ビジネスマン的恋愛事情 〜花薫る頃に……〜

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 柴田は、住所を書いたメモを片手に歩いていた。すでに夜の7時を回っている。初めて来る町並み……アパートが多く立ち並んでいた。
「ここ……だな」
 1件のマンションの前で立ち止まった。3階建てのグレーのタイル貼りマンション。外灯の下で、メモに書いてあるマンション名を確認した。
『レジデンス・クリスタ』とある。1階の郵便受けの『308』を見ると『西崎』の名前……。
「まちがいない」
 柴田は確認すると、脇の階段を上がって行った。308号室のドアの前で、小さく深呼吸をすると。決心をしたように呼び鈴を鳴らす。
 すぐには返事がなく、柴田はもう1度鳴らしてみる。
「はい……どちらさま?」
 聞きなれた声が、ドアの向こうから聞こえてきた。柴田はドキッとしたが、ふうと息を吐くと「私だ……柴田だ」と名乗った。一瞬の間の後、ドタドタという足音がして、ドアチェーンをガチャガチャと外す音がした。
 今、多分覗き穴からこちらを見ているのだろうと思ったが、柴田は黒い覗き穴をジッと見つめ返した。ガチャッとドアが開いて、上半身裸の西崎が現れたので、柴田は驚いた。髪が濡れていて、首にはバスタオルが掛けられていた。下半身はグレーのスウェットを履いていて、右手にはTシャツが握り締められたままだった。
 多分シャワーを浴びている途中か、出てきたばかりだったのだろう。服を着ながら玄関へ出てきたものの、相手が柴田と解って、シャツを着る余裕もなくドアを慌てて開けたらしい。
「し……柴田さん……どうしたんですか?!」
 西崎は、心底驚いた様子で目をパチクリとさせている。
「1度……お前の部屋を見てみたかったんだ。中に入れてくれないのか?」
 柴田は、ドアを半開きのまま体を乗り出している西崎を、訝しげな顔でみながら、部屋の中を気にして覗き込もうとした。
「あ……いえ……だけど……ちょっと……前もって電話してくれればよかったのに……」
「なんだ? 私を入れたくない事情でもあるのか?」
 柴田が少し怒った顔になって言ったので、西崎は更に焦った。
「いえ……別に……そう言う訳じゃ……というか、そういう訳というか……」
 西崎はチラチラと部屋の奥を振り返って、何かを気にしている。その様子に、柴田は更に腹を立てた様子で、グイッと西崎の体を押しのけて中へと入ろうとした。
「ちょ……ちょっと柴田さん?!」
 西崎は無理矢理その場を譲る形で、身を引いた。その隙を見て、柴田は玄関の中へと入ってきた。
「お邪魔するぞ」
 柴田は、いつにもない強引さで、ズカズカと中へと入っていった。玄関をあがってすぐ、通路にキッチンがあった。流しには、食事の後らしい鍋や皿が、水に浸して置いてある。その奥が部屋になっていて、ベッドと背の低いテーブルが置いてあった。
 テーブルの上には、ビールの缶が2個と、ツマミらしいスナックや、数冊の雑誌が無造作に置かれていた。ベッドの上には脱いだまま放り出したような状態の、ジャケットやズボンなどがあり、その上ピッキンハンガーに掛かった状態のままの洗濯物も、無造作にベッドの上に投げ出されていた。
「あああ……」
 柴田の背後で、溜息混じりの西崎の呻き声が聞こえた。振りかえると、西崎が頭を抱えて顔をしかめていた。
「散らかってるんで……片付けたかったんですけど……ひどいですよ……柴田さん……」
 とても情けない声でそうつぶやいた。柴田は、最初ポカンとした顔をしていたが、気が抜けたような表情になり、プッと突然吹き出して笑い出した。それに驚いたのは、西崎の方だった。
「な……なんなんですか……もう……」
「いや……ごめん……とりあえず、見なかった事にするから、気が済むように片付けなさい」
 柴田は尚も笑いながら、西崎の脇を抜けて、玄関へと戻ると、ずっと笑いをこらえながらそこで待つようだった。
「今更……遅いよ……もうっ……」
 西崎はブツブツ言いながら、とりあえずTシャツを着て、部屋へと入ると、脱ぎ散らかした服や洗濯物をクロゼットに仕舞い、雑誌をラックへと片付けた。
 床に出したままのゲーム機もコードなどを綺麗にまとめて、テレビラックの下へと片付ける。空のビール缶をゴミ箱に捨てて、ツマミなども片付けた。収納スペースに仕舞ってあったらしい座布団を取り出すと、テーブルの脇に敷いた。
「柴田さん……どうぞ……」
「クスクスッ……お邪魔します」
 柴田はまだ笑っていた。先程までの不機嫌そうな様子が嘘のようだ。
 柴田は差し出された座布団に座ると、改めてキョロキョロと部屋中を見まわした。
「男らしい部屋だね」
「ええ……どうせ散らかってて、飾りっ気のない部屋ですよ」
