裕の氷の様な表情で迎えうった。
「東城さん……それはいきなりどういう意味ですか?」
 芳也は、自分でもそんなに驚いた顔をしてしまったのが迂闊だったとでも思ったのか、一瞬苦虫を噛みつぶしたような顔になった後、冷静さを取り戻して、そう聞きなおした。
『東城さん』と呼ばれたバスローブ姿の男は、一瞬目を細めたので、笑ったように見えたが、顔を少し反らすと、指で遊んでいたタバコを再び咥え直して、火を付けた。
 深く吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。紫煙が淡い照明の中で、ゆらゆらと揺れた。
「どういう意味も何も……言葉のままの意味だが? 何か問題でもあるのか? 藤崎芳也くん」
 わざと名前をフルネームで……それも強調して言われた。
 芳也はグッと言葉を飲み込んで、眉間を寄せたまま、この目の前の嫌味な男の、嫌味なほどに整った彫刻の様な横顔を、睨むように見つめ返した。
 東城貴司。この目の前の男は、いつもこんな風な威圧的で、傍若無人な態度を示す王様だ。
 それもそう天下の『東城グループ』の次期総帥ともなろうという権力の持ち主。生まれながらの王様なのだ。
 そんな男に、良い様にいつも組み敷かれる自分は、きっとただの玩具に過ぎないのだろう。そう思うと、沸沸と怒りが沸いてくるが、それをグッと我慢して、ただこうして睨み返すしかなかった。
「解った」
 一言そう答えると、芳也は起き上がりベッドを降りた。
「どこに行く?」
「シャワーを浴びて帰るんだよ」
 芳也は無愛想にそう答えると、バスルームへと消えて行った。


「藤崎、大丈夫か?」
 ポンッと肩を叩かれて振りかえると、チームメイトの片岡が立っていた。試合前の軽い練習中の事だった。芳也は一瞬キョトンとした顔になって、片岡をみつめた。
「なにが?」
 これまたキョトンとした様子で聞き返す。片岡は、小さく溜息をつきながら、また藤崎の肩をポンポンと叩く。
「なんか調子が悪そうだからさ」
 そう言われて、芳也自身驚いた。人から見て、『調子が悪い』と思われるような顔をしていたのかと思うと、急にバツが悪くなる。
「別に……オレは今日も絶好調だぜ?」
 芳也は明るい声で言うと、大きく背伸びをして、体を左右に捻りながら、柔軟運動のような素振りを見せた。その様子に、片岡は苦笑した。
「それならいいけど。無理するなよ? ケガするぞ」
 片岡は、芳也より1才年上だが、同年代という事もあって、芳也とは特に仲が良かった。甲子園では、共にライバルとして戦った仲間でもある。
「お前こそ! ココ! 球が当らない様に気をつけろよ!」
 芳也が笑いながら、股間を指差したので、片岡も笑い返した。片岡はキャッチャーで、そのせいかチームメイト全員のちょっとした変化にも敏感で、気配りをよくしている。
「よ〜し、今日も一発ホームランを打つかな〜〜」
 芳也はバッドを大振りに振りまわしながら言った。
「頼むよ! 藤崎が打ってくれると、みんなも不思議と打率が良くなるからさ」
 片岡は笑いながらそう言って、芳也の腰をパンッと叩いてから、ベンチの方へと去っていった。芳也は笑ってそれを見送りながらも、すぐにその笑みは消えてしまった。東城から別れを告げられたのは2日前。まだその尾を引いていた。
 東城との関係は、ただのセフレ。それも始まりは、東城からの強引な半ば強姦とも言えるもので(拒否しなかったから『和姦』かもしれないが)強引に関係を持たれて、強引に切られた……そんな感じだ。
 芳也としては、イヤイヤ付き合っていたつもりのはずで、別れられたのだから「良かった」とせいせいしても良いはずだった。それなのに、なぜこんなに傷ついているのだろう?