「ごめんごめん……いや、だけど結構綺麗にしているじゃないか」
「嫌味ですか?」
 西崎が溜息をつきながら、タオルでガシガシと乱暴に髪を拭いた。柴田は、楽しそうに微笑んでいた。
「それで? 本当に一体どうしたんですか? こんないきなり……片付けはともかくとしても、電話くれれば駅まで迎えに行ったのに……解りにくかったでしょ?」
「うん……でも住所は解っていたし……なんとか……」
 柴田はそう言ってうつむいた。西崎は不思議そうな顔をしてしばらくみつめていたが、お茶でも出そうと立ち上がった。柴田はとっさに西崎の腕を掴んで引きとめた。
「な……なんです?」
「いや……座ってくれないか?」
「あ……お茶でも出そうかと思ったんですが……」
「いいから」
 柴田に強引にひきとめられて、西崎は仕方なく柴田のはす向いに座りなおした。しばらくの沈黙の後、柴田が「ごめん」とつぶやいた。
「西崎を信じていなかった訳じゃないけど……どうしても気になって……今日中に西崎に会わずにはいられなくて……突然、家へ押しかけても大丈夫だろうかって……ちょっと不安だったんだ。もしも……もしも、家へ突然行って、例の彼女がいたらどうしようとか……色々考えてしまって……そしたら……出てきたお前がそんな格好だし、なかなか中へ入れてくれないし……それでてっきり……」
 柴田は話すうちに、段々とトーンが低くなって言った。最後はもう聞き取れないほどのつぶやきだった。西崎は、ポカンとなってそれを聞いていたが、柴田が言い終わると、ハッとなった。
「柴田さん……それって……嫉妬のあまりってやつですか?」
 西崎の言葉に、柴田はカッと赤くなって、下を向いた。西崎はそこでようやく全てを飲み込めたような表情になって、みるみる口元がほころびはじめた。
「……やだな〜〜……柴田さん……そんなに愛されてると、オレ、長子に乗ってしまうじゃないですか」
「バカ!」
 柴田は真っ赤になって、キッと西崎を睨んだ。
「柴田さんがそんな行動に出る人だとは思わなかったな……じゃあ……もしももしも、ここに誰かがいたら、修羅場になっていた所ですね……柴田さんそしたらどうするつつもりだったんです?」
「し……知るか! そんな事! 調子に乗るな!」
「調子に乗っちゃうって言ったじゃないですか……本当にかわいい人だなぁ……まったく」
 西崎は降参という顔をして、柴田を抱きしめた。柴田もギュッと西崎に抱きついた。
「西崎……私はおかしいんだ……もうダメだ。こんなの耐えられない……もう……限界なんだ」
 西崎の肩に顔を埋めて、柴田は吐き出すように言った。
「な……何がです?!」
 西崎は驚いて、柴田の顔を見ようとしたが、柴田は肩に顔を埋めたまま抱きついて離れ様としなかった。
「あの家に……もうひとりで暮らすことが出来ない。寂しくて寂しくて、夜眠れない……こんな事、今までなかったのに……お前と離れているのが辛い……いつもいつもお前の事ばかり考えて、一人でいる時間が辛くて仕方ないんだ……だから変なことばかり考える……お前が誰かに取られるんじゃないかとか、嫉妬ばかりして……私は今まで……前の妻にだって、こんな気持になった事ないのに……離婚して、一人でいるのも平気だったのに……おかしいんだ……年末年始の休暇中に……ずっとお前と暮らしてしまったから……アレ以来一人でいるのが寂しくて仕方ないんだ!お前のせいだ」
「し……柴田さん」
 こんなに弱音を吐く柴田も、熱情をぶつけてくる柴田も、始めて見る姿だった。西崎は、おもわずうろたえてしまった。
「西崎……私の家へ来てくれないか? 一緒に暮らそう」
 柴田が顔をあげて、潤んだ瞳で西崎をみつめるとそう告げた。これは思いがけない反則攻撃だった。西崎の予想を超えた告白の言葉の上に、この表情だ。
 言葉の意味なんて考える余裕もなく、0.1秒で「はい」と頷くしか仕方が無かった。他になんと答えれば良いというのだろうか?
「……ほ……本当に?」
 頷いた後、柴田から念を押されて、西崎は一瞬我に返った。
「あ……だけど……」
「嫌なのか?」
 それは、長年憧れ続けた高嶺の花から「結婚してください」と告白されたのと同じ位の衝撃だった。もう西崎の頭の中には「もちろんOKです」とか「嫌な訳ないです」とか「すぐにでも住みましょう」とか、告白を了承する返事しか思い浮かばない。
「いえ……愛しています。柴田さん」
 西崎はそう答えると、柴田の唇を塞いだ。柴田も激しく求めるように、西崎の唇を吸い舌を絡めた。
 これからどうするのかなんて、今の二人には考える余裕はなかった。柴田はいつもよりもずっと大胆になって、西崎の全てが欲しいと求めた。
 西崎もまたそれに答えた。

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