『オレは嫌だったんだ。だけどあいつがオレを気に入っていたんじゃなかったのか?』と思い、あの男の身勝手さに腹が立っているだけだと思った。いつだって、あの男は、身勝手で傲慢だったじゃないか……とも思う。
 会うのはいつもあの男の気分次第。突然連絡をしてきて、こちらの都合なんてお構いなしで、会う約束を取りつける。週に2、3回呼ばれる事があるかと思えば、1ヶ月近くも音信不通の時もあった。会えば当たり前の顔で、SEXを強要する。
 そこには『愛』なんて物は存在しないし、本当にただの性欲処理のような関係だ。それだってあの男が楽しむだけで、別に男に抱かれて嬉しいなんて思っていないのに……むしろ屈辱さえも覚えていたはずだった……芳也はそう思う。
 キスだって……そう思って、芳也はハッとなった。そういえば彼とキスをした事が無い……そう思って思い出そうとした。いや……初めての時はキスをした気もする。だけどそれっきりのような気もする。なんのかんの言いながら、1年半近くこのセフレの関係を続けていたけれど、その間あんなに体を重ね合ったのに、キスをほとんどした記憶が無い。急に可笑しくなってきて、芳也はクククッと笑いを漏らした。
 恋人でもなんでもないんだから、そんな事良いじゃないか。第一もう別れたのだ。あの男の身勝手にもう振り回される事も無いし、体を好き勝手にされる事もないのだ。
『オレはゲイじゃないんだから』
 自嘲気味に笑いながら、心の中で呟くと、バッティング練習の行われている場所へとゆっくり歩いていった。
「オレも打たせてもらっていいか?」
「あ、藤崎さん、どうぞ、どうぞ」
 新人の松田が、場所を譲ってくれた。芳也は、ネットの張られたバッターボックスに立つと、バットを構える。ピッチャーが投げた球を見据えて、グッと腰を引くとバッドを振って真っ芯に球を捕られた。
 カキーンという軽快な音が響き、球はまっすぐバックスタンドへと飛んでいった。


 移動中の車の中。後部座席には東城が座り、ルームライトの明かりを頼りに、書類の束を手に持って、1枚1枚に目を通していた。後部座席用の7インチ液晶TVでは、野球のナイター中継が映っていた。辛うじて聞こえる程度の小音に設定されているが、誰もそれを見ている様子は無かった。
 東城の隣に座る秘書の松木は、ファイリングケースを手に、指示にいつでも対応出来るように待っていた。TV画面に映る野球中継に、時々視線を送る。
 西武オックスのオーナーでありながら、まったく野球に関心の無かった社長が、2年近く前から、突然こうやってTVで試合を見るようになった。それもオックス戦限定。
 その原因について、松木は薄々感づいていたが、あえて何も言わなかった。オックス戦のある日は、かならずこうやって見れる時にはTVを点けるのに、一向にその画面を真剣に見つめる事も無く、試合の結果もまったく感心が無いのは、以前とまったく同じだ。
 ここまであからさまな態度を取られると、興味があるのは『野球の試合』ではなく、他のものだということは、誰だって解るだろう。
「松木、管理部の園田部長を呼び出してくれ」
「はい」
 松木は、携帯電話を取り出すと、会社宛てに電話をかけた。その間も、東城は書類から目を離さなかった。
「社長、どうぞ」
 電話を受取ると、東城は書類の内容について、電話の相手と話をはじめた。淡々と、しかし厳しい指摘に、社員一同はこの若き敏腕社長からの名指し電話が、1番恐怖とする物だった。いつも忙しく動き回る彼は、一日の内、僅かな時間しか社長室にいる事が無い。その為、「社長室に呼び出された」ではなく、こうやって移動先からの電話での呼び出しがほとんどだった。
「4番サード藤崎、背番号18」というアナウンスが、かすかに聞こえた。しかし東城は、画面に目をやる事も無く、電話を続けていた。
「今日の藤崎は、まだヒットが出ていません。7回裏、ノーアウト、ランナー1・2塁。ベアーズに1点先取されているオックスとしては、ここで藤崎の1発が欲しい所でしょう」
 アナウンサーのコメントを聞いて、松木は画面に視線を動かした。松木も野球ファンという訳ではなかったが、嫌いと言う訳ではない。ましてや自分の勤める会社がオーナーをやっている球団であれば、多少の贔屓魂はある。
 そしてこの藤崎芳也は、オックスのスター選手だ。オールスターファン投票で、3年連続の1位に選ばれるほどだ。
 その上、この選手がどうやら社長のお気に入りらしいとなると……。
 松木は、そう思って一瞬チラリと隣りに視線を送る。
 東城は、冷静ないつもの顔で、厳しい言葉を続けていた。
 その時、最小限の音量にしていても尚、ハッキリと聞き取れるくらいに、「わ〜」というような大きな歓声が、TVから流れ出た。
 松木は反応して、思わず画面に目をやった後、「ああ!」と思わず声をあげてしまった。その松木の声に、さすがの東城も眉間を寄せて、チラリとTV画面を見た。そこに映るのは、バッターボックスに倒れている藤崎芳也の姿だった。
「!」
 東城は驚いて、電話を忘れて画面を見入った。選手やコーチなどが、芳也の元へと駆け寄る様子がTVの画面に映る。声をかけている様子だが、芳也は倒れた状態のまま動かなかった。
「よくないですね〜」
 興奮した声でアナウンサーがそう言った。松木が、ボリュームを少しばかり上げた。TVでは画面が切り替わり、問題の場面をリピートし始めた。
 リピート映像。バッターボックスに立ち、バットを構える芳也の姿がそこにあった。
「ここです」
 アナウンサーがそう言ったかと思うと、画面はスローモーションになり、白球が一直線に芳也の頭に当たり、ヘルメットを弾き飛ばしている様子が映っていた。
「第1球目も、かなり高めの内角深くて危ないと思いましたが……あっ! 危険球という事で、ベアーズ・ピッチャー吉井は、退場を審判から通達されました」
「藤崎、動かないですね。ただの脳震盪ならいいのですが、心配ですね」
 アナウンサーと解説者のコメントが流れる中、画面では試合を中断して、倒れたままの芳也を選手やチームドクターが囲む姿が、ずっと映し出されている。
 やがて担架が来て、芳也はそのまま連れて行かれてしまった。
 東城も松木も、息を飲んでその場面を食い入るように見つめていた。
「社長」
 松木がようやく声をかけて、東城も我に返った。
「ああ、すまん、なんでもない」
 東城は電話を思い出して、慌ててそう言いつくろった。先ほどのテンションはさすがに下がってしまって、管理部長との話はその後すぐに終わらせてしまった。
 東城は電話を松木に返すと「どこの病院に運ばれるか調べろ」と一言だけ言った。松木は頷くと、すぐにどこかへ電話を掛け始めた。
「K医大病院です」
 何箇所かに電話を掛けた後、松木がそう告げた。
「行きますか?」
 松木が続けて尋ねると、東城はすぐには返事をしなかった。しばらく考えるように窓の外をみつめている。
「行ってくれ」
窓の外を眺めたまま、東城はポツリとそう告げた。


 K医大病院までは、1時間近く掛かってしまった。東城の車が到着すると、玄関には数人の記者達が待機していた。
「駐車場に行け」
 東城が運転手に指示をする。シルバーのベンツは、ゆっくりと駐車場へと向った。
「松木。行って様子を聞いて来い」
「社長は行かれないのですか?」
「オレはここで待っている」
 東城の言葉に、松木は何か言おうとしたが止めた。
「余計な事はするなよ。ただ状況を聞いてくるだけでいいからな」
 もう一度念を押されて、松木は頷くと車を降りた。ゆっくりと病院の中へと向った。東城はそれを見送るでもなく、再び書類に目を送ル。野球中継は終わっていて、TVも消されていた。

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